家族という問題
幸福な家庭はみな似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である。(トルストイ『アンナ・カレニーナ』)


A 家族療法

1)起源―精神分裂症の患者の研究(ベイトソン;ダブル・バインド理論)
子どもの問題行動は、しばしば家族の問題の反映である。
個人の問題(病気)に見えるものも、それを解決するためには、家族のあり方を変える必要がある。
→付録2ベイトソンの項を参照

2)家族システム論
問題解決システムとしての家族;→偽相互性(問題解決の出来ないパターン)
構造的家族療法
 1 両親連合―夫婦(父母)の相互の役割を尊重し十分な交流がある。
 2 世代間境界―(大事な所では注意が向くが)子どもとの間にいい意味での無関心がある。
家族構造のガン化
(1)世代間連合
 1 三角化
 2 親子連合
 3 迂回路形成
(2)偽相互性(pseudo mutuality)の特徴(フォーリー『家族療法』)
 1 役割構造の不変性
 2 この役割構造が望ましく適切なものであるという主張
 3 この役割構造からの独立に対する強い憂慮
 4 自発性、ユーモアそして活気の欠如
(これ、北朝鮮の体制と同じではありませんか?普通に国民が働いて、食料や衣料が足りないというのは、システムがおかしいのでしょう。社会主義は終わったと言う人が多いですが、日本なんて社会主義の国(!)なのですから、終わったのは、社会主義的な独裁政治だと言うべきでしょう。独裁はシステムの硬直化を招きます。とはいえ、資本主義が全ていいという訳でもありません。マルクスが言ったように、金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になる(と言うか、真面目に仕事をするだけでは成功しない)のが資本主義です。でも、自由競争による自然淘汰という形で、硬直した制度を変える力が働きうる分だけ、資本主義の方が、ましなのでしょう。これは、国というシステムの話ですが。そして国というシステムにおいて最も硬直化しているのは、官僚制度でしょうけど。旧ソ連なんて、巨大な官僚制度の支配する国でした。)

3)子どもを問題に追い込みやすい親のタイプ
1 親の不仲
2 父性欠如
3 両親の過剰対応―過保護、過干渉、過期待、溺愛、過厳格
4 放任―父性と母性の両方の欠如
父性と母性の意味について、まず参照されるべきは、フロイト(→エディプス・コンプレックス)の理論である。
精神科医の斎藤学氏によれば、親の仕事は三つある。子どもを「抱くこと」、子どもの「敵になること」、そして子どもから「去ること」、だ。

「良い子」という問題児―アダルト・チルドレン(Adult Children of Alcoholics);共依存性(co-dependency)

B 家族の成立

1)家族成立の条件(今西錦司)
1 配偶者間に経済的分業が存在すること
2 インセストタブーが存在すること
3 外婚制
4 コミュニティ

2)近代家族の成立
(省略)

3)日本の家族
(省略)

C 愛と結婚

1)「愛」とは、どういう意味か?
「愛」という言葉の意味は、実はよく分っていない。多くの人は、それを、英語の「love」の意味で使っている。
「love」という言葉が、日常で使われる本来の場所は、家族の関係である。夫と妻が、親と子が、それぞれ「愛している」と言う。
夫婦の愛とは、『聖書』に命じられているように、一つになる、ということだ。独立した個人ではなく、一体である。その目に見える形が「性愛」だ。「愛」は他者を自己の不可欠な一部とするだと言えるだろう。
江戸時代において、「愛」という言葉はネガティブな意味合いを持っていたので、欧米語の「愛」は「大切」と訳された。(これは分りやすい言葉だ。CMで「あなたの髪を愛して」と言われても何をすればいいのか意味不明だが、「あなたの髪を大切にして」と言われれば、よく分る。)「愛」とは他者への配慮である。
従って、家族における「愛」とは、他者の姿を取った自己への配慮である。

2)<愛―結婚―性>という近代的な結婚の観念
「@ 配偶者となるべき両者のあいだには、あらかじめ、愛情――双方を人格的に結びつける、必然的なつながり――が成立していなければならない。
A つぎにその愛情が、婚姻として実現され、市民社会の道徳律による是認と聖別を受ける。
B 婚姻は、愛情が実現する最高の形態であり、それは肉体的な結合を意味する。
――こうしてひとは、愛するがゆえに夫婦となるのである。…
プロテスタントの性愛倫理を世俗的に転倒させたところに、右のような典型的なブルジョワ性道徳があらわれてくる。」(橋爪大三郎『性愛論』)

3)「愛」が結婚の基礎であるとは、どういう意味か?
いま結婚と言えば「恋愛結婚」だと考えられている。しかし、恋愛という形の愛は、一時的な感情であり、持続する結婚という形態の基礎としては不十分である。「恋愛」は「恋」という形で現われる「愛」の一種に過ぎない。
古代のキリスト教徒は、夫婦の理想的な関係を「友愛」に置いた。よく言われるように、結婚における「愛」は、「恋愛」から友情に似た「友愛」へと変わっていかなければ、長続きしない。
「好きだ」という一時的な感情を、持続する「心の傾向(ドイツ語の「Gesinnung」の意味)」へと作り変えていくのは、時の経過である。時の中で繰り返される互いに対する配慮が、人格的なより深い結びつきを生む。
結婚の基礎となる愛とは、端的に言えば、連帯感である。


付録1
フロム『愛するということ』(鈴木晶訳)より

愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提の上に立っている。しかし、今日の人々の大半は、後者のほうを信じているに違いない。
まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人々にとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許される限りの富と権力を手中に収めることである。いっぽう、主として女性が用いる方法は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。愛させる人間になるための方法の多くは、社会的に成功し、「多くの友人を得て、人々に影響を及ぼす」ようになるための方法と同じである。
愛には学ぶべきことなど何一つない、という考え方の底にある第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思い込みである。愛することは簡単だが、愛するにふさわしいし相手、あるいは愛されるのふさわしい相手を見つけることは難しい―人々はそんなふうに考えている。
…ふつう恋心を抱けるような相手は、自分自身と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。私は「お買い得品」を探す。相手は、社会的価値という観点から望ましい物でなければならないし、同時にその相手は、自分の長所や可能性を、表に現われた部分も隠された部分もひっくるめて見極め上で、私を欲しがっていなければならない。このように二人の人間は、自分の交換価値の限界を考慮した上で、市場で手に入る最上の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。この取り引きではしばしば、不動産を購入するときと同じように、将来発展しうる隠れた可能性が重要な役割を演じる。何もかもが商品化され、物質的成功がとくに価値をもつような社会では、人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換のパターンに従っていたとしても、驚くにはあたらない。
愛について学ぶべきものは何もない、という思い込みを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛の中に「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。それまで赤の他人どうしだった二人が、互いを隔ていた壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感におぼれる瞬間は、生涯を通じて最も心踊り、胸のときめく瞬間である。それまで自分の殻に閉じこもり、愛を知らずに生きてきた人ならば、いっそうすばらしい、奇跡的な瞬間となるだろう。不意に親しくなるというこの奇跡は、二人が性的に引き付けあって結ばれるとか、性的な関係から交際が始まった場合のほうが起こりやすい。しかし、この種の愛はどうしても長続きしない。親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。しかし、最初は二人はそんなこととは夢にも思わず、互いに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思い込む。だが、実はそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ。
愛することほど易しいものはない、というこの考え方は、それに反する証拠が山とあるにもかかわらず、今もなお愛についての一般的な考え方となっている。これほど大きな希望と期待とともに始まりながら、決まって失敗に終わる活動や事業など、愛のほかには見当たらない。愛することを止めてしまうことはできない以上、愛の失敗を克服する適切な方法は一つしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。


付録2
ベイトソン(『エンカルタ百科事典』より)

I プロローグ ベイトソン Gregory Bateson 1904〜80 イギリス生まれの人類学者。主としてアメリカのカリフォルニアで仕事をする。文化人類学(バリ島での研究)、精神分裂病研究、動物生態学(イルカの研究)など多くの分野ですぐれた業績をのこした。とくに精神分裂病の起源に関して、「ダブル・バインド(二重拘束)説」をとなえたことで有名である。著者に「精神と自然」「精神の生態学」などがある。
II ダブル・バインド説  たとえば、なんでも母親のいうことを素直に聞く子供が、「素直にするのもいいかげんにしなさい」と母親にいわれたとする。このときこの子は、二重の拘束(命令)のもとにある。子供はこの命令を無視すればいいのか、それとも命令どおり母に反抗すればいいのか、こまってしまう。バートランド・ラッセルは、「わたしがいっていることは嘘である」という表現の中にパラドックスがあることをみぬいたが、それと同じ論理的矛盾が、母親のこの命令に内在しているので、子供はどう行動していいかわからなくなる。このような状態がダブル・バインド(二重拘束)状態である。精神分裂病は、家庭内の人間関係から生ずるこうしたダブル・バインド状態に起因するというのが、ベイトソンの考えである。
III 家族療法理論の基礎  精神分析学ではそれまで、過去の一回的な出来事が患者の心にあたえる精神的外傷(トラウマ)を分裂病の病因とみなす、いわゆるトラウマ理論が支配的であった。それに対して、このダブル・バインド理論は、病理の単位を家庭内での人間関係、つまり家族全体がつくるコミュニケーション・システムにみいだす点で画期的である。患者個人はこの病んだシステムのいわば犠牲者だということになる。家族全体をひとつの病理単位とみなすこの斬新な理論こそ、1960年代以降盛んになる家族療法理論の基礎となり、家庭精神医学に道を開くことになった。
(Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2000. (C) 1993-1999 Microsoft Corporation. All rights reserved.)


付録3
家族療法(『エンカルタ百科事典』より)

I プロローグ 家族療法 かぞくりょうほう Family Therapy 従来の精神療法(心理療法)が個人を治療の単位と考えていたのに対し、問題をかかえた個人だけでなく、その個人をふくむ家族全体をひとつの有機的なシステムととらえ、これを治療の単位と考える立場を総称して家族療法という。このような家族療法の発想が生まれたのは、ある症状にくるしむ患者が、治療によって症状が改善されたり消失したりすると、入れ代わりに家族の他のメンバーになんらかの問題や症状がおこるという事実が多くみられ、家族システム全体がある病理をかかえていると考えざるをえなくなったためである。
II 病理的家族システムのホメオスタシス機能 見方をかえれば、家族システムにある病理がかかえこまれているとき、家族は、家族の特定のメンバーを不適応にすることによって、システムとしてのバランスをたもとうとしているのである。したがって、そのメンバーが治療へとうごきはじめれば、病理的な家族システムは治療をさまたげる方向に作用したり、他のメンバーを不適応におとしいれてバランスの回復をはかろうとする。つまり、家族システムはひとつの均衡状態をめざすホメオスタシス機能をもつといえる。
家族療法では、患者は家族の病理を代表し、その問題を症状としてあらわしている人とみなされ、IP(identified patient:患者の役割をになう人)とよばれる。したがって治療者の基本的なねらいは、家族全体が患者にしたてあげている当人を、患者の役割をになわされた人(IP)であるとみなすことによって、問題を個人から家族にむけなおし、家族システムのあり方をかえるところにある。
III 実際的な問題 理論的な整備はすすんでも、家族療法の実際の展開は多くの困難をかかえる。それは、これまでの個人療法が前提にしていた、患者自身が治療をもとめて治療者のもとをおとずれるという枠組みにおさまらないことがおきるからである。治療者が家族全体の合同面接を企画しても、家族メンバーのある者(たとえば父親)がそれを拒否し、合同面接としてなりたたないといったことがしばしばおこる。また治療の経過の中で、患者と他の家族メンバーを別個に並行して面接する場合や、家族全員があつまったところで面談をおこなう場合など、面接形態をどのように選択するかも微妙な問題をかかえる。
さらにまた、家族メンバーの数がふえれば面接場面をうごかすこと自体がむずかしく、どのような話題で、どのように切りだし、どのように治療者が話にのったり、話をリードしたりするかも、先が読めないためにむずかしい問題になりやすい。こうした理由で、家族療法の必要性は理解されても、それを療法として具体的にどのように展開するかは、いまだ治療者の個人的力量におうところが大きいのである。
IV 家族療法が有効な問題 個人の病理を基本的に家族の病理によるものとみるのであるから、家族療法は理論上はすべての不適応問題に適用されるはずである。しかし、家族療法は治療者が家族の中に介入する一面をもたなければならない点で、精神分析療法に代表されるような従来の個人療法とは性質がややことなり、家族療法を単独でおこなわずに個人療法とあわせてこころみる場合もでてくる。そのため、これまでのところ、家族療法は患者の問題のいかんにかかわらず適用されるということはなく、むしろ家族療法の適用にむく問題があるといえるだろう。たとえば不登校、思春期摂食障害(→ 神経性食欲不振症)、非行、児童虐待、アルコール依存症、夫婦間のトラブルなどである。
(Microsoft Encarta Encyclopedia 2000)


参考文献
家族についての文献は、数え切れないほど、ある。上で直接引用しているものを中心に挙げておく。
平泉悦郎『家族療法』(朝日文庫)――家族療法を分りやすく紹介している
V・D・フォーリー『家族療法』(創元社)――家族療法の理論的な入門書
斎藤学『家族の闇をさぐる』(小学館)――NHK人間大学の講座を基にした書下ろし
河合雅雄『子どもと自然』(岩波新書)――サル社会との対比から、ヒトの家族や教育の問題を論じている。
山極寿一『家族の起源』(東京大学出版局)――サルといっても、ゴリラ社会には父性の原型がある

加藤尚武氏の数ある著作の中でも、丸善ライブラリーで出ている応用倫理のシリーズはよいものが多いが、
加藤尚武『子育ての倫理学』(丸善ライブラリー)
は読んで損はしない好著。


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