職業倫理―専門家の責任―


職業倫理
職業の種類に応じて、その職業に特有の倫理が存在する。
医療関係者なら、生命倫理(医療倫理)、技術者なら工学(技術者)倫理、ビジネスマンならビジネス倫理、といった具合である。
しかし、どんな職業であれ、「危害を与えない」といった、共通する倫理原則はある。
また、現代では組織の中で仕事をするのが職業人の通例であるから、組織と個人の倫理的な確執という問題もある。
(具体的には、コンプライアンスや内部告発など。)
ここでは、一般的に、組織内で仕事をする専門家の倫理について考えてみたい。


問題
「A建築設計事務所に勤めている松本課長は、取引先の吉本建設から
「もっと鉄筋を減らせ(他にも事務所はあるんだから)」と言われているが、
これ以上減らすと(犯罪ではないが)耐震強度の点など疑問があって悩んでいる。
上司の浜田部長に相談したが聞いてくれなかった。
松本は専門家としてどういう行動をとるべきか、論ぜよ。」

これは、職業倫理に関して2005年(姉歯事件があった)に出した試験問題だが、どうだろうか。
問題は、専門家の責任ということをどう考えるか、だ。
松本課長がとることのできる選択肢には、次のようなものがある。
0) 何もしない(言われた通り、鉄骨を減らす)
1) 自分には責任が持てないので、移動願いを申し出る
2) 取引先の担当者ともう一度話してみる
3) 浜田課長にもう一度相談してみる
4) 浜田課長より上司の島田専務とか、桂事務所長とかに相談してみる
5) マスコミに話す

考えるべき要点を確認すると、
1)この問題について一番詳しく知っているのは、松本だから、責任のある態度をとるべきだ。
2)顧客との関係は、パートナーシップが理想(吉本建設は主人と使用人関係を想定しているようだが)。
3)問題は、基本的には、客との、また会社内での話し合いで解決すべき。
4)確実な証拠があり、一般市民に大きな危害が及ぶことが分かっている場合には、内部告発もありえる。

去年の講評では、こう書いている―
「これは、組織における専門家の責任と内部告発の可能性を問題にしています。
全般的な傾向として、安易に「内部告発」と書いている答案が目立ちましたが、内部告発というのは、あくまで最後の手段であり、問題が生じたときには組織内で解決すべきです。この場合には、(姉歯設計士の場合とは違い)違法行為ではないわけだし、今回の事件ほど直接の被害が予想されるというほどでもないでしょうから、内部告発しても、あまりメリットはないように思います。内部告発は組織への裏切りですし、本人も会社を辞める覚悟は必要ですから、安易に「内部告発すべきだ」とか書いてもダメです。」

姉歯事件の場合は、直接に大きな危害が(放っておけば、さらに重大な危害が間近に)予想された訳だし、
関係者のうちでも、事情を知っている者がいたであろうに、長い間放置されていたという点に大きな問題がある。
組織ぐるみで情報隠しが行われている場合には、内部告発しか手段がないこともあるだろう。
(でも、試験のとき、友人がカンニングをしていたら、あなたは「先生、カンニングです!」とすぐ先生にチクるだろうか?)

内部告発(Whistle Blowing)の条件
1) 放置すれば、市民への大きな害がある
2) 組織内部で問題解決ができない
3) 説明しうる確実な証拠があり、結果が有効である
1)と2)が満たされたら、内部告発は許される。3)が満たされるなら、内部告発は義務である。

話を戻すと、松本にはどういう責任があるのだろうか。
責任という概念は多様であるが、法的ではなく道徳的な責任という点を考えると、
専門家は高度の教育や訓練を受け(それに見合う高い収入を得て)、
その仕事の結果が多くの人に大きな影響を及ぼす立場にあるのだから、
通常より高い倫理的な責任が求められていると考えられる。

技術者の仕事に対する責任として、三つのモデルがある。
1) 最低限実行主義者―「業務の基本的な義務を果たせばよい」;自分が非難されることを回避・「トラブルを避ける」態度
2) 適切な配慮(reasonable care)モデル―非専門家の基準から見てするべき行為;例えば、自分だけでなく自分の携わる業務全体が他者に危害を与えないように配慮する
3) 立派な仕事(good works)モデル―「義務の要求以上」(supererogation)
Harris/Pritchard/Rabins 『科学技術者の倫理』日本技術士会訳 より)

松本が最低限実行主義者なら、鉄骨を減らせばよい。
違法ではないのだし、事務所も吉本建設も満足し、自分も非難されない。
しかし、専門家としての自分の知識から判断すると、「適切な配慮」や「立派な仕事」をしているとは言えない。
専門家としてのプライドを持って仕事をしているかという点で、問題が残るだろう。
(常識的に考えると、姉歯の場合と違い、「犯罪(=違法)ではない」ことがはっきりしてるのだから、この場合は最低限主義でいいのかもしれない。違法でないのに問題が起きるのなら、それは法律が悪いのだから。――でも、こう考えること自体が、最低限実行主義者の発想だ。)
(続く―どうも問題がよくない気がする)


チャレンジャー号事件
1986年1月28日、宇宙飛行船チャレンジャー号の発射を翌日に控え、テレビでの公開会議が開かれていた。このとき、モートン・サイオコール社の技術者たちは、チャレンジャー号の打ち上げに反対する勧告を行った。O-リングの低温での機能に関する疑念があったのである。
O-リングとは、ロケットの接合部で使われる部品で、安全のために二重になっているが、これまで何度か弾性が不足して燃料漏れを起こしたことがあった。その最大の事故は7.3℃の低温状態で起きていた。予報では翌日は氷点下の低温だった(実際は-1.7℃)。
O-リングに関する主任技師であるロジャー・ボイジョリーは以前からこの問題について警告を発しており、このときも強く反対した。
会議は錯綜し、一時中断した。
サイオコール社の副社長ジェラルド・メイソンは、
NASAが発射を望んでいること、及び、NASAと新しい契約を結ぶためには中止は避けたいという事情があること
そして、技術者たちには危険を証明する確実な証拠がないこと、を踏まえて、
技術の責任者ローバート・ルンドに向かって、「君は、技術者の帽子を脱いで、経営者の帽子をかぶりたまえ」と言った。
そしてこの一言をきっかけに、会議の風向きが変わり、意見は逆転した。
しかし翌29日の朝、全世界が見守るなか、予定通り打ち上げられたチャレンジャー号は、発射後73秒で燃料漏れのために爆発し、搭乗した宇宙飛行士六名は全員死亡した。

ロジャー・ボイジョリーがとった行動
0)同僚と話し合う
1)事実を確かめる―Oリングの安全性に関するテストを行う
2)日誌を付ける
3)上司に懸念を表明する
 (口頭でなく書面にする。
  トップに訴える時は他の人にも知らせる。)
4)内部告発者になる
(ウィットベック『技術倫理』1(札野・飯野訳)みすず書房


職業上の責任(法的責任)
1) 役割責任(role responsibility)
2) 説明責任(accountability)
3) 賠償責任(liability)
4) 厳格責任(strict liability)

専門家と顧客との関係
1) 代理人モデル(意思決定は客)
2) パターナリズム・モデル(専門家の主導)
3) パートナー・モデル(共同の意思決定)
医療の場では、かつては2) のパターナリズム・モデルが主流だったが、近年はインフォームド・コンセントの普及によって、「患者主体の医療」の方向へ移行しつつある。とはいえ、医療の現場では、株式の仲買人のように、すべては客が決めるという1)のモデルが理想という訳でもないだろう。
両者の関係は職業によって違うが、多くの場合において、客が動機を持ち、専門化が知識を持つのだから、目指す方向は、3)の共同作業モデルであろう。

しかし、パターナリズムが必要なケースもある。
1) 相手が過度に感情的になっているとき
2) 相手が自分の行為の結果について無知であるとき
3) 相手があまりに若く、自分の行為に関する要因を十分に理解できないとき
4) 相手が情報を与えられて自由に決断しようとしているのか決定するのに時間が必要だと判断されるとき

リスク評価
リスク=「損害が生じる確率×損害の程度」


参考文献
技術者(工学)倫理(Engineering Ethics)に関しては、上で引用した
Harris/Pritchard/Rabins 『第2版 科学技術者の倫理』(日本技術士会訳)丸善
あるいは、
ウィットベック『技術倫理』1(札野・飯野訳) みすず書房
などがあるが、詳しすぎるという場合には、
斎藤・坂下編『はじめての工学倫理』 昭和堂
辺りはどうだろうか。
アル・パチーノ主演の映画『インサイダー』は、アメリカの煙草産業とCBSの報道番組との間で実際に起こった事件をモデルにして作られた映画で、企業のコンプライアンスや社員の内部告発や報道機関のあり方について、具体的に考えるヒントを与えてくれる。


→ビジネス倫理
→情報倫理
→生命倫理(インフォームド・コンセントなど)

→倫理の公民館(目次)
→村の広場に帰る