フィデリスの温泉にたどりつくには、プレッティガウ地方の長い谷を、くねくねとのぼりながら続く幹線からはずれ、急で長いのぼり道をたどらなければなりません。
馬車が山に登るとき、馬たちはとても苦しそうにあえいで進みます。
だから乗客はかわいそうになって、馬車からおりて、緑につつまれた山道を歩いていきたくなるのです。
長い登り道が終わると、やっと緑の高台の、気持ちの良いフィデリス村に着きます。
そこからさらに山の方へいくと、岩だらけの山々にとりかこまれて、一軒の湯治客のための温泉館が見えてきます。
そんな高いところで成長できるのはモミの木だけで、それが山々や岩はだを覆っています。
ですからその下の牧草地に、小さいけどすばらしく色とりどりの、山のきれいな花々が見えていなければ、暗くて沈んだ景色になったかもしれません。
日の長い、明るい、ある夏のゆうべに、二人の女の人が、館から出てきて、細い山道を歩いていました。
そこからさほど離れていないところに何軒か家があって、それからすぐに、とても急な坂道が、高い岩肌へと続いています。
まわりの景色が良く見える場所にきて、二人はしばらくたたずみ、あたりをながめていました。ついさっき、初めてこの温泉にきたばっかりだったのです。
「こんな山なんかつまらない。」
しばらく気ままに景色をみていた女の子が、おばさんにいいます。
「岩とモミの森がずーっと山まで続いてて、そのむこうもモミの木ばっかり
ここに二人で6週間もいることになるんだから、もっとなにか楽しいことがあると思ったのに・・」
「パウラさん。少なくとも、あなたがこの山でダイヤモンドの十字架をなくすのは、愉快なことではありませんよ」
と、おばさんが、姪の胸にきらきらしている十字架の、ビロードの赤いリボンを結びなおしながら言いました。
「私はここに着いてからだけでも、もう3回も直してあげてるのよ。
リボンがゆるんでくるのが、あなたのせいなのか、リボンのせいなのかわからないけど、落してなくしたら、すごく悲しむことになるのはわかるでしょ」
「いやよ。ぜったいいや!」パウラはおもわず大声で叫んでしまいます。
「この十字架は、絶対に、なくしちゃだめなの。おばあさまの形見で、私の一番の宝物なの」
パウラは、自分自身でリボンをあれこれさわりはじめます。
そして落ちないようにしっかりと結び付けようと、リボンに二度、三度と結び目を重ねてつくっていました。
そのとき、少女は耳をそばだてて言いました。
「聞こえる。聞こえるわ。おばさん。ほら、なんだかとっても楽しいことがあるみたい!」
ずっと上の山から、陽気な歌声がひびいてきます。
その歌は、ときどき、長く声を伸ばして自由自在に変化するヨーデルになり、また普通の歌声にもどるのです。
二人の女性は、上を見上げました。でも、なにも動くものは見当たりません。
山に続く小道は、あちこちに背の高い茂みがあったり、岩が道にせりだしている間をとおっていて、おおきく曲がりくねっています。
だから、下からは、歌のほんの一部分を聞けただけでした。
でも、いまは、その歌が、なんだか、この場所を、うきうきとしたところに変えてしまいました。
狭い道の上だけではなく、上から下まで山のすべてが、楽しい場所になったかのようです。
そのうち歌声はますます高らかに、すぐちかくへとひびいてきました。
「みてみてよ、おばさん、あそこよ! こっち! そこをみて」パウラはすごく楽しそうです。
おばさんが思ってもみないことに、たちまち3匹、4匹、そしてもっともっと多くのヤギが、飛びはねながらやってきました。
どのヤギも首に小さな鈴をつけています。
もう、鈴の音があららこちらでなりひびき、群れの真ん中でヤギかいの男の子も、とびはねるように降りてきました。
そして、いままでの歌の最後のところを歌いました。
♪冬でもボクは楽しいよ
泣いてもなんにもならないし、
冬のあとには、いつでも春が
かならずやってくるものさ
歌詞のあとは、こえをはりあげてヨーデルをひびかせます。
少年ははだしで、彼のヤギたちと同じように、軽やかに、足音なんかたてずに、あっというまに群れごと、二人の前にまできていました。
「よい夕べになりますように!」
彼はふたりを見て笑顔であいさつし、群をひきつれて先をいこうとします。
でも女性たちは、この楽しそうな目をしたヤギかいが好きになってしまいました。
「ちょっとまって」パウラがいいます。
「あなたはフィデリスのヤギかいなのね?。下の村からやぎたちを連れてきているんでしょ?」
「そうだよ」と答えます。
「毎日、ヤギたちと山の上に行くの?」
「うん、そうしてる」
「そう、それで、なんていう名前なの?」
「モニっていうんだ」
「わたしたちに今歌っていたのをもう一度聞かせてくれないかしら? わたしたち、ほんの少ししか聞けなかったの」
「この歌は長いんです」モニははっきりといいました。
「ヤギを家に戻すのが、遅くなりすぎます。 もう、もどらなければならないんです。」
彼はあいさつのために脱いでいた使い古しの帽子をかぶりなおし、空中で木の枝のむちを振って音をたてます。
そして、草をたべるために散らばっていたやぎたちに叫びました。
「帰るぞ!帰るぞ!」
「そうなの。でも、いつか私たちに歌ってくれる?
いいでしょモニ?」
パウラは後ろから彼に声をかけました。
「ええ。歌ってあげます。それではおやすみなさい」と返事し、ヤギたちをつれて急いでもどっていきます。
そしてたちまち、群を下まで降ろしてしまいまい、温泉宿のそばの裏の建物のところで、止めました。
そこで、何匹かのヤギを、持ち主の家に戻すためです。
きれいな白やぎと、ちっちゃくて可愛い子ヤギをつれたクロやぎでした。
モニは、その子ヤギをとても大切に世話をしていました。
まだ小さくか弱く、可愛くて、やぎたちの中でいちばんのお気に入りだからです。
子ヤギのほうも、モニにとてもなついていて、いつも少年のあとをついてくるのです。
彼はとても優しく子ヤギを引きよせ、両手でだきあげ、ヤギ小屋にいれてあげます。
そして声をかけます。
「さあ、ちいちゃん。 よくおやすみ。疲れて眠いだろう? 山の牧場はとても遠いし、おまえはまだ小さすぎるよな。
もうお眠り、ほし草のなかは気持ちいいぞ !」
モニはちいちゃんを寝かせたあと、急いで群をつれていきます。まずホテルの前の丘をのぼり、それから通りを村までくだっていきます。
ここで彼は小さな角笛をとりだして口にあてました。
そして、思いっきり吹き鳴らして、下の谷間に遠くまで響かせました。
すると村のなかに散らばっているどの農家からも子供たちが走ってきて、自分のヤギへ勢いよく向かってきます。子供たちは遠くからでも自分の家のヤギをみわけることができました。
近くの家々からは、それぞれおかみさんたちがやってきて、自分の雌ヤギのロープや角をつかまえていきます。
たちまち群はばらばらになって、それぞれの居場所に戻っていきます。
とうとうモニと、モニの茶色のヤギがぽつんと立つだけになりました。
それからヤギと一緒に山の斜面にある小さな家へ帰ります。
ドアのところでは、もうおばあさんが彼を待っていました。
「モニや、変わったことはなかったかい?」
おばあさんは孫を優しくむかえいれ、茶色のヤギをヤギ小屋につれていって、すぐに乳をしぼりはじめました。
おばあさんはまだまだ元気で、家の中やヤギ小屋をひとりでめんどうみていて、どこもきれいに整頓していました。
モニはヤギ小屋の入り口に立って、おばあさんを見守ります。
乳しぼりが終わって、小さな家へもどりながら言いました。
「さあおいで、モニ。おなかすいただろう」
もうすっかり食事の準備もできていて、モニはすぐにテーブルにつくことができました。
おばあさんは彼のとなりにきました。
夕食は、茶色のヤギのミルクで作った、トウモロコシのおかゆが一皿だけでしたが、モニには、とってもおいしいものでした。
食べながらモニは、今日あったことを、おばあさんに話しました。
そして食べ終わると、モニはすぐにベッドに入りました。
明日の朝も、とても早くに、ヤギたちをつれていかなければならないからです。
このような生活で、モニは二回、夏をすごしました。もう長いことヤギかいをしているのです。
いまでは、この生活になれていましたし、ヤギたちと心がかよわせながら、成長してきたのです。
ですから別の生活なんて、全然考えられないのです。
モニは、ものごころついたときからずっと、おばあさんと暮らしてきました。
母親は、とても小さいときに死んでしまいました。
父は、その後まもなく、ほかの人たちといっしょに、兵役につくためにイタリア(のナポリ)へ行くと言い出しました。
どうにかしてお金を稼ぐためで、それが近道だと思ったのです。
彼の妻の母、モニのおばあさんも貧乏でした。
でも、おばあさんは、死んだ娘のひとりぼっちになった男の子、ちいさなザロモン(モニの正式名)を、すぐさま、家にひきとりました。
そして、自分のもっているものを、わけあって暮らしていたのです。
二人の小さな家にも、天の恵みが与えられていました。これまで暮らしていくのに困るようなことは、まったくなかったのです。
エルスベスおばあさんは、まじめでいい人だったので、村中から好かれていました。
そして、二年前、次のやぎかいを決めようとするときに、みんなが、モニがやぎ飼いをやることに賛成しました。
働き者のエルスベスばあさんを、こんどはモニがなにか働いて手助けできるように、してくれたのです。
天の助けを信じるおばあさんは、モニが毎朝、出かけるときに、こう言い聞かせずにはいられないのです。
「モニや、おぼえておいてね。おまえの行く山の上は、愛する(天の)お方に近づいて、どんなことも見守り、聞き入れてもらえるところですよ。
なにをしても隠せませんし、忘れられることもありません。
そのお方はおまえの近くにいて、助けてくださります。
ですから、なにも怖いことはありません。
もし山の上でひとりでいて、困ったことがあるときも、私たちを愛してくださるあのお方によびかければいいのです。
きっとすぐに聞きとどけてくださって、おまえを守ってくださいます」
それで、モニは初めてのときから、一人で山の上にいっても、一番たかい岩をのぼっても、ぜんぜん怖がったり、心配したりせず、いつも自分は守られているんだと信じていました。
だって、高い場所にいくほど、天に近くなるんだから、なにがおきたとしても、ますます頼りになるじゃない。
それでモニは不安も悩みもなく、朝から夜までのすべてのことを楽しんでいたのです。
モニがいつでも口笛をふいたり、歌やヨーデルを歌っているのは、なにもとくべつなことをしているのでなく、自分の中のとても楽しい気持ちを、出さずにはいられないからでした。
次の朝、パウラはいつもとちがって、早く目がさめました。
大きな歌声に起こされたのです。
「きっとあのやぎかいね」そう言って、ベッドから飛び起きると窓にかけよりました。
思ったとおりです。
元気いっぱいの、赤いほっぺたのモニが窓の外にいました。
ちょうど小屋から親やぎと子やぎを連れ出すところです。
少年が空中でムチを振って合図すると、やぎたちは小さく大きく、彼のまわりでとびまわり、群全体が前にすすみはじめます。
そしてまた、モニは気の向くまま歌い出して、山々に歌声をひびかせるのです。
♪モミの木たちの その上で
小鳥たちは そろって歌う
しばらく雨が つづいたあとに
ひかりがさして 晴れてくる !
「今日こそ、あの歌を全部歌ってもらわなきゃ!」パウラはつぶやきます。
もうモニの姿は見えなくなり、歌声も遠くなってよく聞こえなくなっていきます。
空にはまだ、赤い朝やけの雲があって、どこかかなたへと流れていきます。
さわやかな山の風が、ざわざわと音をたて、山をのぼるモニの耳に聞こえます。
それが彼をますます元気にさせます。
少年は楽しい気持ちのまま、山道で最初の曲り道から、谷ぞこへ大きくヨーデルをひびかせます。
それで下のホテルで眠っていた人が何人も驚いて目を覚ましました。
でも、みんなすぐにまた眠ってしまいます。
あの歌声がヤギかいのものだとわかったし、いつもとても早くやってくるので、あと1時間は眠っていてもいいのだと知ってるからです。
みんなが眠っているうちに、モニはヤギたちと、1時間以上もどんどん歩き、高い岩山の上までよじ登りました。
モニのまわりの世界は、高く登っていけばいくほど、ますます美しくなっていきました。
彼は、ときどき景色をながめ、青く深くなっていく、すんだ空をあおぎます。
そして、歌いはじめるのです。
精一杯に口をあけ、天に近ければちかいほど、どこまでも純粋に、どこまでも楽しげに。
♪モミの木たちの その上で
小鳥たちは そろって歌う
しばらく雨が つづいたあとは
ひかりがさして 晴れてくる !
♪昼と夜の かがやきと
星々たちの きらめきは
愛する方が みんなにくれる
幸せのための おくりもの
♪春には花々 さきそろう
黄いろい色に 赤い色
空はなんて 深い青
うれしいボクは 天にものぼる
♪そして夏の いちごたち
うまくさがそう いっぱいあるよ
赤いいちごに 黒いちご
どれも茎から つまんで食べる
♪森にくるみが またみのる
秋にすること 知っている?
やぎが食べてる あの場所に
香る(ハーブ)おくすり(薬草) たくさんはえる
♪冬でもボクは 楽しいよ
泣いても なんにもならないし
冬のあとには いつでも春が
かならずやって くるものさ
いつもきている高台にやってきました。
今日もそこが最初の休憩場所です。
そこは小さな緑の高原になっていて、岩が突き出して大きく広がっているところがあります。
そこからは、まわりがひらけていて、谷の下の方までひろく見わたすことができるのです。
この岩のでっぱりは「先生のつくえ岩」といわれていました。
ここに、モニはよくきて、何時間かいるのです。
そしてヤギたちが、本当にのんびりと草を探している間、まわりの景色をじっと見たり、とりとめなく口笛をふいたりしていました。
モニはそこに着くと、すぐに背中からおべんとうのはいった小さなふくろをおろして、自分で地面に掘った、小さな穴に置きました。
それから「先生のつくえ岩」の上のほうに歩いていって、いちど思いっきりきもちよく寝てみようと、ごろんと体をなげだしました。
空は、暗いほど青くすんでいました。
向こうの空には、高い山々の頂きがギザギザとそびえたっていて、大きな氷原も見えています。
そして下には、緑の谷間が朝日の中で、遠くまでかがやいていました。
モニはねそべり、まわりをみながら歌ったり、口笛をふいたりしました。
山の風が、ほてった少年のほほを冷やします。
口笛をふくのをちょっとだけやめてみると、上では小鳥たちがモニよりも、もっと楽しそうにさえずりながら、青い空を高くまいあがっていくのです。
モニは口でいえないほど、いい気持ちでした。
ときどき、ちいちゃんがやってきて、甘えてモニの肩に自分のあたまを軽くこすりつけます。
モニが大好きだから、いつもそうしているのです。
それからとってもかわいく「めぇ」と鳴くと、反対側の肩にまわって、同じように頭をこすりつけてきます。
ほかのヤギたちも、いれかわって、あれこれやってきて、自分たちの番人の様子を見にきました。
ヤギがモニのところにきて、何をするかは、それぞれ違いました。
モニの家の茶色ヤギは、とても心配そうにやってきました。
彼がどうかしたのかと、様子を見にきたのです。
そしてそのまま立って、モニがなにか言うまでじっとみつめていました。
「わかった、わかったよ。茶色くん。ぼくは大丈夫だって。草を食べにもどりなよ!」
白くて若いヤギと、ツバメという名前のヤギの二頭は、いつもモニに向かって飛びついてきて、地面につき倒していました。
ツバメという名前は、とても身が軽くてすばしっこく、どこでもツバメが巣にもどるような勢いで動くからついたのです。
いまも、モニが先に地面に寝ころがっていなかったら、そうなっていたでしょう。
黒くて立派なのは、温泉館の主人のヤギで、ちいちゃんの母親です。すこしツンとすましたところがあります。
そのヤギは、モニからあと2、3歩のところまで近づき、頭をもちあげてモニを見つめるだけです。
親しそうにしようとせずに、そのうち、離れて行ってしまいました。
それから、雄ヤギで、大きいサルタン(王様)というヤギは、いつも一度だけやってきます。
そして、モニの近くにいるヤギをぜんぶ押しのけて、とても大切なことのようにメエメエと何かいいます。
自分がヤギたちで一番エライと思っていて、いまみんながどうしているか、モニに教えようとするみたいです。
でも、そんな中でも、ただ一匹、弱々しいちいちゃんだけは、モニが守ってくれるので追い払われることはありませんでした。
雄ヤギがやってきて、ちいちゃんを押しのけようとしても、小ヤギはモニのワキや頭の下にモゾモゾともぐりこんでしまいます。
ですから大きなサルタンもどうにもできません。
いつもちいちゃんは、サルタンや他のやぎが近くにやってきたら怖くなるのですが、モニの体の下なら、安心なのです。
そうして、すばらしい朝がすぎていきました。
モニは昼食を食べおえて、杖にもたれて立ちながら、考え事をしました。
杖は山の上では、登ったり下ったりするときとても役に立つので、いつも持っているのです。
考えていたのは、山の新しい場所に登るかどうかです。
ヤギたちをこの午後に、もっと高い場所につれていくつもりでしたが、問題はどの方向からいくかです。
モニは、左の方向の「三つの竜岩」へいくことにしました。
そのまわりには柔らかい草がしげっていて、ヤギたちにとてもすてきなごちそうになるからです。
そこにいく道はけわしくて、上は切り立った岩肌で危険なところでした。
でもモニは良い道を知っていましたし、やぎたちもよくわかっていて、簡単にはぐれたりしません。
彼は登り道に向かいました。
ヤギたちみんなも、モニのすぐ前や後ろで、楽しそうにかけのぼっていきます。
そして小ヤギのちいちゃんはいつもモニに、ぴったりとくっついているのです。
とても険しい場所にきたときは、モニはちいちゃんをだきあげたり、ひきよせたりしました。
すべてがうまくいって、無事にみんな登ることができました。
ヤギたちはぴょんぴょんとびながら、すぐに緑の茂みをめざして走っていきます。
前に何回もこの高地に来て、たくさんおいしい草を食べたことを、よく覚えていたのです。
「さわぐんじゃない! 静かに食べろよ!」
モニは言いました。
「こんな急な所で押し合ったら、すぐに下に落っこちて足を折っちゃうぞ。
あ、ツバメ! おまえは何考えてんだ!」
モニは、ドキッとして岩の上に呼びかけます。
あのすばっしこいヤギが、高い「竜岩」のうえに登って、その端のギリギリに立ち、モニを得意そうに見下ろしているのです。
彼は急いで岩をよじ登りました。
あとほんの少し前にでるだけで、「ツバメ」は谷底に落ちてしまうのです。
モニはとても心配でした。
たちまち岩を上までのぼりつめると、ツバメの足にエイととびついてつかみ、ひきずりもどしました。
「いますぐボクと一緒にくるんだ。
おまえはなんにも考えてないんだな !」
モニはツバメをしかりつけ、下の仲間のところへ引っぱっていきました。
そしてヤギが茂みの草の味見をし、もぐもぐ食べることに夢中になって、もうどこかにいく心配がないと思えるまで、しっかりとつかまえておきました。
「あれ? ちいちゃんはどこだ !」
モニはきゅうに叫びました。
おかあさんのクロヤギが、たった一匹でガケのそばに立っているのに気がついたのです。
草を食べずに首をあげ、じっとして、きょろきょろしています。
いつも、あの子ヤギはモニのそばにいるか、おかあさんの後を追いかけていたのです。
「クロ。おまえの子供はどこなんだ !」
モニはドキリとしてかけよりました。
母ヤギの様子はなんだかとてもおかしくて、何も食べずに一つの場所から動こうとしません。
両耳を心配そうに動かして、なにも聞き逃すまいとしています。
モニはクロヤギのすぐそばに立って、上や下をみわたしました。
小さく、メェとなき声が聞こえます。
ちいちゃんの声です。
下の方から、とっても悲しそうに、助けてと言っているのです。
モニは地面にふせて、体を前にのりだし、下をのぞきこみました。
すると、ちいちゃんが、ずっと下の方の、岩の割れ目から生えている木の枝にぶらさがり、哀れにめそめそ鳴いているのが、はっきり見えました。
子ヤギは、落ちてしまったのです。
でも運がよかったです。もし枝に引っかかっていなかったら、深い谷間に落ちていました。
そうしたらとてもひどいことですが、死んでしまったはずです。
しかし、子ヤギが枝にしがみついていることができなくなったら、すぐにも深い谷底へ落ちて、命がなくなってしまいます。
モニは心配でたまらずに、下に呼びかけました。
「がんばれ、ちいちゃん。
しっかり枝につかまっているんだ。
みててごらん。
僕はすぐにいって、おまえをつれもどしてあげるよ!」
でも、どうやってあそこに行けばいいのでしょう?
この岩壁はとても険しくて、そのままモニが下に降りていけないのが、ひとめでわかります。
でも、子ヤギは「やどり岩」とだいたい同じ高さにいるはずです。
「やどり岩」は、この崖からつきだした岩で、その下は雨やどりのときにはとてもいい避難所でした。
ヤギ飼いたちは昔からずっと、天気の悪い日はそこで一日をすごします。
だからその岩は、大昔から今まで「やどり岩」と呼ばれるのです。
(そうだ。その場所から !)モニは思いました。
「やどり岩」の上から横の方に、崖にしがみついていけばいいんだ。
そうすればちいちゃんを、あそこからつれもどせる。
いそいでモニは口笛をふいて群れを集め、みんなで「やどり岩」の下に降りていきました。
そこで群れに草をたべさせておいて、少年はやどり岩にむかっていきました。
ここから見ると、子ヤギがぶらさがっている木の枝は、まだずいぶん上にあるのがすぐわかりました。
そこによじのぼっていって、ちいちゃんを肩にかついで、また下に降りてくるのが、簡単でないことはわかっていました。
でも、助けるにはそれしかないんです。
神様はぼくの味方だ。
すぐにモニは思いました。
だからきっと手助けしてくださる。
手を組んで、天を見上げました。
そして祈ります。
これからちいちゃんを助けにいきます。どうかお守りください。
今はもう、モニはすっかり落ち着いて、すべてがうまくいくと信じていました。
だから自信をもって、しっかりと岩肌をよじ登っていきます。
モニは枝がつかめるところまできました。
ここで少年は両足でしっかり枝をはさみこみ、ぶるぶる震えておびえている子ヤギを、両肩にかつぎあげました。
そしてとても用心深く、そろそろとはいおりていきました。
自分の足の下が、草のはえている安全な地面になったとき。
そして、おびえきっていた子ヤギを助けることができたんだとわかったとき、モニはとてもうれしかった。
お礼したい気持ちが心から止めようもなくわきだして、空にむかって呼びかけました。
「ああ、僕たちを守ってくださるお方、ありがとうございます。
あなたはボクたちをしっかりと支えて、導いてくださいました。
ボクもちいちゃんも、それがとてもうれしいんです!」
そしてモニは、しばらく地面にすわりました。
いまもぶるぶるふるえている子ヤギのかぼそい手足を、怖い気持ちがなくなるまで、なでてやるのです。
まもなく、もう帰る時間になりました。
モニは、子ヤギをもう一度両肩に乗せ、そして優しく話しかけました。
「帰ろう、かわいそうなちいちゃん。
おまえはまだふるえているね。
今日は家まで自分で歩けないから、ぼくがおぶってあげる」
ちいちゃんはモニにすっかり体をあずけて、たよりきっていました。
そのままモニは、下る道をずっと子ヤギをおぶっていきました。
パウラは、ホテルの前の丘に立ち、ヤギ飼いを待っていました。
彼女のおばさんも一緒でした。
モニがお荷物の子ヤギを背負ってちかよってきました。
パウラはヤギのぐあいが悪いのか聞いてきました。とても心配そうです。
モニは子ヤギの様子をみせ、パウラの前で地面に座ります。
そして今日、ちいちゃんとモニに何があったか話してあげました。
女の子は助かった子ヤギをなでてあげました。
いまはすっかり落ち着いて、モニのひざの上にうずくまっています。
子ヤギの白い足や、背中のきれいな黒のぶち模様は、とてもかわいかった。
ヤギはそっとなでられて、とても気持ちよさそうに、横になっていました。
「いま、あの歌を歌ってくれない?
座ってゆっくりしてるんですもの、ちょうどいいでしょ?」パウラがいいました。
モニはとても幸せな気持ちでした。
ですから喜んで、胸いっぱいの息で歌いだし、最後までぜんぶ聞かせてあげました。
歌はパウラの心をとらえてしまいました。
「絶対にまた歌ってちょうだい。
何度でもお願いね !」と言うのです。
そして、もうすっかりみんな友達になって、一緒にホテルまでおりていきました。
ここでちいちゃんは自分の寝床に戻されて、モニと別れました。
そしてパウラは部屋にもどって、やぎ飼いの男の子のことを、おばさんとずっと話していました。
いまからもう、明日の朝にモニの楽しい歌が聞けるのだと、わくわくしていました。

第三章 おとずれたもの
何日かがすぎていきました。
すみきった空気と明るいひざしがつづく、いつもより美しい特別な夏でした。
空は青くかわることなく、朝から夕方まで雲ひとつありません。
やぎかいの少年はやすむことなく、どの朝にも早くから、明るく歌をうたってホテルを通りすぎ。
どの夕べにも、やっぱり陽気に歌いながら帰っていくのです。
温泉のお客たちは、少年の楽しげな歌にすっかり慣れてしまったので、だれも歌のない朝なんて想像できないくらいです。
中でもパウラは、モニのはればれとした気持ちよさがうれしくて、
ほとんど毎日の夕方、会っておしゃべりするため、ホテルの前へ行って出迎えるのです。
その朝もいい天気で、モニは「先生のつくえ岩」へやってきました。
ねころがって休むつもりでした。でも別のことを思いつきました。
「休むのやめた。上に行こう!
おまえたちはこの前、おいしい草を全部そのままに残してきたんだもの。ちいちゃんをおいかけるためにね。
今からもう一度のぼっていけば、あそこで思いっきり食べられる !」
ヤギたちはみんなうれしくて、モニの後をとびはねます。
ごちそうのある「竜の岩」に、これから のぼっていくのがわかったからです。
でも今日のモニは、幼いちいちゃんをしっかりと腕にだいています。
そして岩壁に生えている茂みから、おいしい葉や草をつんで、モニの手からちいちゃんに食べさせてあげます。
子ヤギにとって、こんなにうれしいことはありません。
ちいちゃんはすっかり楽しくなって、時々、ちっちゃな頭をモニの肩にこすりつけて、メエメエ甘えるのです。
こうして朝がすぎていきました。
いつのまにか時間が遅くなっていて、モニは自分のお腹がペコペコなのにやっと気がつきました。
でも、モニのお弁当は下の「先生のつくえ岩」の小さな穴の中に置いたままでした。
お昼にまた下に降りてくるつもりだったからです。
「うーん、おまえたちはもうごちそうをいっぱい食べたよなぁ。
ところがボクはハラペコだ」
モニはヤギたちにぼやきます。
「さてと。ボクも何か食べなくちゃいけない。
下の方でおまえたちの食べる物もまだいっぱい見つかるよ。さあ行こう!」
モニはおもいっきり口笛を鳴らしました。
ヤギの群れはその音にひっぱられ、動き出します。元気いっぱいのヤギたちは前へ前へとすすみます。
みんなの先頭は足の軽いツバメで、そのため今日は、意外なことになりました。
ツバメは、岩から岩へ跳びはね、いくつか岩の割れ目もとびこえていきます。
でも、ツバメは急に先にいけなくなりました。
いきなり一頭のアルプスカモシカがあらわれて立ちふさがったのです。
そして興味しんしんといった様子でじっとツバメをみつめました。
そんなことに、ツバメはこれまで、でくわしたことがありません !
ヤギは立ちつくして、見慣れない相手に「どいてよ」と問いかけるように見つめます。そして待ちました。
カモシカが道をあければ、その岩の上をピョンピョンとびはねていける。
ツバメはそんなふうに考えてました。
でも、カモシカはぜんぜん道を譲らず、かえってツバメをバカにしたように見つめ返します。
二匹は向かい合って、ますます意地をはりあいます。
大きなスルタンヤギがこちらに来なければ、二匹は一日中でもそこに立ったままだったでしょう。
雄ヤギは、どうなっているのかすぐにわかりました。
何かを考えているようにゆっくりツバメのわきを通り過ぎると、いきなりカモシカのわき腹にぶつかっていきました。
カモシカは岩から落ちないように、あわててジャンプしなければなりませんでした。
そしてツバメは自分の行きたかった方へ勝ち誇ったように進みます。
スルタンはツバメのうしろで満足しながらゆっくり歩いています。
雄ヤギは自分がヤギの群れをしっかりと守っている。と、思っているのです。
そのときモニは上の方にいましたが、その場所にもう一人、別のやぎ飼いの男の子が下から上ってきていました。
二人はヤギたちと同じようにやっぱりびっくりしていました。
でも、二人はお互いによく知っていて、おどろいたあとでうれしそうに挨拶しました。
その少年はフィデリスの隣村のキィブリスのイェクリです。
この少年は、この朝ずいぶんと長くモニをさがしていたのです。
そしてぜんぜん思ってもみない山の上のところで、モニに出会えたのです。
「きみがやぎたちをつれて、こんな高いところに登っているなんて思わなかったよ」イェクリがいいます。
「登るのが大好きなんだ」
モニは答えます。
「でもね、いつもじゃないよ。
いつもは「先生のつくえ岩」とそのまわりまでなんだ。
でも、君はなんでここへ登ってきたの ?」
「きみに会いたくてさ。」と答えました。
「ぼくはきみにいろいろ話すことがあるんだ。
それにヤギが二匹いっしょだろ、こいつら温泉の主人のところに連れていくところさ。
ご主人が一匹買ってくれるんじゃないかなって、そう思っているんだ。
とにかくそれで、上にいるモニくんのところに行こうと思ったんだ。
「あれはきみのヤギかい ?」モニはききます。
「そうさ。 ぼくの家のだ。
ほかのヤギを世話することはないよ。
ぼくはもうやぎ飼いじゃないからね」
それを聞いてモニはとても不思議に思いました。
イェクリがキィブリスのやぎ飼いになったのは、モニと同じぐらいの時です。
イェクリがやぎ飼いを簡単にやめることができて、それをぜんぜん残念に思っていないのがふしぎでした。
話しているうちに、やぎ飼いとヤギたちは「先生のつくえ岩」につきました。
モニは持ってきたパンと、ひとかけらの干し肉を取り出し、イェクリに昼食をすすめました。
二人はつくえ岩の上に座ります。
お昼にはずいぶん遅くになっていて、二人ともお腹がすいていたので、おいしく食べました。
みんな食べ終わり、それからヤギのミルクを少し飲みました。
そのあとで、イェクリはごろんと地面にねころんで、のびのびと寝転がります。
そして両ひじで頭をささえてほおづえをつきます。
でも、モニは座ったままです。
いつも山の上から深い谷の下の方をながめるのが好きだからです。
「イェクリ。もうきみはやぎ飼いじゃないんだね、だったらいまどんなことをしてるんだい?」
モニは聞きはじめます。
「やっぱり何か働かなくちゃいけないだろ?」
「もちろん働いてるさ、いい仕事があるんだ」イェクリは返事します。
「卵配達だよ。 毎日卵をもって、けっこう遠くまで、あちこちのホテルや料理屋に卵を持ちこむのさ。
ここの山の温泉館にも来ているよ。 きのうも来てたんだ。」
モニは頭をふっていいます。
「そんなことか。
卵の配達なんてボクはやりたくないな。
やぎ飼いの方が千倍もいいと思う。ずっと楽しいから。」
「そう、まあそうかもな。でもどうしてだい?」
「卵はぜんぜん動かないじゃない。
卵は君に鳴いたりしないし、それにヤギたちみたいに、走ってこないよ。
ヤギなら、きみがきたら喜んだり、なついたりするし、声をかければ、ちゃんとわかってくれるじゃないか。
卵が相手だったら、ボクがヤギたちと山の上でやってるような楽しいことなんかないだろうに。」
「そうかい。おまえさあ」
イェクリはさえぎります。
「それじゃあ、この山の上で何がそんなに楽しいっていうんだい?
今、ぼくたちがお昼を食べてる間に、きみは6回も立ち上がったんだぜ。
頭のからっぽな子やぎが下に落っこちないようにだ。
いったいそれがどんなお楽しみだっていうんだ ?」
「いいじゃないか。 ボクはやりたくてやったんだ。 きみだってわかってるだろう。
おーい、ちいちゃん、おいで、おいでよ」」
モニはとびおきました。
子ヤギが、うれしくてむやみにぴょんぴょん飛びはねるのを追いかけるためです。
モニがまた座ったとき、イェクリはいいます。
|