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海外発表論文紹介 4
 (暫定掲載 工事中)

 ハイジ、アメリカへ行く
 
Heidi goes to America .

 
 
著者:Hearn, Michaelマイケル・ハーン 掲載:Lesarten 163-181頁

説明 2001年7月に、ヨハンナ・スピリ没後100周年を記念してチューリヒで開催された、国際会議「ヨハンナ・シュピーリとその作品」で発表された英語論文。
 2004年に出版された、「ヨハンナ・シュピーリとその作品――読みの多様性 Johanna Spyri und ihr Werk-Lesarten.」に収録された。

 ここでは、おおよその内容を抜粋して、他のサイトのリンクなどをまじえて自由訳で紹介いたします。(正確な逐次訳ではありません。あくまでも参考です)


川島論文より紹介を引用)
 アメリカでの受容史を考察する。『若草物語』(1868/69)や『トム・ソーヤー』(1876)などが描かれた1865年〜1914年の時期は、アメリカ児童文学史上の黄金時代である。そこで『ハイジ』が1884年の翻訳以来、すみやかに人気を獲得した背景には、当時アメリカでもやはり似たような「孤児」のモチーフが流行していたことがあったようだ。
 ハーンは、合衆国の文芸批評の分野においてシュピーリ文学がごく冷遇されてきた経緯に触れ、その一因をアメリカの研究者たちの英米中心主義に求めている。


抜粋・引用のノート(tshp)

・アメリカ人の傾向として、他の多くのことと同様に、児童書においても狭い見方をしがちである。

・他の国について考えるとき、一冊の本程度の乏しい材料で固定観念をつくる。フランスではペロー、ドイツはグリム、デンマークではアンデルセン、イタリアではピノキオ、そしてスイスはハイジである。

・大部分のアメリカ人はスイスのイメージをもっぱら「ハイジ」から受け取っている。
 あるいは、北カルフォルニアのレッドウッド(世界でもっとも背の高い木の森)とハリウッドスタジオセットで撮影された1937年のシャーリーテンプルの映画のハイジからのイメージです。

・ハイジはこれまでにアメリカにもっとも受け入れられた海外の児童書の一冊です。

・最初にドイツでハイジが発表されたとき、児童文学に新鮮な息吹をもたらした。

・スピリは、小さな姪の求め(示唆)に応じて、作品を書いた。

・英語には1884年に訳されてアメリカに紹介され、翌年、ボストンのパーキンス盲協会の幼稚園部によって、点字にもされた。

・アメリカの最初の出版社はボストンの「Cupples, Upham & Co. 」です。
 その広告として、
「本物におどろくべきことに。
 この本は、現代の本の中で、すべての年代の少女達にとって、もっとも甘美で純粋である。
 そして子どもたちのための真の古典として、指で数えるほど数少ない本たちの一冊になる運命にある。
 それは現在、地上のあらゆる場所で急速に翻訳されて紹介されていることから明らかである」
とある。

・「ボストン・イブニング・トランススクリプト」誌は、1884年11月6日に
「これまで現れた中でもっとも美しい、休日に読むべき一冊である。
 物語は初めから終わりまで健全で、おぞましい感情の影はない。
 子ども達は眠りにつくときハイジの運命に泣き叫ぶことはないが、その悲しみにふれる。(略)
 そしてもしそれが私たちの目に涙をもたらすなら、私たちをも変えて良い方向にむかわせる。
 (略)子ども達はおそらく物語りのとりこにならずに、「ハイジの長い旅と学びの物語」を読めないだろう。とても優しく、とても思いやりがあり、子どもが読むに適している」

・「ニューヨークタイムズ」の11月23日の記事は、これより冷ややかでした。
 「ドイツの小さな女の子の物語で、「子供たちや子供たちを愛している人々のためのもの」
 大人たちは愛する子ども達に、いつもこのように語りかけたいだろう。
 そのため、大人にふさわしい文学と呼ぶことはできない。
 二つの巻が一冊になっていて、大きな字で印刷されている。
 舞台はそれぞれ特徴のあるドイツとスイスの家庭生活で、山々と平野の間を行き来する」

・アメリカでは、すでに児童文学が花開いていました。
 ハイジは、
 ルイザ・M・オルコット(若草物語 作者)、
 マーク・トウェイン(トムソーヤ 作者)、
 トーマス・B・オールドリッチ(悪童物語 作者)、
 ホレイショー・アルジャー(ぼろ着のディック 作者)、
 フランク・R・ストックトン(みつばちじいさんの旅 作者)、
 ハリエット・ビーチャー・ストウ(アンクルトムの小屋 作者)
 メアリー・メイプス・ドッジ(銀のスケートぐつ 作者)
 と、いった作家達の子どものための本の中で、まさにぴったりあてはまったのです。


・「聖ニコラス」や、「ハーパーの若者達」といった、アメリカの児童文学雑誌でそれら作品は認められていました。

・現代の小説に似た、若草物語(1868〜69)や、トムソーヤーの冒険(1876)は、過去のおとぎ話や古い啓蒙的な物語にとって代わっていました。

・二人の女性作家は、異なる目的で異なる主題を試みました。
「ヨハンナ・スピリは「スイスのルイザ・M・オルコット」として知られるようになったのでしょうか?


・ハイジは、1928年頃に米国で人気のピークをむかえました。
 この一年で、28冊ものハイジの新刊が出版され、他のスピリ作品も41冊が出版されました。
 タイトルの非常な増加は、前年がスピリ生誕百周年で、多分それを利用したのでしょう。

・ハイジは、何度も繰り返しイラスト化されました。
 もっとも有名なのは、アメリカの出版の歴史で、もっとも偉大な雑誌表紙のイラストレーターである、ジェシー・ウイルコックス・スミスが、1922年に描いたものでしょう。

Maginel Wright Enright Barney1881-1966は(リンク2)(リンク3)、フランク・ロイド・ライト(世界的建築家で旧銀座帝国ホテル設計者)の妹で、1921年に彼女の娘エリザベス・エンライト(児童文学作家)1909-1968をモデルにしてハイジとクララを描いた。


・スウェーデンの亡命イラストレータ、グスタフ・テンゲレン(リンク2)1896-1970は、ディズニーのアニメ映画の「白雪姫」1937や「ピノキオ」1940の中心的コンセプトを描いた仕事で知られていますが、1923にハイジのエレガントなイラストを描きました。

・ハイジはコールデコット受賞者(1938年より、アメリカ図書館協会によって、その年もっとも活躍した絵本などの子どものためのイラストレータに贈られる賞のメダル)である、モードとミスカ・ピーターシャム1932や、レナード・ワイスガード1946(旧岩波少年文庫ハイジの挿絵画家)により、それぞれ描かれた。

・Ginn & Co.社は、100周年記念の出版の典拠として、ハイジの舞台のマイエンフェルトに、アメリカのイラストレータのマーガライト・デイビス(Harterの表紙のイラスト作家)を派遣しました。これはそれまでのような安価な普及版ではありません。
 この本だけで三刷生産され375000部が販売されました。

・1884年以来、誰もハイジが何百万部売られたか、推定することはできません。アメリカにおいて、絶版になることはけっしてなかったのです。

・アメリカの社会の中で、この本をもっとも熱烈に受け入れたのは、ウィスコンシン州ニューグラウスで毎年行なわれる「ハイジ・フォーク・フェスティバル」でした。
(リトル・スイスがある街で、6月に3日にわたって、フェーク、ポルカ、ヨーデルや民族的娯楽を楽しむハイジ・フェスティバルがいまも行なわれている)


・この有名の物語は、要約され、改作され、アメリカにおいて数え切れないほどの回数で、あらゆるやり方で、繰り返し語られました。

・最初の映画「Heidi of the Alps」は、モノクロ時代の最初期の映画の一つで、1921年の無声映画でアメリカ人女優のマッジ・エバンスが主演でした。

・この本がもっとも幅広く注意をひきつけたのは、1937年に20世紀フォックス映画社が、ブロンドの巻き毛の頭のお嬢さんシャーリー・テンプルを主演させた有名な映画が封切られたときです。

・誰もが、この古い物語について、映画がまきおこしてしまったすべての関心を、こころよくうけとったわけではありません。

・フランツ・カスパール(チューリッヒのハイジ財団の初代管理者)は、かつて「ハイジ」を批判しました。
「彼女は、いまではもうすたれてしまったスイスのすべての風物のシンボルになっている。彼女は、年に住む多くのスイス人がむしろ忘れたいと思う固定観念(ステレオタイプ)を拡大している。つまり、彼らをいらだたせる虚構なのだ。スイス人はもう自分たちを田舎者とも山の民とも考えてはいない。ハイディは感傷的な通俗作品(キッチョ)にほかならない」(訳文は「シャーリー・テンプル―わたしが育ったハリウッド 」より引用)

・しかし、そのような辛口の意見も、シャーリー・テンプルやハイジを、押しとどめることはできません。

・1982年には、クマゴロー(Yogi Bear)やフリント・ストーンを作ったハンナバーバラ社製作の、「Heidi's Song」というミュージカル・アニメーションの映画が作られました。


・ハイジは、特にテレビで人気がありました。

・若き日のナタリー・ウッド(「理由なき反抗」1955や「ウエスト・サイド物語」1961に出演した女優1938〜1981)は、1955年に人気脚本家ニールサイモンの「カラーミュージカル」でクララを演じた。

しかし、もっとも「悪名」高いのは、1968年にマイケル・レッドグレーブ(イギリス映画界の重鎮)が「おじいさん」を演じた週間テレビシリーズです。(NBC TELEVISION SPECIAL)

 ジーン・シモンズ(「ハウルの動く城」英語版吹き替えも担当)がロッテンマイヤーを、マクシミリアン・シェルがクララの父のゼーゼマンを、ジュリー・アンドリュース(サウンドオブミュージックの主演女優)の継娘(ジェニファー・エドワーズ)がハイジを演じました。
(テレビ番組としては大変な豪華キャスト番組)
(音楽を担当したのはジョン・ウィリアムスで、この作品でエミー賞
Emmy Awardを獲得した)

 この番組が放送されたのは、日曜日の午後でした。
 前の番組は、アメリカンフットボールのオークランドレイダーズ(カルフォルニア州)(前年度AFLチャンピオンで第二回スーパーボールで敗退)の試合で、最後(の9秒)でタッチダウンを二回達成して、ニューヨークジェッツを破ったのですが、最後の二分を放送しないでハイジを始めてしまったのです。

 フットボールファンは激怒し、コメディアンは数週間、ハイジを冗談のネタにしました。
 ワシントン・ポストのコラムニスト アートバック・ウォルドは、「ハイジの友達たち」と題して提案しました。
 「これは、ハイジの名声を守るためだけではない。しかしフットボールの試合を短くするようNBCに圧力をかけることになるだろう」
(この「ハイジ・ゲーム事件」をきっかけに、プログラムの遅れによる番組変更の対応がTVネットワーク各局によってはじめられた)


 おそらく、スピリのキャラクターを使ったアメリカでもっとも「おかしな」例は、1989年の冒険物語「カレッジ・マウンテン(アルプスを越えて)」でしょう。リンク

 ハイジの続編として作られ、成長したペーターをチャーリー・シーンが、ハイジの女学校での新しい先生をレースリ・キャノン(「巴里のアメリカ人」などに出演したフランス出身のミュージカルスター)が演じました。



 ほとんどのヨハンナ・スピリの子供向け作品が、アメリカで出版されました。
 しかし、どの作品もハイジのようには、受け入れられませんでした。

 1924年のハイジの本の序文で、アデリーンB.ツァッヘルトは、

「モニ(やぎかいの)は、ハイジと同じくらい、よく知られるようになりましたし、
 『リコとウィーゼリ』(小さなバイオリンひき)は、ハイジやモニを知っている幸せな子ども達によって熱心に読まれています。
 最近では、『グリトリの子ども達』『コルネリの幸福』『バラのレースリ』など、お日様のような子ども達が私たちの友達となりました。
 スピリ夫人は私たちのために、明るく、真にせまった、スイスのアルプスでの子ども達の物語を作り出したのです。」

 しかし、ツァッヘルトの言葉は、誇張でした。ハイジ以外の作品は忘れ去られたのです。

 スピリの児童書のいくつかは、いまだに英語に翻訳されていません。
 そして、アメリカのほとんどの人は、それらの作品を知りません。
 いまでは、他の作品はアメリカで出版されてはいません。
 
 しかしながら、ハイジは、アメリカに最初に登場したときから、『古典』として扱われました。