ということば……(74) 謙虚と誇り  8/26/08
 大江健三郎さんが朝日新聞に「定義集」という記事を月1回くらいのペースで連載しています。言葉を深く吟味する大江さんの姿勢を、ぼくは見習いたいと思っているのです。この「定義」という言葉がいい。
 何かの言葉に出会うとき、その定義は何だろうと考えることがあります。もちろんまず辞書を引くのですが、それだけじゃなくて、辞書的意味よりもう少し哲学的に・文学的に見てみたい、あるいは遊んでみたい、と思うことがあるわけです。
 下に紹介するのは、ぼくが自分で考えたというか、見つけ出した定義。
 「謙虚さとは、世界とその中の自分の位置を知ろうと努める姿勢である。誇りとは、世界のどこに位置していても自分の価値は変わらないと思えることである。」
 さらに、英語でも作ってみました。日本語からの訳ではなく、英語らしいリズムを考えて少しニュアンスを変えています。
 Humility is to keep learning what the world is and where you are in the world.
Pride is to keep believing that your worth never changes wherever you are in the world.
 ややもすれば謙虚さはただの処世術に、誇りはただの自己陶酔に堕する傾向があるように思え、じゃあ、この言葉の意味は何なのだろうと折に触れ思いめぐらし、ある日こんなふうにまとまったのです。この定義、誰かには共感してもらえるでしょうか。

ということば……(73) 逆さま厳禁  12/18
 先週、田舎から荷物が送られてきたのですが、その包装紙に「逆さま厳禁」というシールが貼られていました。中に崩れやすいお菓子が入っていたからですが、こういう言葉のシールを見たのは初めてでした。従来なら「天地無用」ですよね。
 しかし、ふと気づきました。「天地無用」では意味が分からない配達人が増えているんじゃないか? 数ヶ月前にテレビで、若い社員の日本語教育をする企業が増えている、と言うニュースをやっていました。そうしないとマニュアルが読めないからだそうです。
 少し前にぼくは『祖国とは国語』という藤原正彦さんの本を読みましたが、すべての学問や文化の基礎は国語(日本なら日本語)であるという意見にぼくは賛同します。数学も基本は言語力であると藤原さんは主張していて、英語教育だの何だの言う前に国語教育を徹底しなければいけないとおっしゃっています。「天地無用」の言葉さえわからなくなってきたのだとしたら、空恐ろしい話です。いや、今さら、そんなことにさえ驚いていては生きていけないくらい、状況は深刻なのかも知れません。
 天気予報で「宵の口」が使われなくなったのは今年の秋のこと。使わないから、わからないからという理由で、伝えることもしなくなったら、文化というものは確実に衰退するばかりでしょう。伝統に価値を見出さなくなったのは戦後の日本社会の大きな流れであり、同時に大きな失敗でもあったと思います。ぼくの世代がそんな風に育ってきたのです。今60代の戦後生まれの人たちは若い人たちをどうこう言う前に、そのことについてもう少し自責の念を持った方がいいかも知れない。
 中身のない今年の流行語なんかを追いかけている暇があるのなら、マスメディアも、いい日本語を普段から使い続けてほしいと思うのですが、もはやマスメディアに期待している時代でもないような気がします。一番確かな方法は、一般市民がまともな日本語を使い続けることでしょう。

ということば……(72) 廃墟――吉岡忍さんの記事から  4/24
 先日「ごあいさつごあいさつ」で、ノンフィクションを立て続けに読んでいるとお話ししましたが、『さよなら、サイレント・ネイビー』の他には『〈宮崎勤〉を探して』『心にナイフをしのばせて』でした。重いテーマばかりで、あれこれ考えさせられたのですが、そしたら先週、アメリカと日本で、拳銃による殺人事件が発生。何と言ったらいいか、現実は相変わらず重い。しかも、読んだ本の内容と関連するような事件だったので、いろんな思いが頭の中でスパークしてました。
 19日付朝日新聞のオピニオン欄で、作家の吉岡忍さんが長崎市長銃撃事件に関して、「私たちの正気が試される」という題で意見を提出していました。心に刻まれるいい文章だったので、印象に残った部分を紹介します。当たり前のことですが、本当は全文を読むのが一番いいんですけどね。  
 記事は「廃墟」という言葉を手がかりに始まります。吉岡さんは銃撃事件を知って、世の中が壊れていくと思った、と書き、続いて次のように今の社会を描くのです。ちょっと長くなりますが、引用します。
「まずそこは、キラキラと明るいにちがいない。人間たちは、自分以外のことは考えたがらない。あれを食べたい、これを着たい、この人が好き、あれもこれもしなくちゃ、と少し忙しく、少し幸福だ。しかし、自分の忙しさや快適さや幸せの邪魔になるものについては、おそろしく不寛容だろう。無視する、キレる、あるいはひょっとして殺すかもしれない。明るくて、無知。忙しくて、攻撃的。快適で、不寛容。幸福で、暴力的。そんな人間たちがあふれかえった社会。それが、私が思い描く廃墟のイメージである」
 吉岡さんは、幼女連続殺人事件(宮崎勤の事件)や酒鬼薔薇事件、さらにイラク戦争を始めたアメリカのことなどを語りながら、無知と攻撃性、不寛容と暴力が世界中にはびこっていることを指摘しています。印象的な表現は終わりの方にもう一度出てきます。
「繰り返せば、その薄い表面を明るさと忙しさ、快適さとちょっとした幸せが覆い、飾っている」
 この繰り返しが心の琴線に触れるのです。そのことにわたしたちはどれだけ気づいているか。つまり怖いのは、廃墟をつくり出している一見フツーの人たちの多くが、社会の崩壊を自分にかかわることとして考えたり感じたり行動することはないだろうということです。おそらく何かが起こったとき、他者と痛みを共有することもなく(自分が身内と思っているごく少数の人たちだけには共感できるのだけれど)、自分が責任の一端を担っていることなど想像もせず、正義と権利を主張し続ける。そして世の中は相変わらず「明るさと忙しさ、快適さとちょっとした幸せ」で覆われ、飾られつづけるのです。

 最後に吉岡さんは「明るい廃墟は人間の生きる場所ではない。どこのだれが行使するのであれ、武力と暴力にノーを言い続ける、私たちの正気が試されている」と記事を結んでいます。  

 世の中は深刻なほどに崩れてきている。そう、ぼくも感じます。でも、今ならまだ修復できるのではないか。今の日本なら、とも思っています。

ということば……(71)  文明と文化  1/24/07
 先日またひとつ、いい言葉を見つけました。大林宣彦監督の言葉。
「どっかにもっといいことがないかなあと探しにいくことが文明で、ここにこんないいものがあることに気づくことが文化だ」
 これはお正月に放映されたNHKの特別番組での発言だそうです。あいにくぼくは見ていませんが、番組に登場した加藤登紀子さんがアスパラクラブの連載エッセイ「加藤登紀子の時間泥棒」の中で取り上げていました。
 このアスパラクラブというのは朝日新聞の無料会員制サービスで、ぼくは2年ほど前から入っています。もっぱらポイント稼ぎと懸賞目的で
毎日訪れるのですが、面白い記事もいくつかあります。その中でぼくが一番気に入っているのが、去年の秋に始まった「加藤登紀子の時間泥棒」。
 文章はさらにこう続いています。

 もうひとりのゲスト内橋克人さんも、「マネーが社会を支配する、ノーコントロールの政策がこのまま進めば、おそらく私たちは想像以上の地獄を経験することになるでしょうが、自立した人々の自主的な活動が唯一の希望」と。「自然の中から得られるものをお金の価値に変えている限り、私たちはグローバリズムのマーケットの奴隷になってしまう。何とか、農的価値を都市の人々とのパートナーシップで支えて行かなければ、」というのが私(注:加藤さんのこと)の意見。

 文明と文化の違いをきちっと認識している人は意外に少ないのかも知れません。文化の大切さをもっと心に留めたいものです。今は文化に対して無関心な人が多すぎるような気がするから。と、これはぼくの感想。

ということば……A(1〜15) B(16〜29) C(30〜45)  D(46〜53)  E(54〜60)
F(60〜70)

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