ということば……(70) Run,
Forest, run! 11/16
いじめについて思い出した言葉の一つ。まず逃げよう、ってこと。
これはぼくの大好きな映画「フォレスト・ガンプ」(1994年)に出てくるセリフです。主人公フォレストの少年時代のエピソード。主人公の少年、フォレストは少し知的発達が遅れているし、おまけに足にギブスをはめているから、普通の子と違っているというので、数人の悪ガキたちの格好のいじめの対象になるのです。その悪ガキたちにいじめられそうになるとき、フォレストと一緒にいた友達の少女、ジェニーが叫ぶのです。
"Run, Forest, run!" 「逃げて、フォレスト!」
新聞の映画評か何かで誰かが、この言葉は、この映画のテーマである、というようなことを言っていました。そのコメントがとても印象的でぼくは今でも良く覚えているのです。フォレストは成長してからベトナム戦争に行ったときも、戦火の中を親友を抱えて逃げ惑います。一般にアメリカでは、悪者や困難な状況に立ち向かい闘うのがヒーローと思われているから、その意味ではフォレストはアンチ・ヒーローなのです。全然かっこよくない。
彼にとって走ることは、逃げる、あるいはただ走ることでしかありません。でも彼は、現状から走り出すことで新しい状況を切り開きます。というより、走っているうちに意図せずに新しい状況が生まれ、そこにフォレストは身を任せるのです。逃げることに肯定的な意味をこの映画は持たせています。
ぼくたちはみんな、逃げ出したくなるときがある。その時はためらわずに逃げればいいんだと思います。逃げたところにまた何か別のものがあります。
と、こんな風に書いていたら、17日付け朝日新聞朝刊に「いじめられている君へ」というシリーズ記事で、作家の鴻上尚史さんが「逃げて、逃げて」という文章を寄せていました。同じような主張です。逃げればいいんだ、と。ぼくもそう思います。まずは逃げること。
ということば……(69) ひとりでいることのできない者は…… 11/14
今わたしたちの国に蔓延しているいじめと自殺のニュースを聞いて、思い起こす言葉があります。
「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。……(中略)……しかし、その逆の命題もまた真である。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。」
これはディートリッヒ・ボンヘッファーという、第二次世界大戦中にナチに抵抗して、刑死したドイツの神学者・牧師の言葉です。キリスト教に関心のある人以外、知っている人はあまり多くないかも知れません。
ぼくは今から四半世紀前、洗礼を受けて間もないころにこの人のことを知りました。友人の神学生がボンヘッファーのこの言葉を紹介してくれたのです。
聞いた瞬間に、これは本当だと思い、深く心に刻み込まれました。人間の本質を鋭く言い当てている言葉です。さっそく、この言葉が載っている『共に生きる生活』を買って読みました。本は、キリスト者の生活を神学的に考察しているものなので、それこそキリスト教に関心のない人は敬遠するかも知れません。でもキリスト教のことを知らなくても、あるいは好きじゃなくても、この言葉は誰もが真実だと思うのではないでしょうか。
一人になれない人はしょせん健全な交わりを形成することもできない。そしてそんな人たちが徒党を組んで、弱い一人を攻撃する。それが多くのいじめの現実です。
高2の娘からクラスの様子を聞いていても、孤独と交わりの歪みを感じます。幸い娘のクラスにはいじめはないようですが、人間関係の大変さは聞いていてちょっと気の毒になることがあります。まあ、ぼくの若い頃だって似たようなものでしたが、今はずっとせちがらくなっている分、困難を乗り越える智慧を意識して身につける必要がありそうです。というか、今の子どもたちはゲームやケータイに時間をとられて本を読まないから(ぼくの若いころ以上に)、こういう智慧を身につける機会さえ自分で放棄しているようなところがあるんだけど。
このボンヘッファーの言葉が、いじめ問題の本質を探り、解決する(応急処置には無理だけど、長期的な予防策として)鍵になるんじゃないかと、ぼくは思っているのです。人が、豊かな孤独と豊かな交わりを持てるようになれば、もうちょっといじめや自殺は減るに違いありません。いじめられているときの応急処置にはならないけど、そうなる前のもっと長期的な予防策として、この言葉は基礎体力(基礎精神力とでも言いましょうか)のようなものになるのではないか。
こんなにたくさんの若者が次々と自殺に追い込まれるなんて言う今の状況は、どう考えても異常です。日本人の精神がどんどんひ弱になっているのではないかと、自分のことも含めて、案じられます。くじけない、へこたれない精神を身につけましょうよ。
今こそ、ボンヘッファーを。
いじめでもうひとつ、思い出した言葉がありました。映画「フォレスト・ガンプ」の中の "Run, Forest, run!"
です。これは次回に。
ということば……(68) いじめから生き延びるために 11/7
いじめとそれが原因の自殺……なんでこうも立て続けに起きるのでしょう。深刻な状況なのだろうと思うけれど、それにしてはあまりにも簡単に命を絶ってしまっているのでは? この話題はさらっと流せないから、つい避けたくなるのだけど、でも見過ごしもできないなあと感じています。
ぼくの小学時代や中学時代にもいじめやからかい、暴力事件はしょっちゅうありました。ぼく自身は、深刻ないじめを受けたことはないけれど、乱暴な奴にからまれたことはときどきあります。あ、大人になってからもいじめはあったな。ま、その話は今はやめておきましょう。要するに昔も今も、子どもの世界も大人の世界も、悪いこと・いやなことはいくらでもあると言うことですよ。
ただ、30年前のあの頃、少なくともぼくのまわりで、いじめが原因で自殺した友達はいなかったし、テレビや新聞でそういうニュースを聞いた覚えもほとんどありません。しかし統計上は結構な数があったらしいので、報道をしなかっただけのような気もしますが。それからあのころと比べて、その内容や性格が陰湿でしつこくなってきているような印象は、子どもたちから現場の話を聞いていてもある程度わかります。
こういうニュースを聞いていて思うのは、子どもも大人も、いじめからどう生き延びるか、をもっと考えた方がいいだろうということです。確かにいじめは良くないし、いじめがここまで蔓延しているのは、今の子どもたち・大人たちの心がいかにすさんでいるか、ということの現れなのだろうけれど、いじめられる本人とまわりの人たち(特に家族)が、いじめに負けないような(自殺なんて言う最悪の結果を招かないような)生き方を身につけていく必要があるんじゃないか。
たとえて言えば、自分に過失がない場合の交通事故のようなもので、自分の方が正しいと主張しても、受けた傷が消えるわけではない。ぼくたちの生活の中では、自分に非はなくても犠牲になることがいくらでもあるのです。だから、傷つけられてしまったのなら、少しでもその傷が広がらないように、深くならないようにしなければいけないし、あるいはその前の段階で、傷つかないように予防する手だてを打っていかなければいけないと思うのです。実際に2人の子供を持つ親として、自分だったらどうするか、とぼくは考えます。ぼく自身もいじめで自殺はしたくないし、子どもに自殺されるのはなお悲惨。取り返しのつかないことになってからでは、あれこれ考えたって遅すぎますからね。
結論としては、日ごろの地道な生き方によって決まっていくだろう、ということなのだけど、その対処法はどこか生活習慣病への対策にも似たところがありそうです。ぼくなりの予防策の一つは、読書と自然を生活に取り入れることですが、うーん、やっぱりこの問題は話し始めると長くなってしまうのだ。続きは次回に、ということにしましょう。
ということば……(67) Demanding
10/14
買ったばかりのケータイで、笑っちゃう表示を見つけました。着信メール問い合わせの画面中央に「Demanding」の文字が。おいおい、偉そうにこんなふうに言って、いったいこのケータイは何様なんだ?
画面を作った人は「新着メールを要求しています」と表したかったのでしょう。おそらく和英辞典で「要求する」の項目を見て、最初にDemandって出てたから何も考えずにそのまま使ったんでしょうね。でも、辞書をよく見て欲しい。この言葉は「権利として、権威を持って、強制的に有無を言わさず
」というニュアンスがあるのです。アメリカ製のケータイ画面がどのように表示されているのか、実例を見たことがないのではっきりは言えませんが、ふつう常識的に考えて、ここはRequesting
とすべきでは。
メールの問い合わせごときにいちいちこんな言葉が画面に現れちゃかないませんよ、まったく。まるでぼくが警察か何かみたい。ああ、また日本人の笑える英語が……。こんな変な画面いやだから、別の画面にとっかえようと思ってあれこれトライしましたが、ぼくの機種はどうやらできないと言うことがわかりました。子どもにもやってもらったけど、無理そうと言ってるから、間違いない。
まあ、これもケータイのジョークのひとつなんだと思って楽しむことにしよう。
ということば……(66) 禍福はあざなえる縄のごとし
10/5
中年を過ぎると、故事成語やことわざをしみじみと味わえてしまうのだなあと思います。この「禍福はあざなえる縄のごとし」っていうのもそのひとつ。中学か高校のころに国語で習ったものですよね。当時は、ふーん、なるほどね、で終わっていたのですが、この歳になると「まったくそのとおりだ」と感じてしまうんです。
手元に『ことわざの読本』(小学館編)というのがあります。古今東西のことわざと故事成語が解説されている、なかなか面白い本です。この本で「禍福は〜」を調べると、次のような説明になっています。「わざわいが福になるかと思えば、逆に福がわざわいのもとになったりして、この世の幸不幸は、なわをより合わせたように表裏をなしているものだの意。」確かに学校でもこんなふうに教わったような気がします。そしてこれに相当する故事成語としては「人間万事塞翁が馬」が必ず挙げられます。
「塞翁が馬」についてはあとで触れるとして、「禍福は〜」に関するこの解説はちょっと違うのじゃないか、と思いました。そしてこのことわざは意外に奥深いんじゃないかと。そこで今度は新明解国語辞典(三省堂)を引くと、こういう解説。「人生は、わざわいとしあわせとを縄のようにより合わせて出来ているものだというたとえ」――こちらの方がことわざの正しい解釈になっています。
え、同じじゃないかって? いやいや、違いますよ。どこが違うかというと、災いと福はスイッチのONとOFFのように切り替わって現れるものではないのです。ところが読本の解説や、わたしたちの今までの理解は、そういう勘違いをしていたのではないか(それともぼくだけか?)。幸不幸は表裏一体でもあるけれど、いつも同時に混在しているのものです。ある時はすべて幸福で別の時はすべて不幸、というふうに代わる代わる訪れるものではなく、
いつも毎日の生活の中に同居しているわけです。ラッキーなこと、心地よいことが続いていても、片づかない問題は常にある。だからこそ「あざなえる縄のごとし」なのです。深くからみ合っている。(ところで、もし誰かが、自分は100%幸福だとか、100%不幸だとか本気で信じているとしたら、要注意。そんな考え方しかできないのだとしたら、まわりの人たちにかなり迷惑をかけているはず。)
しかし突っ込んで考えれば、幸不幸は相対的なものだし、割合や解釈の問題でしかないような気がします。今はちょっと不幸が優っている(6割か7割か)けれども、その中にもいいことはたくさんある。そして、もしかすると将来は幸福の方が優るかも知れない。また、災いに思えることが実は福(あるいはその原因)であり、福に見えるものが実は災い(あるいはその原因)であるなんてことは、わたしたちはしょっちゅう経験しています。
その真理をうまく表しているのが「塞翁が馬」。これについて、読本では次のような面白いコメントが書いてありました。「
日本では、幸不幸の予測がつかないのだからあまり気にせず生きていこう、というニュアンスが強い。あちら(中国)では、「塞翁が馬を失っても、それがどうして福でないとわかるでしょう」と表現されることが多い。福の方を強調した見方なのである。塞翁に関しても、将来を見通すことのできる有能な人物と見ている。」これは新発見でした。
ということば……(65) Imagine
再考 2/11/06
トリノ・オリンピック開会式を途中から見ていたら(生ではなく再放送)、F1の車が出てきて、ずいぶんアメリカっぽい演出だなあと思いました。そしたら今度はオノヨーコが出てきたのでビックリ。しかもそのあとジョン・レノンの「イマジン」をピーター・ガブリエルが歌い始めて、ますますびっくり。どうしてここまでアメリカっぽくしちゃうのか、残念でした(厳密に言うと、ジョンもピーター・ガブリエルもイギリス出身なのですが、ここでは文化的性格を指します)。
アテネ大会の開会式ような感動がまったくないのです。あとで娘から、この開会式の演出はバルセロナ大会やシドニー大会を手がけた人なんだと聞いて、納得しました。なーるほど。でも何で?イタリアに優秀なディレクターはいないの?イタリアの文化は素晴らしいんだから、もっと独自性を打ち出せばよかたのに。
注:夜の再々放送で式の最初から見ましたが、全体的に散漫な感じで、驚きもありませんでした。欽ちゃんの仮装大賞みたいなのもあったしね。
と、まあそんなことも気になってしまいますが、ここでの話題は、その「イマジン」。
この歌はすっかり手垢がついて、平和運動のテーマ曲のようになっています。映画でもこの歌を使うと、なんだかいっぱしのメッセージ性を備えているような印象を与えます。「キリングフィールド」の最後にも流れました(映画そのものはなかなかよかったな)。平和を愛する人たちの讃美歌のようになったこの歌に文句を言うと、間違いなく非難の声があがりそうですが、でも今日はちょっとだけこの歌について、ここ数年、あれ変だなと心に引っかかっていることを書いてみたいと思います。
ぼくもこの歌は若い頃とても好きだったのです。この歌だけではなくて、ジョン・レノンの歌はどれもだいたい好きで、ビートルズの中で一番共感を持っていた人物でした。シンプルなメッセージとメロディーは心に訴えるものを持っていて、そこが、才に長けたエンタテイナーのポールよりも人気がある所以だと思います。
生き方も含めたシンプルさがジョンの魅力なんだけど、では彼のメッセージはどこまで力を持つのかと言うと、この年代になって言えるのは、若いころに思ったほどには真実性はなくて、結局はあくまでも歌の世界にとどまるものでしかないのだ、ということです。
ジョンは「想像してごらん、天国も地獄もない世界を」と言います。音楽評論家の渋谷陽一さんはアルバムの解説に「想像することの大切さを僕たちに教えてくれる」というようなことを書いていました。所有も宗教も国もなく、ただ今日のために生きる――そんな世界を想像する。そうすることで少しでも平和の世界を作り上げていくことができる。ほんとうにそうだなあ、と昔は思いました。
でもこの歌って、ちょっと突っ込んでみると、何かを語っているようで実は何も語っていないんだなあということがわかってきたのです。人々を誘うだけ誘っておいて、あとはほったらかし。今ふうの言葉を使うなら、この詩にはアカウンタビリティー(Accountability)
がない。だったら、メッセージソングじゃなくて、あくまでも自分の独り言としての詩にした方が良かったかも知れない。
たとえば、宗教や国は確かに争いの種でもありますが、それを悪と仮定して排除し、ではそれに代わる何があるかというと、ジョンは何ら希望の材料を提示していません。詩が論理である必要はないけど、彼の言葉には、内部に負の要素を抱えた人間とか社会への深い洞察力がなく、単純な、子どものような無邪気さ(本来の意味のナイーブさ)しかないのです。まあ、そこが彼の魅力なんだろうだけど。結局「イマジン」の詩は、人をどこにも連れていけない。
ジョン自身が自分の言ってることを実行できなかったことで、詩の未熟さは証明されています。「所有がないことを想像してみて」と言いながら、あの莫大な財産を手放そうとはしなかったのだから。It's
easy if you try. では決してなかったと言うことです。
つまりあのメッセージはどこまでも非現実的な世界でしかないということなのだと思います。まるで『世界に一つだけの花』みたいですね。素敵に聞こえる言葉がちりばめられているけれど、何の力にもならない。この歌を聴いたり歌ったりして、若い人たちがほんの少しの間、ある種の連帯感や高揚感を持つことはできるだろうけど、そこまでの役割しかないのです。
若干神格化されたジョンをこんな風に批判すると、夢と希望を失ったオヤジのぼやきだと言われるかも知れません。でも、むしろこの歳で「イマジン」を本気で信じていたら、そちらの方がアブナイと言う気がするのですが。
ということば……(64) 素敵な詩と誤訳 10/4
いい詩をひとつ紹介します。アメリカでは広く知られているそうです。ぼくも数年前、アメリカ人の友人
から教えてもらいました。
A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED
I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...
I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...
I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...
I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...
I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...
I got nothing that I asked for -- but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!
Author unknown
[意味を伝えるための拙訳]
苦しんだ人たちのための信条
わたしは神に強さを求めた、物事を成し遂げるために
わたしは弱くされた、従うことを謙虚に学ぶために
健康を求めた、より偉大なことをするために
病を与えられた、より良いことをするために
富を求めた、幸せになるために
貧しさを与えられた、賢くなるために
権力を求めた、人々の賞賛を得るために
弱さを与えられた、神を必要としていることを感じるために
すべてを求めた、人生を楽しむために
命を与えられた、すべてを楽しむために
私の求めたものは何も得られなかった しかし、願っていたものはすべて得られた
私の思いとはうらはらに、口にしなかった祈りはすべて答えられた
私はすべての人の中で、もっとも祝福された人間だ
……いい詩でしょう。南北戦争の無名の兵士が作ったと伝えられていて、ニューヨークのリハビリセンターの壁に掲げられているそうです。苦しい状況にあるときにこの詩を思い出すと励まされます。
さて問題はここから。日本語訳についてちょっと考えてみたいのです。この詩の訳を本や雑誌で見たことがあり、またインターネット上でもいくつか見ることができますが、どの訳にも、一か所どう考えても誤訳になっている部分があります。
最後から2行目の "almost despite myself" です。これをみなさん「神の御心に添わないわたしであるのに」という意味で解釈している。なぜこんな訳になるのか。英和辞典だけを使っていると犯しやすい間違いかも知れません。
Longman Dictionary of Contemporary English を見てみました。despite の項にdespite
yourself という熟語の見出しがあって、こう説明されています。If you do something despite yourself,
you do it although you did not intend to: つまり、despite yourself/myself
とは「自分は意図しなかったのに」という意味です。「神の御心に添わない自分であるのに」という意味はどこにもありません。前後の文脈からこういう解釈をするのも、無理があるのではないでしょうか。
一つの言語を別の言語に訳すときに、ニュアンスや意味を正確に移し替えることはもちろん不可能ですが、もともとない意味を付け加えるのは避けるべきです。
中学高校の英語の授業で despite = にもかかわらず、と習ったものだから、そこから「こんな私にもかかわらず」と連想しちゃうのでしょうね。さらにぼくの推測では、日本でこの詩はまずキリスト教の世界で広がっているのではないかと思うのですが、訳者がキリスト者だと、どうしても「神の御心に添わない自分であるのに」と解釈したくなってしまうのでしょう。そういう先入観で詩を読むから。
「神の御心に添わない自分であるのに」という表現は非常にキリスト教的で、それ自体はまったく正しい考え方なのですが、この詩にあてはめるのはキリスト者の陥りがちな思考パターンから来るものだと思います。轍(わだち)ができてしまっているわけです。それがこの詩を通俗的な「泣かせる詩」にしてしまっている。でももし読者がその部分に感動するのだとしたら、それは本物じゃないものに感動しているということになる。危ないですね。この表現は素直に「自分の思いではなく」という意味に解釈する方が、よほど健全です。
そんな些細なことどうでもいいんじゃない、と言う人がいるかも知れませんが、意外にこういったことって大事なんですよ。
まあ、誰にも思考の轍はあるし、言葉や話というものは、いつもこんな風にどこかが誤って伝えられていくものですけどね。それについてはまた今度。
ということば……(63) 想定の範囲内 3/30
いい言葉ですね。これは今年の流行語大賞にしてもいいと思う。去年の「チョー気持ちいい」よりずっといいですよ。ぼくはホリエモンに対してはつい批判的なコメントになってしまうのですが、このセリフは気に入っています。何にでも使えて、励みになる。どんなことが起きても、「あ、それは想定の範囲内」と言えばすごく気持ちが楽になりますよね。
もっとも、この言葉はホリエモン個人の言葉とは言えないようです。立花隆氏によれば、今回のニッポン放送株買収に関してはホリエモンのバックで、村上氏やリーマンブラザーズの弁護士たちなど、かなりの大がかりな力が働いたと言います。株や買収のエキスパートたちがあらゆるケースを想定し尽くして、買収に踏み切ったと言うことだから、「想定の範囲内」というのはホリエモン個人の想定ではなく、その背後にいるブレインたちの想定というわけです。
ま、どっちにしたって、これは敵に余裕を見せるためのセリフ。使いこなしたいものです。
ということば……(62) 堤さんの予言 3/4
堤義明氏の逮捕はお昼からどのチャンネルでも報じていましたが、NHKニュース10で、なかなか面白い映像がありました。堤氏が若い頃の(おそらく40代と思われる)インタビューです。こんなことを言っています。「波に乗っていた人が、60代、70代になって急にがっくり衰えてくると言うのを私は見ていますね」その表情からは、自分はそうはならないぞ、という自信と確信があふれていたのですが、思わず笑ってしまいました。自分の未来をあまりに的確に予言した言葉だったから。
さらにもう一つ、たぶん同じインタビューの中の言葉だと思います。「人をだますのは一度はできるかも知れない。でも二度三度やったら必ずばれますよ。だから人をだましてはいけない。」
スタッフはよくこの映像を探し出してきたものです。秀逸の選択・編集でした。
ということば……(61) 「ファ」は遠い道
1/16/05
ブロードウェイ版の『サウンド・オブ・ミュージック』を家族で見ました。このミュージカルを最初に見たのは中学3年の時(1970年)。「ドレミの歌」「エーデルワイス」の歌詞を一所懸命覚えました。それ以来この作品は、ぼくの中で生き続けています。結構口ずさむことが多く、数年前からは他の曲の歌詞も覚え始めています。いつも歌っているから、今回も懐かしさではなく、いつもの友人に「お、また会ったね」というような感覚でした。で、またすてきな話を聞かせてもらって……。
アメリカの役者と楽団による生の舞台は、ひと味違った感動を与えてくれます。映画とは設定や曲目がいくつか異なっていて、全体では映画の方がほんの少し良かったかなと思いましたが、ほとんど甲乙つけがたい出来です。舞台ならではの良さも随所にあり、特に最後のコンクールの場面は、その最たるものでした。そのことをお話しいたします。
ナチスの勢力がオーストリアに及び、フォン・トラップ大佐のところにも召集令状が来るのですが、大佐は家族とともに音楽コンクールに出場するからと言って、数日の猶予を求めます。するとナチの兵士が、では私の前で歌ってみろ、と言います(この設定は映画にはありません)。主人公たちは「ドレミの歌」を歌い始めます。みなさんおなじみの歌ですが、これはもちろん英語では英語の言葉遊びになっています。DoはDoeで雌鹿、ReはRayで光線、というふうに。
この歌のファの部分の歌詞は次のようなものです。"Far, a long long way to run. "
Far, つまり遠いという意味ですね。ぼくは今までごくふつうの意味でこの歌詞を歌っていましたが、この場面でこの言葉は全く違った意味合いを帯びるのです。つまりa
long long
way to run
はここではこの一家がオーストリアから亡命する長い道のり、を暗示するわけです。この歌詞をトラップ大佐が歌った直後に舞台は暗転、一気にコンクールの場面へと移り、彼らの歌声はソ以降の歌詞につながっていきます。そしてわたしたち観客が見ている実際の舞台がそのまま劇における舞台をも表す、という仕掛けです。これは驚きであり感動でした。こういうところが舞台劇の醍醐味なのです。
本も映画も音楽も絵画も、あらゆる名作は繰り返し見るたびに(読むたび聴くたびに)新たな発見があります。この作品もその一つです。演劇的効果とともに、言葉の深い意味をまた一つ学ぶことができました。
劇場から出たとき、外は寒い雨が降り続けていましたが、頭の中ではこの作品の名曲の数々が流れ、ぼくは家族とともに感動の余韻に浸っていたのでした。
ということば……A(1〜15) B(16〜29) C(30〜45)
D(46〜53)
E(54〜60)
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