ということば……(45) ナイーブとnaive
2/18
ぼくは時々、自分のことを何てnaiveな人間なんだろう、と思います。自分で自分をほめているのではありません。あざわらっているのです。
日本語の「あの人はナイーブだ」という表現は、一種のほめ言葉のようなニュアンスがあります。こう言われて怒る人はあまりいない。
「繊細な、純真な」というような意味で使われます。「オヤジ」はその対極にあるイメージ。
でもこの原語となるnaive(フランス語から英語に入った)はいい意味ではありません。「世間知らずの、だまされやすい、単純な」と、けなして使うのが普通です。naive――Longman
のDictionary of Contemporary
English では次のように解説されています。「人生がどんなに複雑かを知る経験がないために、人を信用しすぎて、よいことがいつも起きると信じてしまう」
この定義は実にわかりやすいでしょう。ナットクって感じですよね。
このニュアンスの違いを知ったのはかなり前ですが、その違いがどこから来るのか、ふと考えを巡らしました。その背景には日本と欧米の文化の違いがあるのかもしれない。「成熟したおとなの文化が育たない、子ども天国の日本」ということを時々聞きますが、そういうことがこの違いにも現れているのでしょうか?
欧米にも例えばピーターパンのような「大人になりたくない」文化は存在しますね。それに今のアメリカなんかは、naiveではないかも知れないが、幼稚な一面がある。物事をめちゃくちゃ単純化して決めつけているから。
この子どもは、腕力だけはあるからちょっと手に負えない。だから一概に欧米が大人の文化、日本は子どもの文化と決めつけることはできません。ただ、一口に「大人になる」「大人の文化」と言っても、内容は文化圏によってずいぶん違うということをこのごろすごく感じるのです。
今の日本人が、ほんとうの意味での成熟を目指して、それに向かって生きていく努力をしているか、と問えば、答えはNoですね。そんな訓練はあまり行われていないし、意識も乏しいでしょう。だから社会で自立して生きていけない。個人は自立することなく、常に集団の庇護のもとに生きるように社会全体がし向けている。
李英伊(イヨンイ)という韓国人の東京特派員が最近、日本について「神の国」というキーワードで朝日新聞に次のようなことを書いていました。「『神のルール』に従い、『集団』のために働く。その代わり、個人の生活と安全を保障してもらう。それが80年代の経済大国を実現した原動力ではなかったか。」
正しい指摘です。こんな構造だからこそ、人はナイーブであることが称賛されたりするわけですよ。個人も社会も誰かに守られることを期待して(例えば日本はアメリカに守ってもらうことを期待して)、子どもであり続けることを是とする風潮が、どうもぼくたちの国にはありそう。でもね、いつまでもそれではやっていけないのですよ。世界はとっくに、そして今の日本も間違いなく、そんな時代に突入しているのです。
だからぼくは、もうnaiveであってはいけない。……なーんて宣言しても、やっぱり相変わらずnaiveなんだなあ。あーあ。
ということば……(44) 記憶の検索 2/4
人の名前を思い出すとき、みなさんはどんなふうにしてますか?
ぼくは10年以上前に、人の名前を思い出せなくなり、愕然とした覚えがあります。まだ30代半ばでした。いよいよボケが始まったか? 恐怖に襲われて、以来、ものや人の名前を記憶したり思い出すために、かなり努力しています。日常生活で起こった小さなことでもなるべく覚えるようにしたり(といってもそこにはある程度の取捨選択があるのだけれど)、百人一首を覚えるのもその一つ。それから大切なのが、日本語でも外国語でも、語彙を減らさないように努めること。「あれ」「それ」といった代名詞で片づけないで、話すときも書くときも、なるべく適切な表現を見つけるようにする。
さて、人の名前を思い出すことですが、この「思い出す」作業が意外に楽しいことを発見しました。有名人でも身近な人でも誰でもいい。顔は思い出すけれど名前が出てこない。そこで必死に探し始めるのですが、それはまるでコンピュータで検索をかけるような感じです。
ぼくがよくやるのは、アイウエオ順に名前を言ってみること。外国人ならABC順。この時、おもしろいことに気づきます。
ずっと声に出してひとつづつ言っていくと、「この人の顔は、こんな音の名前とはしっくりこない」という感覚があるのです。思い出そうとしているとき、脳のどこかの神経細胞が遠く反応しているのでしょう。「この人はラ行の音が入っていたような気がする」そう思って、その辺をつついていると、突然、ピーンとヒットするのですね。それで思い出したときの快感はなかなかのもので、結構クセになったりします。
でもいつもその勘が当たるとは限らない。最近では、イギリスの映画監督、リドリー・スコット(Ridley Scott)の名前がどうしても思い出せませんでした。Dで始まる名前のような気がしてずっと探してていたのですが、わからずじまい。とうとう降参してインターネットか何かで調べたら、見当はずれだったことがわかり、がっかりしました。
今度勝敗表でもつけ始めようかな。老化との戦い。スリリングなゲームかも知れません。
ということば……(43) 拉致とアベック 2/1
去年あたり、拉致問題がクローズアップされるようになってから、にわかに復活した言葉が「アベック」です。フランス語のavec(英語のwith
にあたる)から来ています。日本語では一組の男女をさすというのは誰でも知っていることですね。でも今はこの表現、日常生活では使わないでしょう。復活したといっても、あくまで拉致問題の中だけ。今は「カップル」かな。いや、若い人たちの間ではそれも死語になっているかも知れません(何しろ、日本では言葉と町並みの変化は、やたらめまぐるしいから)。
25年ほど前の事件を伝えるニュースでも、北朝鮮問題を解説する識者も、当時の言葉をそのままひっぱり出してきているところが、たいへん興味深い。確かに、ぼくたちより上の世代には「アベック」の方が似合います。「カップル」では違和感がある。言葉(特に外来語)が時代と強く結びついていることを知らされます。拉致問題を取り上げるとき、きっと誰もそんなことを意識したわけではないでしょうが、暗黙のうちにこの言葉を選んだのだと思います。
それにしても、新しい概念として入ってくる外国語は、今やほとんど英語。文化の領域なら、イタリア語やスペイン語も最近は流行っているけど、フランス語はなぜかレトロのイメージなんだよなあ。
ということば……(42)
驚く 1/9/03
6日(月)にテレビで『燃えよドラゴン』を見ました。子どもたちと一緒に。映画史上燦然と輝くB級アクション・ムービーの傑作。この映画の衝撃が今なお生き続けていることは、去年『少林サッカー』が流行ったことでもわかります。同じく70年代前半に公開された『ダーティー・ハリー』が、拳銃の撃ち方の概念をひっくり返したように、ブルース・リーは、武道のイメージを完璧に変えました。
その歴史的意義を子どもたちに話すのだけど、受け取り方に明らかな世代の差を感じました。一番決定的な差は、子どもたちに「驚きがない」ということです。
まあ、それはそうだろうなあ。リアルタイムじゃないから。順序が逆転しているのです。「ほんと『ライオン・キング』のラフィキじいさん(マントヒヒのキャラ)そっくりだ」と言う。違うって。ブルース・リーの方がオリジナルなの。
子どもたちは確かにアクションシーンを楽しんでいたけど、それはいつも見ているアニメやゲームと同質のものでしかない。Deja vu (既視感)でしかモノを捕らえられなくなっている。「こんなの今まで見たこと(経験したこと)ない」という感覚がないのです。
わが家は決してモノがあふれている家庭ではありませんが、もう世代全体がモノの豊かさにどっぷりとつかっているということですね。個人あるいは社会全体の成長とそれに伴う発見や創造のプロセスが、熟成期間や順序を踏んで生じるものではなくなってしまったということでしょうか。
あらゆるものがすでに自分たちのまわりにある(ような気がする)。そこには「驚き」が生まれてきません。驚く経験が少ないと、驚く能力も次第に衰えてしまいます。驚きがないところには哲学も生まれないし、創造力も生まれない。
お正月映画では『ハリー・ポッター』が子どもたちに人気ですが、今度聞いてみようと思うのは、ただ何となくすごいとかダニエル・ラドクリフくんがかっこいいとかでなく、驚きがあるとすればどんなところか、ということ。CGだけに関して言えば、ぼくが驚いたのは『ターミネーター2』か『ジュラシック・パーク』あたりが最後だったような気がします。
でも、驚くべきことは世界にはまだまだたくさんあるはず。さーて、今年は子どもと一緒に何に驚こうか。
ということば……(41)「つらいよ」常例
12/26
前回話題に取り上げた「雪国はつらいよ条例」の後日談。もうご存じの方もいるでしょうが、誤記を逆手にとって中里村では「雪国はつらいよ」「農山村はつらいよ」「都会はつらいよ」など3部門で、ユーモアのある常例(条例ではない)を募集するのだとか。
いいことですね。ぼくの予想どおり、誤表記によって認知度が逆に高まったわけです。今度の事件をユーモアとして受け止められる人がちゃんといたというところに希望が持てます。人生や世の中を良くしていくのは、こういう柔軟なユーモア精神。くそまじめは社会の迷惑になることが結構あります。ぼくの思考も時々くそまじめのせいで動脈硬化を引き起こしそうになることがあります。その危機から救ってくれるのが、子どもの頃から親しんできたマンガの精神です。
サトウサンペイさんが、ユーモアとは何か、という問いに「自分の家が火事で燃えているのを笑って眺める精神」と答えたそうですが、見事な定義ですね。これがなかなかできないんです。
さて、この常例、応募しますか? 優秀作は特産物がもらえるみたいですよ。
ということば……(40)
雪国はつらいよ条例 12/18
笑っちゃいました。教科書にとんでもない誤表記が見つかったんだそうです。教科書大手出版社東京書籍が発行している中学の公民教科書で、新潟県中里村の「雪国はつらつ条例」を「雪国はつらいよ条例」と掲載しちゃったんだとか。
出版社の人は「単純ミスが……」と弁明しているそうですが、この誤植には単純ミス以上のものがありそうですね。ぼくも雪国出身。中里村ほどではないにしても、深い雪に埋もれた冬の生活は、「つらいよ」と言いたくなるときがありました。もしかすると誤植をした人も雪国出身で、つい潜在意識でこういう表現になったのだったりして。
教科書の取り上げ方に、雪国に対する差別意識があるとしたら、それは許されないでしょう。でも「雪国はつらいよ」は、なんだか寅さんが言ってるみたいで、ぼくはユーモアを感じるんだけどなあ。だいたい「雪国はつらつ条例」という表現、漢字の間に「はつらつ」という言葉だけがひらがなで書かれていると、読み間違えられても不思議はない。J-WAVEのアナウンサーも間違えてたよ。中里村の人たちは怒っているみたいだけど、今回の騒動で中里村が全国に関心を持ってもらえれば、災い転じて福となる、のでは。
ということば……(39)
パワハラ 12/12
今朝の朝日新聞に、パワハラに負けるなという記事が出ていました。パワーハラスメント:職務権限を使った嫌がらせのこと。ふーん、そんな言葉があるのか。「みんなの前でしかりつけ、上司より先に帰るなと怒鳴る」程度差はあれ、そういうの、いつの世にもあります。ぼくも経験しました。昔からあった事実でも、それに新しい言葉を与えることでわかった気になるかも知れないけど、じゃあそこから何を見つけ、何をするのか。
過労死や自殺などのニュースを聞くたびに思うのです。鬱病になってまで、あるいは死に追いやられるまで、そんな重荷をなぜ負い続けるのか。人それぞれ事情があるとは言っても、それじゃおしまいですよ。
この問題に対して、記事は残念ながら通り一遍の答しか載せていませんでした。それも識者の意見の引用。「(いじめの)悪循環を断ち切るには、みんながゆとりをもつことだ。」どんなゆとり?お金?時間?そこをしっかりつっこんでほしい。で、ぼくはこう言います。日ごろからできるだけ心と能力のAlternative(別
の選択肢)を持つように鍛えておこうよ、と。「ゆとり」がその意味なら賛成です。でも「日ごろから」というのが肝心なんだけど。
ということば……(38) 人の意見に従わないこと 12/8
ノーベル賞の田中耕一さんの話題、続き。授賞式のため、ストックホルム入りした田中さんは記者会見の中で、若者へ向けての言葉を聞かれ「失敗しても躊躇しないこと。他人の意見に従わないこと」と答えたとか。ほんと、いい言葉だなあ。近頃ぼくが痛感していることをズバリと言ってくれました。そしてそれを実行してきたからこそ、この人はノーベル賞級の仕事ができたのです。
しかしこの言葉は要注意。こんなふうに考えて実行できるようになるためには、正しい判断力と修練が必要です。それがなければただのわがままでしかない。
……と、分別くさい人は言うのだろうけれど、もう一度ここで「しかし」を言いたい。日本社会がこれまで、組織の中で従順であることを美徳として、暗黙のうちに強制してきたことの弊害を考えるなら(それは決して古来からの慣習ではなく明治以降に仕組まれたものらしいけれど)、ぼくたちはもっともっと「人の意見に従わない」ことを積極的に押し進めていいのではないでしょうか。ただしほんとうの賢さと勇気を備えての不従順という意味で。
ということば……(37) 人生に必要なものは、○○、○○、○○?
11/27
先日、兄からチャップリンの『ライムライト』に出てくる有名なセリフの原文を確かめてほしい、という依頼がありました。「人生に必要なものは〜」のあとに続く言葉ですが、正解は「勇気と想像力と少々のお金」。ビデオを借りてきて聞き取りをしました。主人公はこう言います。Yes,
life is wonderful, if you're not afraid of it. All it needs is courage,
imagination, and a little dough. いい言葉ですね。
ビデオを借りて来る前にインターネットで調べたら、おもしろいことを発見。いくつかの日本人サイトでこの名セリフが紹介されているのですが、少しずつ違っているんです。「希望と勇気と少しのお金」「愛と勇気と少しのお金」「勇気と行動力とお金が少し」インターネット上の情報(特に個人サイト)が信頼性に欠けていることをよく示しています。みなさん、こういうものはちゃんと確かめてから引用しましょう。と、ぼく自身も自戒。
ということば……(36)
S30系 11/14
昭和30年代がブームなんだそうです。S30系という名前までついている。お台場には30年代を模した商店街が最近できたし(ぼくはまだ行ってない)、テレビCMでも昔懐かしの映像がこのごろ目につきます。ぼくは昭和31年生まれ。この時代を直接体験して育ったので、こういうのを見ると、ノスタルジーを感じます。でも、ブームについては、やや距離を置きたい。
テレビでは昭和30年代を、高度経済成長期を迎え、日本全体が元気だったころ、なんて解説してましたが、それが公害を始め多くのマイナス面を生み出したのも事実です。文化にしても、ただレトロだからいいというわけでもない。ヘンなのも結構多かったからね。良かったものとヘンだったものをしっかり見極める目をもって、30年代を振り返る、というのが正常なあり方のような気がします。……なーんて言ってるけど、そんなぼくもエイトマンシールに心躍り、月光仮面は前奏つきで3番まですべて歌えてしまうという、30年代文化が体に染みついた人間ではあるのです。
ということば……(35)
コーヒー豆とフェア・トレード 11/7
ぼくはコーヒーがなくては生きていけません。朝8時と午後3時の2回、大きなカップ(普通の2杯分)で飲むのが習慣になっています。ブラックで。以前はスターバックスが好きで、ここの豆を買っていたのですが、値段の割には粒がそろっていないのでやめました。それに、店ではラテだのモカだのマキアートだのと、ミルクやクリーム入りばかりが主流で、普通のコーヒーが飲めないのもちょっと不満(この点、タリーズも同じ)。ドトールと違って、店内禁煙なのはいいけど。
ぼくが現在利用しているのは、生協の21世紀コーヒーと、先日リンクしたナマケモノ倶楽部の・スロー・コーヒー。どちらもおいしい豆を扱っています。生協は安いし、ナマケモノ倶楽部は豆の生産者を守るフェア・トレードのポリシーで運営をしています。フェア・トレード……経済のあり方を問い直すキー・ワードです。ぜひナマケモノ倶楽部のホームページにお立ち寄り下さい。
ということば……(34)
脳
プロブレム! 10/31
先月、脳を扱った一般向けの本を2冊(『話を聞かない男〜』『海馬』)ご紹介しましたが、どちらもベストセラー。人間に興味がある人は、脳にも興味を持つでしょうね。関連本はたくさん出ているし、テレビでもよく取り上げられます。現代人は、思考や行動のパターンを脳の構造で説明されると、納得してしまう部分があるわけです。
つい先日、『記憶がウソをつく!』(養老孟司、古舘伊知郎/著、扶桑社)という本が出版されました。記憶という観点から脳の問題を追求しています。対談形式というところが、『海馬』の二匹目のドジョウっぽいのですが、読んでみようと思います。
鬱病や統合失調症などの精神疾患も、脳に作用する薬でかなり解決できるみたいだし、「心とは脳の活動している状態を指す」と言われると、ふーん、人間って何だろう、と改めて問い直したくなります。でもそれは、困ってしまうというより、好奇心がさらに沸いてくるからです。
ということば……(33) 24年間、俺は俺なりにやってきたんだ 10/24
拉致事件は重い課題をぼくたちに突きつけています。被害者はみんなぼくの世代。
23日付朝日新聞に、犠牲者の一人、蓮池さんと友人の議論が報道されていました。友人たちが北朝鮮のおかしいところを指摘すると、蓮池さんが「24年間、俺は俺なりにやってきたんだ。それを無駄だったというのか。洗脳する気か」と反論したそうです。北朝鮮のやっていることはぼくにもとてもまともとは思えませんが、この言葉には他人ごとではない切実さが感じられます。
日本では今、会社ぐるみの偽装工作が次々と明るみに出て責任が追及されています。あるいは倒産で自殺した人も数知れず。会社のために人生を犠牲にして来た人間が、外の世界の人から「おまえの会社がやっていることはおかしい」と言われたら、同じ言葉を吐くのではないでしょうか。蓮池さんの問題は対岸の火事ではないのです。ぼくたちのまわりに「プチ蓮池さん」はいくらでもいます。
ということば……(32) 蝶と蛾(3)
9/26
大学時代、フランス語の授業で、ある助教授がこんなことを話していました。蝶と蛾という二つの言葉があるのは、概念が二つに分類されているということ。フランス語ではどちらもpapillon
(パピヨン)で、図鑑でも両方が一緒くたに掲載されている(と、うれしそうに語っていました)。
これは確か、科学が言葉に影響されるということを説明する例であったように記憶しています。でもこのトピックスの最初に言いましたように、日本語の蝶と蛾の区別は科学上の問題ではなく、気分的なものです。それは、昆虫学者の矢島稔さんが『蝶を育てるアリ』の中で指摘しています。英語でもbutterflyとmothの二つに分かれているけど、どういう区別なのでしょう。
いったん蝶と蛾の区別や偏見を取り払って眺めると、蛾も美しいのです。スズメガなんてほんとにかわいいですよ。もしかすると、そんなふうにして新たに発見する美しさ・面白さ・正しさが、他にもたくさんあるかも知れません。
(この項おわり)
ということば……(31) 蝶と蛾(2)
9/19
ぼくはオオミズアオを最初に見たとき、確かに美しいと感じました。それなのになぜ、図鑑で蛾だとわかったときにがっかりしたのか。シェークスピアではありませんが、どんな名前で呼ばれようともバラ(この場合はオオミズアオ)の美しさに変わりはないはずです。
感覚が鈍くなると、自分で判断せず、借り物の言葉で定義づけして安心しようとします。また、言葉から喚起される安易なイメージによって自分の感覚をゆがめてしまうこともあります。この二つの貧困な結びつきが、真実を見えなくさせてしまうのです。ぼくがやったのはこれでした。もっと自分自身の感覚を大切にしなければ。
でも、実はこれが難しい。日ごろからの訓練が必要なのですね。そうじゃないと、何が美しいとか正しいとか、自信をもって言えない。自分の感覚を大切にすることが、自分勝手な思い込みになってしまってもいけないわけだし。
(つづく)
ということば……(30) 蝶と蛾(1) 9/5/02
蝶と蛾を例に、言葉と価値判断について、今週から3回に分けてお話しします。
10数年前、軽井沢駅のプラットフォームで、それまで見たことのない美しい蝶らしきものを見つけました。大きな水色の羽を持ち、羽の縁に茶色の線が入っています。しばらくの間、見とれていました。
帰宅後、図鑑で調べたら、オオミズアオという蛾だということがわかりました。そのときぼくは、蝶ではなく蛾だと知って、少しがっかりしてしまいました。蝶の方が蛾よりも美しいもの、という固定観念が心のどこかにあったからです。でもその後いろんな昆虫に接しているうちに、それは大きな偏見であることがわかってきました。
実際には、蝶と蛾の区別 は明確ではないのだそうです。一般に蝶の特徴と言われるものを蛾が持っていたり、また逆のこともあります。じゃあ、なぜ蝶ならきれいで、蛾だと気持悪いと言うのか? 蛾は気持悪いもの。頭からそう決めつけてしまっているからではないでしょうか? 気持悪いと感じさせる蛾はいるかも知れませんが、蛾が全部気持悪いのではないのです。
ということば……A(1〜15)
B(16〜29)
D(46〜)
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