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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 に 』。

 No.0233。

 

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□ 日本史 辞典 (総合)

□       ● 事柄順。

〇 にい  新島 八重 (にいじま やえ)

          (= 山本八重)。

          (1845年〜1932年) 。

          ○ 幕末のジャンヌ・ダルク。

          ○ 会津藩士の娘。

          ○ 幕末、女ガンマン、銃の名手。

          ○ 明治期、新島襄(じょう)夫人、

          教育・社会福祉で活躍。   

〇 にい  新島八重 関連出来事

       (年代順・詳細)

 

 

□ 日本史 辞典 の 「 に 」 基本見出し語サイト

  の先頭ページへ。   

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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#ni

 

#niijimayae

 

■ 新島 八重 

   (にいじま やえ) 

   (= 山本 八重)。

 

■ 新島 八重。

■ 生没年 : 1845年〜1932年。

■ 名称 : 新島 八重 (にいじま やえ)。 

● 初め、山本八重(やまもとやえ)、後に、新島

  八重 (新島八重子) と称す。

■ 幕末のジャンヌ・ダルク。

■ 会津藩士・山本権八  (やまもとごんぱち)

  の娘。

■ 幕末会津戦争で、 女ガンマン、銃の名手

  として活躍。

 明治期に、新島襄(にいじまじょう、現・同

  志社大学の創立者)夫人となり、また、教

  育や社会福祉で活躍する。    

 

□ 新島八重 関連出来事

   (年代順・詳細)

□ 新島八重 が登場する、面白く、

  興味深い、ドラマ、映画、ドキュメ

  ンタリー

 

   

■ 新島 八重 (にいじま やえ)は、 生没年は

  1845年〜1932年で、 氏名は、初め、山

  本八重(やまもとやえ)で、後に、新島八重と 

  称す。

 

■ 新島 八重は、 会津藩士・山本権八(やまもと

  ごんぱち)の娘で、 幕末、 八重は、会津戦争

  で、 女ガンマン、銃の名手として活躍する。

 明治期に、 新島 八重は、新島襄(にいじまじ

  ょう、現・同志社大学の創立者)夫人となり、

  また、教育や社会福祉で活躍する。    

     八重は、 明治期に、夫の新島襄と共 に

  同志社の創立、経営に奔走(ほんそう)し、夫・

  新島襄の死後、日本赤十字社の看護士として

  も活躍する。

 

■ 新島 八重は、 力自慢で、 男勝りな女性で

  あった。

    八重は、 幕末会津戦争で、女ガンマン、

  銃の名手として活躍し、後に、「幕末のジャン

  ヌ・ダルク」 と呼ばれる。

    1868年(慶応4年、明治元年)の8月から

  9月まで、 会津若松城篭城戦(あいづわかま

  つじょうろうじょうせん)で、 断髪・男装し、銃

  を手に奮戦する。

 

■ 新島 八重 (生没年:1845年〜1932年)

  1番目の夫は、 川崎尚之助  (かわさき しょう

  のすけ、八重と尚之助の婚儀(結婚)期間:18

  65〜71年) であり、 八重の2番目の夫は、 

  新島襄 (にいじまじょう 、八重との結婚期間:

  1876年〜90年) である。

 

■ 新島 八重の氏名。

■ 八重の氏名は、 初め、山本八重、 後に、

  島 襄(じょう)と結婚後、 新島 八重(にいじま

  やえ)  となる。

 新島 八重の一族名(氏・名字)は、山本(や

  まもと)、新島(にいじま)で、 個人名(名)は、

  八重 (やえ) である。

 (注意) 前近代日本では、夫婦別姓 

   前近代日本の人名)。

■ (注意) 前近代日本の女性は、 夫婦別姓。 

● 前近代日本の女性は、 1872年(明治5年)

  1月施行の壬申戸籍(じんしんこせき)までは、 

  夫婦別姓 である。 

● 前近代日本では、 日本の女性は、明治5年

  (1872年)1月施行の壬申戸籍(じんしんこせ

  き)まで 父 の氏(名字)を一生持ち、 婚儀を

  結んでも(結婚しても)夫婦別姓で、 夫の氏

  (名字)を称さず。

● 明治5年(1872年)1月の戸籍法施行(壬申

  (じんしん)戸籍)まで、 前近代日本の女性は、 

  婚儀(結婚)後も、 実家の一族名(氏・名字、

  (例)山本)を保持(所持)し、 婚家の夫の一

  族名(氏・名字、(例)1番目の夫の川崎)を称

  さず。 

 (注意) 前近代日本 の女性は、個人名で自

  他呼称。

● 前近代日本の女性は、 父 の一族名の氏(名

  字)を所持していたが、 慣習で、通常、個人名

  のみで自他呼称した。

● 前近代日本では 、日本の女性は、 父の一族

  名の氏(名字、(例)山本)を持っていたが、 

  習で、通常、個人名((例)八重)のみで、自他呼

  称した。

 

■ 八重の家族。

    八重の父は、 山本権八(やまもとごんぱ

  ち)で、 会津藩士で、 会津藩の砲術 指南

  役(砲術師範)であった。 また、山本家は、

  代々会津藩で砲術を担(にな)う家柄であっ

  た。

    八重の兄弟は、 兄の山本覚馬(やまもと

  かくま) と 弟の山本三郎(やまもとさぶろ

  う) であった。 仲のよい兄弟姉妹であった。

  

■ 八重(山本八重)は、会津藩の、会津若松

  に住み、会津戦争前に、山本家の隣にある

  伊東家の男子に銃を教えていた。 その男

  子は、 伊東悌次郎 (いとうていじろう)で、 

  後に飯盛山(いいもりやま)で自害した、白

  虎隊隊士の一人である。

 

 

■ 八重の最初の夫は、 川崎尚之助 (かわさき

   しょうのすけ、八重と尚之助の婚儀(結婚)期

  間:1865〜71年) である。  

      川崎尚之助(生没年:1836〜75年) は、 

  但馬出石藩(たじまいずしはん)の他藩出身者

  で、 会津藩で (会津藩校・日新館で)、 蘭学

  (らんがく 、洋学(西洋諸学問))を教えていた。 

     八重の兄・山本覚馬 (やまもとかくま)は、

  尚之助の蘭学仲間であった。 八重は、兄・山

  本覚馬の紹介で尚之助と知り合い、 1865年

  に、 と婚儀を結んだ(結婚した)。 川崎尚之

  助との間に実子はなかった。

 

■ 1868年(慶応4年)の鳥羽伏 見の戦い等の

  京都・大阪の戦いで、 八重の兄と弟は、旧幕

  府軍に味方し新政府軍と戦い、戦死する (兄

  は、捕虜となっていたことが後でわかる)。

    兄弟の戦死を知らされた、八重は、 新政

  府軍を恨(うら)み、 仇(かたき)をとるため、

  当時女の命(いのち)であった髪を切り、 死

  んだ兄弟と会津藩のため、 戦う意をし た。 

  川崎尚之助も、八重と一緒に、鶴岡城篭城戦

  に参加した。 そして、会津藩は、敗戦する。

 

■ 敗戦後、川崎尚之助は、 捕虜となり他の会

  津藩士と共に東京に移され、 そして、明治新

  政府は、会津松平家の家名再興を許し、川崎

  尚之助は、 他の会津藩士と共に会津藩の後

  身(廃藩後の立藩)の斗南藩(となみはん)に

  移る。 川崎尚之助は、 斗南藩の米の買い

  付けで、外国商人との米の取引で訴訟を起こ

  され、 東京で訴訟裁判に臨む。 そして、川

  崎尚之助は、 1871年(明治4年)に八重と

  離婚手続きをとる。 川崎尚之助は、 裁判中

  の東京で、 1875年(明治8年)3月に、 肺

  炎のため死去する。 

     従来の説では、八重は、会津戦争直前に、 

  他藩出身の夫・川崎尚之助を巻き添えにした

  くないため、 夫と離縁する。 だが、川崎尚之

  助は、会津藩を出ず、会津戦争に協力し、 18

  68年(慶応4年、明治元年)の会津戦争中、行

  き方知れずとなる  となっていた。

 

 会津戦争中、  会津若松の城下町 や若松城

  付近で、 新政府軍と会津軍との乱戦が続き、

  会津藩の銃の名手の山本八重(や まもとやえ、

  新島八重)は、銃を撃ちまくり、 応戦し、 明治

  新政府軍に打撃を与えた。  八重は、初め、ス

  ペンサー銃(新式銃)を使い、その後、旧式銃

  を使い、戦った。

    大山巌 (おおやまいわお、西郷隆盛の従

  兄弟(いとこ)、後の明治後期に日本陸軍元

  帥・大将、上野の西郷像を発案した人物) も、 

  会津戦争で兵士として参戦し、負傷する。

  

 八重は、明治期に、新島襄(じょう)と結婚し、

  また、教育と社会福祉で活躍する。    

     八重は、 新島襄(にいじまじょう、1843

  〜90年と同志社 (現在の同志社大学)の設

  立、経営に奔走(ほんそう)する。 

     また、1890年(明治23年)の新島襄

  死後、八重は、 兄・山本覚馬と共に、同志社

  を支え、 また、八重は、日本赤十字社に加入

  し(日赤社員となり)、 日清戦争や日露戦争

  では、 篤志(とくし)看護婦として医療看護で

  活躍する。  

 

■ 八重の2番目の夫は、新島襄 (にいじまじ

  ょう)で、 同志社(現・同志社大学)の創立

  者 である。

    八重は、兄・山本覚馬が鳥羽伏見の戦い

  等の京都大阪の戦いで、戦死せず、生存し

  ていることを知り、喜ぶ。

    明治期に入ると、 兄・山本覚馬は、 京

  都で、 京都府顧問として活躍していた。 八

  重は、 会津戦争(1868年)後、 会津(あ

  いづ、福島県西部)から、 生存が確認された

  兄・山本覚馬を頼って、 兄・山本覚馬(かく

  ま)のいる京都に出る(移住する)。

    八重は、 京都で、 兄・山本覚馬の友人

  の新島襄と知り合い、 1876年(明治9年)に

  結婚する (八重との結婚期間:1876年〜

  90年)。  新島襄との間に実子はなかった。

    八重は、 新島襄の死後、 襄の門人達と

  そりが合わず、 次第に同志社とは疎遠にな

  っていった。

 

■ 新島八重は、 1932年(昭和7年)6月に死

  去する。 享年86歳であった。

     葬儀は、「同志社社葬」として行われ、多

  くの参列者があった。 墓所は、同志社共同墓

  地 (京都市左京区の京都市営若王子墓地内)

  にある。

 

 

#niijimayae-thehappenings

 

◆ 新島八重 関連出来事

  (年代順・詳細)。

 

■ 1845年12月に、 新島 八重 (にいじま や

  え、山本八重、1845年〜1932年)が、 会津

  士・山本権八  (やまもとごんぱち)の娘とし

  て、 生まれる。 

 

■ 1865年に、 山本八重(新島 八重)は、兄・

  山本覚馬(やまもとかくま)の紹介で尚之助と

  り合い、 川崎尚之助(やまもとしょうのすけ)と

  婚儀を結んだ(結婚した)。

    八重の最初の夫は、 川崎尚之助 (かわさ

  きしょうのすけ、八重と尚之助の婚儀(結婚)期

  間:1865〜71年) である。 八重と川崎尚之

  助との間に実子はなかった。

    八重の兄・山本覚馬 (やまもとかくま、182

  8〜92年)は、尚之助の蘭学仲間であった。 

  川崎尚之助(生没年:1836〜75年)は、 但

  馬出石藩(たじまいずしはん)の他藩出身者で、 

  会津藩 (会津藩校・日新館で)、 蘭学(らん

  がく 、洋学(西洋諸学問))を教えていた。 

     

■ 1868年(慶応4年、明治元年)の8月から9

  月まで、 山本八重(新島 八重)は、会津若松

  城篭城戦(あいづわかまつじょうろうじょうせん) 

  で、断髪・男装し、銃 を手に奮戦する。 そして、

  1868年9月に、会津藩は、新政府軍に敗戦

  する。

 

■ 1870年(明治3年)に、山本八重(新島 八重)

  の兄・山本覚馬(やまもとかくま)が、京都府顧

  問(1870〜77年)として、京都府政の指導を

  始める。

 

■ 1870年(明治3年)頃、 川崎尚之助に教えを

  受けた米沢藩士・内藤新一郎の世話で、山本八

  重(新島 八重)は、 約1年間、 米沢で過ごす。

 

■ 1871年(明治4年)10月に、山本八重(新島

  八重)は、 京都府顧問となっていた、実兄・山

  本覚馬を頼って上洛する。

 

■ 1871年(明治4年)に八重の1番目の夫の川

  崎尚之助は、 八重と離婚手続きをとり、 八重

  と尚之助は、離婚する。 

 

■ 1872年(明治5年)4月に、山本八重(新島

  八重)は、 実兄・山本覚馬の推薦により、 京

  都女紅場(きょうとじょこうば、後の京都府立第

  一高等女学校)の教師 (権舎長・教道試補)

  になる。 機織(はたお)りなどを教える。

     京都女紅場で茶道教授として勤務してい

  た裏千家の千宗室(円能斎)の母と知り合い、

  その後、茶道に親しむようになる。

     また、京都女紅場の講師として勤務してい

  た華道家元池坊の家元の池坊専正と知り合い、

  その後、華道に親しむようになる。

 

■ 1873年(明治6年)に、 日本で、キリスト教

  の禁止令が解かれる。

 

■ 1874年(明治7年)11月に、 新島襄が、日 

  本に帰国する。

 

■ 1875年(明治8年)3月に、 川崎尚之助は、 

  裁判中の東京で、 肺炎のため死去する。

 

■ 1875年(明治8年)の夏に、山本八重(新島

  八重)は、 新島襄との運命の出会いを果たす。

 

■ 1875年(明治8年)10月に、山本八重(新島

  八重)は、 兄・山本覚馬の友人で兄の元に出

  入りし、キリスト教主義の学校建設を志していた、

  新島襄と婚約する。 

    京都の僧侶・神官は、京都でのキリスト教

  義の学校建設を阻止しようと京都府に圧力をか

  けていたため、 京都府は、婚約直後に、山本

  八重(新島 八重)を、京都女紅場から解雇する。

 

■ 1875年(明治8年)11月に、 新島襄が、同

  志社英学校 (後の同志社大学)を、 京都に開

  校する。

 

■ 1876年(明治9年)1月に、 山本八重(新島

  八重)は、 京都でキリスト教の洗礼を受け、 キ

  リスト教式の結婚式を挙げ、 京都で、新島襄

  結婚する (八重との結婚期間:1876年 〜

  90年)。  

    新島八重は、洗礼を受け、新島襄と結婚後、

  洋髪、洋装をし、クリスチャンレディーと呼ばれ

  た。

     

■ 1877年(明治10年)に、新島八重の実兄・山

  本覚馬は、 京都府顧問を解かれる。

 

■ 1877年(明治10年)4月に、 新島襄や八重

  は、 同志社分校女紅場(どうししゃぶんこうじょ

  こうば、後の同志社女子大学) を開校する。

    八重は、同志社分校女紅場で、 礼法の教

  員となる。

 

■ 1878年(明治11年)9月に、京都府の丸太

  町に、新居(新島旧邸)が完成する。

 

■ 1879年(明治13年)に、 新島八重の実兄・

  山本覚馬は、 第1回京都府会選挙で、初代府

  会議員・初代議長(1879〜80年)に就任する。

  翌年に辞職し、同志社を軸に活動する。

 

■ 1885年(明治18年)に、 新島八重の実兄・

  山本覚馬は、 京都商工会議所会長に就任す

  る。 

   1885年(明治18年)に、 山本覚馬は、妻・

  時恵(ときえ)と共に、キリスト教の洗礼を受け、

  キリスト教徒となる。

 

■ 1887年(明治20年)に、日赤篤志看護婦人

  会(にっせきとくしかんごふじんかい)が組織さ

  れる。

    看護婦のイメージアップのため、皇族や華

  族の女性も参加した。

 

■ 1890年(明治23年)1月に、 八重の2番目

  の夫の新島襄が死去する。 

     新島 八重と新島襄との間に実子はいなか

  った。

     八重は、 新島襄の死後、 襄の門人達と

  そりが合わず、 次第に同志社とは疎遠にな

  っていった。

 

■ 1890年(明治23年)に、 新島八重の実兄・

  山本覚馬は、 新島襄の死去後、同志社臨時

  総長として、同志社の発展に尽力する。

 

■ 1890年(明治23年)4月に、 新島 八重は、

  日本赤十字社の正社員となる。

 

■ 1892年(明治25年)12月に、新島八重の

  実兄・山本覚馬が、 死去する。 

    覚馬の墓は、京都の若王子にある。

 

■ 1894年(明治27年)に、 新島八重は、裏

  千家の千宗室(円能斎)に入門する。 

     後に、新島八重は、千宗室(円能斎)直門

  の茶道家として、茶道教授の資格を取得し、茶

  名「新島宗竹」を授(さず)かり、 茶道教室を

  開く。

 

■ 1894年(明治27年)に日清戦争(1894〜

  95年)が勃発し、 新島 八重は、日清戦争時、

  1895年(明治28年)に、 広島の陸軍予備

  病院で、約4ヶ月間、 篤志看護婦(とくしか

  んごふ)として、傷病兵を看護し、活躍する。

    その後、看護学校の助教を務める。

     

■ 1904年(明治37年)に日露戦争(1904〜

  05年)が勃発し、 新島 八重は、日露戦争時、

  1905年(明治38年)に、大阪の陸軍予備病

  院で、約2ヶ月間、篤志看護婦として活躍する。

 

■ 1932年(昭和7年)6月に、 新島八重は、急

  性胆嚢炎(たんのうえん)で、京都の自宅で、

  死去する。 享年86歳であった。

     葬儀は、「同志社社葬」として行われ、多く

  の参列者があった。 墓所は、同志社共同墓地

  (京都市左京区の京都市営若王子墓地内) に

  ある。

 

 

#niijimayae-appearingscenes

 

♪♪ 新島八重 が登場する、面白く、

  興味深い、ドラマ、映画、ドキュメン

  タリー 。

 

★ 新島八重 が登場する、面白く、興

  味深い、ドキュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒスとリア 『 ‘‘ハン

  サムウーマン’’がゆく 新島八重 

  不屈の会津魂 』 

   (2013年(平成25年)1月9日本放送

  NHKテレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

■ 歴史秘話ヒスとリア 『 白虎隊 

  奇跡の生還劇 〜八重とともに

  戦った少年たち〜 』 

   (2013年(平成25年)1月16日本放送

  NHKテレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

★ 新島八重 が登場する、面白く、興

  味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら)  

  (NHK2013年大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代を描いた、ドラマ。

● 新島(山本)八重を演じる女優 : 綾瀬 はるか

  (あやせ はるか)。

 

    

   ○ ドラマ「八重の桜」の書籍販促PRフォト。

 

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