■ 面影
「ただいまぁ!!」
元気な声が玄関に響いた。
「おかえり、陽介。学校、楽しかった?」
陽介は小学校の3年生になった。
恥ずかしそうに微笑むふとしたしぐさが先生と重なることがあって倫子はドキッとすることがある。
「うん。今日ね、お昼休みに先生とキャッチボールしたんだ。先生、すごく上手なんだよ」
「よかったわね。でも、キャッチボールならお母さんだって上手よ!今度のお休みにやろうか?」
「だめだよ。お母さんの球は荒れ球でどこへ来るのかわかんないんだもん。僕はプロをめざしてんの。練習にならないよ。」
「プロ?この間までJリーガーだったじゃない。いつから変わったの?」
「今日から!・・・それでね、先生が・・・」
倫子は笑いながら、楽しそうに学校の様子を話す陽介を見つめながら思った。
(先生?やっぱり、このおしゃべりな所は私似ですか?)
あいかわらず心のなかで先生に問いかける自分がいる。
(そうだな・・・)
先生の静かな声が聞こえてくる気がしてしまう・・・。あれから何年もたつのに・・・。
倫子は相変わらず行田病院で働いている。母も協力してくれている。
何よりあの場所は直江先生が最後まで医者でいることにこだわった場所だから・・・先生がいつも空を見上げていた屋上のベンチ。
タバコを吸いながら見つめていた玄関前の噴水。
私が後ろからついていっていた渡り廊下。
先生はまだ生きていてフッとそこに現れそうな気がしてしまうのだ。
(僕はいつでも・・・君といっしょにいる。きみのそばにいるから・・・)
先生の言葉を繰り返し思い出しながら倫子は、何人もの患者さんと出会って、そして別れた。うれしいときも、つらいときも、先生のことを思い出して乗り越えてきた。
「そうだ、お母さん!これ、新しい担任の先生が渡してくれってさ」
陽介の明るい声に思い出から引き戻された。渡されたのは学校からの書類だった。
「授業参観のお知らせ」できれば出てやりたいけど・・・
また婦長にイヤな顔されるかしら?と倫子はちょっと気が重かった。
ま、仕方がない。仕事を持って子育てをしている以上はどんな仕事でもついてまわることだ。
「お母さん、無理しなくてもいいよ。先生には言っておくから」
陽介にいつものことだよ、という口調でサラリと言われてしまった。
「なんとか行けるようにするから」
気を使ってくれる陽介に、すまないと思いながら倫子は日程を確認するため書類を読んでいた。
「ねえ、陽介。担任の先生代わるって書いてあるけど藤沢先生どうしたの?」
「病気で入院するから代わるんだって、2枚目に書いてあるよ」
倫子はその見慣れない名前に目をやった。
今日の陽介のキャッチボールの相手はこの先生のことだったのだ。
そういえば藤沢先生はもうすぐ定年くらいの女性なのだった。
「藤沢先生、何のご病気なの?」
「知らない。だから当分、樋口先生が担任なんだってさ。」
陽介が台所で黙ってやかんをかけていた。
「こら、陽介。だめでしょ。ガスはいじらないの。いつも言ってるでしょ」
「大丈夫だよ。いつもおばあちゃんとやってるから」
あわてて台所に行ってみると、陽介はコーヒーとマグカップを出していた。
「お母さん、これから夜勤でしょ。眠くならないように僕がコーヒーいれてあげる」
「大丈夫?」
大丈夫だよ。僕、上手なんだよ、と眉を少しあげてすましたような表情をする。そのしぐさが直江先生と重なる。
棚に背伸びをしている小さな陽介が愛しかった。
直江先生もお母さんにしてあげたんだろうか。お父さんを亡くして一人でお姉さんと直江先生を育ててきた人。命日に伺うたびに子供の頃の先生の話を聞かせてくださる。目元が直江先生にとても似ている・・・。
最初に陽介を連れて行ったときは、小さな陽介を胸に抱いて
(庸介にそっくりね・・・)
そういってひときり泣いていらした。
「お母さん。また僕を見てお父さんのこと思い出していたでしょ」
父親の記憶などないはずなのに生意気に時々こんなことを言う。
「そうよ、陽介のお父さんのこと大好きだから」
「ふうん。僕よりも?」
いたずらっぽい顔で陽介が笑っている。何度も繰り返ししてきた会話だ。
「ふたりとも同じくらい大好きよ。」
直江先生だったらなんと答えるのだろう。
たぶん。少し笑って・・・黙って何も答えないかも。
「ただいま。」
母が仕事から帰ってきた。
あ、おばあちゃんだ!陽介がうれしそうに玄関に迎えに出た。
「おばあちゃん、おかえりなさい」
コーヒーを飲んだら出かけよう。陽介との楽しい時間は終わり。
(患者さんが待っていますものね。直江先生)
(そうだな・・・)
先生の声が聞こえる気がしてしまう。
あれは夢だったのか・・・。
陽介の3歳の誕生日・・・。ふいに思い出すことがある。
直江先生が私に会いに来てくれた・・・倫子はそう信じていた。
たとえ、夢だったとしても・・・。
大きくなるにつれ陽介は、友達とケンカするとよく一人で川原で考えるようになった。
自分のなかで納得できないことはたとえ、一番の友達のいうことでさえ寄せ付けないところもあって心配することもあるけれど、まわりの人の気持ちを思いやれる優しい子になった。
どんな道に進んだとしても、きっと直江先生のように強くてあったかくて優しい人になってくれる。そう信じている。
たとえ、見えなくても・・・
きっと先生はそばにいてくれるから・・・
私も陽介も・・・だいじょうぶです。
おわり
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