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終戦の日(戦後78年) |
2023年8月 82歳でこの日を迎える。 |
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昭和16年7月生まれ、終戦時4歳である。身を持って体験した世代とは云えないが、それなりに「知っている世代」、貴重な「戦前生まれ」となった。
・現在は「戦後」?、それとも「戦前」? ー田中角栄語録ー
「戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」
・ロシアとウクライナの戦争も既に1年を越えている。
・「第三次世界大戦はもう始まっている」(エマニュエル・トッド著)
・防衛予算は、あれよあれよという間に倍増?
・とにかく「勇ましい」ことをいう輩が増えている印象。
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終戦の日(戦後74年) |
2019年8月 78歳 |
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今夏長兄と会い「曖昧な記憶」を確認し合った。
・防空壕に避難
家の直ぐ裏に「防空壕」があり、確かに避難した。
・長岡空襲時、長岡方向の空が赤かった
7歳の兄は確かに見ていると。
・大きなB29を見上げた。
これも確か。
・障害を持った白装束姿が家の前を通る。
・上野駅の階段で見た「浮浪児」(差別語かな)
戦後父は、商売(薬屋)を始めるための調度品の調達のため、3人で東京
に出ている。
(満員列車への乗込み)(上野駅)(電車の揺れでモドシタ兄)
・「ソ連が攻めてくる」という大人の会話
状況を考えると、単なるウワサ話というより現実味のある恐怖もあった
のではないか。
・模擬原子爆弾(パンプキン)
「田んぼに落とされた爆弾跡の記憶」については、兄も記憶にあり、資
料をまとめファイルにしていたのには驚いた。
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終戦の日(戦後73年) |
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ー田中角栄語録ー
「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢になったときはとても危ない」
戦争を経験(体験)した世代は、80代、90代。今、そんな「きな臭い」時代になってきたよう。「勇ましい」ことをいう人達が増えてきたようだ。
終戦時は4歳。記憶にあるのは、「布を掛けた裸電灯」、「防空頭巾、防空壕」くらい。長岡空襲(8月2日)の時、「長岡(方向)の空が明るく見えた。」
これは間違いだろう。大人の話を聞き、自分に刷り込んだ。
田んぼに落とされた爆弾跡の記憶
父親の実家は「吉井」というところである。実家の裏は小高い山になり、ここに墓地がある。墓参り(多分、終戦の年か、翌年のお盆頃)に向かう山道で聞く、「あの田んぼに落とされた爆弾の穴跡がある。」
最近知った、あの爆弾は「模擬原子爆弾」(パンプキン)。
1945年7月24日(一説には26日)、柏崎市大字長崎に落とされたこの爆弾。
パンプキン爆弾とは、長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾(ファットマン)の模擬爆弾で、原爆投下の実践訓練として全国30ヶ所の都市に50発ほど投下されたという。
(紹介記事から)
「田んぼで棚草を採っていたら、越後線の汽車が走ってくる上空をB29が追いかけてきて、爆弾を投下した。ガラガラドーンと凄い音がした。手前に荒浜駅があり、電車は停車したが、アメリカ軍は駅があることを知らなくて、汽車が走ってくるであろう先に爆弾を投下した。どうも汽車には偉い人が乗っていたのではないか。この爆弾で数人死んだらしい。爆弾が落ちた地はしばらく大きい穴が開いていて見に行った。」と言っておりました。
またある人の話では、「当時、高町小学校で教師をしていたが、朝礼が終わった頃にガラガラドーンと大きな音がし、棚草を採っていた生徒のお母さんが亡くなった。」と話しておりました。
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改めて地図を確認してみる。
確かに、吉井地区の裏は山、投下場所の長崎は隣地区、そして越後線「荒浜駅」 |
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