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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
本居長世作曲の童謡
  い眼の人形   赤い靴    汽車ぽっぽ    十五夜お月さん 
通りゃんせ   七つの子  めえめえ小山羊
童謡・唱歌 事典 (編集中)



い眼の人形

作詞 野口雨情
作曲 本居長世

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008/12/20)





▲表紙絵 岡本帰一「樂しいXマス」

 【作曲時期】
 大正十年(1921年)十月、本居長世が作曲(小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謠曲集』春秋社、昭和五年発行による)。

 【発表誌】
 雑誌『金の船』大正十年十二月号 島崎藤村・有島生馬監修(東京  キンノツノ社)第三巻・第十二号(大正十年十二月一日発行)に発表。詩と楽譜 同時掲載
 目次のタイトルは「い眼の人形」で、詩のタイトルは「い目の人形」と なっている。
 詩のタイトルの次には(「金の船」藝術唱歌その二)と書いてあります。

 詩は 「い目」「セルロイト」「遣つとくれ」になっている。「仲よく遊んで 遣つ とくれ」は一回だけ書いてある。

 【タイトルについて】
 雨情の自筆原稿、長世の自筆楽譜、発表雑誌『金の船』、 楽譜ピース、本居長世著『金の星童謠曲譜第一輯 人買船』(金の星出版部、大正十一 年十一月十日発行)収録も「い目の人形」になっています。
 (註)初版の発行所は金の星出版部。まだ金の星社はない。金の星出版部により曲譜第一輯、第二輯を同日発行。金の星出版部は曲譜第一輯『人買船』、第二輯『一つお星さん』の再版、第三輯『い空』の初版発行(大正十二年一月)ののち大正十二年九月関東大震災で壊滅、その後は金の星社発行(金の船社は大正十二年一月金の星社と改称)。発行所は震災後金の星社に引き継がれている。曲譜第一輯、第二輯の初版及び再版、第三輯の初版の発行は金の星出版部

 【『金の船』の楽譜は、これだ】 おや?  
 よく見ると、四分の二拍子です。今歌われているのは四分の四拍子の楽譜です。
 タイトルは『い目の人形』。「セルロイト」が「セルロイド」になっています。「なかよくあそんでやっとくれ」が二回繰り返されています。
 さらに、「なんとしよう」、「じよつちやんよ」となっています。これは、雨情が長世に送った『い目の人形』の歌詞原稿がそうなっているからです。この野口雨情の直筆は、本居若葉さん所蔵。原稿は、『日本童謡の父 本居長世没後 50年記念コンサート』1995年11月11日(土)大和市中央文化会館のコンサートのプ ログラムで見る事ができます。掲載写真が小さいのですが、「嬢っちやんよ」の部分の漢字ルビは、「ぢよ」と読めます。


                           ▼雑誌『金の船』掲載の楽譜「い目の人形」
 

▲雑誌『金の船』(キンノツノ社)大正10年12月号掲載詩「い目の人形」。見事な挿画は岡本帰一

 【金の星童謠曲譜の検証】
 本居長世著『金の星童謠曲譜第一輯 人買船』本居長世作曲 野口雨情作謠(金の星出版部)大正十一年十一月十日初版発行に収録。
 大正十四年九月一日八版発行を見ると、楽譜は初出の『金の船』と全く同じ で、やはり四分の二拍子です。タイトルは「い目の人形」。「なんとしよう」 「じよつちやんよ」になっています。
 詩も「い目」のままですが、「セルロイ」が「セルロイド」に、「つと くれ」が「やつとくれ」に変わっています。「わたしは言葉がわからない」と、カギかっこの括り方が違っています。これは誤植でしょう。
 詩の方は「仲よく遊んで やつとくれ」は一回だけ。楽譜の方は二回繰り返す ように書いてあります。大正十四年九月一日八版発行は、国立音楽大学図書館で見る事ができます。 


▼『金の星
童謠曲譜
第一輯
人買船』
(金の星社)
本居長世
作曲 
野口雨情
作謠 

表紙

 【童謠集『い眼の人形』の検証】
 野口雨情著、童謠集『い眼の人形』(金の星社)大正十三年六月一日発行の際に『い眼の人形』として収録。奥付には、定價金壹圓八十錢 送料十五錢とある。
 初出の「い目」は「い眼」に、「セルロイト」は「セルロイド」に、「遣つとくれ」は「やつとくれ」に変えてあります。「仲よく遊んで やっとくれ」は一回だけ。本居長世が二回繰り返して作曲をしました。これは詩心がないとできない技で見事です。
青い眼の人形 表紙
[表紙] (装幀 蕗谷 虹兒)
青い眼の人形 扉

野口雨情・著 童謠集『い眼の人形』(金の星社)
大正13年6月初版発行   [扉]
青い眼の人形 口絵
[口絵] 寺内萬治郎
青い眼の人形 青い眼の人形



 【第二童謠集『い眼の人形』の広告】
 『金の星』(金の星社)大正十三年四月号に広告が掲載された。

▲『金の星』(金の星社)
大正十三年四月号
表紙絵「咲いた咲いた櫻」
寺内萬治郎
▲第二童謠集『い眼の人形』の広告
定價壹圓六拾錢、郵送料十五錢。
『金の星』大正十三年九月号の広告では
三版の定價は壹圓八拾錢に。
 広告に出ている詞
  
    い眼をしたお人形はアメリカ生れのセルロイド
    日本の港へついたとき
    一杯涙をうかべて
    「わたしは言葉がわからない
    迷ひ子になつたらなんとせう」
    やさしい日本の嬢ちゃんよ
    仲よく遊んでやつとくれ
    仲よく遊んでやつとくれ
    
     「い眼の人形」の出版に際して

童心性の欠けた藝術は、智識の藝術である。童謠の本質は智識の藝術ではない。
智識の藝術でないから直に兒童と握手が出來るのである。
兒童の生活は最も自由であり最も自然である。大なる自然は大なる藝術であると
同時に、あらゆる智識を超越して眞、善、美の世界の上に立ってゐる。
童謠が兒童の生活と一致し、眞、善、美の世界と一致するのも、童心性を有する
自然詩であるからである。
童謠は全く自然詩である。概念詩人の考ふる如き加工的美術品ではない。
童謠集『い眼の人形』は『十五夜お月さん』(大正九年發行)以後の作中から
八十篇を選擇して一巻とした私の第二童謠集である。(雨情)

 ●季刊『どうよう』18号(チャイルド本社)37ページで紹介されている『い眼の人形』の詩は、西條八十編『小學生全集第四十八巻 日本童謠集』(文藝春秋社/興文社)昭和二年八月発行の詩です。句読点がついている。一般読者が見た時、童謠集『い眼の人形』(大正十三年六月)収録の詩と勘違いされる可能性があります。なぜなら、詩と同じページの左下に童謠集『い眼の人形』(大正十三年六月)の表紙の写真が紹介されているからです。詩にも説明をきちんと書いてほしい。



西條八十編『小學生全集第四十八巻 日本童謠集』(文藝春秋社/興文社)
昭和二年八月発行  掲載詩「い眼の人形」

『日本童謠集』 扉絵  装丁・口絵は初山滋

西條八十編『小學生全集第四十八巻
 日本童謠集』(文藝春秋社/興文社)
昭和二年八月発行 表紙

  【野口雨情の自筆原稿】
 「い眼の人形」の自筆原稿は二種類遺されています。ひとつは野口雨情の息子の野口存彌氏所蔵のもの、もうひとつは作曲者・本居長世の娘の本居若葉氏所蔵のものです。
 
 <野口存彌氏所蔵の雨情自筆原稿(草稿)>
 これについては、藤田圭雄著『童謡の散歩道』 (日本国際童謡館、平成六年発行)に詳しく書いてあります。
  ・この草稿は、野口雨情の息子の野口存彌氏所蔵。藤田圭雄は写真のキャブションでは「自筆原稿」と記しているものの、文章中で「草稿」と称しているので、以下もこれを「草稿」と称する。
  ・赤い罫の四百字詰原稿用紙に毛筆で書かれている。
  ・無署名で、編集者の活字の指定がない。
  (雑誌社に渡すもう一つ手前の原稿で、これを清書して雑誌社に届けたのではないかとは、藤田圭雄の意見)。

                             ▼「セルロイト」となっている。

  <試行錯誤の跡>
  ・タイトル「い目の人形」。当初は「アメリカ人形」とあり、「アメリカ」を消して、「い目の」に直してある。
  ・一連「い目をした」「セルロイト」になっている。
  ・二連「涙を一杯」になっている。
  ・三連「わたしは言葉が わからない」「迷ひ子になつたら なんとせう」
  草稿では、二つのカッコで、二つの言葉になっている。「第一言葉がわからない」としていた「第一」を「わたしは」に変えた。
  ・三連目と四連目の間には、「お家の造りも 違つてる お衣裳の形も ちがつてる」と、一度書いた四行を消した苦心の跡が見える。
  ・四連「赤ちやんよ」「遣(や)っとくれ」

  <本居若葉氏所蔵の雨情自筆原稿>
 後日、雨情は作曲者の長世に歌詞原稿として送りました。
 この長世に送られた雨情自筆の歌詞原稿は本居若葉さん所蔵。
 『日本の童謡の父 本居長世 没後50年記念コンサート』のプロ グラムで見る事ができます(1995年11月11日(土)大和市中央文化会館)。
 写真が薄くて判読が難しいのですが、次のように読めます。実物は縦書きです。

    い目の人形
            野口雨情
   い目をした
   お人形は
   アメリカ生れの
   セルロイト

   日本の港へ
   着いたとき
   一杯涙を
   うかべてた

   「わたしは言葉が
   わからない
   迷ひ子になつたら
   何んとしよう」

   やさしい日本の
   嬢つちやんよ
   仲よく遊んで
   やつとくれ

  <草稿と長世に送った歌詞原稿の比較>
  ・タイトルは「い目の人形」で草稿と同じ。
  ・一連、「セルロイト」で草稿と同じ。
  ・二連、草稿では「涙を一杯」だが、「一杯涙を」になっている。
  ・三連、四行が一つのカッコでくくってある。草稿では二つのカッコで、二つの言葉になっている。
  草稿では「なんとせう」だが、「何んとしよう」になっている。 
  ・四連、草稿では「赤ちやん」だが、「嬢(ぢよ)つちゃん」になっている。
  草稿では「遣つとくれ」と漢字だったものが、「やつとくれ」と平仮名になっている。

  <初出楽譜が「ぢよつちやん」になっている理由>
 雨情から送られた、この歌詞原稿を見て長世が作曲をしたので、雑誌『金の船』の初出楽譜は「ぢよつちやん」になっているのです。研究者は、この歌詞原稿は必見です。

 【「セルロイト」藤田圭雄の考察】
 雑誌を見たときは「セルロイド」の誤植かと思いました。そのころの雑誌にはこの程度の誤植はよくありましたし、あまり気にしませんでした。しかし、この草稿を見ると、それは明らかに「ト」です。
 そういえば、セルロイドが日本に入ってきたのは明治の初年ですが、玩具などの材料として盛んに使われるようになったのは大正に入ってからです。デパートがデバート、エレヴェーターがエベレーターと言われたように、セルロイドもセルロイトと発音されていたのかもしれません。これも童謡集では、「セルロイド」になっています(藤田圭雄著『童謡の散歩道』(日本国際童謡館)より抜粋)。

 【詩と曲の成立】
 この詩は、雨情が実際に青い目の人形を見て書いたと思われていますが、そうではありません。 「・・・セルロイド製のキューピーさんを見て、キューピーから思ひついたのは、このい眼の人形である。・・・」。 雨情が書き残した文章は、一九三七(昭和十二)年『日本童謠全集』E(日本蓄音器商会)で見る事ができます (長世も創作の動機を述べている)。
 曲は、歯切れの良いアップテンポのホ長調で始まり、途中で少し遅い愁いをおびたホ短調に転調され、 最後にまた明るいホ長調に戻ります。長世は、長調の間に短調の部分をはさむという作曲形式が得意でした。 日本人は、このような変化の曲が大好き。歌では「仲よく遊んで やっとくれ」を二度繰り返します。

 【四分の四拍子になった楽譜】
 初出の『金の船』の楽譜、『金の星童謠曲譜』収録も四分の二拍子です。私、池田小百合は、これを手にした時、とても 驚きました。過去のどの研究書にも記述がなかったからです。なぜ、今歌われている楽譜は、四分の四拍子なのでしょう か。理由があります。
 『本居長世作曲 新作童謠』第五集(敬文館)大正十一年五月十五日発行の楽譜から、伴奏が付き、四分の四拍子になっているのです。これは本居長世が変更したのでしょう。

 <初出楽譜との相違>
  ・冒頭にAndanteを記入した。
  ・「にほんの」からは「少シオソク p」で歌うように指示を書き込んだ。
  ・「うかべてた」、「なんとしよう」は「rit」。そして「やさしい」からは「a tempo」。最後は「rit」で歌うように速度記号を入れた。
  ・歌詞は「嬢(ぢやう)ちやんよ」となっているのに、楽譜は「じよつちやんよ」のままです。
 小松耕輔編『世界音樂全集 第十一巻 日本童謠曲集』(春秋社、昭和五年一月十五日発行)の楽譜では「じょうちゃんよ」に正してあります。
 
 注目したいのは「ついたと き 四分休符」と「わからな い 四分休符」の部分です。いずれも「タタタタ タン ウン」のリズムです。単純で歌いやすい
 

▲「ついたと き」の部分

▲「わからな い」の部分


▼楽譜 タイトルは「い目の人形」

▲表紙
挿絵には
「翠風」
・「ス井」
のサイン
がある。



▲歌詞

 タイトル

「い目の
人形」

  【重要な小松耕輔の編曲】
 小松耕輔編『世界音樂全集 第十一巻 日本童謠曲集』(春秋社)昭和五年一月十五日発行の楽譜は伴奏付で四分の四拍子になっています。速度記号や強弱記号 もふんだんに盛り込まれています。
 たとえば歌い出しはフォルテで強く歌い出すように指示が書き込まれています。
 タイトルは『いの人形』です。雨情が長世に送った歌詞原稿と同じです。長世は雨情が詩の収録の時、『いの人形』 に変えても、一貫して作曲をした当時の『い目の人形』のタイトルを貫きました。楽譜は「じょうちゃんよ」に正してあります。

  <注目の楽譜>
 もっとも注目したいのは「ついたと きー」と「わからな いー」の部分です。いずれも「タタタタ ターンタ」のリズムです。
 初出での「き」は四分音符で、次は四分休符でしたが、小松耕輔編集の楽譜は、付点四分音符に変えられています。「ー」は八分音符が加筆され、休みが無く続いて「いつぱい」と歌うようになっている。この部分は、歌うのにテクニックが必要です。また、「わからない」の前にブレスが挿入されています。
 

▲「ついたときー」の部分

▲「わからないー」の部分


▲小松耕輔編『世界音樂全集 第十一巻 日本童謠曲集』
(春秋社)昭和五年一月十五日発行の楽譜


 小松耕輔編
『世界音樂全集
 第十一巻
 日本童謠曲集』
(春秋社)
昭和五年
一月十五日発行
の歌詞

 上記の楽譜は、現在一般に歌われているもので、金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社) 昭和六十二年四月四日発行や、『日本童謡名歌110曲集』(全音楽譜出版社)で見る事ができます。タイトルは「青い目の人形」。

 【工夫された伴奏】
 私、池田小百合は、力強い前奏二小節が好きです。この前奏二小節は、バッハ作曲の「トリオソナタ第六番ト長調BWV530」の冒頭テーマです。本居長世は、瀧廉太郎作曲の『箱根八里』の編曲にもメンデルスゾーン作曲の「結婚行進曲」を前奏に使い成功しています。いろいろな西洋音楽を勉強していたことがわかります。バッハの「トリオソナタ第六番BWV530」は、You Tubeで聴く事ができます。武藤氏から教えていただきました。ありがとうございました(2011年10月15日)。
 そして「やっとくれ」の最後の右手の和音がこの曲の決め手です。歌とピアノ伴奏の呼吸が合い、最後が決まると拍手が沸きあがるように作られています。長世の才能を遺憾なく発揮した絶品です。
 『本居長世 没後50年記念コンサート』で聴いた本居長世の孫の金子典子さんの伴奏が耳に残っています。歌い手を意識して、歌い手に歌わせる柔らかい伴奏は、聴く人に安らぎを与える素晴らしい演奏でした。伴奏が、いかに重要かを教えていただきました。                       

                       
▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謡画集』の川上四郎の挿画


▲講談社の絵本『童謡画集(2)』1960年より 松本かつぢ 画


 【歌い継がれる、みどりの歌唱】
 “長世の長女・みどりは、「日本の港へ着いた時」以下を表情こめて歌うのがたくみで、多くの人の拍手をあび、キの母音をのばしながらポルタメントの形で「一杯涙を」のイの音へ続ける歌い方をした。町の子供たちはこの歌い方まで真似したものである。早く、みどりの歌がニッポノホン・レコードに収められたが、その後も多くの童謡歌手によるレコードが出来た。”(金田一春彦・本居若葉共編 『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)昭和六十二年四月発行による)。
 ●この本の解説と歌詞のタイトルは『青い目のお人形』になっていて間違い。 さらに、歌詞の一行目は「青い眼のお人形は」となっていて間違い。楽譜は、長世の自筆楽譜と同じ『青い目の人形』になっている。

 【みどりのレコードを聴く】
 本居長世のピアノ伴奏で本居みどり(本居みどり子)が歌うレコードは、ニッポノホン 4837(皇室献上用レーベル)。 タイトルは『青い眼のお人形』です。北海道のレコードコレクター北島治夫さん所有。北島さんによると、「大正十一年(1922年)みどりが十歳の時の録音のようです」。今回特別にお願いしてCDに入れて送っていただきました。ありがとうございました(2011年11月9日)。

▲本居みどりが歌った再現楽譜「ついたときーいっぱい」

  ・長世が書いた、「き」と「い」の間の四分休符がない。
  ・小松耕輔編曲の「ターンタ(きーい)タタタタ(いっぱい)」とも違う。
  ・この楽譜で歌うには、吐く息(声)の調節が難しい。
   たっぷり吸った息を少しずつ使わないともたない。
 “多くの人の拍手をあびた”のは当然でしょう。
  (註)ポルタメントは、Portamentoの文字やスラーを付けて表わすことが多い。
  高さの異なる音へ(2音間を)なめらかに移行する(続けて演奏する)こと。  

 【本多信子が歌ったレコードは】 
 ビクターレコード番号(52611-A)歌・本多信子、伴奏・日本ビクター管弦楽団/レコードのタイトルは『い目の人形』。編曲者は書かれていません。
 本多信子が一回歌った後、間奏になります。驚いた事に、文部省唱歌「人形」を間奏に使っています。「人形」は、明治四十四年の『尋常小学唱歌』第一学年用 に掲載されました。もちろん本居長世の作曲ではありません。
 歌詞「わたしの人形は よい人形。目はぱっちりと いろじろで、小さい口もと 愛らしい。 〜」、間奏には歌は入っていません。一回だけ「人形」のメロディーが演奏されると、再び本多の「い目の人形」の歌が繰り返されて、終わります。これを聴いた私、池田小百合は、その大胆な吹き込みに耳を疑いました。童謡「い目の人 形」が爆発的に流行ってからは、この「人形」は忘れられて行きました。(レコードは、小田原市在住のMさん。北海道の北島治夫さん所蔵)

  北島治夫さん所蔵レコードの「青い眼の人形」のタイトル表記
   
レーベル 番号 歌手 タイトル表記 註・映像
ニッポノホン 4837
(皇室
献上用
レーベル)
本居みどり子 青い眼のお人形
皇室献上用レーベル。
4837はレコード番号でありマトリックス番号です
裏面は(註1)
ツル
(アサヒ蓄
音器商会)
471 本居貴美子 い目の人形
オリエント 2792 井上ます子 青  目
ビクター B335 古賀さと子   目
コロムビア C198 伴 久美子   眼
キング(右註) A3-1
(S10583)
近藤圭子 青  目 8インチ2枚をセットにしたキングレコード童謡集
第三集新旧のセット(曲が同じで歌手が違う)
があり、A3-1の番号です。マトリックス番号は
(  )内に記しました。
            (旧)    (新)
A3-1 靴が鳴る 椎木玲子  渡辺典子
 青い目の人形 河村順子  近藤圭子
A3-2 通りゃんせ 木村百合子 近藤圭子
    雨が降ります 木村百合子 近藤圭子  
キング A3-1
(401)
河村順子   目
コロムビア C63 飯田ふさ江   眼
ビクター 52611
(4887)
本多信子   目
ビクター
(上の再発)
V-40404
(4887)
本多信子   目
キング 57024 井口小夜子   眼
テイチク K42 白鳥みずえ   眼
テイチク K06 関塚邦子   目
ツル 2205 正木千枝子   目
トーア
(大日本東亜
蓄音器株式
会社)
108 本居貴美子   目 片面に「お父様の晝寝」と2曲 ピアノは長世 
107面は「赤い靴」「足が歩く」
ツルより録音年代が古いのではないか
タイヘイ T-177 花園千鶴子   目

 
(註1)裏面
澄宮殿下御作
童  謡 
御 下 賜
東京報知新聞社 
ゴショカライソギ 四十四五
           (合唱)
唱歌者  本居みどり子
ピアノ   本居長世
合唱    如月社同人
下の表のレーベルはA3-1

作曲者名が
本居長豫
あるいは本居長予と
記されています。

 右のイラストはアメリカの
短篇アニメ「トムとジェリー」
犬のグーフィーもいます。

▲テイチクレコード K-06 関塚邦子 付属の振付(北島治夫さん提供資料)

  【公演旅行】
 大正十二年の関東大震災後のアメリカの援助に酬いる音楽会開催のため、大正十二年十二月二日、長世は横浜港から娘のみどり、貴美子や、尺八の吉田晴風、箏の奏者であった晴風の妻の吉田恭子、歌手の中村慶子らを伴ってハワイ、アメリカに赴きました。アメリカで最も喜ばれたのは、この曲でした。本居長世を団長とする遣米答礼使節団公演旅行のようすやプログラムなどの詳細は、松浦良代・著『本居長世 日本童謡先駆者の生涯』(国書刊行会)二〇〇五(平成十七)年発行で知る事ができます。

  【与田凖一編『日本童謡集』検証】
 発表誌・発表年月(―「金の船」大10・12)は正しい。『日本童謡集』掲載の詩は、初出の詩ではなく、後に整えた詩です。「青い眼」「セルロイド」「やっとくれ」になっている。(―『い眼の人形』大13・6)に収録の詩。この詩を見た人は、発表誌の詩と勘違いする可能性がある。  


昭和23年5月発行
中扉
(中扉)

 【「青い眼の人形」の歌と「フレンドシップ・ドール」との関係】
  大正時代には、アメリカへ働きに行く日本人が沢山いました。 アメリカでは日本人移民の労働力を恐れ、自分たちの生活を守るために日本人がアメリカに来ないようにという運動が高まりました。 そして日本人がアメリカで自分の土地を持つことも、借りることもできない決まりが作られ、急速に日米感情が悪化しました。

 昭和二年(1927年)三月三日の雛祭に合わせて、全米の家庭から横浜港などを経て、 一万二千七百三十九体の青い目の小さな友情人形(フレンドシップ・ドール)が送られて来ました。
▲「友情の人形」の橋渡しをした渋沢栄一
 それは、日本滞在経験があった牧師のシドニー・ルイス・ギューリックが日米関係悪化を改善しようと全米に呼びかけて実現したものです。当時、野口雨情作詞、本居長世作曲の 「青い眼の人形」の歌が日本の子供たちの間で流行っている事を知り思いついたものです。
 ギューリックは日本に二十年余滞在して同志社大学などで教育に尽くし、布教に努めました。人形を雛祭に届けたいと日本側の渋沢栄一(日米関係委員会会長・埼玉県深谷市出身の実業家)に相談しました。渋沢は日本国際児童親善会を設立して、外務省にも協力を求め人形配布その他を文部省に託しました。
 送られて来た人形は、驚異的な数でした。三月三日に東京の日本青年館で歓迎会が開かれ、政府高官と渋沢栄一、在日大使や各校児童代表が出席しました。
  その後、人形たちは小学校や幼稚園などに配布され、日本の子供たちは大歓迎をしました。この事業に貢献した渋沢栄一の故郷・埼玉県には、このうち百七十八体が贈られ、現在十二体が確認されています。

▲『横浜人形の家』の
「ネリー」と「エレナ」
 日本国内の小学校や幼稚園などに贈られた人形は、戦時中に「敵性国家の物」として多くが壊されたが、一部は大切に保管されて戦乱の時代を生き残りました。
 
 神奈川県では、「ネリー」など四体が『横浜人形の家』に展示されています。神奈川県下には次の学校に現存が確認されています。

  ・横浜市立本町小学校 西前小学校
  ・葉山町立葉山小学校
  ・小田原市立三の丸小学校
  ・箱根町立宮城野小学校
 

 長野県では全国で一番多い二十三体が保存されている。これは、『信濃教育』一四一九号、第一三八〇号で見ることができます。
 特に、第一四一九号には、戦後、忘れられていた人形の発見のようすが書かれていて興味深い。たとえば佐久市佐久市立泉小学校所蔵のメアリー・ヘンドレンについては、 “昭和2年に学校に配布され、児童にお披露目された後は職員室の戸棚に飾られた。戦争中の記録はないが、世間で「青い目の人形」が話題になった時に、ある教師から「子供たちが怖いといっている人形がある。」と報告があり、発見につながった。”と人形の写真と一緒に説明されています。


                     ▼「長野県の人形たち」 『信濃教育』第一四一九号、第一三八〇号で見ることができます。

  <高野辰之作詞「人形を迎へる歌」について>
 アメリカから送られて来る人形を迎へる歌として、昭和二年一月三十日に高野辰之が作詞、東京音楽学校作曲(島崎赤太郎作曲という伝聞が島崎家に残っている)の 「人形を迎へる歌」が作られました。
 昭和二年二月十七日の横浜での人形歓迎会に歌われた記録があり、ラジオでも流され人形歓迎のムードが盛り上げられていった。
 しかし、各地の幼稚園や小学校の歓迎会では、当時よく歌われていた童謡「青い眼の人形」が歓迎会に歌われたことも記録に残されています。

▼「人形を迎へる歌」高野辰之作詞、東京音楽学校作曲


 

 <高野辰之作詞「人形を送る歌」について>
 ギューリックは、人形と共に送った手紙に、「答礼の心配は一切ご無用に願う」としたためたが、日本側にしてみれば、 手紙のお礼だけではすまされず、日本からもアメリカの子供たちに人形を送ろうという声が上がりました。 (答礼人形)を送る計画を立て、アメリカ人形が贈られた全国の小学校、幼稚園の女子児童から一人一銭ずつ集めて「長野絹子」「浜子」など五十八体が完成しました。
 この日本人形は、昭和二年、小学校の子供たちから送られた絵や絵葉書、手紙などを携えて天洋丸という船でクリスマスに間に合うようにアメリカに渡りました。
 答礼人形は日本の各地で歓送会が行われ、最終的に十一月四日、日本青年館で歓迎会と同様、盛大な送別会が行われた。 式次第の後半に、高野辰之作詞、島崎赤太郎作曲の「人形を送る歌」が二千人の日本児童全員で歌われた。
  「人形を迎へる歌」は児童向きでしたが、「
人形を送る歌」は高学年、中学生向きで、 詩の内容表現もより高く豊かになっている。作曲者の島崎赤太郎は、東京音楽学校のオルガンの教師。高野と島崎は、文部省編『尋常小学唱歌』編纂委員の中心メンバーでした。

▼「人形を送る歌」高野辰之作詞、島崎赤太郎作曲


▲「長野絹子」
デラウェア州の歴史協会
に保管されている。
  『信濃教育』第一四一九号、
第一三八〇号で見ることが
できます。

 【後記】
 大正十年(1921年)に発表された野口雨情作詞、本居長世作曲の「青い眼の人形」は、アメリカから人形が送られてから一層広く愛唱されるようになりました。 童謡愛好家や研究者の中には昭和二年の青い目の小さな友情人形(フレンドシップ・ドール)のために、 野口雨情作詞、本居長世作曲の「青い眼の人形」が作られたと勘違いしている人が多いようです。昭和二年(1927年)の友情人形(フレンドシップ・ドール)のために作られた曲は高野辰之作詞の「人形を迎へる歌」と、(答礼人形)のために作られた「人形を送る歌」です。この親善人形を取り上げる場合は、「人形を迎へる歌」と「人形を送る歌」を紹介したり、歌ったりしてほしいと思います。

  (参考) 『信濃教育』第一四一九号、第一三八〇号。この冊子は毎号大変優れています。楽しく読むことができ、かつ貴重な文献・資料が満載です。これからも長く続くことを願っています。


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著者より引用及び著作権についてお願い】    ≪著者・池田小百合≫

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赤い靴

 作詞 野口雨情
 作曲 本居長世

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008/12/15)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【詩の初出】
 詩は雑誌『小学女生』(実業之日本社)大正十年(1921年)十二月号に発表。現在、見る事ができません。
 「い目の人形(のち、い眼の人形)」も、同じ大正十年(1921年)十二月号に発表された。(「い眼の人形」 参照)

 【野口存彌氏所蔵の雨情自筆原稿(草稿)】
 これについては、藤田圭雄著『童謡の散歩道』 (日本国際童謡館、平成六年発行)に詳しく書いてあります。
  ・この草稿は、野口雨情の息子の野口存彌氏所蔵。藤田圭雄は写真のキャブションでは「自筆原稿」と記しているものの、文章中で「草稿」と称しているので、以下もこれを「草稿」と称する。
  ・赤い罫の四百字詰原稿用紙に毛筆で書かれている。
  ・無署名で、編集者の活字の指定がない。
  (雑誌社に渡すもう一つ手前の原稿で、これを清書して雑誌社に届けたのではないかとは、藤田圭雄の意見)。


  <草稿は>
  ・赤い靴はいてゐた
  ・いつちやつた(註・ひらがな)
  ・「い」のわきに、「往(註・ルビい)」という書き込みがある。
  ・「い目の子供に」と書いて「今ではい目に」と直している。
  ・埠頭から(註・ルビがない)
  ・汽船に(註・ルビふね)
  ・第四連 「赤い靴見るたび 思ひ出す 異人さん見るたび 思ひ出す」
  ・以下は決定稿にならず削除した。
  「生れた 日本が 恋しくて い海 眺めて ゐるんだらう」
  「生れた 日本が 恋しくば 異人さんにたのんで 帰つて来。」

 【作曲時期】
 大正十一年(1922年)八月、本居長世が作曲。これは、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』春秋社、昭和五年発行で確認できます。

 【本居長世の自筆楽譜】 
 楽譜を詳しく見ましょう。
 長世の自筆楽譜は、ハ短調。「あかいくつ はいてた」「いまでーは」「あかいくつ みるたび かんがへる ゐじんさんに あふたび かんがへる」となっています。雨情が「赤い靴はいてゐた」と書いた所は、長世が「はーいてたーー」にして作曲したので、歌いやすくなっています。「いまでーは」と、「今」をひとまとまりの言葉として作曲してあります。

 最後のピアノ伴奏右手部分の和音に一ヶ所アクセントが付いている以外は、フェルマータや速度標語、強弱記号は付いていない。

 自筆楽譜全頁は松浦良代著『本居長世』(国書刊行会,平成17年発行)で見ることができます。



 【曲の収録】 
 本居長世著『本居長世 作曲 新作童謠 第十集』(敬文館)大正十二年(1923年)一月十五日発行に収録。
 この楽譜集は歌詞も楽譜も間違っています。これを見た長世はびっくりしたことでしょう。単純ミスではすまされません。
 
 この楽譜集には、『一、おてんとさんの唄』『二、お馬のお耳』『三、巨きな帽子』『四、からす』『五、赤い靴』の五曲が掲載されています。(楽譜ピースではない)

本居長世新作童謡第十集 裏
大正十二年一月十五日発行
 裏表紙は
赤い靴の少女と異人さん
本居長世新作童謡第十集 表紙
表紙は赤い靴の少女について話す
少女と少年
本居長世新作童謡第十集 中
中に赤い靴の詞と挿絵
(船を見送る少年)
奥付は 大正十二年一月十五日発行  著者 本居長世  発行所 敬文館
・「赤い靴はいてた」「いつちやつた」「波止場から」「船に」
・「赤い靴見るたび かんがえる 異人さんにあふたび かんがえる」この歌詞が三回も書かれている


 楽譜の歌詞は本居長世の自筆楽譜と同じです。

  ・「あかいくつ はいてた」・「いまでーは」・「あかいくつ みるたび かんがへる ゐじんさんに あふたび かんがへる」となっている。フェルマータや速度標語や強弱記号はついていないが、最後の三小節のピアノ伴奏両手の和音にそれぞれ四ヶ所、スタッカートとアクセントが加筆されています。
  ●調号が誤植。フラットが四つ書いてある。正しくはフラットが三つのハ短調。
  ●前奏ニ小節目に間違いあり、右手と左手は同じ旋律になるのが正しい。さらに六小節目の伴奏の左手も間違っている。
  ●最後から三小節目と二小節目のピアノ右手和音に、ナチュラルが二ヶ所欠落している。
 
 以上のように、この曲譜に掲載された楽譜は不完全で、私が古書店から買った元の持ち主は、「ハ調短調の誤ならん」と書いています。また、「本居貴美子さんの歌ったのはナチュラルがあった様に記憶しているが、此の通り(ナチュラル亡く)に変へておく」と書いてあり、メロディー譜の二ヶ所にナチュラルの書き込みがある。この人の指摘は正しい。

大正十ニ年
『新作童謡』
第十集の楽譜
フラット四つは
間違い。
正しくは
フラット三つの
ハ短調。
2小節目の右手
に誤りがある


3番の歌詞付け
は「いまでーは」
となっている



6小節目の伴奏
左手に誤りが
ある。
1オクターブ下で
旋律を引くのが
正しい。

 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』春秋社、昭和五年の楽譜、
 正しいハ短調である。伴奏も正しい。3番の歌詞づけは「いーまでは」になっている。

大正十二年
『新作童謡』
の楽譜

伴奏には
ナチュラル
記号が無
い。
これは
間違い。
 
楽譜
昭和五年
の楽譜


この伴奏の
和音は
短音階の
V→I→V
→Iの進行
で正しい。


 【金の星童謡曲譜にも収録】
 『金の星童謠曲譜第四輯 赤い靴』(金の星社)大正十三年(1924年)四月二十三日発行にも収録。
  (註T)「赤い靴」の収録は、この『金の星童謠曲譜第四輯 赤い靴』収録が有名ですが、本居長世著『本居長世 作曲 新作童謠 第十集』(敬文館)大正十二年一月十五日発行に収録が先です。
  (註U) 『金の星童謠曲譜第四輯 赤い靴』は、野口雨情記念館所蔵(コピーは不可との返事でした)。  金の星社に問い合わせると「一部のみ資料として保管していますが、販売はしていません。貴重な資料で現物は焼けて崩壊しかけておりますので、コピーを取る事は許可していません」(2008/09/12)。
 ★楽譜を見るのは絶望的です。
  (註V)2011年12月15日古書店目録に『金の星童謠曲譜第四輯 赤い靴』を発見。迷わず購入しました。

                『金の星童謠曲譜第四輯 赤い靴』 本居長世作曲 野口雨情作謠  装幀 KIICHI(岡本帰一)
今歌われている歌詞と違う部分
  ・「赤い靴 はいてゐた」   ・「横濱の 埠頭(はとば)から 汽船(きせん)に乘つて」   ・「異人さんの お國に ゐるんだらう」
 ・「赤い靴 見るたび 思ひ出す 異人さん 見るたび 思ひ出す」

  楽譜の歌詞は、今歌われている歌詞に変更されている。この変更は本居長世がしたのでしょう。
  ・「あかいくつ はいてた」   ・「よこはまの はとばから ふねにのつて」
  ・「ゐじんさんの おくにに ゐるんだろ」   ・「あかいくつ みるたび かんがへる ゐじんさんに あふたび かんがへる」   
 いよいよ楽譜に注目しましょう。
  ・本居長世著『本居長世 作曲 新作童謠 第十集』(敬文館)の誤植が全て訂正してあります。
  ・「いーまでは」と歌うようになっています。
  ・「リタルダンド」「ア テンポ」「ピウ レント」「フェルマータ」「ピアノ」「クレシェンド」「デクレシェンド」の記号はありません。
 特に、「あふたび」の「び」には「フェルマータ」がついていないのに注目です。
  ・最後の三小節の和音にアクセントがついています。これは、現在の楽譜と同じです。
 


▲奥付
  私、池田小百合が購入した曲譜は、
 大正十三年六月二十日五版です。
 
 著  者 本 居 長 世
 発行者 斎 藤 佐 次 郎
 発行所 金の星社

  【詩の収録】
 野口雨情著 童謡集『い眼の人形』(金の星社)大正十三年六月一日発行に収録。
▲童謡集『い眼の人形』の歌詞 「赤い靴 見るたび 考へる 異人さんに逢ふたび 考へる」と
本居長世が作曲したように歌詞が変えてあります。雨情が、そうしたのでしょう。  

 【「思い出す」と歌った理由】
 高齢の方々から、子供の頃「思ひ出す」と歌った事があったと聞きます。それはなぜでしょうか。
 まず、 雨情の自筆原稿では「赤い靴見るたび 思ひ出す 異人さん見るたび 思ひ出す」となっています。  
 また、『金の星童謡曲譜第四輯 赤い靴』も、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行も、楽譜は「かんがへる」ですが、歌詞は「思ひ出す」になっています。
 この歌詞の方が良かったのではないかとの意見があります。歌ってみると「赤い靴見るたび 思ひ出す」では「ひ」の音が最高音になるので歌いにくい。それで長世が作曲の際、「かんがへる」にしたのでしょう。詩としての文学的価値が低下するほどの改悪とは思えません。
 ▼小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』の歌詞

  「思い出す」になっているのは、昭和十一年(1936年)発行の『婦人倶楽部附録』(童謡・唱歌・流行歌全集)や、その他の出版社が歌詞集を出す時、『金の星童謡曲譜第四輯 赤い靴』、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)にならったためと思われます。
▼昭和十一年(1936年) 一月一日発行『婦人 倶楽部新年號附録』 (童謡・唱歌・流行歌 全集)
 三番は  「赤い靴 見るたび    思ひ出す   異人さん 見るたび   思ひ出す」 になっている。
 挿絵は武井武雄。




▲昭和十一年(1936年)
一月一日発行『婦人
倶楽部新年號附録』
(童謡・唱歌・流行歌
全集) 三番は
 「赤い靴 見るたび 
  思ひ出す
  異人さん 見るたび
  思ひ出す」
になっている。

挿絵は武井武雄。


 【「いーまでは」の歌い方について】
 長世が「いまでーは」と作曲したところは、なぜ「いーまでは」と歌われているのでしょうか。 それは、愛唱されるが故の、ほほ笑ましい間違いではありません。
 最初に収録した『本居長世作曲 新作童謠 第十集』では「いまでーは」となっていますが、『金の星童謠曲譜第四輯 赤い靴』では、「いーまでは」に改訂してあります。この改訂は長世がしたものでしょう。
 したがって、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行も「いーまでは」となっています。
 金田一春彦・本居若葉共編『七つの子 本居長世童謡選集』(如月社)昭和六十二年発行には 「この本の楽譜は『日本童謡集』(春秋社)版を参考にして編集している」と書いてあります。ですから、長世の自筆楽譜が「いまでーは」と「今」をひとまとまりの言葉として作曲してあるのに対し、(春秋社)版が「いーまでは」なので、(如月社)版も同様に掲載してあります。
 現在全ての出版楽譜がこれにならい「いーまでは」とし、歌われています。

 【北島治夫さんのレコード情報】
 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所蔵のレコードで次の5枚は三番は「いーまでは」となっています。

  ・ コロムビア C33 松永園子
  ・ ビクター B244 関根敏子
  ・ ニッポノホン 16873 佐藤怡子
  ・ ビクター V-40404 本多信子
  ・アサヒ 320 松岡節子 (表は「夕焼小焼」内田三重子)

 しかし、本居貴美子のレコードでは「いまでーはー」と歌っています。このレコード、「トーア 107」は番号が片面ごとについていて、片面に2曲入っています。「赤い靴」と一緒に入っているのは「足が歩く」。裏面の108番には「い眼の人形」と「お父様の晝寝」が入っています。 

 「次女の貴美子がステージで歌って流行させたものだった」(金田一春彦著『十五夜お月さん』三省堂,1983年3月発行)

 【歌唱表現(1)】
 長世が工夫したと思われている「いじんさんに あふたび」の「び」に付いているフェルマータ(延長記号)は、自筆楽譜には書いてありません。
 しかし、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行の楽譜には付いています。これにならい、現在、全ての出版楽譜にフェルマータが付いていて、「びー」と延ばして歌われています。ここで情感を込めて歌うと、いっそう愁いをおびた曲になります。
 さらに(春秋社)版には、「いじんさんに あふたび かんがへるーー」の部分だけ、歌にもピアノ伴奏部分にも、強弱記号や速度標語が付いていますが、長世の自筆楽譜には付いていません。童謡の研究者は、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行は必見です。 


 大正十ニ年『新作童謡』
 第十集の楽譜

 フェルマータや強弱記号、
 速度標語は書いてない。

 下の楽譜は昭和五年版。
楽譜

 
▼小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)の楽譜

 【歌唱表現(2)】
 「行つちやつた」の「た」の音をしっかり取って歌いましょう。三拍延ばしている間に間奏になります。上昇していくピアノ伴奏につられないようにしましょう。長世が作曲の才能を発揮した部分ですが、歌い手にとっては、最大の難関です。

 【モデルの問題】
 『赤い靴』のモデルの少女は「きみちゃん」といわれています。その経緯については北海道テレビの菊地寛プロデューサーが五年がかりで調べ上げ、ドキュメンタリー番組『赤い靴はいてた女の子』を作り、1978(昭和五十三)年11月、テレビ朝日系列で全国放送されました。同名の本も現代評論社から出版されました。こうして『赤い靴』といえば、「きみちゃんの悲しいお話」が定着しました。しかし、「きみちゃん」について雨情は具体的な説明を残していません。
 2007年(平成十九年)12月31日、阿井渉介著『捏像 はいてなかった赤い靴 定説はこうして作られた』が、徳間書店から出版され話題になっています。それには、「きみ」が『赤い靴』のモデルというのは、百パーセント虚妄と書いてあります。読者からは「なにがなんだか、わからなくなった」との意見が出ています。  

 <「女の子実在説」に対する金田一春彦の扱い>
 金田一春彦著『十五夜お月さ ん』(三省堂)昭和五十八年発行によると次のようです。
 “「赤い靴」をはいていた女の子が、野口の交際の範囲の中に実在していたという事が、最近明らかとなり、評判になった。明らかにしたのは、菊地寛という、文豪とよく似た名前の北海道の若いテレビ局員で、彼はこの歌にひかれ、この歌のモデルを探しに、アメリカまで追跡調査に行ったというから熱心なものだった。が、その結果、この子はアメリカに渡らず、日本の孤児院で死んだらしい事がわかり、テレビに上映された。この追跡調査は、この番組ができ上がる端緒となった、「この歌のモデル は私の姉」という投書をした老婆が、その墓の前にたたずむ姿で終わっていた。 いささかあっけない幕切れで、意気込んで調査したそのTVマンは、拍子ぬけという感じだったが、しかしそれも人生の一断面を物語るものであった”で、これに関係する文章は終わっています。

  <野口存彌の扱い>
  野口存彌は「赤い靴」と「シャボン玉」のモデル伝説について“いずれも事実ではなくこういう伝説を通して童謡を眺めるというのは、本来純粋無垢のものをわざわざ着色されたフィルターを使って見ることにしかならないのではないだろうか”としている(野口存彌 東道人編纂『新資料 野口雨情≪童謡≫』(踏青社)2000.9)。  

 <村岡恵理の扱い>
 村岡恵理著『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(マガジンハウス)平成二十年六月五日発行には、次のように書いてあります。これは、『赤毛のアン』翻訳者・村岡花子自身が書いたものではなく、花子の孫が調査研究して書いた評伝です。71ページより抜粋。
  “麻布十番には明治27年(1894)から孤児院があったが、その中でも「永坂孤女院」は、この辺りの貧家から、ふたりの女の子が売られていくのを目の当たりにした女学生たちの要望を受け、ミス・ブラックモアが明治36年(1903)に設立した孤児院である。(中略)・・・
 大正中期に童謡として流行した野口雨情作詞の『赤い靴』の詩の中で「赤い靴はいていた女の子」として歌われている少女は、花子が永坂弧女院の日曜学校の教師をしていたこの頃、そこに居た佐野きみという少女である。花子はここでも、自分の読書経験を生かし、身寄りのない孤児たちに、物語を語り聞かせていた。  
 佐野きみは、いったんはアメリカ・メソジスト教会の宣教師夫妻の養女となるが、その後、結核を患い、実際は「異人さんのお国」には行かず、夫婦が帰国する際、永坂弧女院に託されて、明治44年(1911)、満9歳で薄幸な生涯を終えている。”

 【結論】
 現在、歌われているのは小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年一月十五日発行の楽譜です。歌詞は「いーまで は」。そしてフェルマータ、強弱記号、速度記号がついています。長世の直筆楽譜全ページは、松浦良代著『本居長世』(国書刊行会)で見る事ができます。歌詞 は「いまでーは」。そしてフェルマータ、強弱記号、速度記号はついていません。オリジナルで歌うと音楽性が乏しい。
 今後の研究者は、両方の楽譜を見てから発言をする必要があるでしょう。


▲昭和35年12月
講談社の絵本『童謡画集(4)』より 
蕗谷虹児画
「詩 西条八十」とあるが正しくは「野口雨情」


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汽車ぽっぽ

作詞 本居長世
作曲 本居長世

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/06/07)


池田小百合編著「読む・歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画


 蒸気機関車を歌った歌には、有名なものがいくつもありますが、短いこの歌をいちばんに推薦したいと思います。
 「汽車汽車ぽっぽ ぽっぽ」の『汽車ぽっぽ』(冨原薫作詞、草川信
御殿場線物語 表紙
△「御殿場線物語」文化堂、表紙
作曲)や、「今は山中 今は浜」の『汽車』(文部省唱歌)の方がよく知られていますから、この『汽車ぽっぽ』(作詞・作曲 本居長世)を知らない人もいるかもしれませんね。

 【歌の誕生】
 本居長世の三女、若葉さん(神奈川県大和市南林間在住)にお聞きしたところよると、毎年夏に静岡県沼津の叔父の家に避暑に行った時の御殿場線のようすだそうです。また、若葉さんが初めて歌った曲で、大変思い出があるそうです。
 金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)には、若葉さんの言葉を裏付けることが書いてあります。
 “沼津には、我入道で義弟の本間義素が農園をやっていて、当時は珍しかったマスカットやアレキサンドリアを作っていた。メロンも作っていた。そんなことから、その近くに貸別荘を借りて家族ぐるみ七月から九月まで滞在することもあった”

 【長世の作詞作曲】
 金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)昭和62年4月発行の解説には次のように書いてあります。
  ・「本居長世自身の作詞に作曲したもの。昭和2年5月の作」。
  ・「本居の作詞の曲では一番見事な出来である」。
  ・「若葉がよく歌ったが、戦後は松田トシがよく歌った」。

 ●小松耕輔編『世界音楽全集11日本童謡曲集』(春秋社版)昭和五年発行の解説には『汽車ポッポ』(昭和三年四月作)と書いてあります。(昭和三年四月作)は間違い。「昭和二年五月の作」が正しい。
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)の記述、“初演は、本居の三女貴美子によってなされた”は間違い。三女は若葉。 長世の長女は「みどり」、次女は「貴美子」、三女は「若葉」。若葉は、貴美子より五歳年下。「汽車ポッポ」は、若葉がはじめて歌い、世に広めた作品です。

 【車中で作詞作曲したのか】
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、次のように書いてあります。
 “昭和二年五月の作品です。作者の本居長世が実際に御殿場線に乗って、山を上って行く汽車の様子を面白く思って、車内で作曲しながら詞もつけたのです。”
 この文章は変です。これでは、歌は「五月」に「車中で作った」ことになります。前記の若葉さんの証言「毎年夏に静岡県沼津の伯父の家に避暑に行った時の御殿場線のようす」や金田一春彦が書いた「沼津に七月から九月まで滞在することもあった」と合いません。
 それでは、なぜ「車中で作詞作曲」したことになってしまったのでしょうか。

  ●小松耕輔編『世界音楽全集11日本童謡曲集』(春秋社版)昭和五年発行の解説には、“旅行の途次汽車中の作歌曲、寫生(しゃせい)曲とも云うべきもの。”と書いてあります。
 この解説は小松耕輔が書いたものです。これを使って、長世が車内で作曲しながら詞も一緒に作ったと物語風に書き直したのです。 生前、長世と親しく、長世の楽曲の解説を沢山書いている金田一春彦の文には、「車内で作曲しながら詞も一緒に作った」と書いたものはありません。
本居長世 車内で作詞作曲をしたのではありません。・・・長世は部屋に一人こもって、ピアノをポンポン弾きながら新しい曲を作曲する。風呂でメロディーを思いつくと裸で飛び出して楽譜を書くと、すぐにピアノで弾いて確かめる。スペイン風邪で入院した病室でも作曲をするのを楽しみにし、退院すると作曲し、ピアノに向かってキーをたたき、長女のみどりに歌わせた。長世の作曲のそばには、いつもピアノがあった。

 【タイトルについて】 
金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)昭和62年4月発行、この楽譜集ではタイトルは、ぽっぽを平仮名で『汽車ぽっぽ』になっています。なぜ平仮名にしたのかは不明です。これにそろえて平仮名で『汽車ぽっぽ』と書くのが一般的です。本居長世、四十二歳の時の作品。★自筆楽譜のタイトルは未確認。

 【初出楽譜「汽車ポッポ」】 
 シンフォニー新作楽譜NO 20『童謡漫曲 汽車ポッポ 本居長世作曲 作歌』(SINFONIE EDITION)昭和二年八月刊・楽譜ピース。タイトルはカタカナで『汽車ポッポ』となっている。

  【ゆかいな曲である理由】 
 昭和二年(1927年)の中ごろから、シンフォニー楽譜出版では『シンフォニー新作楽譜』を創刊し、楽譜ピースを公刊するようになった。表紙をよく見て下さい。『童謡漫曲 汽車ポッポ』となっています。汽車ポッポ
 これについて金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)には次のように書いてあります。
 “長世が「漫謡」と呼んでいたものが幾つかある。多くは晩年のもので「汽車ポッポ」「あめちょこ」「新兵さんの駈け足」「運動会」などがそれで、これらはすべて自身の作詩。ほかに林柳波のものに作曲した「蚤とり」もこれに属する。絵ならば漫画に相当するふざけた作品で、 「汽車ポッポ」を除いて、あまり成功したものといえないが、彼にはまじめであるべきときにも何かふざけてみたい気持ちがあったようだ。彼は子供のころから淋しがりやだった。いつも賑やかに笑っていたい。そんな欲求が、人一倍強かったのだろうか”。
 これは長世の人間性を知る重要な手がかりです。 童謡の会で歌い終わるとドヨメキが沸き上がり、みんながニコニコします。その理由がわかりました。「汽車ポッポ」は長世が「漫謡」として作ったものだったのです。

 <ラヂオで放送される>
 昭和二年七月二日(土曜日)朝日新聞復刻版のラヂオ番組表に以下の事が掲載されています。
 ラヂオ・東京JOAK 午後7時25分から〔少年少女の夕〕
 ▲童謠〔漫曲獨唱〕「あめちょこ」「内所ばなし」「汽車ポッポ」(本居長世作詞作曲)  本居若葉、伴奏 本居長世。

 【レコード「汽車ポッポ」】
  ・太陽レコード番号二五九二九/昭和5年7月発売/A面「汽車ポッポ」/独唱 沢田信夫/伴奏 オーケストラ(B面「幼年の歌」山田耕筰)。
 ●CD『本居長世全集』解説・金田一春彦では「沢田作夫」になっていて間違い。
  ・ビクターレコード番号五二四○一/昭和7年10月発売/B面「汽車ポッポ」/歌 本多信子/伴奏 マンドリンオーケストラ(A面「時計屋の時計」本居長世)。
  ・コロムビアレコードでも 本居若葉が吹き込んでいる。タイトルは、いずれも「汽車ポッポ」となっている。
 以上レコードについては、金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作 品』(三省堂)による。金田一は、この本では「汽車ポッポ」とカタカナのタイトルで扱っている。

 【北島治夫レコード情報】 
 北海道在住のレコードコレクター北島さんより所蔵レコードについて情報をいただきました。
  ・澤田信夫のレコードは、太陽レーベルではなく、コロムビア25929「汽車ぽっぽ」。オーケストラ伴奏。裏面は「幼年の歌」。
  ・本居若葉のレコードは、コロムビアではなく、(まだコロムビアレーベルとなっていない前の)ニッポノホン16938「汽車ポッポ」。一緒に「鳥羽繪」が入っている。ピアノ伴奏は本居長世。裏面は、「あめちよこ」「運動會」。
  ・内田貴美江,土屋道典,コロムビアひばり児童合唱団,コロムビア・オーケストラ 「汽車ポッポ」(本居長予作詞作曲 松尾健司編曲) コロムビア C294。二人が交代でかけあいのように歌っています。裏面は三木節子「おもちゃのマーチ」。
 (註)「青い目の人形」キングレコードA3-1もそうですが、本居長予という記載が時々見受けられます。
 以上のように、レコード情報は、この金田一春彦のレコード情報だけでなく、 他のものも間違いだらけです。これからも、わかる範囲で正していきたいと思っています。
 童謡を語る時、「レコード童謡」は欠かせないものです。

 【詩と曲の一致】 
 序文で書いたように傑作と推薦する理由は、まず本居長世自身が作詞と作曲をともに手がけていることです。彼にとっては会心の作だったに違いありません。実際に、詩と曲が見事に一致しています。特に「ぽっぽ ぽっぽ」や「しゅ しゅ しゅ しゅ」と擬音語が入って、歌に続くところのリズム感は誰にも真似ができない出来栄えです。

  【伴奏の工夫】 
 ピアノの伴奏部も工夫されています。曲の前奏四小節のトリルは発車合図の呼笛、次に汽笛の擬音、次に蒸気を吹いて汽車がゆっくりと動き出し、加速して走り出す様子が巧みに表現されています。

 そして休みなく歌いついでいくメロディーにつながっていきます。この歌は同じ旋律が戻ってくるという所がありません。前進あるのみです。 歌の旋律はホ長調四分の四拍子で十八小節。初めの四小節はゆったりした旋律ですが、次からは蒸気機関車がスピードを出して走っているようすを細やかなリズムと跳躍した音程とでよく表わしています。音程が跳んでいるので、いいかげんな節回しにならないように気をつけて歌います。
 速度や強弱がいろいろに変化されていることも、この曲の特徴です。山場は最後の「のぼりゆく」です。そこまで全体的に速く、休止をおかずに一気に歌います。

 【最大の魅力はこれだ】 
 歌った時、その言葉の力強さと機関車の力強さの印象が重なって、何度も唱えないではいられない魅力があります。
 山の中の坂道なので列車の前後に二台の蒸気機関車がつけられています。前の機関車が引っ張ると、後の機関車が押しながら山坂を登っていきます。この歌により「なんだ坂 こんな坂」という言葉が流行りました。力を出し頑張る必要がある時に、この言葉を大人も子供も使いました。それほど人気の曲でした。

▲きしゃぽっぽ/絵は風間四郎。「童謡画集(5)」1958年6月30日刊,講談社より



 【モデルは御殿場線】
 東京-沼津間に鉄道が敷かれたのは明治二十二年二月一日のことです。当時の東海道本線は、箱根山の北側の御殿場を回る線路でした。昭和九年十二月一日に丹那トンネルの開通によって東海道本線は熱海側のルートを通るようになりました。そして、それまでの国府津駅から沼津間は御殿場線と名前が変えられました。山北駅から御殿場駅までは、歌のようにトンネルと鉄橋が交互に繰り返されます。

  【御殿場線に再び汽車を】 
 今は御殿場線に蒸気機関車は走っていませんが、著者・池田小百合の幼年時代には家の前を石炭をこぼしながら汽車が走っていました。客車だけでなく、牛、馬、豚を乗せた貨車や、シートをかぶせて御殿場の自衛隊基地へ戦車も運んでいました。汽車の走る映画の撮影もしばしば行われました。
 御殿場線に、もう一度汽車を走らせたいと思い、JR松田駅の駅長さんに尋ねました。駅長さんは即座に次のように話されました。
 「今走っている電車と、昔の汽車とは、線路のレールの太さが違うので、汽車は走れません。走れるように整備されて残っている汽車もありません。石炭をくべる技術を持った人がいませんし、石炭の経費は莫大で、それに見合った乗客数もいません」。
 今後、JR東海 御殿場線に汽車が走る事は二度となく残念です。この「汽車ぽっぽ」を歌い、御殿場線の様子を伝えて行きたいものです。

                           ▽御殿場線谷峨駅 (1997年8月11日 池田小百合撮影)

        ▽谷峨駅近くの使用されていないトンネル。昔は複線だった。


 【童謡歌手・本居若葉さん逝く】
 本居若葉さんは、2011年7月9日、心筋梗塞で亡くなりました。享年九十二歳。自宅は神奈川県大和市南林間でした。
 童謡「青い眼の人形」「赤い靴」「七つの子」などの作曲家、本居長世の三女。十代半ばまで姉妹三人で父とともに童謡の普及に尽力しました。
 晩年は童謡の会の指導などで活躍されていました。

  【御殿場線80周年「371系」ラストラン】
  2014年11月22日、夕方4時44分、松田郵便局へ行く途中、偶然、川音川の橋の上で臨時急行「御殿場線80周年371」号、371系に遭遇。カメラを持っていなかった。残念。夕やみに、白いボディが美しかった。拍手をして興奮した。黒山のカメラマンたちは男の人ばかりだった。今日も暖かい一日だった。22度だと過ごしやすい。松田山がクリスマスのライトアップになっている。
  24日、川音川の土手に写真を撮りに行った。待つこと一時間、昼11時44分、ついに371系を写真に撮った。

▲松田町の川音川にかかる鉄橋の上の「371系」
   (池田小百合撮影) 2014年11月24日、昼11時44分、晴天。

 「青春18切符で名古屋から来た」と言う男性に撮った写真を見せてもらった。「現像も自分でやる。他人にこうして見せて説明するのが楽しみ」。「みんなが撮影したいのは正面のプレート、真ん中の二階建ての車両」。「初日22日は晴天で、富士山をバックに撮れた」「松田駅ではセレモニーをやっていて、人が多くて写真が撮れなかった」という説明だった。なるほど。撮影者のみんなが三脚と立派なカメラを二台持っていた。 その後、家の二階の窓から23日の上り、24日の下りを見ることができた。
 29日は雨。ラストランの30日は曇り。鉄道ファンのドキドキ、ワクワク感を乗せ、白い巨体が走りぬけて行った。

  JR御殿場線(国府津〜沼津、60・2キロ)が12月1日、開業80周年を迎える。80周年といっても、路線は125年前の1889年からある。東京と神戸を結ぶ東海道線の一部として開業。16年の歳月をかけて箱根の麓に全長7・8キロの丹那トンネルができ、1934年に開通。御殿場回りは本線からローカル線になった。第二次大戦中には鉄材教出のため複線の片側が撤去され、今も単線のまま。 標高455メートルの御殿場に上るため山北駅で汽車の後ろにもう一つ後押しの機関車をつけた。どの急行も山北駅に停まったので、山北は、おおいに栄えた。蒸気機関車は戦後も、1968年に電化されるまで活躍した。記念としてD52が山北駅脇に展示されている(平成26年(2014年)11月30日(日曜日)神奈川新聞参考)。


著者より引用及び著作権についてお願い】     ≪著者・池田小百合≫

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七つの子

作詞 野口雨情
作曲 本居長世

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/04/05)


  夕暮れに山のねぐらに飛んでいくカラスを指さして、子どもと一緒に歌えば、心がなごみます。親から子へ伝えたい美しい童謡です。「七つの子」を歌いながら子育てをし、その子どもたちが歌いながら育って、温かい思い出がはぐくまれることを願わずにはいられません。子どもが小さければ小さいほど、親のあたたかな声かけは効果があります。
 歌い方は、どうなっているのでしょう。調査してみることにしました。

 【原形の「山烏」は】 
 原形といわれている「山烏」は、どのような詩だったのでしょう。
 野口存彌著『父 野口雨情』(筑波書林、1979年1月15日発行)によると次のようです。
 “明治四十年初頭には、詩集『朝花夜花』第一輯、第二輯を相次いで刊行している”(14ページ)。
 “明治四十年初頭に刊行された『朝花夜花』第一輯には、後年の「七つの子」の原形となった「山烏」が収録されている”(38ページ)。

       烏なぜなく
       烏は山に
       可愛い七つの
       子があれば  

 (註)39・79ページ いずれの「山鳥」も七文字「可愛い七つの」と記述。

 野口存彌著『野口雨情 詩と人と時代』(未來社。1986年3月25日発行)によると次のようです。
 “明治四十年(1907年)、一月から三月にかけて『朝花夜花』第一編、第二編を出版。第一輯に「焼山小唄」「おたよ」「旅の鳥」「夕焼」「河原柳」「山烏」の六篇、第二編にも「日傘」「鳴子引」「田甫烏」「沢の螢」「萱の花」「三度笠」の六篇の口語定型詩を集めた。この『朝花夜花』によって生涯の詩作の基盤を確立させたとみることができる”(282ページ、野口雨情年譜による)。

 “第一編、第二編のあわせて二冊からなる『朝花夜花』は明治四十年初頭の刊行であるが、・・・『しらぎく』明治三十九年一月号で七・七・七・五音による「二十六文字詩」の詩型(これは徳川中期に整調された俚謡の詩型である)を絶賛していた雨情が、この前後、「山烏」のほかには、その詩型によって目立つような作品を書いていないのは、奇妙と言えば確かに奇妙である。しかし、現実には七・七・七・五音による「山鳥」の詩を創出し得ていたところから、この詩型を絶賛することができたのだと私は考えている。
 一見措辞も単純で、詩のかたちとしても簡潔きわまりない「山烏」が、単に後年の童謡「七つの子」の原型だという書誌学的な問題をこえ、計りしれないほど深い意味を帯びた詩編だったことが判る。(233ページ)。
 雨情の童謡観はこの詩篇を書くことによって確立したのであり、雨情のその後のすべての童謡はこの一篇の詩篇に根ざしていると言っても過言ではない。”(234ページ)に「山烏」の詩が出ている。ここでも七文字「可愛い七つの」の記述になっている。
  (註)“七・七・七・五音より成る「二十六文字詩」の詩型”は、言葉数をそろえることで、リズムが生まれ、詩にメリハリがつく。
 保存本がないので原形は正確にはわかっていません。そのため、野口存彌著では、第一輯、第二輯と書いてあったり、第一編、第二編と書いてあったりしています。

 【『朝花夜花(あさばなよばな)』について】
  野口雨情は、大正十一年一月号の『金の船』(98ページ)で、読者からの「わたし共の知人中には、童謠は子供だましとしか考へてゐない人が多いのです。童謠に對して本當の意義のある所を聞かせて下さい」という意味の質問に対して“童謠は子供だましの唄ではない。”と繰り返し力説しています。
  “童謡は、決して子供だましの唄ではない。童謠の中にはほんたうの日本の詩謠としての素質が含まれてゐると云ふことに氣がつきました。そこで私は「朝花夜花」と云ふ童謠と民謠のパンフレットを發行して詩壇の反省を求めましたが、その頃は飜譯文藝の混沌時代で誰一人耳を傾けてくれてがありませんでした。・・・その後十幾年間、何人も童謡を口にする人はなかつたのでしたが、遂ひ二三年前になつて、初めて、童謠は子供だましではない純眞な藝術的素質をもつた詩謠であると云ふことが認められたのでした。”と書いている。
← 『金の船』大正十一年一月号(正月號)第四巻第一號
  表紙「僕の歳」岡本歸一

  <『朝花夜花』の考察>
  『朝花夜花』は、童謠と民謠のパンフレットだったことがわかります。童謠と言う表記があることに注目。月刊か、何編出版したか、出版社名不明。
  “その頃”と言っているのは明治四十年、“その後十幾年間”は十四年間、“遂ひ二三年前になつて”は大正十年、“初めて、認められた”童謡は「七つの子」でしょう。
  「山烏」発表(1907年)から「七つの子」発表(1921年)まで十四年かかっている。“推敲を重ねた雨情”ともとれるが、それほど単純な事ではない。雨情が書いた大正十一年一月号の『金の船』の文からは、“童謠は子供だましではない純眞な藝術的素質をもつた詩謠である”と認められるまでに十四年かかったと読める。雨情は、「七つの子」を発表した時、「これぞ童謡」と言いたかったのでしょう。「七つの子」は、それほど深い意義を持っていた。

 <藤田圭雄の『朝花夜花』の考察>
 藤田圭雄著『童謡の散歩道』(日本国際童謡館発行)には『朝花夜花』のことが、さらに詳しく書いてあります。
 “『定本野口雨情』の解題によると、全部が改作された上で『別後』(大正十年二月十一日 尚文堂=交蘭社ともいった)に収録されているのだが「山烏」だけは入っていません。『朝花夜花』十二篇の中、たった一篇だけどうして『別後』に入っていないのか。あるいはそのころもう、のちの童謡「七つの子」としての改作の構想が定まっていて民謡集からは抜かしたのでしょうか。定本をみても「山烏」の『朝花夜花』での原形はどんなだったか正確には分りません。”
金の船
 ●2016年7月25日84・85『雨情会会報』(5ページ)には、野口雅夫「父の思い出」『雨情』創刊号一九五一年よりが紹介されている。“「山烏(やまからす)」の詩、「可愛いい七つの」”は、八文字の記述になっている。
 ●“これは大正十(一九二一)年の『金の船』十月号に「七つの子」として掲載され”の“十月号”は間違い。正しくは七月号。
  (註)『雨情』創刊号一九五一年は、『雨情会報』第一号(一九五六年十月一日発行)や『民謡春秋』第一号(一九五三年八月一日発行)とは違うものです。

  【「七つの子」発表と収録】
 雑誌での発表と、単行本への収録が同時。
  ・島崎藤村 有島生馬 監修『金の船』大正十年七月号(東京 キンノツノ社発行)第三巻・第七号(大正十年七月一日発行)に詩と曲が同時に発表されました。→『金の船』大正十年七月号 表紙・岡本歸一「お池のあひる」
  ・大正十年六月五日刊行の野口雨情の第一童謠集『十五夜お月さん』(尚文堂=交蘭社ともいった)に収録。


▲岡本歸一の挿絵、七羽の子烏が描かれている。

 【烏を愛した】 
 黒いカラスの鳴き声は、不吉なことがおこると嫌われています。しかし、野口雨情は、それを題材にして詩を作りました。雨情にとって子どものカラスは、「丸い目をした いゝ子」というかわいい優しい鳥であり、親のカラスの鳴き声は愛情たっぷりに聞こえたのでしょう。その鳴き声は、子どもに対してどの親も抱いている夢や希望、祈りです。カラスの子どもへ寄せる愛情が、人間の親の情として伝わってきます。
 雨情は、次のような言葉を残しています。 “全身がまっ黒だから気味が悪いと申しやすが、あの色は昔から、ぬば玉の黒髪と言ったり、烏の濡れ羽いろ、と云って日本の美女の髪の象徴として珍重されている色です。目玉だって他の鳥と変りありゃせん。めんげえ目玉じゃござんせんか。啼き声が濁ってるようで嫌(いや)らしいと云いやんすが、他の鳥だって声の悪いのは居りやんすよね。声のいい悪いは人間だって同じでしょ。”(泉漾太郎著『改訂版 野口雨情回想』(筑波書林)より抜粋。この本は、童謡研究者は必見です。)

  【「七羽」か「七歳」か】
  「七つ」について、「七羽」という数の意か、「七歳」という年齢の意かという議論があります。

 <鳥類学博士の清棲幸保の意見>
 “―烏は卵を四ッしか産みませんねえ。
  ―烏ばかりか別な烏でも七歳と云えば人間の青年期でしょうね。
  ―雨情さんが、この歌を作られたとき、その山に、あっちの親の子、こっちの親の烏の子が遊んでいたのかな。"(泉漾太郎著『改訂版 野口雨情回想』(筑波書林)より抜粋)。

  <金田一春彦の意見> 七歳説
 “標題の「七つの子」とは、7才の子どもの意味で、7羽の子どもの意味ではなかろうと思う。狂言小唄に「七つの子が物言うた」というのがあり、娘といえば十六というように、子供と言えば七つというのが普通の考えだった。烏が七才になったから年寄になるというのは今のおとなの考えで当時は、母親が「おまえと同じ七つよ」と言っているものと私は解する。”(金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)より抜粋)。
 したがって、この本の表紙絵の中心は家で、描かれているカラスは三羽です。親子でしょうか。
  ▲金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)
   装丁は金田一珠江。

 <藤田圭雄の意見> 七羽説
 以下は、藤田圭雄著『日本童謡史T』(あかね書房)に、6ページに渡って金田一春彦の意見に反論しているものです。

  “ ・・・「山の・・・」ではじめのメロディーにもどるので、その部分一寸アクセントが反対になっているが、後は完璧である。それだけに「ある」か「ゐる」かでは、曲の方も変らなくてはならない。
 あるいは、「七つ」というのは、きっちりした数をいうのではなく、不特定の「たくさん」という意味かとも思える。 ・・・「山の古巣に/いつて見て御覧/丸い目をした/いい子だよ」ということになると、やっぱり、新作の場合は、この「可愛七つの子」は烏の子と思いたい。そしてそれだったら題名を「烏の子」としてほしかった。この場合、「七つ」は「たくさん」の意味で、烏が卵を七つも産むのはおかしいというとがめ立てはしないでもいいだろう。しかしともかく、こういう日本語のあいまいさはこまる。”

 この論文は、藤田圭雄が書いた“「夕焼け小焼け」の小焼けとはなにか?”という論文と同じように優れているので、あらゆる出版物で使われています。中には本居長世と『金の船』の編集発行人の斎藤佐次郎の会話として物語風におもしろく書き直した物まであります。「ものがたり」と知らない人は、本当の出来事と信じてしまいます。困ったことです。研究者は、優れた文章と認め、それを使う時には、出典を明らかにしてほしいと思います。それは、研究の当然のルールですが、童謡や文学方面の研究書ではなかなか徹底されません。

  <野口雅夫の意見>
 雨情の長男・野口雅夫(高塩ひろの子供)は、次のように書いています。
 “植林の好きな父は、よく私を連れて山に行きました。モンペをはいた父の後から弁当箱をさげてついて行ったものです。あの頃は、カラスがずいぶんおりました。大きな松の木を中心に、降りてくるのもいれば、飛び立っていくものもあり、それはそれは賑やかなものでした。父はその様子を眺めながら「雅夫、カラスはなんて鳴いているんだろうね」と言うのです。後の「七つの子」は、群がる裏山のカラスを歌ったものだと思います。その時の父は、カラスの鳴き声を「可愛い可愛い」と聞いたのでしょう。” (野口雅夫著「没落をうたった「黄金虫」父・雨情の童謡」より抜粋。『太陽』1974年1月号(新年特別号)128特集 日本童謡集(1973年12月12日発行、平凡社)に掲載)。

  <雨情の孫の不二子さんの意見>
 雨情の孫の不二子さんによると、モデルは、父・雅夫(雨情の長男・明治三十九年生まれ)ではないかとの事です。雨情は、大変子煩悩で、いつも子どもの事を気にかけていました。
 “「七つの子」は、山に杉を植えに行ったときの情景と重なります。雨情は、木は人間と同じく生きているということを長男の雅夫に教えながら、同時に雅夫と一時期別れねばならない辛さを、可愛いと鳴くカラスに重ね合わせます。その時、雅夫は七歳でした。「七つの子」は、七歳の雅夫だったのかもしれません。・・・親子の愛情の歌だと、長く伝えて行きたいですね。”(雑誌『ウォーキング』2002年9月号(講談社)より抜粋)。

 <野口存彌の意見>
 雨情の三男・野口存彌(再婚した中里つるの子供・昭和六年生まれ)は、次のように書いています。
 “私自身は、帯ときの式を迎えた七歳の女児をさすものと解釈している”(野口存彌著『父 野口雨情』(筑波書林)による)。
 昔の子供は、着物に付けヒモを付けて着ていました。女の子は七歳の十一月には、その付けヒモを取って帯を締める帯解き式がありました。男の子は五から九歳の間に行なった。 元気に育てと願う親心です。「烏」を擬人化している詩なので、「七歳の女の子」のことでもよいのです。

  【雨情自身が明確にしている】 
 「七つの子」について雨情自身の言葉が残っています。
 <親の帰りを待つ沢山の子カラス>
 雨情は、大正十四年七月廿五日刊行『童謠と童心藝術』(同文館)の第五章「童謠鑑賞の實際」の中で、『七つの子』について内容の説明をしています。
 “靜かな夕暮れに一羽の烏が啼きながら山の方へ飛んで行くのを見て少年は友達に、「何故何故烏はなきながら飛んでゆくのだらう」と尋ねましたら「そりあ君、烏は、あの向ふの山に多さんの子供たちがゐるからだよ、あの啼き声を聞いて見給へ、かはいかはいといつてゐるではないか、その可愛い子供たちは山の巣の中で親がらすのかへりをきつと待つてゐるに違ひないさ」といふ気分をうたったのであります”。

 <言葉の音楽から「七」にこだわった> 
 『子守唄』という作品の内容の説明で、雨情は「七つ」について次のように書いています。
 “歌詞中七つとあるのは七歳と限ったのではなく、幼い意味を含ませたのであります。三歳としても五歳としてもよろしいですが、言葉の音楽から七歳とした方が芸術味を豊かにもたせることが出来るからであります。芸術は、数学ではありませんから、七つといえば、必ず七歳と思うのは、芸術に理解なき考えであります”(藤田圭雄著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)より抜粋)。  
 ここで、雨情が「言葉の音楽」と書いているのに注目してみましょう。
 「かアらアす なアぜなアくの」「なアなアつの 子がア アるかアらアよ」。語尾が「ア」列の母音で構成され韻を踏んだ明るい響きになっています。つまり、『七つの子』の場合、「三つ」や「五つ」ではなく、最初から必要な言葉は「なアなアつ」だったのです。雨情は、「七」という数にこだわり、詩をまとめたのです。
 「子があるからよ」も同じと考えられます。「子がいる」より「アる」の方が、明るい響きです。

 <江戸時代の子守唄がヒント> 泉漾太郎が雨情から直接聞いた話では次のようです。
 “―江戸時代の子守唄でしたかね。
    六っ七っは 可愛いさかり
    九っ十は こにくらし
 これが、かぎ(ヒント)でがした。したが七羽でも、七歳でも、歌ってくださる方がなっとくされりゃ、それで、よござんしょ―。”(泉漾太郎著『改訂版 野口雨情回想』(筑波書林)より抜粋)。
 雨情自身がこの議論に終止符を打っています。“「七つの子」の七つは七羽か、それとも七歳か?”というようなクイズは、ばかばかしいものです。

 【本居長世が作曲】 
 本居長世が作曲しました。
 ●小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謠曲集』(春秋社)の解説に書いてある「大正十一年三月作」は間違い。

 【曲の発表】 
 島崎藤村 有島生馬 監修『金の船』七月号(東京 キンノツノ社発行)第三巻・第七号(大正十年七月一日発行)に詩と曲が同時に発表されました。したがって「大正十一年三月作」は間違いということになります。

  【曲の構成について】
 ト長調、四分の四拍子。ABAの小三部形式で作曲されているので、最初と最後のAの部分は少し強めに、中間部のBの部分は弱めに歌うと日本風な旋律が生きてきます。ト長調の西洋音階で作られた曲というより、日本旋法の感じの曲です。

  【楽譜の初出は、これだ】
 『金の船』掲載の詩は、岡本歸一の挿絵、七羽の子烏と共に、多くの出版物に出ていますが、楽譜を見ることはありません。そこで、ほるぷ出版の復刻版 雑誌『金の船』、『金の星』を購入しました(2010/04/03)。 私、池田小百合は、その楽譜を見て驚きました。楽譜は、「かーはい ななーつの」で、雨情が「古巣に」と書いた部分は、楽譜では「ふーるすへ」になっていたからです。


  ★金の星童謠曲譜集 第二輯 『一つお星さん』(金の星出版部、大正十一年十一月十日発行)に収録の「七つの子」の楽譜はどうなっているのでしょう。所蔵しているのは、『野口雨情記念館』『大阪国際児童文学館』。現在調査中です(2010年3月31日記)。『大阪国際児童文学館』は閉館です。『大阪府立中央図書館 国際児童文学館』として五月オープンに向けて準備中で利用できません。

 2010年4月9日、『野口雨情記念館』から本居長世著 金の星童謠曲譜集 第二輯 『一つお星さん』(金の星出版部、大正十三年十一月十日初版発行/大正十三年五月二十五日六版)の表紙・奥付・「七つの子」の歌詞と楽譜の複写が送られてきました。ありがとうございます。

 ●初版発行が大正十三年十一月十日で、六版が大正十三年五月二十五日 なのは、おかしい。古い他の出版物でも奥付の間違いがしばしば見られます。
 インターネットで検索すると、大阪国際児童文学館の書誌情報の出版事項には、「東京 金の星出版部1922/11/10」と書いてあります。手持ちの本居長世著 金の星童謠曲譜集 第一輯『人買船』の初版も大正十一年十一月十日です(大正十四年九月一日八版)。
 金田一春彦著『十五夜お月さん』(三省堂)によると、『金の星童謡曲譜集』第一輯『人買船』、第二輯 『一つお星さん』、第三輯『青い空』以上三冊は、大正十一年に出版された。竹久夢二の表紙絵もあったようです。
 (註)金の星出版部により曲譜第一輯、第二輯を大正十一年(1922年)十一月十日発行。ついで金の星出版部は大正十二年一月に第一輯、第二輯の再版、第三輯の初版発行。


 表紙絵は、小人が花を持っています。
 歌詞は、「可愛(かはい)七つの」
 「古巣 に」となっていて、
 『金の船』七月号掲載の詩と同じでした。
 楽譜も「かーはい」 「ふーるすへ」となっていて、
 『金の船』七月号掲載の楽譜と同じでした。

上記、金の星童謠曲譜集 第二輯『一つお星さん』は六版。表紙右下には、
金の星社版とあるが、初版にはない。また、初版とは「第二輯」の位置が異なる。
初版には作曲・作謠者名がない。初版の奥付に第三輯までの広告がある。
▲『一つお星さん』初版(古書店 紙の蔵カタログより) 
初版の情報は「池田小百合なっとく童謡・唱歌」愛読者の方から教えていただきました
(2016年3月14日)

 ★本居長世著『本居長世作曲 新作童謡 第十三集』(敬文館)大正十二年六月二十八日発行は、所蔵図書館不明で調査中。歌詞と楽譜を見たいものです。
 『本居長世作曲新作童謡』(敬文館)は、第一集から第三集まで大正十年に刊行、第四集から第九集まで大正十一年に刊行。(第六集は大正十一年六月五日発行)。第十集から第十三集を大正十二年に刊行。(第十集は大正十二年一月十五日発行。第十一集は大正十二年一月二十五日発行)。
 第十三集は大正十二年六月に出ているが、以後は関東大震災(大正十二年九月一日)のため、中止になった。

 ★著者・池田小百合は、第十三集を探しています。所蔵図書館を教えて下さい。
   お持ちの方は連絡をして下さい。ぜひ見たいと思っています。よろしくお願いします。

 本居長世は、新しく曲集を出版する時、初出の楽譜を今歌われているように書き直して掲載している。他の作品と同じように、「かーわい」を「かわいい」に直して掲載した可能性がある。この楽譜集が発見されれば、一大飛躍となる。
 たとえば、童謡『赤い靴』(野口雨情作詞)で、長世が「いまでーは」と「今」をひとまとまりの言葉として作曲した部分は、なぜ「いーまでは」と歌われているのでしょうか。 それは、愛唱されるが故の、ほほ笑ましい間違いではありません。
 最初に収録した『本居長世作曲 新作童謠 第十集』(敬文館)大正十二年一月十五日発行では「いまでーは」としましたが、次に収録した『金の星童謠曲譜第四輯 赤い靴』(金の星社)大正十三年四月二十三日発行では、「いーまでは」に改訂しています。この改訂は長世がしたものでしょう。現在全ての出版楽譜がこれにならい「いーまでは」とし、歌われています。
 
  『本居長世作曲 新作童謡 第十三集』の手がかりは一つだけある。松浦良代著『本居長世』(国書刊行会)で、カラスの挿絵(木の上で擬人化された一匹のカラスがクラリネットを吹いている)と奥付を見る事ができます。

発行所
敬文館書店

印刷者
正木 類

発行者
樫村喜久太郎

著者
本居長世

大正十三年十一月一日
訂正五版発行
大正十二年六月廿八日発 行
大正十二年六月廿五日印 刷
                         ▲『本居長世作曲 新作童謡 第十三集』の「カラスの挿絵と奥付」 

 三重県松阪市の「本居長世メモリアルハウス」の館長松浦良代氏に問い合わせた所、次のような返事をいただいた。
 「当方は、二〇一〇年に全ての資料を東京上野の「旧奏楽堂」に寄贈し、閉館致しました。本居家の資料も同様です。現在は、旧奏楽堂で資料保存と整理の段階だと思われますので、おそらく閲覧はできないと思います。お役に立てずに申し訳ございません」(平成二十四年八月二十九日着)。
 翌日、平成二十四年八月三十日木曜日、東京上野の「旧東京音楽学校奏楽堂」に行った。当然だが『本居長世作曲 新作童謡 第十三集』は公開されていなくて閲覧できなかった。対応してくれた青年が、「国立国会図書館にあるのではないか」と発言をしたが、すでにそこにないことはわかっている。
 「小田原から来たのですが」と粘ったが、「電話で確認していただければよかったです」「ご遺族の方との約束で、全て整理できるまでは閲覧させないということで」と簡単に断られた。対処の仕方が冷静だった。他にも閲覧希望者が大勢あるのだろう。公開が待たれる。
 現在(平成二十四年)は、<赤い靴>の直筆譜や家族写真が展示されている。説明を十二時までかかって書き写した。
 そして「旧東京音楽学校奏楽堂」のホールを見学した。木のぬくもりのあるホールだ。ピアノのリハーサルが行われていた。音が明るく響くホールだ。このホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台だ。
 トイレは「便所」と漢字で書いてあった。木のドアを開けると、清掃の行きとどいたトイレがあった。成果のないまま「旧東京音楽学校奏楽堂」を後にした。

 インターネットで「旧東京音楽学校奏楽堂」を検索すると次のように書いてある。 「本居長世のご遺族より約九百点にわたる音楽資料を寄贈いただき、常設展示室を開設しました」「平成二十五年四月以降のホール貸出し及び入館を停止させていただきます」。老朽化したので改造築予定のようです。受付の人が「いつ開館するかわかりません」と言った。『本居長世作曲 新作童謡 第十三集』は、そこにあるのに閲覧できない。

▲奏楽堂 ▲奏楽堂 二階ホール
   
  【「かわいい」と歌われている理由】 
 では、「かわいい」と歌われているのはなぜでしょうか。何か理由があるはずです。 昭和六十二年四月四日発行、金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)に、『七つの子』が収録してあります。これには、「かわいい」そして「古巣へ」となっています。

                     ▼ 金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社) 楽譜と歌詞

  【如月社版の検証】 
 金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)の解説には次のような重要な二つの事が書いてあります。

  <その1 「古巣へ」について>
 注目したいのは、“作者の野口雨情と相談しながら作った曲だという。”の部分です。何を相談したのでしょう。考えられるのは雨情が書いた「古巣に」を、作曲の時「ふーるすへ」にする相談だったのでしょう。日本語は、一字でも違うと、微妙に意味が違ってしまうものです。それで、『金の船』の楽譜は「ふーるすへ」となっているのです。
 現在出版されている全ての楽譜は「ふーるすへ」となっていて、歌われています。

  <その2 「かわいい」について>
  “2行目の歌詞は初めての発表の時は「かわい七つの子」だったのが、のちに『日本童謡曲集』から「かわいい七つの子」と節付けされている。”
 初めての発表『金の船』の詩は、「可愛七つの 子があるからよ」となっています。楽譜も「かーはい」です。
 のちに出版された、昭和五年一月十五日発行の小松耕輔編『世界音楽全集 第11巻 日本童謡曲集』(春秋社)を見ると、解説のとおりに、2行目の歌詞は「かわいゝ七つの子があるからよ」、楽譜は「かわいいななーつの 子があるからよ」となっています。 つまり、如月社版は、春秋社版にそろえて出版したようです。

 (註) 如月社(きさらぎしゃ)=長世の名声が高まるに連れて、教え子でなくても、長世を慕ってその周辺に集まってくる者がふえた。長世は自分を「本居如月」と号していた。彼はそれを自分中心とする音楽グループの名にも流用して、「如月社」と呼んだ。如月、旧暦の二月は彼の大好きな季節だった。大正七年(一九一八)二月十七日に創立された。大和田愛羅、弘田龍太郎、中山晋平、梁田貞、・・・などが同人に加わっていた。彼は、当時どんどん流入してくる西欧音楽を参考にして、新しい日本の音楽を作ろうとしていた(金田一春彦著『十五夜お月さん』(三省堂)より抜粋。この本は、本居長世の業績が一目でわかる力作です。研究者は必見です。・・・金田一春彦自身もこの如月社の末席にいて、歌の指導を受けたが、長世を困らせていたようです)。 現在は、発行所『如月社』として本居長世童謡選集『七つの子』他を出版している。

  【小松耕輔編『日本童謡曲集』の検証】
 昭和五年一月十五日発行の小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)では、2行目の歌詞は「かわいゝ七つの子があるからよ」、「古巣へ」
 楽譜も「かわいい」、「フールスヘ」となっています


▲小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)
楽譜と▼歌詞

  【「かわいい」「古巣へ」と歌われている事について】

 <雨情は知っていた>
  「証城寺の狸囃子」を作曲した中山晋平は、雑誌に発表するにあたって雨情の了解を得る必要があったが、雨情はあいにく旅行中で連絡が取れませんでした。本当に困ったようです。
 「七つの子」の場合は、如月社版の解説に、“作者の野口雨情と相談しながら作った曲だという”と書いてあるので、「古巣へ」は、雨情の了解があったものと思われます。 また、雨情は昭和二十年まで生存していますから、「かわいい」と歌われている事を知っていました。不本意なら、“「かわいい」と歌うのは誤りである。”と反論をしていたでしょう。雑誌に論文を次々発表していた雨情なら、反論を書いたはずです。

 <長世も知っていた>
 長世は、本居長世編『世界音楽全集 第二十四巻 日本童謡曲集U』(春秋社)昭和六年五月十五日発行と、本居長世編『世界音楽全集 第十七巻 日本唱歌集』(春秋社)昭和五年十一月十五日発行の編集をしていますから、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年一月十五日発行の楽譜を見ているはずです。「かわいい」と歌われている事も知っていました。誤植なら正していたはずです。
 同じ事が、『赤い靴』でも一時話題になりました。長世の自筆楽譜が「いまでーは」と「今」を、ひとまとまりの言葉として作曲してあるのに対し、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)収録の楽譜は「いーまでは」となっています。現在、全ての出版楽譜が「いーまでは」となり、これで歌い継がれています。長世は、「いーまでは」と歌われ大ヒットしている事を知っていました。

  (註)春秋社では、昭和四年、音楽界を総動員して『世界音楽全集』という壮大な楽譜集を企画・刊行しました。はじめは十八巻の予定が、第八十九巻以上にも及んだようです。
 金田一春彦著『十五夜お月さん』(三省堂)には、『世界音楽全集』について詳しく書いてあります。金田一が『世界音楽全集』にこだわる理由がわかります。この論文は本居長世の立場に立って書かれていて、圧倒させられます。
 研究者は、『世界音楽全集』を見ずして童謡は語れません。この金田一春彦著『十五夜お月さん』(三省堂)に書かれた『世界音楽全集』についての文章も読んでください。



                     
▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謡画集』の川上四郎の挿画

▲講談社『エホン文庫 童謡画集 第1号』1946年より 安泰 画


 【教科書の扱い】 
 教科書では、どのように歌うようになっているのでしょうか。

 <昭和30年〜昭和60年>
  ・昭和30年8月13日文部省検定済 昭和33年発行『改訂版 しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)掲載の『七つの子』の楽譜も、「かわいい」「ふーるすへ」となっています。この教科書で歌った子供たちは、現在孫を持つ世代です。歌いながら楽しく遊ばせているでしょうか。


▲『改訂版 しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)昭和33年発行より

▲『新編 新しい音楽3』(東京書籍)昭和62年発行掲載の「七つの子」の楽譜

  ・昭和60年3月31日文部省検定済 昭和62年発行『新編 新しい音楽3』(東京書籍)掲載の『七つの子』の楽譜は、「かわいい」「ふーるすへ」となっています。この教科書で歌った子供たちは、現在子育ての真っ最中の世代です。歌いながら楽しく子育てをしているでしょうか。

 上記の教科書「かわいい」を使った世代は、親子が同じ歌い方の教科書でしたから、なにも問題なく一緒に歌う事ができます。これを間違いとして、「かーわい」と歌わせるのには無理があります。

  <現在>
  ・平成16年3月10日検定済 平成21年1月20日発行 『高校生の音楽V』(教育出版)では「かわいい」「ふーるすへ」となっています。四部合唱用に編曲されています。編曲は篠原真。
  ・平成16年2月29日検定済 平成21年2月10日発行 『小学生の音楽3』(教育芸術社)では「かーわい」「ふーるすへ」となっています。
  ・平成16年2月29日検定済 平成21年1月20日発行 『小学音楽 音楽のおくりもの3』(教育出版)では※「かーわい」「ふーるすへ」となっています。楽譜の下に“※「かわいい」と歌われることもあります。”という註があります。
 挿絵は、親の烏が一羽で、巣の中に四羽の烏が描かれています。“七つの子、たくさんの子、またはおさない子など”という註があります。
 平成の子供たちは、学校で「かわいい」と「かーわい」の両方で歌うことになります。小学校の教科書が「かーわい」を採用したのは、編集者がオリジナルにこだわったからです。

  【学校で教えても定着しなかった例】

 <『ゆりかごの歌』の場合> 
 昭和二十八年文部省検定教科書『二ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和三十年発行を見ると、「つき」が一つの音符にあてられています。「月」をひとまとまりとして歌うように指導したようですが、定着せず、現在は「きーろい つーきが かーかるよ」と歌われています。

 <『靴が鳴る』の場合> 
 『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社、昭和28年文部省検定、昭和30年発行)の楽譜を見ると、「いけーば」「かわーいい」「おそーら」になっています。これも定着せず、現在は「ゆけば」「かわい」「みそら」と歌われています。

 【レコード情報】 
 以下の情報は、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所有のレコードによる。
 情報をありがとうございます。
  ・コロムビア C154 安田祥子・・・「かーわい」と歌っている。
  ・コロムビア AK16 深瀬悠子 川田孝子・・・「かーわい」
  ・ビクター B448 小鳩くるみ(編曲 平岡照章)・・・「かわいい」
  ・ビクター B84 小鳩くるみ(編曲 保田正)・・・「かわいい」
  ・キング 57024 河村順子・・・「かわいい」

  【結論 「かーわい」と「かわいい」で歌ってみよう】
 <オリジナルを追求して歌うと> 日本コロムビア製作のCD『甦える童謡歌手大全集』の安田祥子/ひばり児童合唱団の歌を聴いてみると、「かーわい」と歌っています。雨情が「古巣に」と書いた部分は、「ふーるすへ」と歌っています。川田正子も『金の船』の楽譜のとおりです。『金の船』の楽譜が、オリジナル楽譜です。オリジナルを追求すれば、この楽譜で歌う事になります。では「かーわい」と歌ってみましょう。いかがですか。

 <CD『本居長世全集』真理ヨシコの歌は>
 真理ヨシコが長世の曲80曲を一人で吹き込んだCDが発売されています。(1994 発売元 日本コロムビア)の解説には「長世から歌い方の指導を教わったこともある」と書いてあります。
 「かわいい」「ふーるすへ」と歌っています。長世には、「かわいい」の歌い方について何か書いておいてほしかったと思います。長世の代りに金田一春彦が「かわいい」と歌うのだとアピールしています。このCDの解説には次のように書いてあります。
 “3行目の歌詩は初めての発表の時は「かあわい七つの子」だったのが、のちに「世界音楽全集」の一冊小松耕輔編『日本童謡集』から「かわいい七つの子」と節付けされている。・・・亡き本居長世の魂は、真理ヨシコのこの歌唱を衷心喜んでいるものと思う。”
 では、「かわいい」と歌ってみましょう。いかがですか。

 【雨情が残した言葉】 
 雨情の長男・雅夫によると、次のようです。
 “民謡や、その地方の草刈り唄など、民衆の知恵と実生活からにじみ出た歌などを集めていた父にとって、カラスにせよキツネにせよ友達だったのです。父はよく「童謡は歌うために生まれたもの、唱歌は歌わすために作られたものである」と言っておりました。”(雑誌『太陽』NO128特集 日本童謡集(平凡社) 野口雅夫著『没落をうたった「黄金虫」父・雨情の童謡』より抜粋)。
 また、泉漾太郎によると次のようです。
 “「童謡は童心から生まれて 童心を培う」と書かれて童謡作法の生命を授けてくださった。”(泉漾太郎著『改訂版 野口雨情回想』(筑波書林)より抜粋)。

  【歌碑について】
 雨情の母校・北茨城市立精華小学校(元・磯原小学校。雨情が通っていた頃は、豊田尋常小学校磯原分校)の歌碑は、小学生でも読めるように、ひらがなで「かわい七つの」と記されています。ここでも、雨情が書いた「古巣に」の部分は、「ふるすへ」と書いてあります。なぜ、原作どおりに「ふるすに」としなかったのでしょう。これは、雨情の詩碑なので、このような場合には、原作どおりに刻むべきです。碑の裏面に原作の詩が刻まれているようですが、一般の出版物では見る事がありません。

  ▼北茨城市立精華小学校「七つの子」歌碑(昭和四十一年一月二十七日建立 
 書は当時の大都直光校長のもの。
 子供たちは歌碑を見て「かーわい」「ふーるすへ」と歌います。それを想定して作られた歌碑です。

 雨情の孫の野口不二子さんによると、「精華小学校では、毎年一月二十七日の雨情の命日に、この碑の前で全校児童が参加して雨情祭を行ない雨情の童謡を唄って、偲んで居ります。除幕式には、雨情長男の私の父(雅夫)と母が出席し、私がその除幕をしました」。(野口不二子著「郷里・磯原の詩碑」より抜粋。『雨情会々報』NO.30昭和54年1月18日発行掲載)

 北茨城市立精華小学校の歌碑の他に、常磐自動車道中郷サービスエリアの詩碑公園、和歌山県すさみ町の「日本童謡の園」、埼玉県久喜市青葉台団地内、兵庫県たつの市の「童謡の小径」にあります。いずれも、みんなの愛唱歌として建てられたものです。

 <豊田市野口町の詩碑>
 愛知県豊田市野口町の国道153号沿いに建つ「七つの子」の詩碑は、直径一・三メートルの御影石の球を二つに割り、「七つの子」の歌詞と、雨情の孫の不二子さんが寄せた文「雨情の心情 童心清し」を彫ったもの。そして野口町と野口雨情の縁を書いた銘板の三種類が並んでいる。平成十六年十二月十二日に除幕式。詩碑には「かわいい七つの子」「山のふるすへ」と書いてある。
 
▲野口町「七つの子」詩碑   やつば池散歩道(豊田市)のブログより

 
▲中日新聞 平成16年(2004年)12月14日)

  野口家の先祖は、南北朝時代に後醍醐天皇を守って戦ったが、「湊川の戦い」(1336年)で足利尊氏に敗れた南朝忠臣として有名な楠一族の末裔で、一説には楠正季(くすのきまさすえ・正成の弟)だと言われている。正季の一族は、三河国の足助重範(しげのり)の一族を頼って足助庄の三河加茂郡野口村(現・豊田市野口町)に落ちのび、身を隠すため“野口”に改姓した。(現・野口町と足助町は国道135号を通じて隣町のような位置関係にある)。
 その後、野口家は楠びいきだった水戸光圀の時代に関東に土着し、光圀から広大な山林を拝領した。雨情は茨城県多賀郡中郷村(現・北茨城市)大字磯原一〇三番地に生まれた。
 (註)豊田市郷土史研究会編集『とよたのうた』(豊田市教育委員会、2009年3月発行)を参考にしました。愛知県豊田市在住の金山和正さんから送っていただきました。ありがとうございました。(2018年4月17日)


  【映画『二十四の瞳』で使われた】
 ≪高峰秀子主演映画『二十四の瞳』≫  
 壺井栄の小説『二十四の瞳』が、昭和二十九年に木下恵介脚本・監督、木下忠司音楽により、松竹映画になりました。瀬戸内海の小豆島を舞台に、大石先生役の高峰秀子が十二人の一年生の子どもたちと「七つの子」を歌います。音楽は監督が唱歌中心でいきましょうと提案して、多くの唱歌や童謡が使われていますが、中心になって使われているのが、「七つの子」です。子どもたちの歌声は心に響きます。これが評判になり、「七つの子」は大ヒット曲になりました。

  <「七つの子」は、どのように歌われているか>
 では、「七つの子」の部分だけをよく聴いてみましょう。
 まず、大石先生と子供たちが菜の花の咲く山の道を「七つの子」を歌いながら行くシーンがあります。このシーンは、電車ごっこをしている場面(歌われているのは「蝶々」の旋律で、歌詞は電車ゴッコ)に続くところです。
 子供たちは、「かーわい」と歌っています。みんな歩きながらなので、きちんとそろわずに、バラバラに歌っていますが、一人男の子がきわ立つ大声で、「かーわい」と歌っているのが印象的です。おそらく、そのように歌うように指導したのでしょう。

 そして、足を骨折して治らないまま「本校に転勤になる」と、別れを告げて船で帰宅する大石先生を見送るシーンでは、子供たちが「七つの子」を歌って別れを惜しみます。男先生(笠智衆)も、男先生の奥さん(浦辺粂子)も歌います。このシーンでは、「かわいい 七つの 子があるからよ・・・山の古巣へ・・・」と全部歌われます。子供の歌声はそろっています。 つまり、この映画では「かーわい」と「かわいい」の両方で歌われているのです。昭和二十九年でも、すでに両方の歌い方で歌われていた事がわかります。

 ≪田中裕子主演映画『二十四の瞳』

 田中裕子主演の松竹映画『二十四の瞳』(1987年)では、壷井栄の原作に忠実に、西條八十作詞・本居長世作曲の「烏の手紙」を使っています。原作では「烏の手紙」ではなく、「山のカラス」と言っています。音楽監督は三枝成章。
 脚本は木下恵介が書いたものを基本にして、少しだけ改変しています。監督は朝間義隆で、監督が凡庸で、子供たちのとらえかたなどは、まるで学芸会の記録映画のようです。

 大正末期から昭和初期にかけては、「烏の手紙」はよく歌われていたようですが、現在では忘れられてしまいました。高峰秀子版では、「烏の手紙」は子供が歌うには転調などもあって難しいため、「七つの子」を使う事にしたそうです。

 CD『本居長世全集』で、真理ヨシコが歌う「からすの手紙」を聴く事ができます。ピアノとの息がピッタリ合っていて、真理ヨシコの歌唱力が遺憾なく発揮されたすばらしいものです。私は、とても気に入っています。

  「烏の手紙」は雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)大正九年三月号で発表されました。大正九年三月号『赤い鳥』表紙絵は清水良雄「うららか」です。


詩「烏の手紙」 挿絵は清水良雄


 
▲楽譜「からすの手紙」 如月社版より


▲小豆島に1987年の再映画化の際のロケセットが「二十四の瞳映画村」として残されています。

▲同じく「岬の分教場保存会」が保存・管理する岬の分教場ロケセット(鈴木裕さん撮影)

  ≪黒木瞳主演の『二十四の瞳』≫
 黒木瞳主演のカラー映画(2005年、日本テレビで放映。これも松竹作品、もとNHKのディレクターだった大原誠が演出)があります。この作品は、「浜辺の歌」がキーになる歌として使われています。「映画『二十四の瞳』で「浜辺の歌」を聞く」を参照してください。

  【後記】 
 『二十四の瞳』の映画は、過去に三本作られましたが、高峰秀子主演の『二十四の瞳』が、一番優れています。みなさんも御覧ください。この映画は、反戦映画の決定版として語り継がれて行く事でしょう。男の子だって、先生だって「弱虫でいいんだ」という主張は、時代を超えて革新的なものです。
 配役表(一部を下に掲載しました)を見ると、分教場時代の一年生時の子供と本校時代の五・六年生時の子供は、ほとんど実際の兄弟姉妹を起用したことがわかります。子供たちは芝居の素人だったため、木下監督はかなりきびしい演技指導をしたようです。子供たちは、すっかり監督を怖がっていたと、高峰秀子は回想していました。優しく接してくれる助監督たちになついていたそうです。高峰秀子さんは2010年12月28日、肺がんで亡くなりました。86歳でした。



 「かーわい」と歌うか「かわいい」と歌うかについては、(『金の船』の楽譜)、(小松耕輔が編集した楽譜)、(映画『二十四の瞳』)がキーワードになっています。これからの研究者は、この三件を確認した上で、両方に耳を傾けて論文を書いてほしいと思います。
 「七つの子」も、みんなに愛唱され歌い継がれて行くことを願っています。童謡は、時代を越えて口から口へ歌い継がれて行く「生き物」だということをお忘れなく。
 過去に生まれた沢山の童謡がそうであるように、歌われなければ消えてしまいます。その時代に合わなければ消えて行きます。


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