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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
明治の唱歌 (文部省唱歌など)
   池の鯉   美しき天然   鎌倉    汽車    こうま   早春賦   ツキ   茶摘 
  二宮金次郎       ふじの山   冬の夜   星の界   蟲のこゑ   村祭  我は海の子
南能衛の略歴
童謡・唱歌 事典 (編集中)





村   祭

作詞・作曲 不詳
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌

(2012/02/18)

 【明治四十五年版】
 初出は、『尋常小学唱歌』第三学年用(文部省)明治四十五年発行に掲載。


  ・タイトルは「村祭」
  ・三番の歌詞は「治まる御代に神様の めぐみ仰ぐや村祭。
  ・ト長調(G Dur)。四分の二拍子、四分音符=84
  ・「ムラノ」「ケフハ」は、「タンタッカ」のリズム。
  ・「オマツリビ」は、「ソラシレド」=「ニ ホ 嬰ヘ イ ト」のメロディー。嬰へ( Fis)が含まれている
  ・二部形式の曲。

 【昭和七年版】
 『新訂 尋常小学唱歌』第三学年用(文部省)昭和七年発行に掲載。
  ・タイトルと歌詞は『尋常小学唱歌』と同じ。
  ・楽譜の歌詞付けが変更されている。
 「ケフハ」→「ケフーハ」、「ほうねん」→「ほうーねん」、「そうでの」→「そうーでの」

 【昭和七年 伴奏附】  北島治夫さん提供

 

 【昭和十七年版】
 『初等科音楽 一』国民学校第三学年用(文部省)昭和十七年発行に掲載。

  ・タイトルは「村祭」
  ・二番の歌詞「村はそう出の大祭。」は変更なし
  ・三番の歌詞は「治る御代に、神様の 恵みたたへる村祭。」に改訂されました。
  ・速度表記はない。
  ・調子記号はない。拍子は2だけ書いてある(四分の二拍子のこと)。昭和十七年版の教科書では拍子は2、3、4、6と書いてあるだけです。それぞれ、四分の二拍子、四分の三拍子、四分の四拍子、八分の六拍子のことです。この本で学習した人たちは、「2拍子の曲」「3拍子の曲」・・・という言い方をする。
  ・「ムラノ」「ケフハ」は、「タンタタ」のリズムに改訂。簡単なリズムになり、子供には歌いやすくなった。しかし、勢いがなくなった。
  ・「ヲサ マル」は「タッカ タタ」と、タッカのリズムが書き込まれ、言葉の付け方がわかりやすくなり、歌いやすくなった。この部分は、先生や生徒から歌い方の質問が多くあったのでリズムを書き込んだのでしょう。リズムの書き込みの改訂は大成功です。
  ・「オマツリビ」は、「ソソラレド」=「ニ ニ ホ イ ト」のメロディーに改訂。嬰へ( Fis)の音、派生音をなくし単純化したので、覚えやすくなった。
  ・挿絵から当時のお祭りの様子がわかる。

  【昭和二十二年版】
 『三年生の音楽』(文部省)昭和二十二年発行に掲載。


  ・タイトルは「村まつり」に改訂されました。
  ・二番の歌詞「村はそう出の大まつり。」は変更なし。
  ・三番の歌詞は、「みのりの秋に、かみさまの めぐみたたえる村まつり。」に改訂されました。戦後の唱歌教材選択の一般方針「(3)神道に関係のあるものを排除する」に抵触して変えられたものです。三番の歌詞の変更はそれぞれの時代を反映している。


  ・ヘ長調(F Dur)に下げられた。四分の二拍子、四分音符=84
  ・「むらの」「きょうは」は、「タンタタ」のリズム。
  ・「みのりの」は「タッカ タタ」のリズム。
  ・「おまつりび」は、「ソソラレド」のメロディー。
  ・子供でも弾ける伴奏譜がついている。お祭りの雰囲気が出ている。優れた伴奏です。
  ・作詞 作曲 不明と記されている。

 【共通教材】
 「小学校音楽共通教材(歌唱)」 「村まつり」は、昭和四十三年改訂の時、選ばれたが、次の昭和五十二年改訂の時、削除された。

 【レコード情報】 北海道の北島治夫さんから、レコード情報を寄せていただきました。ありがとうございます。

会社 番号 歌手 タイトル リズム 「賑ふ」 メロディ※2
太陽 2371 蒲田寿子 村祭り にぎおう 原曲
ニットー S1331 宮下晴子 村祭 にぎおう 原曲
ビクター B383 東京少年合唱隊 村まつり にぎわう 変更※3
コロムビア CP14 安田祥子 村まつり 一部新※1 にぎわう 変更※3
キング AB1014 高城日出子
河村順子
金子のぶ子
村まつり にぎおう 原曲
※1 3番(旧)治まる御代に神様の めぐみ仰ぐや村祭
  (新)みのりの秋に神様の 恵みたたえる村祭
安田祥子は「治まる御代に神様の 恵みたたえる村祭」と歌っている
※2 メロディ 変更とは国民学校「初等科音楽(一)」の「おまつりび」を
ソーラシレドからソーソラレドにしたもの
※3 3番の冒頭 ヲサマルを「タッカ タタ」と、タッカのリズムで歌っている


▲AB1014の歌詞カード (北島治夫氏所有)

 【レコード情報からわかること】
 現在「にぎわう」と歌われている所は、「にぎおう」と歌われていたことがわかります。旧かなづかい(歴史的かなづかい)では「にぎおう」という発音は、「にぎはふ」と表記されていました。金田一春彦は、その著『日本の唱歌(上)明治篇』(講談社文庫)の『仰げば尊し』の解説で、“「仰げば」は、文語であるから「オオゲバ」と発音するのが正しいはずであるが、「アオゲバ」と広く歌われてしまっている”と書いています。「あう」や「あふ」と表記された言葉は「オー」と発音されるのが正しいのです。しかし、旧かなづかいが忘れられる時流に従って、文部省は、昭和十七年発行の『初等科音楽(一)』の指導要領に、“「にぎはふ」は、「ニギワウ」で、「ニギオー」ではない。「ギ」は鼻濁音”としました。文字表記の通りの発音を指導したのです。これ以降、「にぎわう」と歌うように指導されていきました。

 【現在の扱い】
 “平成の合併で村が無くなり、「村祭」は音楽教科書から姿を消し、歌われなくなった。悲しい。残念。”と思っている人が多いようですが、平成22年度までは三年生の音楽教科書に掲載され、子供たちは歌っていました。

▲『新しい音楽3』(東京書籍)平成21年発行に掲載。

  ・発表以来一貫して三年生の教材。
  ・タイトルは「村まつり」。
  ・ヘ長調(F Dur)。
  ・四分の二拍子。発表以来一貫している。
  ・四分音符=80~88ぐらい。速度は、幅をもたせてある。
  ・一番と二番が掲載されている。歌詞に問題があった三番は掲載されていない。
  ・「むらの」「きょうは」は、「タンタタ」のリズム。
  ・「おまつりび」は、「ソソラレド」のメロディー。

 この音楽教科書には「ミッキーマウスマーチ」「ドレミの歌」「ねむれないおおかみ」などの新しい歌と一緒に、「ふじ山」「春の小川」「茶つみ」などの文部省唱歌が掲載されていて歌われていました。
 しかし、平成 23年度からの小学校新学習指導要領に伴う、音楽の教科書の改訂により、「村まつり」はとうとう掲載されなくなりました。北海道の北島治夫さんよりご教示いただきました。

 【福井直秋の意見】
  「読本巻五第二十二に、『マツリ』と題して村祭の模様があつて、画まで書いて居る。この歌(村祭)はこの心持を歌つたのである」。『尋常小学唱歌 伴奏楽譜 歌詞評釈 第三学年用』(大正元年9月発行)より。

 【作詞者は誰か?】 作詞者は葛原しげる説が有力です。検証してみましょう。
  葛原しげるの略歴(「夕日」参照)を見ると、次のようです。
 <合唱曲との出会い>
 明治三十七年(1904年)四月、東京高等師範学校予科乙類(英語部)に入学。東京・本郷区本郷の寄宿舎に入った。ここで初めてピアノを見、五線譜を学んだ。学内で活動していた合唱サークル、大塚音楽会に入部。二年先輩には、すでに明星で活躍していた詩人・前田純孝がいた。前田は、この音楽サークルの発起人でもあった。発表会では前田が外国の曲に詩をつけたものが演奏された。葛原は親友となった前田に影響を受けた。自分も詩を書いてみようと精進した。

 <小学校で教えた>
  ・明治四十一年(1908年)三月、東京高等師範学校(のちの東京教育大学、現・筑波大学)英語部を卒業。二十二歳。
  ・明治四十一年四月、東京高等師範学校研究科生(在籍記録あるも、一年間でも終業の記録なし)
  ・明治四十二年(1909年)四月、東京私立精華小学校訓導となる。
  ・教鞭をとるかたわら、明治四十三年に創刊された児童雑誌『小学生』の編集主任を兼任、毎月新作の童謡や童話を発表。葛原の中に、「子供たちが楽しく歌える歌を作りたい」という考えがあった。

 <「村祭」を発表>
 明治四十五年、「村祭」を発表。 “子供に受け入れられる歌詞は、理屈抜きの感覚的な言葉、擬音や擬態を反復させることが必要だ”と考えた。こうしてできた作品。
 「村祭」では、太鼓や笛の音を「どんどんひゃらら、どんひゃらら」と表現している。
 曲がつけられ、明治四十五年発行の『尋常小学唱歌(三)』(文部省)に掲載された。

 <「とんび」を発表>
 葛原しげる作詞、梁田貞作曲の「とんび」は今も愛唱されている。「とんび」では、とんびの鳴き声を「ピンヨロー、ピンヨロー」と表現している。
  「とんび」は、小松耕輔・梁田貞・葛原しげる・共著『大正少年唱歌 第一集』(目黒書店)大正七年五月二十日発行に掲載。

 <鈴木三重吉の批判>
 大正七年七月、西條八十や北原白秋を中心にした雑誌『赤い鳥』が創刊された。
 主幹の鈴木三重吉は、「唱歌と呼ぶ葛原の作品は、擬音や擬態を反復するなど芸術家の目から見れば、実に低級で文学的でない」と言った。

  <葛原しげるの反論>
 これに対して葛原しげるは次のように反論した。「童謡は児童の詩である歌である。児童が声を上げて喜び歌い心躍る児童の心の歌でなくてはならない」。芸術性を求めるあまり、大人本位の鑑賞的になりすぎる作品は、本当の童謡ではないと考えた。

 <「夕日」を発表>
 大正十年(1921年)、文教書院の児童雑誌『白鳩』の十月号に「夕日」を発表。その詩を見た室崎琴月が作曲した。
 「夕日」の歌詞には、「ぎんぎん ぎらぎら」「まつかつかつか」があり、夕日の輝きが伝わって来る。

 <葛原しげる作詞「村祭」>
 皮肉にも、鈴木三重吉が「唱歌と呼ぶ葛原の作品は、擬音や擬態を反復するなど芸術家の目から見れば、実に低級で文学的でない」と批判した言葉が、“「村祭」は葛原しげるの作品”という決め手となっている。
  「村祭」の歌詞では、「どんどんひやらら、どんひやらら」と太鼓や笛の音が表現されている。お祭りの楽しさが伝わってくる。この歌詞の中から、「どんどんひやらら、どんひやらら」を省いたら、どうですか?  

 私、池田小百合は、葛原が師範学校時代に合唱団に入っていた事、そして小学校で教えた経験がある事に注目した。太鼓の音「どんどん」に続いて、笛の音「ひやらら」と、子供たちに太鼓や笛の真似をしながら、歌い踊ってほしかったのではないだろうか。歌い踊るというのは、どの合唱団でも経験する事です。葛原は、師範学校時代にその楽しさを経験している。
 太鼓の音が「どんどん」「どん」は普通ですが、笛の音を「ひゃらら」と切り取った所に才能が光っています。

 <葛原しげるの長女の証言>
 “望月衛氏夫人(葛原しげるの長女)によると、葛原しげるは生前、「(村祭)あれは、私の作詞だ」と言っていたという”(金田一春彦 安西愛子編『日本の唱歌〔上〕明治篇』(講談社文庫)による)。

 <どこの村祭りか?>
 では、この祭りはどこの祭りでしょうか?その答えは、作曲者の方から知ることができます。

 【作曲者は誰か?】
 作曲者は南能衛(みなみよしえ)説が有力です。検証してみましょう。
 
 <赤井励の意見>
 赤井励著「讃美歌調唱歌の最後の光り~尋常小学唱歌」の「村祭」解説には、次のような記述があります。
  “3学年用。すこぶる陽気な曲で、西洋式の主和音を使用して日本の笛 太鼓の 擬音を表現したところにおもしろさがある。 この曲の作曲者について諸説あるようだが、南能衛助教授のご遺族に南が作曲したという話が残っている。ご子息によれば、課題を与えられた後の明治四十二年(1909年)10月、小学校唱歌編纂委員として群馬県に出張して、実際に祭りを観て曲想を得たという。そのときの出張命令書(10月11日付)や記念品が現在も残っている。伝聞のほか物証がある事から、私は南能衛作曲説を採りたい。歌のヒントは「八木節」あたりか?”。
 この文章は、『原典による近代唱歌集成 解説・論文・索引』(ビクター)に掲載されています。『原典による近代唱歌集成 原典印影Ⅱ』では「村祭」作詞/不詳 作曲/南能衛 文部省唱歌 となっています。
▲南能衛の群馬県出張の際の出張命令書(1909年) 
『原典による近代唱歌集成 解説・論文・索引』
(ビクター)75ページで見る事ができます。
最も重要な物証です。

 <「八木節」について>
 赤井励の記述にある“群馬県に出張して、実際に祭りを観て曲想を得た”、“歌のヒントは「八木節」あたりか?”を、もっと詳しく調べてみる事にしました。

 八木節(やぎぶし)は、栃木県足利市、群馬県桐生市・太田市を中心とした地域で生まれ、育まれた民謡である。
 八木節の発祥については諸説あるが、通説は現在の栃木県足利市にあった八木宿において、 初代堀込源太(本名渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツであると考えられている。八木節の名称は、八木宿にちなむ。当初は渡辺の名から「源太節」と呼ばれてきたが、1914年(1913年説あり)に日本蓄音器商会でレコーディングされる際に命名された。
 群馬県側では、八木節の起源は八木宿と同じ例幣使街道にある木崎宿で歌われてきた木崎節であるという。『日本民謡集』(町田嘉章、浅野建二)はこの説をとっている。このほか、江戸時代末期に流行した口説節が起源という説もある。
  一方、郷土史家の台一雄は、八木節の起源は古くから八木宿の近くの集落で古くから使われていた盆踊り歌の神子節で、これに他地域の民謡(木崎節も含む)の特徴が若干混ざったものだと主張した。台は著書『八木節 その源流をさぐる』で、従来の木崎節起源説と口説節起源説を否定している。
  (以上は フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による)。

 <「八木節」のお囃子>
 私、池田小百合は、実際に老神温泉(群馬県沼田市利根町老神)での<八木節保存会・上州追貝>の演奏を聴いて、「正しく、これだ」と確信しました。
 私には、太鼓は「ドン ドコ ドン」と聴こえ、笛は「ぴいひゃら ぴいひゃら ぴいひゃら ら」と聴こえます。

▲(上段) 「八木節」太鼓のリズム   ▲(中段) 「八木節」笛のリズム ▲(下段) 「村祭」三段目のメロディー

 これは、前奏・間奏部分のお囃子のリズムで、歌に入ってしまうと歌がメインとなり、歌を聴かせるために、お囃子の太鼓や笛は合いの手にまわります。
 つまり、葛原が書いた「どんどんひやらら、どんひやらら」は、「八木節」のお囃子の部分のリズムを切り取ったものです。
  (註)「八木節」は、アレンジされ、いろいろな演奏があります。

  <歌詞はいつできたか?>
 南能衛が、群馬に作曲のため取材旅行に行った事を示す編纂委員会の出張命令書(明治四十二年十月十一日)の年月日から推測すると、歌詞は明治四十一年から四十二年にかけての間に作られた(歌詞を応募した)ことになる。
 葛原しげるの略歴を、もう一度見てみよう。
  ・明治四十一年(1908年)三月、東京高等師範学校(のちの東京教育大学、現・筑波大学)英語部を卒業。二十二歳。
  ・明治四十一年四月、東京私立精華小学校訓導となる。 葛原の中に、「子供たちが楽しく歌える歌を作りたい」という考えがあった。

 【なぜ、南能衛は群馬に出張したか】
 前記、赤井励の記述には、“課題を与えられた後の明治四十二年(1909年)10月、小学校唱歌編纂委員として群馬県に出張して、実際に祭りを観て曲想を得たという。”とある。
 「なぜ、群馬県の祭りなのだろう?」という単純な疑問がわいた。私の住む町(足柄上郡大井町金手地区)には、七月末に、造花で飾りたてた山車の中に太鼓を敲く子供や大人が乗り、上段には横笛を吹く大人が乗り、それを大人や子供が地区全域を引き回す夏祭りの行事がある。小田原(南町)にも、箱根にも似たような祭りがあるのに、なぜ群馬県に出張命令が出たのだろう?

 <考察Ⅰ>
  課題(歌詞)を南能衛が与えられた時には、すでに、(文部省の役人、作詞委員長、または作曲委員長のうちの誰かが)作詞者から「歌詞の祭りは群馬の祭り」と聞いていて把握していた。それで、“群馬県に行き、その祭りを観て曲想を得るように”と出張命令(明治四十二年十月十一日)が出たのではないか。十月は秋なので、「村祭」は秋祭りということになる。
 作詞者とされる葛原しげると、南能衛が直接会ったり、手紙のやりとりをしたかどうかは記録がないので不明。当時、二人とも東京にいたので、会って話をするチャンスはあった。
 はたして、「群馬の祭り(八木節)」を観て歌詞を書いたのは、葛原しげるなのだろうか?

 <考察Ⅱ>
 疑い出すと切りがない。決定的証拠がないからです。たとえば、『新訂 尋常小学唱歌』第四学年用(文部省)昭和七年発行の「牧場の朝」はどうでしょうか? まだ、作詞者が判明されていません。歌詞に擬音「かんかん」「りんりん」「ぴいぴい」とある。だからといって、これだけで、“作詞は葛原しげる”と決める事はできない。
 「牧場の朝」は、明治の文人・杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)が新聞記者時代に牧場(福島県岩瀬郡鏡石町の岩瀬牧場)を訪れた時の作詞とする説がある。しかし、息子の武さんは、「『作詩したのは自分だ』という話は一度も聞いたことがありません。父は「かんかん」とか「りんりん」という擬音語を文中に、ほとんど使わない人でした」と否定している。
 このように、否定する遺族もあれば、一つでも多くと作品の奪い合いをしている遺族もある。そもそも『尋常小学唱歌』は作詞委員と作曲委員が選ばれ、合議制で制作されたため、著作権は文部省にあり、当初から著作者が発表されなかった。作者を公表しない約束で発表された物を、後の人々が騒ぐのは、いかがなものか。特に功績を残した立派な人の遺族が騒ぐのは見苦しい。たとえ名前が出てもオリジナル度がどの程度なのかわからない。
 全国の学校で歌われるために作られたのであるから、特定の場所、作者など、あれこれ詮索する必要はない。歌う側からしたら(文部省唱歌)で、なにも問題はない。だれも歌わなくなり、忘れられてしまう方が重大問題だと思う。

 【南能衛の作曲に迫る】
 楽譜を詳しく見ましょう。
  <一段目のリズムについて>
▲(上段の楽譜)明治45年版 一段目    ▲(下段の楽譜)昭和17年版 一段目

 「ムラノ」は「タンタッカ」、「チンジュノ」は「タタタタ」、「カミサマ ノ」は「タッカタタ タンウン」のリズムでできていて、二段目も同じリズムになっている。
 特に、歌で最も重要な出だしの「ムラノ」は、「タンタッカ」で、明るく軽快なリズムです。この「タンタッカ」のリズムが出た時、「村祭」の曲は、すばらしい方向にスタートを切りました。そして、「タッカタタ」の日本人が大好きなリズムへと続き、成功しています。
 こうしてできた曲ですが、『初等科音楽 一』国民学校第三学年用(文部省)昭和十七年発行に掲載の時、「ムラノ」の部分は、子供たちに歌いやすくとの配慮から「タンタタ」と、簡単なリズムに変えられてしまいました。これにより勢いがなくなりました。
 作曲者とされる南にとって「タンタッカ」は、一番大切なリズムだったはずです。南は、昭和十九年に亡くなっています。東京音楽学校も退職していたので、反論の余地はなかったでしょう。
  さらに、一番で「ム ラノ=タン タッカ」と歌ったのに、三番になると「ヲサ マル=タン タッカ」では、「ヲサ」が字余りで不自然になる。
  昭和十七年版では「ヲサ マル」は「タッカ タタ」と、タッカのリズムが書き込まれ、言葉の付け方がわかりやすくなった。リズムの書き込みの改訂は大成功です。思いがけないリズムの書き込みに、南は驚いたことでしょう。南は、この部分の詰めが甘かった事に、気がついていなかったのでしょうか?

  ★<疑問>
 作曲委員の合議制で作られたのなら、なぜ、発表前に、この「ヲサ」の歌い方について、みんなで歌って検討しなかったのだろうか?という疑問が出て来る。
 (註)『小學唱歌教科書編纂日誌』(pdfファイル3MB)によると次のようです。
  明治42年8月15日 歌題撰定配当 「村の祭」 三年二学期。
  明治42年8月17日 作歌分担決定。 
  明治43年1月29日 歌詞修正可決 「村祭」とある。
  明治43年2月4日 曲譜議題 「村祭」とある。
  以後 明治43年2月18日、明治43年3月4日、明治43年4月15日、明治43年4月29日、この時点でも可決されていない。作曲に難航していたのでしょうか。(南能衛の群馬県出張命令は明治42年10月11日)。
  ※『小学唱歌教科書編纂日誌』の情報は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者・Nさんから教えていただきました(2014年12月14日)。

 <メロディーについて>
 「村祭」は、ト長調(G Dur)の音階でできている。南能衛の略歴を見ると、“和歌山県師範学校に勤めている時に、日本ではじめて混声合唱団を作った。”とある。南にとって西洋音階は珍しくなかったはずです。
  作曲をする時、メロディーが浮かぶのと、何拍子か、何調かは同時だ。ヨナ抜き音階か、西洋音階か、などは、できあがってからわかるものです。 ファとシを抜いた日本的な音階・ヨナ抜き音階「ドレミソラド」が古くて、西洋音階「ドレミファソラシド」が新しいと思っている人があるようだが、中田喜直や大中恩の<あたらしいこどものうた>にも、ヨナ抜き音階が沢山ある。
 たとえば、大中恩作曲の童謡「サッちゃん」は、ヨナ抜き、でできている。大中恩は、「詩を読んで、感じた事をメロディーにしただけだ。ヨナ抜きなど意識していない。“ヨナ抜き”だって気がついたのは、ずっと後の事ですよ」と言っている。南も、「村祭」を作曲した時、「西洋音階にしよう」などという意識はなかったと思う。できあがったら西洋音階だった。

 <二段目のメロディーについて>
▲(上段の楽譜) 明治45年版の二段目  ▲(下段の楽譜)  昭和17年版の二段目

 「村祭」はト長調です。歌ってみましょう。
 「ケフハ メデタイ オマツリ ビ」は、「レソソ ファミレド ソラシレ ド」のメロディーで、何も問題はない。すんなり歌えたのは、あなたが“移動ド唱法”で歌ったからです。
 では、“固定ド唱法”で歌ってみましょう。「ラレレ ドシラソ レミファラソ」、「ファ」にシャープをつけて正しい音程で歌えましたか? 
  “固定ド唱法”は、“ハ長調読み”なので簡単ですが、“固定ド唱法”の最大の欠点は、シャープやフラットの派生した音が取りにくいことです。突然出て来る派生音を歌うのは、子供には至難の業です。
 それを考慮して、昭和十七年版では、Fis(嬰へ)の音・派生音をなくし、子供に歌いやすくメロディーを変えました
  したがって、「オマツリビ」は、“移動ド唱法”では「ソソラレ ド」、“固定ド唱法”では「レレミラ ソ」と歌うようにした。

▲ヨナ抜き長音階(ト長調)

  <ヨナ抜き音階> 
 明治時代に、ドレミの代わりにヒフミヨイムナ(1234567)とよんだことがあった。その4番目と7番目の音を抜くからヨナ抜き音階。

 【西洋音階が混じったヨナ抜き風な巧みな作曲】
 問題点を、あえてあげるなら、“ヨナ抜き”とされる「ファ」は、曲全体で三回(一、二、四段目)あるのに対して、「シ=嬰へ」は「オマツリビ=ソラシレド」の二段目に一回だけしか使われていない。続く三段目になると、完全に“ヨナ抜き音階”となる。「ドンドンヒャララ~」の部分は主和音のみのヨナ抜き。だから奇妙な感じがするのです。「シ」の音が、もっと頻繁に使われていれば違和感がない。逆に「シ」をなくして“六音音階”にしても曲は成立する。 「村祭」は、日本人好みのヨナ抜き風だが、西洋音階が混じっている巧みな作曲です。

 結局、昭和十七年版で、初出の「ムラノ」のリズムも、「オマツリビ」のメロディーも失われてしまいました。

  <三段目のリズムについて>
 南能衛は、現地(群馬の祭り「八木節」)を観ているわけだから、それが曲に反映されていることになる。

 南能衛の略歴を見ると、“和歌山県師範学校に勤めている時に、日本ではじめて混声合唱団を作った。”とある。 南は、きっと歌い手を二組に分けて、A組に「ドンドン」と歌わせ、B組に「ヒヤララ」そして、A組「ドン」、B組「ヒャララ」と歌わせたかったのでしょう。これなら男の子も喜んで歌ったはずです。

 ★<疑問>
 南能衛の長男の侃(ただし)は、鮎川哲也の「唱歌のふるさと 旅愁」(音楽之友社)の中でインタビューに答え「父は盛岡に旅行をしたことがありまして、そこで農村のお祭りに出遭ったのですね。その印象が、のちに≪村祭り≫に結実したという話は、じかに聞いたことがあります」と述べている。
 上記の証言については、もう一度詳しくインタビューする必要がある。なぜなら、この時、家にあるとされる「群馬県出張の際の出張命令書」や記念品の事を、鮎川哲也氏に見せたり話したりしていないからです。なぜ、重要物証の事を言い出さなかったのでしょうか?

 【南能衛(みなみよしえ)の略歴】 音楽教育家
 この略歴は、南次郎氏から送られて来た(2010年4月)、南次郎著『どんどんひゃらら 南能衛と小学唱歌の群像』の原稿を参考にさせていただきました。
 原稿は2012年段階では未刊,その後2014年7月に『どんどんひゃらら 南能衛と小学唱歌の作曲家たち』として近代消防社から発刊されました。

 <誕生>
  ・明治十四年七月十九日、戸籍では出生地が徳島県富田浦町西富田(現・徳島市弓町三丁目あたり)となっている。徳島藩の下級藩士だった父・南八束(はつか)と、母・ひさの長男として誕生した。八束は養子。
  ・能衛が生まれた頃の父、八束は、自宅近くに創設された富田尋常小学校に訓導(教員)となってわずかな収入を得ていた。能衛は、富田尋常小学校に通った。尋常小学校時代から成績優等で何度も表彰されている。
  ・明治二十四年、十歳で卒業し、徳島高等小学校に進んだ。

 <高等小学校の成績表>
  一年の時は、修身、読書、作文、習字、算術、理科、図画、地理、英語、体操の十科目あり百点満点で平均九十七点だったが、三年からは、十点満点に変わり、科目も修身が実行と学業に分かれ、唱歌が加わっている。
 三年では、八科目が十点で、四科目が九点、地理が八点 だったが、四年では、十科目が十点で、三科目が九点。修身、読書、習字、体育、唱歌は十点以外とったことがない。

 <徳島高等小学校にオルガンが導入>
 自分から申し出て三、四年の時の訓導からオルガンの手ほどきを受けた。すぐに小学唱歌の何曲かを弾けるようになった。オルガンの音色が人生を方向づけた。
  ・明治二十八年、高等小学校を卒業。十四歳。その後しばらく、修身を教える学校や数学の塾に通い代数や幾何学などを学んでいる。後に和声学を学ぶが、和声学は多分に幾何学のようなところがあり、少年時代に数学が得意であったことは大いに役立った。
  ・こうした学校を修了したあと、明治三十一年に徳島県師範学校に入学した。

 <徳島師範学校について>
 明治七年、旧徳島城西の丸の藩校「長久館」の跡に創設された。はじめ徳島師範期成学校といったが、明治十三年、高知県に編入されていた徳島県が高知県から分離したのを機に徳島師範学校と改称している。能衛が入学した年には、師範教育令に準拠した県立の徳島県師範学校となっている。本科の修業年限は三年で、入学資格は十五歳から二十歳。
 徳島の旧藩士の子弟にとって、いわば藩校に通うようなもので、自然な選択だった。当時旧制の中学に行くのは、裕福な家庭のものばかりで、経済的にも師範学校は授業料を徴収しない。「無料(ただ)の学校」という魅力があった。能衛は、ここでも優秀な成績を収めていた。

  <田村虎蔵との出会い>
  ・徳島県師範学校に入学した年の夏、阿波洲本で県下の小学校の教員を集めて音楽教授法の夏期講習会が開かれた。能衛ら師範学校の生徒も上野の音楽学校を卒業したばかりの新任の鈴木重太郎教諭に伴われて、兵庫師範の高名な音楽教師、後に言文一致の唱歌で一世を風靡した田村虎蔵の講習会を見学した。この講習会を修了すると教室で音楽を教える資格がもらえる。田村虎蔵との出会いが、音楽教師をめざすきっかけとなった。

 <オルガンの練習>
 能衛は他の教科もしっかり学んだが、とりわけオルガンの演奏に力を入れた。何時間もオルガンにかじりついて練習し、校内でも知られる程のオルガンの名手になった。練習法は極端だった。幼いころの漢籍の素読と同じで上手くなるまで何度でも繰り返す。それも十回、百回というのではなく指が完全に覚えるまで千回、一万回と、けた違いの回数をあくことなく繰り返した。どうしてそんなに何度も繰り返すのかと問われて「自分の音楽のやり方は書道と同じで手が覚えるまで何枚でも書くのだ」と答えている。「書道と同じ」と言っているのに注目。

 <この頃の伊澤修二は>
 伊澤修二は、明治三十三年五月に急な病で入院した。ようやく一命をとりとめたが、病気回復の後は貴族院議員以外の役職をすべて辞任した。しかし、東京音楽学校や文部省には大きな影響力を持っていた。

 <母校の訓導>
  ・明治三十三年、能衛が師範学校の二年、十九歳の時、父・八束が突然亡くなった。父の死で家督を相続し、長男として家を支えなければならない立場になった。父の収入がなくなり家計は次第に苦しくなって行ったが、気丈な母のもとですぐに学業を諦めて働かなければならないほど困窮したわけではなかった。
  ・明治三十四年、三年にわたる師範学校の教科を終えた。卒業とともに尋常小学校の正教員免許を取得した。周囲の同情があり、すぐに父が勤めていた母校の富田尋常小学校の訓導に採用された。前年まで勤めていた父の跡を継ぐような形で教育者としての第一歩をスタートしている。二十歳。新任の教員として教壇に立ち、修身から数学まで子供たちに教えた。唱歌の時間には得意のオルガンも聴かせた。

 <東京音楽学校甲種師範科に入学>
  ・明治三十四年九月、東京、上野の東京音楽学校甲種師範科に入学した。 富田尋常小学校の訓導を休職して、東京音楽学校の師範科に進学することになった。つまり、教員の身分のまま、音楽の勉強に東京に出ることになった。

 <当時の徳島の事情>
 県下のすべての尋常小学校で唱歌教育を取り入れようと本腰をいれていた。明治四十年から唱歌が小学校の必修科目となるのに音楽を教える先生を指導する専門家が、いなかった。それで徳島の教育界は地元出身の音楽教師が必要だということになり、能衛と市原キミが選ばれた。 市原キミは、能衛と同じ町内の幼馴染みで、同じ富田尋常小学校、徳島師範学校女子部で学んだキミは能衛より一年早く、東京音楽学校に進学していた。

 <卒業その後>
  ・明治三十七年三月、三年間の学業を終え、東京音楽学校甲種師範科をトップの成績で卒業。二十三歳。卒業とともに、師範学校高等女学校の音楽科と中学校の教員免許を取得している。
  ・明治三十七年四月、県立徳島中学校(現・県立徳島城南高等学校)の教諭を務める。
  ・明治三十八年四月から明治四十一年六月までの三年半、和歌山県師範学校(現・和歌山大学教育学部)の教諭を務める。和歌山県師範学校は、明治二十四年に女子部を作っている。能衛はそこで日本で初めての男女混声合唱を指導した。さらに和歌山の唱歌教育の推進に尽くした。

 <異例の大抜擢>
  ・明治四十一年六月二十五日、二十七歳。母校の東京音楽学校の講師として招かれ九月に助教授となった。和歌山師範での男女混声合唱団の創設や県下の教師を集めた音楽講習会の開催など和歌山の音楽教育の水準を高めたことが評価された。異例の大抜擢だった。能衛はこの人事で徳島に戻るチャンスを失い、以後母の待つ徳島に戻ることはなかった。東京音楽学校では、オルガン、音楽理論などを担当した。

 <異例の大抜擢の理由>
 南次郎氏は次のように書いている。
  “瀧廉太郎をはじめ岡野貞一など若いクリスチャン系の作曲家は、すでに西洋音楽を咀嚼して日本人の感性にあった新しい日本の音楽つまり「国楽」の創生に踏み込んでいた。瀧廉太郎がめざしたように西洋音楽を基本にしつつ、子供たちもよろこんで歌ってくれるそんな「国楽」を「文部省唱歌」で実現しようというプランだった。 それを先頭になって果たすはずだったのが瀧廉太郎であった。瀧廉太郎を中心に考えていた島崎赤太郎にとっては瀧廉太郎の早すぎる死が、いかに大きな痛手ではあったか。それでも島崎赤太郎はドイツ留学で学んだ作曲法を手がかりに後輩の岡野貞一ら新世代の作曲家を集めて、この壮大な事業に立ち向かった。
 そこで島崎赤太郎が瀧廉太郎の抜けた穴を埋めるべく白羽の矢を立てたのが、南能衛だったのである。
 ようやく、なぜ異例の抜擢となったかがわかってきた。それは南能衛にとって重すぎる役割であったかもしれない。南は憧れの瀧廉太郎が果たすべき役割に全身全霊で取り組むことになるのだ”。
 南次郎氏は、瀧廉太郎が早く亡くなったので能衛は、その後任ということになったとみている。年代的には納得のいく記述である。

 <唱歌編纂掛編纂員、小学唱歌教科書編纂委員等に抜擢>
  ・能衛は、唱歌編纂掛編纂員、楽語調査掛調査員、また、小学唱歌教科書編纂委員を歴任した。前者の唱歌編纂掛編纂員は、音楽学校が出す唱歌集の編纂をする役職であるのに対して、後者の小学唱歌教科書編纂委員は、文部省の事業として唱歌教科書の編纂をする委員会の委員であるところが違う。能衛は両方に抜擢された。
 唱歌編纂掛編纂員は以下の通り。『中等唱歌』の編纂が目的。
  【主事】   教授  富尾木知佳(とみおぎともよし)
  【編纂員】 教授  鳥居忱、武島又次郎、島崎赤太郎、吉丸一昌、乙骨三郎
         助教授 楠美恩三郎(くすみおんざぶろう)、田村虎蔵、岡野貞一
          講師  吉岡郷甫、南能衛      
         書記  赤川寅太郎

 このうち作曲は島崎赤太郎、楠美恩三郎、田村虎蔵、岡野貞一、南能衛の五人。島崎赤太郎が三十三歳、楠美恩三郎が四十一歳、田村虎蔵が三十五歳、吉丸一昌が三十四歳、岡野貞一が二十九歳、南能衛は二十七歳。南能衛と岡野貞一は年齢が近かったので、岡野が南の家を訪ね、オルガンを弾いて曲について語り合うほど親しく交流があった。また、鳥取出身の田村虎蔵と岡野貞一が一緒に仕事をしていることに注目。のちに田村虎蔵は岡野の作品(「春が來た」「故郷」「朧月夜」などの作曲)について詳しい証言をしている。*「故郷」参照。
 ○東京音楽学校(編)『中等唱歌』(共益商社楽器店)は、明治四十二年五月に発行された。伴奏付きで三十曲が収められている。
 堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)には、次のように書いてあります。
  “外国曲もあり、またわが国人の新作ものせられてある。中でも次の数種は、中等学校だけでなく、小学校でも愛唱された。
  ・「胡蝶」(ドイツ民謡、鳥居忱作詞)♪春日影うらうらと のどけき日和
  ・「ウォーターロー」(土井晩翠作詞、山田源一郎作曲)
 ♪渦巻く硝煙 飛び散る弾雨 万兵斉しく大地を蹴って ウォーターローは屍の小山 運命いかに ああ仏蘭西
  ・「湖上の月」(ロッシーニ作曲、吉岡郷甫作詞)
  ロッシーニの「ウィリアムテル」の中の旋律。
  ♪月影さやけく風も吹かぬ秋の夜半 真澄の鏡か塵もおかぬ湖
  ・「氷滑」(ドイツ民謡、乙骨三郎作詞)。”  
 現在、『中等唱歌』の曲は一つも歌われていない。詩と曲の不調和で、好い作品がない。これでは歌い継がれる事はなかっただろうと思われます。

 明治四十二年六月二十二日、雨が終日続く梅雨空の日、小学唱歌教科書編纂員会の第一回編纂会議が開催された。東京音楽学校の一室に編纂委員が集まった。どうやら急な召集だったらしく、小山作之助は都合がつかず欠席していた。編纂会議は週一回のペースで開催された。
 (註)「招集」と書くべき所は、南次郎著『どんどんひゃらら 南能衛と小学唱歌の作曲家たち』の原文では「召集」となっている。

  【委員長】  湯原元一(東京音楽学校長)
  【歌詞委員】 吉丸一昌、富尾木知佳、乙骨三郎(おつこつさぶろう)、高野辰之、武笠三(むかさあつむ)。
  (註)武笠三だけ文部省の役職にあって、東京音楽学校の教官でなかった。
  【楽曲委員】 島崎赤太郎、楠美恩三郎、岡野貞一、南能衛、上真行(うえさねみち)、小山作之助。

 <『小学唱歌教科書編纂日誌』について>
 南能衛氏の孫、南次郎氏は次のように書いている(『どんどんひゃらら 南能衛と小学唱歌の作曲家たち』近代消防社、2014年)。
  “「編纂日誌」を見ていて気がついた。この日誌を記したのは、南能衛である。なぜなら六月十八日付の最初の記事は、初会合の通知についてだが、連絡先の委員の名前のなかに南能衛の名前だけがない。本人に通知する必要がないからだ。南能衛は編纂委員会の事務局の仕事をしていたことがわかる。もっとも後半になると作曲で多忙になり雑務は別に事務を支援する要員に任せたようだ。”
 (註)「編纂日誌」の六月十八日には南の名前はなく、六月二十二日の第一回委員会に名前がある。

 『尋常小学読本唱歌』と『尋常小学唱歌』は、ほぼ同時進行で、先にでき上がったテスト版を『尋常小学読本唱歌』として発表した。
 ○『尋常小学読本唱歌』(全一冊)は、明治四十三年七月十四日発行。
 ○『尋常小学唱歌』(全六冊)各学年が別冊になっている。明治四十四年五月八日~大正三年六月十八日発行。

 堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)には次のように書いてあります。
 編纂委員は作詞と作曲との両方に分かれて任命された。
  【作詞委員】  (委員長)芳賀矢一(はがやいち)、(委員) 吉丸一昌、上田万年(うえだかずとし)、尾上八郎、高野辰之、武島又次郎(羽衣)、八波則吉(やつなみのりきち)、佐佐木信綱。
  【作曲委員】 (委員長) 湯原元一、(委員) 島崎赤太郎、上真行、小山作之助、楠美恩三郎、田村虎蔵、岡野貞一、南能衛。 文部省唱歌の功労者は島崎赤太郎と吉丸一昌がふさわしい。

 [註:作詞委員や作曲委員のメンバーの出典は青柳善吾『本邦音楽教育史』1934年と思われるが、この記述は誤りであった。しかし、繰り返し引用されてきた(2014/10/14 池田)。]
●鎌谷静男著『尋常小学読本唱歌編纂秘史』(文芸社)では「考えられる」「ではないか」「のではなかろうか」「あろうか?」「思われる」「したようで」という文の羅列で、文字表現も新字体、現代かなづかいに改めてしまってあるので、文献として不十分です。

 【『東京藝術大学百年史』の南能衛の略歴】
 『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第二巻』(音楽之友社)の日本人教師1325ページには次のように書いてあります。

   南 能衛(みなみ よしえ)
  ・和歌山県士族 ・徳島市大字富田浦町西富田一四九一番地生。
  ・明治二十四年(1891年)三月二十一日 徳島市冨田尋常小学校全科卒業。
  ・明治二十八年(1895年)三月二十三日 徳島高等小学校卒業。
  ・明治三十年(1897年)三月三十日 徳島渭南法令学校修身法令科修了。
  ・明治三十一年(1898年)三月十日 徳島数学研究会に於て算術幾何代数三角を修業。四月徳島県師範学校簡易科に入学。
  ・明治三十四年(1901年)二月十八日 同校卒業。徳島管内において尋常小学校正教員免許取得。二月二十日 徳島県徳島市冨田尋常小学校訓導に任ぜられる。九月十二日 東京音楽学校甲種師範科入学。九月三十日 小学校施行規則第百二十二条第三号により休職を命ぜられる。
  ・明治三十七年(1904年)三月二十九日 東京音楽学校卒業。三月三十一日 教員免許令第三条により師範学校高等女学校音楽科ならびに中学校唱歌科の教員免許取得。四月八日 徳島県立徳島中学校教諭に任ぜられる。
  ・明治三十八年(1905年)三月三十一日 和歌山県へ出向を命ぜられる。四月四日 和歌山県師範学校教諭に任ぜられる。七月十八日 明治三十八年開会西牟婁郡小学校教員音楽講習会講師を命ぜられる。
  ・明治三十九年(1906年)五月九日 小学校教員検定臨時委員を命ぜられる。
  ・明治四十年(1907年)八月十七日 文部省施行音楽講習会修了認証書授与。
  ・明治四十一年(1908年)六月十三日休職を命ぜられる。六月二十五日 本校講師嘱託。唱歌編纂員、楽譜調査員嘱託。九月五日 任東京音楽学校助教授。
  ・大正元年(1912年)十月 依願免本官。

 <「横浜市歌」の作曲>
  ・「横浜市歌」の作曲を依頼されたのは明治四十二年、横浜開港五十周年を記念したものだった。南能衛の曲に、森鴎外(本名・森林太郎)が歌詞をつけるという順序で作られ、横浜市からは鴎外に百円、能衛に五十円が支払われた。やや歌いにくいという理由から、昭和四十三年、飛鳥田市長の時にメロディーに手直しがなされた。
 
 <依願免職>
  ・明治四十四年一月九日、愛妻ムメが八歳の長女を遺して亡くなる。
  ・大正元年十月七日に静岡出身の神谷景昌の長女、わさと再婚した。能衛は、神谷わさと再婚した日の四日後に突然依願免官した。三十一歳になっていた。わさは婚姻の一か月後に二十七歳で亡くなった。
  ・「文部省唱歌」の編纂作業が大詰めとなっていた大正元年十月十一日、能衛は上野の音楽学校の助教授職や唱歌の編纂委員などすべての役職を依願免職した。

 <依願免職の理由>
 東京音楽学校の助教授時代、ドイツ留学から帰った山田耕筰を音楽学校へ迎えようということが会議の議題になった。「これから作曲活動をしようという学生は、オペラの作り方も学ばなくてはならない。それにはドイツで勉強して来た山田さんが適任だ」と考えた。しかし、山田は女性問題について派手な噂があり、能衛は反対の立場をとった。そして立腹のあまり校長の頭を叩いてしまった。能衛は直ちに辞表を提出。即日、依願免官となった。大正元年十月十一日のこと。

 <東洋楽器製造株式会社に招かれる>
▲南能衛がプロデュースした
南オルガン。兵庫県龍野町(当時)
の東洋楽器製造
  ・まもなく兵庫県龍野町(当時)の東洋楽器製造株式会社に招かれ、技師長として赴任。大正二年の九月、三人目の妻、徳代(とくよ)と再婚した。徳代は、明治二十一年岡山県眞庭郡八束村の進長作の長女として生まれ、当時の女性としては最高学府の東京女子高等師範を出た二十四歳の才媛だった。徳代との間に大正四年三月に二女の眞稚子 (まちこ)、七年には三女の季子 (としこ)を授かっている。後妻の徳代は龍野で女学校の教師をしたから、いわゆる共稼ぎの世帯であった。 龍野時代に能衛が中心になって開発した「南オルガン」なるブランドのオルガンが現存している。不運な事に会社は経営の行き詰まりから一年後に閉鎖された。


 <台湾に渡った>
  ・大正七年、台湾に渡った。台湾行きを勧めた伊澤修二は、大正六年脳溢血で急死した。これで、日本には頼る人が誰もいなくなった。 当時台湾の教育界は、ほとんどが伊澤修二の人脈で固められていた。能衛はまず国語学校の嘱託として勤務をはじめる。昭和二年まで九年にわたり台南師範学校(現・国立台南大学)や台南中学校などで音楽教師をした。後妻の徳代も台南女学校などの教師となり、二人分の収入があった。物価の安い台南では生活は比較的裕福だった。共稼ぎであるから、家事は執事や女中にまかせ、子守りも頼んでいた。
 その間、三女の光(みつ)と待望の長男、侃(ただし)が生まれた。南侃の次男が南次郎。徳島にいた母親のひさも、ようやく説得に応じて台湾に来ることになった。舎宅で同居することになった。しかし、それも束の間、母のひさが体調を崩し、亡くなってしまった。台湾の地に母を葬った。もはや本土に戻る気はまったくなかった。 当時、台湾の唱歌教育にあたった音楽教員は二十四人でほとんどが上野の音楽学校の出身者で占められていた。ちょうど大正八年に発布される「台湾教育令」に合わせて国語学校台南分教場が台南師範学校に昇格することになっていた。能衛はその台南師範学校の創設の準備のために台南に入った。

 <台南交響楽団の創設>
  ・台南時代の特筆すべきは、台南交響楽団の創設。この台南交響楽団は、台南周辺の学校の教師などを集めた楽団で、台湾全土をくまなく回って演奏活動を行った。

 <再び依願退職>
  ・台湾で音楽教師としての充実した毎日を送っていたが、昭和二年十月に、またしても突然依願退職した。退職の理由は、長女の幸が能衛の同僚の教師と駆け落ちして、本土に帰ってしまった。その同僚は同じ舎宅に住んで能衛とも親しかった。彼は妻を亡くしたばかりだった。長女が世話をしているうちに同情からか親しくなった。だが、年齢は親子ほど違う。能衛が結婚を許すとは思わなかったのか、長女はなにも告げずに家を出た。長女は能衛の最初の妻ムメの娘で、幼い時に母を亡くしていた。年下の妹たちや弟は後妻の徳代の子供たちだった。継母の徳代と仲が悪いわけではなかったが、年齢も近く母と甘えるわけにもいかず愛情面で充たされないものがあったのだろう。
 能衛は、即刻辞表を書いて台南師範学校や兼務していた台南第一中学校などの教職を辞めてしまった。

  <東京に戻ってみれば>
  ・台湾から戻り、東京でしばらく浪人生活をした。四十六歳になっていた。台湾にいた九年の間に東京の知人や恩師のなかには他界した人もいて、存命であっても疎遠になっていた。また、同輩や後輩だった者もすでに音楽界で確固とした地位についていた。能衛は、故郷の徳島には帰らなかった。

  <広島へ赴任>
  ・広島市にある私立の山中高等女学校の音楽教師として赴任した。東京の目黒に自宅を建て、妻の徳代は東京芝区白金にあった香蘭女学校の英語の教師となって教壇に立った。そのため、当時としてはめずらしい単身赴任となった。 山中高等女学校では、日々の音楽の授業や課外活動のブラスバンドの指導といったことに力を入れていた。この時代、景気のいい軍歌が持てはやされた。

  <世の中の変化>
 台湾にいた間に音楽もすっかり変わっていた。大正デモクラシーとともに子供の音楽も徳育中心で説教くさい学校唱歌が批判され、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供が自然に口ずさむような歌を作ろうという童謡が持てはやされるようになっていた。能衛が心血を注いだ「尋常小学唱歌」もその批判の矢面に立っていた。 大正時代の自由な空気は、昭和にはいると次第に軍国色が強まっていく。そうした風潮のなかで童謡は軟弱だと批判され勢いを失っていった。

  <表彰>
  ・昭和十四年、上野の音楽学校の創立六十周年の記念式典で文部省から音楽教育功労者として表彰される。音楽教育功労者には、恩師の田村虎蔵や台湾で台北第三高等女学校の音楽教師だった赤尾寅吉など十人ほどが選ばれた。その場には山田耕筰もいた。壇上の山田耕筰は、国際的な活躍ですでに楽壇の重鎮となっていた。能衛には手も届かない遠い存在となっていた。

 <東京での晩年>
  ・太平洋戦争のはじまる前に、広島の山中高等女学校を高齢のため退職し、東京の自宅で隠居生活に入った。自宅に戻った能衛は、日がな一日書道に明け暮れる毎日を送った。家で書道の塾でも開こうと考え、一念発起して書道師範の免状をとり、掛け軸にした墨跡を多数残している。
 終戦の直前に広島に原爆が投下された。その熱線と猛火で軍需工場に動員されていた山中高等女学校の生徒や教員が犠牲になった。その報を聞いて能衛は大きく落胆したという。
  ・隠居していた東京、目黒の自宅で、裏庭の塀を直すため高い所に梯子で登り、誤って落ちた。それ以来、寝たきりの状態になった。亡くなったのは、それからしばらくのことだった。昭和二十七年三月十七日、享年七十一歳だった。

 

 【著作権問題について南侃の意見】
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)の「村祭り」には、「文部省唱歌の著作権問題について」、南能衛の息子の南侃(ただし)の貴重な証言が残されています。
 「ある不祥事が起こりまして、教科書事件として知られていますが、それを機に、作詞や作曲者の名を出さない事にしたのです。わたしの家内は講談社で教科書の編纂にあたっていましたので、父が亡くなった時、課長の佐伯さんという方が葬儀においでになりました。その時、父の唱歌の作品がどれどれかを調べて、はっきりさせようといって下さったのです」。
 佐伯氏は文部省を訪ねて調査を始めたが、すべての資料が空襲をうけて全焼していたため手のつけようがなかった。
  「佐伯さんが著作権審議会にアドバイスして下さったものと思いますが、そちらからわたしのほうに問い合わせがありまして、父の作品と思われるものを知らせてくれないかというお話でした。わが家にも資料はありませんが、心覚えのものを書いてご返事しますと、そのなかの幾つかが、「これはうちの父の作品だ」ということで、岡野貞一さん、小山作之助さんのご遺族から反論がありまして。小山さんたちにはお弟子さんがいまして、その方々がはっきりしたことを覚えていらしたのですね。それに反してうちの父はお弟子さんなどおりませんでしたから、作曲当時の事情を知るものはいなかったのです」。
 「文部省から委嘱された四人の委員がおりまして、依頼した歌詞や曲がとどきますと、ときには同じ趣向の作品がダブったりしますから、手直しをすると聞いたことがあります。ですからわたしも、父の曲は委員の方たちの作曲だと考えているのです。ところが母は父の作品をちゃんと遺しておきたかったのでしょうね。文部省の横綴じの唱歌の教科書に、父の作曲したものには丸印をつけていたのです。長いこと家にありましたが、引越のときでしょうか、紛失してしまいまして」と話している。
  ●上記、「四人の委員」という発言は、南侃の記憶違い。


著者より引用及び著作権についてお願い】  ≪著者・池田小百合≫

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二宮金次郎

作詞・作曲 不詳
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/07/29)


 「あの銅像の『二宮金次郎』に歌があったの?」
 若い人が知らないだけでなく、六十代・七十代の人も歌を知らない人が多い。今では、だれも歌わなくなったからです。いつから歌われなくなったのでしょう。
  「二宮金次郎」、「二宮尊徳」とは、いったいどのような人物だったのか。何をした人か。 あなたは、どれくらい知っていますか?

▲『新訂 尋常小学唱歌』歌詞

 【初出】
  ・明治四十四年(1911年)六月二十八日発行、第二学年用の『尋常小学唱歌』(文部省)に発表されました。作詞・作曲者は不明です。
  ・昭和七年(1932年)四月六日発行、第二学年用の『新訂 尋常小学唱歌』(文部省)にも掲載されました。句読点が『尋常小学唱歌』と少し違いますが、内容は同じです。
                  ▲『新訂 尋常小学唱歌』楽譜

  ・昭和十六年(1941年)三月発行、第二学年用の『うたのほん下』(文部省)には掲載されていません。

 【歌詞を詳しく見ましょう】
 世の中の人々から尊敬された二宮尊徳の少年時代(二宮金次郎)を歌ったものです。
   「親の手を助(す)け」=親の手助(てだす)けの事。
   「弟(おとと)」=弟(おとうと)の事。
   「骨身」=体全体の事。
   「夜なべ」=夜仕事(よしごと)の事。
   「手習読書」=習字や本を読む事。
   「撓(たゆ)まず学ぶ」=油断しないで勉強する。
   「費(つひえ)」=費用の事。

 【楽譜を詳しく見ましょう】
  旋律は、二長調。四分の二拍子。三段目まではタッカタッカというスキップのリズムで一貫していて、弾んだ感じの曲になっているため、覚えやすい。タッカのリズムは、日本人が大好きなリズムです。
 四段目の“テホ ンーハ ニノ ミヤ キン ジーラウ ーーー ”が山になるように歌います。ここで声を張り上げてのびのびと歌うと、全体が強調されるようにできています。この歌は、多くの教訓的な唱歌の中で、子供たちに気に入られて歌われました。 しかし、時代が進むと、「柴刈り」「縄ない」「草鞋を作る」ことがなくなり、歌も歌われなくなりました。
 私、著者・池田小百合は、小さい頃、年老いた人々が野良仕事や家事をしながら、この歌を口ずさむのを何度も聞いています。私の家は、二宮金次郎生誕の地の近くにあります。

 【二宮金次郎(尊徳) 略歴】
 『二宮金次郎物語』(小田原市教育委員会)平成十七年発行と、『尊徳記念館 展示室』パンフレット「尊徳の一生」、小田原市尊徳記念館常設展図録『二宮金次郎の仕事』収蔵資料解説を参考にしました。

 <誕生の場所 栢山村説>
 ・天明7年(1787年)7月23日、相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市栢山)で、利右衛門・よしの長男として農家に生まれる。

 <誕生の場所 曾我別所村説>
 ・天明7年(1787年)7月23日、母よしの実家(川久保家)の曾我別所村で生まれ、栢山村(かやまむら)で育ちました。

 神奈川新聞2016年8月26日(金)『わが人生 60』の著者田嶋亨によると次のようです。
  “川久保家の当主は代々、太兵衛を名乗っていました。よしの父は13代目。その頃は豪農で隆盛を極めていました。栢山村の二宮家も金次郎の大伯父である4代目万兵衛と祖父の銀右衛門の時代は裕福であったことから、銀右衛門の息子の利右衛門とよしの婚姻話が進んだようです。
 利右衛門は栢山で13石の田畑と家を受け継いでいました。金次郎を身ごもったよしは、曽我別所に里帰りして出産に備えます。
  「金次郎の生誕の地は栢山と言われていますが、本当は曽我別所なんですよ。お七夜を過ごして、よしの両親が栢山まで送っていきました。酒匂川は洪水後で荒れていました。道板を用意して手すりの代わりにしたそうです。 また、土手が崩れてなくなっていたので、今度は道板を敷いて上がるなど、大変な目に遭いながらも娘と孫の金次郎を送り届けたと、代々伝えられてきているのです」と 語るのは、安土桃山時代の初代から数えて19代目の現在の当主の川久保暉勇(あきお)氏。”
 ★上記の「川久保家に代々伝えられてきている」話は、小田原市尊徳記念館館長によると「どこにも書き残されていない。文献がない」そうで、調査中(2016年9月16日)。

 <金次郎か金治郎か>
  少年時代に使った教科書(童子経)や、そろばんには「金次郎」の署名がある。崩し字の「次」と「治」は酷似していたため、その後の文書では混同されたらしい。時々「金治郎」と書かれたが、幕府の任命書は全て「金次郎」。本来はやはり金次郎のようだ(神奈川新聞2011年9月29日「尊徳先生教えて」10による)。寛政11年(1799年)12月30日に生まれた弟の名前は「富次郎」という。
 孫の中桐万里子・文責の講演資料(2012年7月)には「幼名は金次郎(正式には金治郎)」と記述している。

  <平和な日々>
 金次郎の家はかなりの地主であり、働き者の祖父・銀右衛門(ぎんえもん)が土地を集めて父の利右衛門(りえもん)に伝えた田畑は、合わせて二町三反(にちようさんたん・2.3ヘクタール)ほどでした。利右衛門は「栢山の善人」と言われる人で、母のよしもやさしい人柄で、何不自由ない平和な毎日を送っていました。

  ▼二宮金次郎生家と内部 誕生の地、富水の尊徳記念館には生家が残る。寛保2年(1742年)頃、金次郎の祖父・銀右衛門の代に建てられたと考えられている。
▼尊徳誕生の家およびその内部


 享和2年(1802年)、母よしが亡くなり、金次郎一家が離散すると、売却され他所へ移されたが、昭和35年(1960年)、尊徳記念館敷地内のもとの場所に再度移築・復元された。
 復元されると、近所の幼稚園や小学校の人気の遠足スポットとなりました。私、著者・池田小百合は、小学校の3、4年生の頃、遠足で行き、広場でお弁当を食べた記憶があります。現在、無料で見学する事ができます。

 <酒匂川の氾濫>
  ・寛政(かんせい)2年(1790年)、弟・友吉(のちの三郎左衛門)が生まれる。
  ・寛政3年(1791年)八月、関東地方を大きな暴風雨が襲いました。酒匂川が氾濫し、田畑の大部分が流出する。栢山の被害は大きく、利右衛門の土地はほとんど石や砂の下に埋まってしまいました。五歳の金次郎は梁(はり・柱の上に渡して屋根を支える材木)の上に乗って、家の中まで渦巻いている濁流を震えながら見ていました。二宮家の貧しい暮らしは、ここから始まるのです。

 父の利右衛門は石や砂で埋まった田畑を元通りにするために懸命に働きましたが、大変な仕事でした。殿様に納める年貢米は、それほど減らしてもらえなかったので他の人から米を借り、肥料を借り、お金を借りました。さらに「栢山の善人」といわれた利右衛門は、他人を助けるために自分の土地を失うこともありました。

  ・寛政8年(1796年)、大久保忠真(おおくぼただざね)が小田原藩主になる。
  ・寛政10年(1798年)、父・利右衛門が病気で倒れる。十歳をこした金次郎は、父に代わり酒匂川の土手の工事で働く。夜はワラジを作り工事の大人に使ってもらう。またワラジを売り、そのお金で酒を買って父親を喜ばせたり、他の家の子守に雇われて家計の助けもしました。

 <砂文字の習字手習い>
 金次郎は小さい頃から、よく学び、よく働く人でした。農民の子として生まれたが、父・利右衛門に人間としての必要な知識を教えられました。勉強好きな金次郎は箱に砂を入れ、指や棒で文字を書いては消す事を繰り返して字の「読み・書き」を学びました。
▲金次郎の砂書習字手文庫
これは紙と違い消しては書き、
繰り返し使えます。


 <松苗を植える>
  ・寛政11年(1799年)、松苗を200本買い、酒匂川の土手に植える。弟・富次郎が生まれる。
 足柄平野を流れる酒匂川は暴れ川だった。洪水で家の田畑が全滅、極貧に陥った。堤防の重要性は子どもながら肝に銘じ、足しげく堤防を見回り「土手坊主」と呼ばれた。子守の代金で松苗200本を買って土手に植えるなどした。
 (註)県小田原土木事務所などによると、酒匂川の堤防の松は現在907本ある。樹齢が100年程度と推測されることから、金次郎が治水のため植えたものではなく、明治期に入って、その遺志を引き継いだ地元住民が植えた2代、3代目らしい(神奈川新聞2011年9月8日「尊徳先生教えて」による)。

  ・寛政12年(1800年)9月、金次郎の懸命な努力もむなしく、父・利右衛門が亡くなる。享年48歳。
 父が死んでから、母のよしが幼い弟二人をかかえ、荒れた田畑を耕すのを見て金次郎は、いっそう頑張って働きました。朝早く起きて、日が暮れるまで母を助けて畑仕事をし、夜は遅くまで縄をないました。


 <薪(たきぎ)取り>
 冬が来ると箱根山の中腹にある栢山(かやま)村の入会山(いりあいやま・村の共有の山のことで、村のものならだれでもそこに入って薪を採ってくることができる)へ、約四キロの道を毎日のように金次郎は通いました。
 帰りは重い薪を背負って家に運んだり、小田原の城下で売ったりしました。
 しかし、金次郎の懸命の努力にもかかわらず、一家の暮らしぶりは悪くなるばかりでした。
 これが、後に言い伝えられ、薪を背負い読書する銅像になったものです。

 (註)2011年10月8日の神奈川新聞には「気ままに山行 明神ヶ岳(1169メートル)」
 “薪の代わりにリュックを背負って、南足柄市の矢佐芝から明神ヶ岳を目指す「二宮金次郎柴刈り路」を登ってみた。”と「金次郎ゆかりの道」が紹介されています。
 記事には“登山口までは車で行ける。登山口に数台の駐車スペースあり。”と書いてあります。
 栢山の二宮金次郎の家から歩いて往復するのは至難の業のようです。

 【金次郎の銅像】
  戦前には修身の象徴として金次郎が取りあげられ、全国の学校で柴を背負って本を読む二宮金次郎の像が建てられました。金次郎といえば、早起き・柴刈り・ワラジ作り、歩きながらの読書というイメージが一般的です。 戦後は修身教育への批判から銅像も少なくなりましたが、生誕の地小田原を中心に神奈川県西部地区では、まだ、金次郎の銅像は健在です。
 <金次郎像の始まり>
 薪を背負い本を手にした金次郎像(負薪読書像 ふしんどくしょぞう)が現れたのは幸田露伴著「二宮尊徳翁」(初版・明治二十四年(1891年)少年文学第七編)」の口絵からだと言われています。

  <金次郎像の設置>
 金次郎像が全国の小学校に設置されていったのは、昭和三年(1928年)から昭和十五年(1940年)にかけてでした。これらは、父母や卒業生などによって寄贈され自然に全国に広まっていった。

  <小田原・二宮神社の金次郎像(銅像)>
 昭和三年、昭和天皇の即位御大礼記念として神戸の中村直吉氏が寄贈したものです。制作者は三代目 慶寺丹長(けいじたんちょう)氏です。これと同じ像は全国の小学校に向け一千体制作されましたが、戦時中全て供出に遇い当時の像が残っているのは、この一体だけです。

  <金次郎像が消える>
 昭和十六年(1941年)に始まった太平洋戦争の激化にともない、金属資源の不足が深刻になり、各地の銅像や梵鐘の供出に続き、昭和十七年(1942年)には校庭にあった金次郎像も供出され、次第に姿を消していきました。その後、そのまま台座だけ残されたものや、石やコンクリートなどで再建されたものもありました。
 現在、金次郎の設置や扱いは様々ですが、小田原市内には負薪読書像のほか推譲の像、勉学の像など数々の像が小学校や公私の施設に設置されています。
  以上は、小田原市尊徳記念館ロビー展示による。



▲小田原駅前の金次郎像は
「ヤオマサ」名誉会長
及び報徳農場代表の
田嶋亨氏が寄贈したもの。
2016年6月2日神奈川新聞
<わが人生>2より。
▼小田原駅前
にある金次郎像。


台座には
「二宮金次郎
生誕のまち小田原
一七八七年に現在の
小田原市栢山に生れ
一八五六年に
栃木県今市市で没

平成十三年十月二十日
建立」

「一日一字ずつ習えば
一年では三六五字と
なるぞ
  この小僧
 譲って損なく
  奪って益なし

建立
  小田原報徳実践会」
と刻まれている



旧・城内小学校校門左に残る
台座:銅像は一時尊徳記念館
に保管。
現在は小田原駅前東西自由
連絡通路に設置。
  
▲小田原市立桜井小学校
体育館前の石碑
 中庭に金次郎の立像があり、
運動場に面して坐像があります。
▲小田原市立桜井小学校
 腰を降ろした金次郎像 。
▲大井町立
大井小学校
の金次郎像 。
▲小田原市
西大友の
ガソリン
スタンド
▲小田原市立足柄小学校 ▲小田原市立報徳小学校
わらじを配る金次郎像
▲小田原市立久野小学校
(山田美恵子氏および
府川千代子氏提供資料より)
▲真鶴町岩小学校
 現在は「ふれあい館」
 向笠泰子氏撮影

▲飯泉観音にある金次郎の座像

▲小田原城址公園にある
『報徳二宮神社』。
尊徳の弟子で明治期に入って
報徳運動を推し進めた
福住正兄(まさえ)らが1894年に
創設した。



▲報徳二宮神社境内の像
1928年に建てられ全国の
小学校設置の先駆けになった

▲報徳博物館前
「天地の心」筆記している


▲大井町生涯学習センター
(旧・中央公民館)
にある金次郎像

▲秦野市農業共同組合玄関前
 にある金次郎像。隣がJAはだのが
運営する「はだのじばさんず」

▲バス停小田原「印刷局前」
の近くのビル前に建つ像

▲小田原市下中小学校
(渡部みゆきさん撮影)


▲松田町北口町営駐車場前
(2012年10月建立)

▲三の丸小学校の銅像

▲尊徳記念館ロビーの台湾檜の像
寄贈者は元・台北日本人学校長
高木章夫氏

▲尊徳記念館「回村の像」

報徳二宮神社/二宮尊徳像

報徳二宮神社/二宮尊徳像高札
← 中井町
井ノ口小学校の
金次郎像
(延岡知子さん撮影)







↓ 神奈川県立吉田島総合高校
  の尊徳像

  「積小為大」
 小さな努力の積み重ねが、
やがて大きな成果に結びつく。
撮影日2016年11月6日(日)は
 吉総祭(収穫祭)で、
 にぎやかだった。

▲『京都府立図書館』(京都市左京区岡崎成勝赤町9)。ハイカラな建物の図書館
撮影・池田小百合 2015年8月23日

▲京都府立図書館入口にある
「二宮尊徳先生像(読書像)」。

 <二宮家の崩壊>
  ・享和元年(1801年)、貧乏のどん底生活を味わう。年末の用意もできない。借金取りが来る時は、みんなで隠れてやり過ごしました。
  ・享和2年(1802年)、母よしが亡くなる。享年36歳。 またも酒匂川の洪水。わずかに残った二宮家の土地も再び石や砂の下に埋もれてしまいました。親を失い、土地を失った兄弟は、どうしてよいかわからず、泣いてばかりいました。そこで親戚が集まって相談し、金次郎は、隣のおじ万兵衛に、弟たちは母の実家に引き取られることになりました。金次郎は十六歳から十八歳まで万兵衛の家で過ごしました。
 (註)“父利右衛門が散財を重ねた揚げ句、酒匂川の氾濫で家や田畑を失った二宮家。利右衛門が没し、2年後には母よしも貧困の中で亡くなります。金次郎の幼い2人の弟は、川久保家に預けられました。” (神奈川新聞 『わが人生 60』著者田嶋享による)

  <あんどん下の読書>
 金次郎は読書好きでした。ある時、金次郎が夜遅く本を読んでいるのを見て、万兵衛は怒鳴りつけました。「百姓に学問はいらぬ。・・・明かり取りの油がもったいない」と言うのでした。

 【二つの体験・大きな教訓】
  ・享和3年(1803年)、菜種を収穫する。捨て苗から米1俵を得て、「積小為大」(小を積んで大と為す)を悟る。

 <菜種の収穫>
 金次郎は、おじさんに迷惑をかけない方法として、明かり取りの油の原料であるアブラナの栽培を思い立ち、友人から菜種五勺(ごしゃく・0.09リットル)を借りて、近くの荒れ地に蒔きました。それが翌年になって七升(ななしょう・12.6リットル)以上の収穫となったのです。

 <捨て苗から米1俵>
 十七歳の夏の始め、道端に捨ててあった稲の苗をもったいないと思い、荒れた沼地に植えて置いたところ、秋には一俵(いっぴょう・60キロ)もの米が採れました。

 <「積小為大」>
   小さな努力を積み重ねて行けば、いずれは大きな収穫や力に結び付くという教え。

 <「一円融合」>
 尊徳のものの見方、考え方は、この世の中で相対するものは全てが互いに働き合い一体となっている。だから決して切り離して考えるのではなく、両方を合わせて一つの円とし、一つの円の中に入れてみるというもので、これを「一円観」という。そして、生命あるものはいつかは死に、また、生まれて来るといったサイクルが永遠に繰り返されている。
 たとえば、植物は種を蒔けば、やがて草となり花が咲き、実を結ぶ。その花もやがてはかれ、土に帰る。そしてその種が残り、やがてまた芽を出す。このように世の中の物は、そのままの姿でとどまらず、次の形や新しい形になってあらわれて来る。そのためには、いくつかのものと結びつき、あるいはとけ合っている。 たとえば種が草になるには、水や養分や温度、日光、種の生命力などがとけて一つになって行く。これを一円融合という。この一円融合することが大切であると教えている。

 <金次郎の決意>
 金次郎は、一生懸命土を耕すとともに、学問を通して自らの心を耕そうとしてきました。心を耕すということは、心を広げ理想を持つという事です。
 父と母を失い、兄弟が離ればなれになってしまいました。金次郎は家を立て直し、兄弟一緒に暮らしたいと願っていっそう仕事に励みました。

  ・文化元年(1804年) 、おじ万兵衛方を去り、名主・岡部方に出入りする。
  ・文化2年(1805年)、二宮七左衛門方に住み込む。荒れ田を復旧し、耕作を進める。
  ・文化3年(1806年)、生家の近くに小屋を建てて住み独り立ちする。田地9アールあまりを買い戻す。
  ・文化4年(1807年) 、弟・富次郎が亡くなる。米、金の貸付や小作米の収入が増える。
  ・文化5年(1808年)、母の実家・川久保家に援助する。このころ俳句をたしなむ。
  ・文化7年(1810年)、田地が1.46ヘクタールとなる。江戸 伊勢 関西旅行をする。生活にゆとりができてきました。

 <服部家に住み込む>
  ・文化8年(1811年)、学問のための本を買い入れる。 二十五歳になった金次郎は、小田原藩家老・服部十郎兵衛の家に住み込み、若党になり、三人の息子の教育係などを務める。  夜は読書をする三人のそばに座って離れず、昼は漢学の先生の屋敷までお供し、子供たちを待っている間、庭にまわって障子の外から講義を聞いていました。こうして、金次郎の学問への情熱はますます高まって行きました。
 金次郎が住み込んだ服部家は家老職でしたが生活は苦しい物でした。返せる当てのない借金が増える一方でした。
  ・文化14年(1817年)2月、“中島きの”と結婚。田地が3.8ヘクタールあまりとなる。暮れに服部家から金次郎に財政の立て直しの依頼が届く。
  ・文政元年(1818年)、服部家の立て直しを引き受ける。

 <徹底した倹約>
 金次郎は、「自分は百姓で、相手は家老だ。よほど覚悟をしなければできない」と思いました。また、妻を一人残して服部家に行く事も心配でした。結局、五年の約束で引き受ける事にしました。金次郎は三十二歳になっていました。
 金次郎は、まず服部家の収入と支出の帳面を何年分も調べ、立て直しのために計算をしました。そして、収入に見合った支出の枠(わく)を決め、その枠を必ず守っていく必要があると考えました。そうすれば五年で借金は返し終え、六年目からはお金が残り始めると主人につげました。
 そこで、主人と使用人に「今後五年間、食事はいつもご飯と汁物に限る事、着るものは木綿の物に限る事、必要でないことはしてはいけない」。倹約は徹底していました。

  <大久保忠真との出会い>
  ・文政元年(1818年)11月、京都所司代を務めていた小田原藩主・大久保忠真(おおくぼただざね)は江戸幕府の老中になりました。今でいうと、内閣の大臣に当たる重い役目です。京から江戸へ行く途中、久しぶりに小田原にとどまった忠真は、人々の暮らしが貧しくて心も乱れていることを感じ「領民の中から、特に心がけのよいものを集めて表彰したい」と家臣に言いつけました。その中に栢山村からただ一人、「農民としてよく努めた。村の模範である」として金次郎が表彰される。これは金次郎が二宮家をもとのようにりっぱにし、服部家の立て直しを始めた年でした。

 <離婚する>
  ・文政2年(1819年)、長男・徳太郎が誕生。まもなく死亡。3月に“きの”と離婚する。
 金次郎にとって、いいことばかりではありませんでした。金次郎が服部家の立て直しの依頼を受けた事で、自分の家の田畑を守っていたのは妻の“きの”でした。子供が生まれましたが、ほどなく死んでしまいました。その悲しみと将来の不安から、“きの”は実家にもどってしまいました。
 服部家の財政は徹底した倹約でひとまず立ち直りましたが、その後借金は再び増えて行きました。それは、主人の服部十郎兵衛が殿様の大久保忠真について江戸屋敷で生活することも多くなったので、支出が増えたのが原因でした。
 そこで、藩から安い利息でお金を借りて、服部家の借金を全て返し、少し多めに借りた分でお金を貸し付けて立て直しにいかそうとしました。

  <再婚する>
  ・文政3年(1820年)4月、岡田波子“なみ”と結婚。金次郎の良き理解者であった“なみ”は、のちに多くの門人たちの面倒を見ながら二人の子供を育て、家をしっかり守りながら金次郎の仕事をささえました。
 金次郎は、服部家の立て直しの外に、同じように苦しむ他の藩士も助けるために「五常講(ごじょうこう)」という仕組みを作りました。

  <五常講>
   五常とは仁・義・礼・智・信の五つの人としての大切な心がけをいいます。
  (仁)とは、やさしい心がけ。 (義)とは、借りた者が正しく返す事。
  (礼)とは、貸してくれた人の恩義に感謝する事。
  (智)とは、借りたお金をきちんと返せるように工夫と努力をする事。
  (信)とは、約束をきちんと守る真心。
  この五つの心がけを実行すれば、必ずお金は返す事ができ、人間同士の信頼も守れると説明しました。これは、物やお金の正しい貸し借りは、しっかりした道徳心がなければ成り立たないという考えから出たものです。

 <改良新「ます」>
 金次郎は、農民が苦しんでいる年貢米をはかる「ます」の種類の違いを統一してほしいと、殿様に願い出ました。すぐに聞き入れられ統一がなされました。農民は喜びました。

  ・文政4年(1821年)、弥太郎誕生。服部家の第一回整理終わる。
  ・文政5年(1822年)、小田原藩に登用(名主役格)。  服部家は立て直しが、すっかり終わったわけではなく、その後も指導を続け、ようやく三十五年後に借金の返済が終わったということです。

  【桜町領の立て直しを命じられる】
  小田原藩主・大久保忠真は、小田原藩の立て直しを考えていました。金次郎を気に入り、「この男を思い切って使い、藩の立て直しはできないものだろうか。だが、農民の金次郎を取り立てれば、侍がおもしろくないだろう。それならば、いとこの宇津家(うづけ)の桜町領の立て直しをさせてみよう。」
 桜町領というのは、今の栃木県二宮町と真岡市(もおかし)の一部。昔は四千石(こく)の石高(こくだか)、年貢米(ねんぐまい)四千俵(ぴょう)あまりでしたが、当時は一千石、年貢米も千俵そこそこだった。
 忠真は、今までもたびたび役人を送っていたが、失敗に終わっていた。桜町をこのままにしておくと、やがては大久保家にも被害が及んで来る事は間違いありません。早くなんとかしなければならないという突き詰めた気持ちが金次郎を使う事に踏み切らせた。

  <八回の調査>
 文政4年から5年にかけて桜町に往復すること八回、調査が続けられました。(桜町まで約二百キロ、行くまで五日かかった)。桜町領には三つの村があった。今は栃木県芳賀郡(はがぐん)二宮町になっている物井村と横田村、真岡市(もおかし)の一部になっている東沼村。金次郎は三つの村を回って土地の様子や人々の暮らしぶりを調査しました。
  <立て直し十年計画>
 金次郎は次のような立て直し十年計画を立てました。 「今現在、四千石(こく)の土地だからといって、桜町領から四千俵(ぴょう)の年貢を取り立てるのは無理である。その半分でも今は無理である。そこで、だんだん収穫を増やしていくのだが、全部を年貢にして取り立てられてしまったら、農民はやる気をなくし、立て直しはできない。」そこで宇津家には、収穫が多い年でも今まで通り、千俵でがまんしていただき、残りを農村の立て直しのために使わせてもらう事にしました。そうすれば十年後には、農民の生活も立ち直り、二千俵の年貢を納める事ができるというものでした。つまり、金次郎は十年間の倹約を殿様にすすめたのでした。

 <小田原から桜町に引っ越す>
  ・文政6年(1823年)、田畑・家財を売り払い金次郎と妻“なみ”、その子供“弥太郎”は下野国(しもつけのくに・現在の栃木県)桜町に引っ越す。立て直しが始まる。ただの百姓ではなく、小田原藩から武士に近い扱いを受けた役人としての出発でした。
  ・文政7年(1824年)、長女・文子誕生。
  ・文政9年(1826年)、桜町陣屋首席となる。(組徒格・くみかちかく)
  ・文政11年(1828年)、桜町で反対や妨害を受け、苦しい日々を送る。「辞職願」を出すが許されない。なぜ、そうなったのでしょう?

  【桜町領での生活】
 桜町領の物井村(ものいむら・現在の二宮町物井)の陣屋(じんや)で、小田原から来た藩士と一緒に仕事を始めました。金次郎は、村の一軒ずつ訪ねて暮らしぶりを調べて回りました。家族が何人で、田畑がいくらあって、何がどのくらいとれ、何を食べているか、病人はいないか、困っていることはないか。朝はニワトリが鳴き出す頃から、夜は星が出るまで歩き回りました。時には仕事を怠けている者には、厳しく注意しました。 農民の表彰もしました。金次郎は、それを農民同士の投票によって選ばせ、ほうびには農具や米を与え、やる気を起こさせました。こうしてまじめに働けば認められるのだという、金次郎に対する農民の信頼感がみんなの心を少しずつ変えて行きました。
 農家の二男・三男や、よその土地から来た百姓を保護して農業をする人を増やしました。用水路を掘り、堰(せき)を作ったり、排水技術を教えたりしながら荒れ地を開き、作物の生産を増やしていきました。
 ところが、なかなか全てうまくはいきませんでした。土地の境(さかい)の問題や用水路の使い方について争いが起こるようになり、新しく来た百姓を保護することにも不満を言う人があらわれました。この非難は、土地の百姓からだけでなく、金次郎のやり方を納得できない小田原藩の役人たちからもあがってきました。金次郎を慕う人が増えれば、ねたむ人も出て来て、厳しい反対や妨害のために、つらくくじけそうな苦しい日々を送ることになりました。

  ▼金次郎の草鞋  体格の良い人だったようです。少年像からは推測しにくいが、身長180センチ超え、当時ではまさに巨漢。声も雷のごとくといわれ、交渉相手の役人や農民も迫力を感じた。

  ・文政12年(1829年)、成田山で断食修行をする。帰ってからは、事業が円満に進行する。

  <成田山にこもる>
  文政12年正月、金次郎は江戸に用事があると言って出かけたまま行方不明になりました。桜町での大きな障害をどのように乗り越えようかとさまよい、最後に下総の国(千葉県)の成田不動尊(なりたふどうそん)にこもって、二十一日間の断食修行をしました。 修行の後、金次郎は「人には絶対の善人、絶対の悪人というのはないのだから、真心(まごころ)をつくせばわかってもらえるはずだ」と悟り、お不動様のように、たとえ背中に火が燃えついても、決して桜町から動くまいと誓ったそうです。
 金次郎が三ヶ月にわたって姿を消している間に、協力者たちは行方をさがし、江戸に出て小田原藩の役所に行き、立て直しの仕事を引き続けてもらえるようにお願いしました。反対者たちは、不安になり反省し、金次郎の誠意と努力がわかりだしました。

  <報徳仕法(ほうとくしほう)>
  ・天保2年(1831年)、約束の十年をむかえました。小田原藩主・大久保忠真に報告、桜町一期事業終る。この桜町の立て直しの成功は各地に知れ渡って金次郎の教えを受けたいとやって来る人々が出てきました。
  (註Ⅰ)仕事一筋に見えるが芸術や文化、村民の娯楽に対する理解もあった。二十歳過ぎに「山雪」という俳号で句会に通った。以下は入選句の一つ。
   ・山吹や古城を守る一つ家
 俳句は間もなく卒業、後半生は教訓用の道句や道歌を六百以上も作った。
  <道句>
   ・春雨や濡れて耕す人ごころ
   ・桜より桃よりたのし稲の花
  <道歌>
   “宇宙自然の法則、人道のあり方、自らの体験で得たものなどを、わかりやすい言葉で五七五七七の歌にしました。そして自ら実践すると共に、人々に実行を勧め、心豊かで、平和な社会を作ろうとしました。それらの歌は道歌と呼ばれました。”(小田原市尊徳記念館ロビー展示より)
   ・むかしまく 木の実大木と なりにけり 今まく木の実 のちの大木ぞ
   ・天つ日の 恵みつみおく 無尽蔵 鍬で掘り出せ 鎌でかりとれ
   ・こめ蒔けば 米の草生え 米の花 咲きつつ米の みのる世の中
   ・増減は 器かたむく 水とみよ あちらにませば こちら減るなり
   ・あら山の 深山(みやま)のおくの たにかげも 花さきにけり 春のめぐみに
   ・夕立と すがたを変えて 山里を めぐむなさけぞ はげしかりける

  社寺の修復や祭礼の復活に力を入れ、地域の連帯感を育む娯楽の場も回復させた。地域社会を機能させるには、あらゆる問題への目配りが重要と考えた。

  (註Ⅱ)金次郎が弟子らに語った話が「語録」や「夜話」など、数多く残されている。例えが上手で字の読めない農民にも理解できた。
   『湯船の話』
   風呂で熱い湯を自分の方にかき寄せても反転して逃げて行く。逆に押しやるとこちらへ回ってくる。動物のような奪い合いより人道の譲り合いの和が大切。
  『譲って損なく 奪って益なし』。

 しかし、桜町領内三カ村の立て直しは一応できましたが、まだ宇津家の完全な立て直しができていなかったので引き続き桜町に留まり指導を続けました。
 このような金次郎の考えにそった立て直しの仕事を「報徳仕法」と呼んでいます。仕法には、一家の借金を少なくする事もあれば、村を立て直す事、藩の財政を立て直す事もありました。仕法は、「趣法(しゅほう)」とも「仕法(しほう)」ともいわれます。

 <天保の飢きんⅠ>
  ・天保4年(1833年)、青木村の桜川の堰(せき)工事。凶作(きょうさく)を予知して対策をする。川底が砂地で流れやすく堰には不向き。そこで川の上に茅(かや)ぶき屋根をつるして自ら飛び乗り綱を切り、屋根もろともに川中に落下。用意した石を村民が投げ入れ水を見事に堰き止めた。この独創的な工法と度胸に、誰もが目を見張った。
  ・天保の大飢きんを先見して犠牲者を出さなかった話は有名。
 夏の初め、何日も雨が降り続きました。ナスを食べてみると秋ナスの味がしました。ナスや稲、草の様子から昔聞いた「天明の飢きん」の時と似ているので必ず飢きんが来ると確信しました。
 そこで金次郎は桜町領内三カ村の百姓に「今年は凶作になる。畑一反(いったん)に飢きんに強い稗(ひえ)を蒔きなさい。そのかわりに畑一反分の年貢は出さなくてもよい」と命じました。植えたばかりの稲田や綿畑をつぶしてヒエ、ソバ、大根に植え替えさせ、凶作への備えを徹底しました。大男の金次郎が雷のような大声で怒鳴って回ったので反対の者も命令に従いました。
 ところが、金次郎の予想が当たり、関東や東北地方の一帯は雨の多い冷夏となり、やはり凶作となって飢えに苦しむ人々が多くでました。
 しかし桜町では稗などを食べて過ごしたので、餓えた人が出ませんでした。この後も、もっとひどい凶作に備えて領内に雑穀(米・麦以外の穀物・稗や粟など)を作らせ、ためて置くようにしました。

  ・天保5年(1834年)、徒士格(かちかく)となる。
  ・天保6年(1835年)、谷田部藩の立て直しを始める。


 <天保の飢きんⅡ>
  ・天保7年(1836年)、諸国大凶作烏山藩を救急援助。桜町領の立て直しが終わる。
 この年から次の年の八年にかけて、全国的に天候が不順で大凶作となり、各地に多くの餓死者が出て、百姓一揆や打ちこわしが起きました。「天保の飢きん」は、関東や東北地方のどの藩をも苦しめました。沢山の借金と荒れ地を抱えて、飢えに苦しむ農民を前にして、助ける方法も見つからず、金次郎に「仕法」を頼むところが次々と出てきました。  金次郎は、飢きんから人々を救うため、米・麦・稗などの食料を送り込んで助けるとともに、それぞれの藩にあった仕法の指導に当たりました。

  <天保の飢きんⅢ>
  ・天保8年(1837年)、小田原藩領の餓えた人々を救う。小田原藩主・大久保忠真病気で亡くなる。烏山領の立て直しを始める。
  ・天保9年(1838年)、小田原領・下館領の立て直しを始める。
  ・天保12年(1841年)、桜町で谷田部・茂木・下館・小田原領などを始め多くの藩や領の指導を続ける。
 天保の飢きんは、小田原領の人々にも大きな打撃をもたらしました。そのころ重病だった小田原藩主・大久保忠真は、金次郎に千両を渡して小田原領の人々を救うように命じました。
 桜町から十五年ぶりに故郷に帰った金次郎は、領内を回って困っている農民に食料を与えました。千両を三百七村に分け与え、困っている人には必要なお金を貸し出すことも行いました。
 結果、小田原領内は、一人の餓死者もなく、四万人あまりの人々が救われました。
 ところが、いよいよ本格的な仕法を行おうとした時、小田原藩主・大久保忠真が病気で亡くなってしまいました。金次郎のよき理解者である大久保忠真が世を去ると、金次郎に反発する人々が出てきました。もともと小田原藩には、ただの農民の金次郎を藩の政治に参加させることに反対する意見がありました。農村では金次郎に仕法を行ってほしいと望んでいましたが、藩の協力が得られなくなり、金次郎の考えた仕法は一部の農村で進められただけで、領内全体の仕法は完成させることができなくなりました。

  ・天保13年(1842年)、江戸幕府の老中・水野越前守忠邦(みずのえちぜんのかみただくに)に突然呼び出され、幕府の役人に取り立てられました(御普請役格)。

 <利根川分水路測量調査>
  最初の仕事は、利根川沿いの印旛沼(千葉県)から東京湾へ分水路を作る測量調査の一員になる事でした。
 利根川は、大雨の後など水が増えると印旛沼に水を逆流させるため、沼が反乱して、まわりの村々の田畑が水浸しになることが多かった。これを防ぐためには印旛沼の水を江戸の海(東京湾)に落とすしかなく、うまくいくと房総半島を回って江戸の海を通る船にとって、便利で安全な水路ができる事にもなるので期待されていました。しかし、この計画は何度も試したのですがうまくいかないので金次郎にやらせようと考えたのでした。
 金次郎は、大変な工事なので急ぐことはない、まず、まわりの貧しい村々を立て直す必要がある。分水工事を行うことは、その通路となる村々の人の心をつかんで協力してもらう必要がある事、また、十四万両あれば各村の立て直しをはかりながら行って行く事ができると考えました。
 ところが、この工事を急いでいる幕府には、この計画を受け入れてもらえませんでした。結局、この工事は今までのやり方で行い、水野忠邦が政治からしりぞいたこともあり、二十五万両を使いましたが無駄になり、途中で終わってしまいました。  金次郎は政府の役人にはなりましたが、これといった仕事も与えられず、力をふるうこともできず、つらい時を過ごしていました。

  <尊徳と名のる>
  ・天保14年(1843年)、幕府の役人になってから尊徳(たかのり)という侍らしい名のりをするようになりました。尊徳の由来は報徳の「徳」を尊ぶ、訓読みで(たかのり)。当時はあまり使われなjかった。没後に音読の尊徳 (そんとく)が定着し、後の人々が呼ぶようになったものです。

 <仕法のひな形作り>
  ・弘化(こうか)元年(1844年)四月、尊徳は日光御神領の荒れた土地を使えるようにする計画を立てるように、という命令を受けました。待望の仕事に喜んだ尊徳は、すぐ日光に出発するつもりでしたが、幕府は現地を見ないで、すぐ見込書(計画書)を出すようにというのです。尊徳は、すぐにはできないと断りました。
 そこで尊徳は自分の手を離れても、だれにでも実施でき、どの土地にもあてはまる仕法のひな形を作ることを考えました。仕法のひな形づくりには、長男の弥太郎をふくめて門人たち二十人をこえる人々が協力しました。  全精力を傾けた仕法のひな形が完成したのは、二年三カ月後の事で、その部数は八十四冊にもなり、生涯の大事業となりました。このひな形は、尊徳の体験をもとにして作られた仕法の手本となる書で、後に多くの人々に伝えられました。  後日、病がいよいよ重くなった時、門人たちを枕元に呼んで「決して、事を急いではいけない。決してあきらめてはいけない。」と教えたといいます。幕府が事を急ぎ、自分があきらめず仕法のひな形を作り上げた事を、門人たちに伝えたかった事が納得できます。
 この「決して、事を急いではいけない。決してあきらめてはいけない。」という教えは、金次郎の小さい頃の事、服部家や桜町の立て直しなど、全ての事から導かれたものです。金次郎の生き方そのものです。

 <尊徳仕法 まとめ>


       尊徳仕法の三つの実践力   『二宮金次郎物語』より 42-43頁

 勤労 (きんろう)

 「勤労」とは働くことであるが、人間にとって、身をもって働くことが大切で、 必要なものをいくらでも得ることができる。しかし何かを得るため、手に入れる ためだけに働くのでは本当の勤労ではない。受けた恩徳にお返しするために、自分の徳を生かして働くことが大切である。そのような働きが人間を向上させることにつながると尊徳は教えた。

 分度 (ふんど)

 人には、決まった収入がある。それぞれの人がその置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活を送ることが大切であるという教え。はち植えの松は枝をのび放題にしておけば、やがて、根がおとろえかれてしまう。同じように 収入が少ないのに、派手な生活をすれば、やがて生活もくずれてしまう。収入に応じた一定の基準(分度)を決め、その中で生活する必要性を説いた。この経済上の分度は一軒の家だけでなく、一つの村や町、県や国、一つの会社の経済などにもあてはまる。又、分度は経済面だけでなく健康、体力、あるいは開発などについても大切なことである。

 推譲 (すいじょう)

 尊徳は「譲る」ということをたいへん大切に考えた。分度を立てて余ったものを将来のために残す(譲る)。あるいは人のため、世のために譲ることが人間の行 いとして大切なことである。人間と、けだものの違いはこの「譲る」ということがあるかないかである、と教えた。この「譲る」ということ「推譲」と呼ぶようになった。また、将来に向けて、自分の生活の中であまったお金を家族や家のために貯えたり(自譲)、他の人や社会のためにゆずったリ(他譲)する行為のことをいう。人間は譲り合うことで初めて人間らしい生活ができると説いた。推譲の精神が人間に平和と幸せをもたらすと教えた。推譲とは、物やお金だけてなく「道を譲ること」「席を譲ること」も推譲であるし、「力を譲ること」つまり、力を貸すこと、手助けすること、ボランティア活動、奉仕活動なども推譲のひとつである。

  以上の「勤労」「分度」「推譲」は、三つがそれぞれが結び合うことが大切てす。また、この三つには「至誠」といって真心がともなうことも大切なことです。
 (註)分度の読み方について。「古い文献には仮名がふってありません」。
 『二宮金次郎物語』(小田原市教育委員会)平成十八年九月一日第二版発行は「編集者の考えで(ふんど)とルビがしてある」。小田原市尊徳記念館常設展図録』10ページには(ぶんど)とルビがしてある。
 2011年8月11日の神奈川新聞『尊徳先生教えて』では(ぶんど)とルビがしてある。「現在一般的には(ぶんど)が使われている」。
 (以上は小田原市尊徳記念館に電話をして教えていただきました。2011年8月11日)

  ・弘化2年(1845年)、相馬藩(そうまはん・福島県)の農村の立て直しが始まる。
  ・弘化3年(1846年)、日光仕法のひな形完成。 七月、小田原藩の仕法を打ち切られる。その上、小田原領民と行き来することを禁じ、郷里の墓参りさえも許されなくなりました。藩の役人の中には、尊徳の考えを十分理解していない人もいたのです。尊徳は小田原藩主だった大久保忠真の墓の前で涙したと伝えられています。

 <東郷陣屋での活躍>
  ・嘉永(かえい)元年(1848年)九月、住み慣れた桜町を後に、尊徳一家は近くの東郷陣屋(ひがしごうじんや)、現在の栃木県真岡市(とちぎけんもおかし)に移りました。
 東郷陣屋に移ってから、尊徳の身辺は、また忙しくなりました。烏山(からすやま)藩の仕法、下館(しもだて)藩の仕法、それに新たに始まった相馬藩(そうまはん・福島県)の仕法、その上、東郷村をはじめとする十四か村の天領(てんりょう・将軍が直接おさめる領地)の仕法が命ぜられたからです。
  ・嘉永5年(1852年)、小田原に墓参。弥太郎や文子結婚。
  ・嘉永6年(1853年)、日光領の立て直しを頼まれる。尊徳、江戸で発病する。文子没する。
  ・安政2年(1855年)、今市(いまいち)に報徳(ほうとく)役所ができると尊徳一家は東郷(ひがしごう)からここに移転。病状は思わしくなかった。

  <遺言>
  ・安政3年(1856年)2月、御普請役に昇進する。10月20日、下野国都賀郡今市村(しもつけのくに つがぐん いまいちむら)の今市報徳役所(現・栃木県日光市)において、日光地方の復興事業中に亡くなる。享年70(数え歳)。  
 尊徳は病がいよいよ重くなった時、門人たちを枕元に呼んで「決して、事を急いではいけない。決してあきらめてはいけない。」と教えた。
 また、「自分が死んだら墓石などを立てずに土を盛り上げ、そのそばに松か杉を一本植えておけばよい。必ずこのようにしなさい。」と遺言したと言われている。
 門人たちは、これほどの先生の墓が無いのは「申し訳ない」「さびしい」ということで墓を建てました。

 (註)“遺髪は曽我の、よし(母)の実家に位牌とともに届けられました。川久保家の敷地の一角に、二宮尊徳の「遺髪塚」があります。金次郎のいとこの民次郎の遺言で民次郎の孫の興三郎が1938年に建てたものです。”(神奈川新聞 『わが人生 60』著者田嶋享による)

  日光御神領はじめ各地の仕法は、弥太郎や門人によって受け継がれて明治になるまで続けられました。また、尊徳の生き方、考え方は今の世の中でも人々の心の支えとなり大切にされています。

 <地図で見る尊徳の活躍>

  金次郎が荒れた桜町領の復興に成功すると、その評判を聞いた各地の人々は教えを受けるために金次郎を訪ねて来ました。金次郎は村を立て直すのに強い意志を持ち、真剣に教えを受けようとする人には、喜んで手をさしのべました。

 今の茨城県桜川市にある青木村では、桜川に堰を作って荒れた土地を豊かな土地に変えました。

 福島県の相馬中村(そうまなかむら)藩では、金次郎の弟子の富田高慶(とみたたかよし)が中心になって報徳仕法によって藩を立て直しました。

 仕法はさらに静岡県掛川(かけがわ)地方や、北海道にまでおよび、今でもその伝統が受け継がれています。

  【2011年5月24日 神奈川新聞】
 相馬市、南相馬市、浪江町・・・東日本大震災(2011年3月11日)は、小田原生れの農政家・二宮尊徳(金次郎、1787年~1856年)ゆかりの地でも大きな被害をもたらした。  
 江戸時代後期を生きた尊徳は、東北や北関東を中心に村々の復興を手がけた。特に相馬地方での成功は名高い。地元出身の一番弟子・富田高慶との協力で、飢きんに苦しむ農民を助けながら深刻な財政難を切り抜けた。
 尊徳ゆかりの市町村でつくる「全国報徳サミット」の参加自治体は福島が最も多い。相馬市、南相馬市、浪江町、大熊町、飯舘村が名を連ねる。復興に向けた息の長い支援を必要としている市町村ばかりだ。小田原市も募金活動を始めた。「尊徳が説いた報徳精神で復興を支援したい」。復興は、みんなの願いです。
 しかし、尊徳の時代とは違って、「福島第一原子力発電所の放射能漏れ」は深刻だ。対策には一刻の猶予もない。そして、土地の汚染は長く続く。再び安心して住めるようになる目途は立っていないのが現状だ。

        ▼神奈川新聞 2011年5月24日 掲載 記事



 【尊徳の像】

▲小田原市西大友
「ヤオマサ
おだわら新鮮館」
金次郎像
▲小田原市「ヤオマサ
おだわら新鮮館」尊徳像
▲尊徳記念館の
尊徳「回村の像」

▲小田原市西大友「ヤオマサ おだわら新鮮館」:尊徳像と金次郎像が
並べてあります。一番左の碑銘は「 「譲って損なく奪って益なし」

 「回村の像」は、昭和53年(1978年)、金次郎の没後120年を記念して制作された。諸種の資料をもとに、下野桜町領(栃木県真岡市)や小田原藩領の復興につとめていた50歳代の頃、領内の村々を巡回(これを回村といった)している姿を再現している。

 【「二宮尊徳」の歌】
 桑田春風作詞・田村虎蔵作曲。 『幼年唱歌(四の下)』明治三十五年九月発行に掲載。 「二宮金次郎」の歌以前に、「二宮尊徳」の歌が作られ歌われました。 歌詞は七七調でできています。一番は、少年時代の金次郎を歌っています。二番は、尊徳の活躍をたたえた歌です。 曲は弱起で始まる四分の三拍子。二小節のリズムが全曲にわたって繰り返されています。

 【二宮金次郎 以前の酒匂川の話】

 二宮金次郎の時代以前に氾濫する酒匂川に挑んだ人々がいました。
 例えば、川音川と酒匂川合流地点左岸には、西の大口土手と並び称される「三角土手」という重要な堤防があります。
 この三角土手の説明看板は、だれにでもわかるように書かれています。
 三角土手の由来は神奈川県によれば次のようです。宝永4年富士山噴火後の洪水によって、流れを西方へ変えていた酒匂川を、享保11年(1726年)田中丘隅は大口土手を締め切り、ほぼ現在に近い位置へ流路を固定し、尺里川などと合せて一本化を行いました。
 続いて享保12年に、田中丘隅は現在川音川と酒匂川合流地点の左岸に、通常の規模の十文字土手を造りました。
 しかし、享保16年の洪水で、十文字土手が流された為、享保19年(1734年)に蓑笠之助(田中丘隅の娘婿)によって、より強固な堤防が築かれました。この土手を三角土手と呼びます。
 蓑笠之助によって築かれた三角土手は明治40年の洪水で大破し、現在はその面影はありませんが、自然の工夫によって守られ、この時以来今日に至るまで三角土手の決潰はありません。 (写真右は説明に添えられた図)。

 【資料の薦め】

 『尊徳記念館 展示室』パンフレット、『二宮金次郎物語』(小田原市教育委員会)平成十七年発行、小田原市尊徳記念館常設展図録「二宮金次郎の仕事」 。

 小田原市尊徳記念館に入館し、『尊徳記念館 展示室』パンフレットにしたがってアニメーションを観ながら見学します。ボランティアの方の説明もあり、わかりやすい。さらに『二宮金次郎物語』を読むと理解できます。図録も充実しています。 二宮尊徳の偉さは青年時代以降にあったというべきです。ただの土木工事監督ではなく、統計資料の重要性に気づき、経済を見通す方法を村人に教えた実践的な経済学者・教育学者だったのです。その活躍は今回の震災地・福島県にも及びました。ぜひ、小田原市『尊徳記念館』常設展を見学してください。今までの「二宮金次郎」「二宮尊徳」のイメージが一変します。

 著者・池田小百合が行った日(2011年4月15日)は、ちょうど夕方から計画停電実施の日で、早めに閉館との事でしたが、鳥取ナンバーの車から若い両親と子供二人が降りて入館する所に出会いました。嬉しかったので、つい「こんにちは!」と声をかけました。今日も、『尊徳記念館』を訪れる人は絶えません。

  【現代に見る二宮金次郎(尊徳)の生き方】
 偉人伝が常にそうであるように、金次郎もまた「貧しいは、悲しい」という幼い時の苦しい生活から抜け出すための努力があり、成功しています。 幼い時の貧しさを身にしみて知っているだけに、周囲の貧しい人々を見過ごすことはできなかったし、特に自分の家とつながりのある親戚が困っていると、できるだけの手助けをしました。
 生活にゆとりができると、俳句に親しんだり、旅行をしたりしています。
 しかし、金次郎には、学問へのあくなき挑戦がありました。勉強のできる環境を得るために雇われてお金を稼ぐのにも相手を選んでいました。学問に接する機会が多かったのは武家屋敷でした。金次郎は学問を学び、財産を増やしながら、着実に一家の立て直しを行いました。この事は、藩の立て直しにも通じるものでした。その粘り強さ・我慢強さは、頼まれた小田原藩の服部家の借金返済が三十五年後に終わった事でも明らかです。
 修身の教科書に描かれたように立派な金次郎ですが、私生活では、“きの”と離婚し、“なみ”と再婚しています。最初の結婚では、子供が亡くなってしまいます。再婚では、二人の子供をもうけます。再婚した“なみ”が、働き者で金次郎を支え、家を守ったとされています。「人生はやり直しがきく」の手本です。

 金次郎が桜町の人々に教育をし、喜ばれると、ねたむ人が出ます。「いじめ」があります。粘り強く、我慢強く、賢い金次郎でしたが、反対や妨害を受けて、苦しい日々を送ると、ついにやりきれなくなり、殿様に「辞職願」を出します。きまじめな一面がうかがえます。しかし、辞職は、許されませんでした。金次郎は全財産を処分して小田原を出たので、相当の覚悟はあったのですから、よほどの事態だったのでしょう。
 悩んだあげく、自分の仕事から頓挫し、行方不明となり、成田山にこもります。二十一日間の断食修行の後、「真心(まごころ)をつくせばわかってもらえる」と悟ったようです。
 「天保の飢きん」の時、金次郎が農業の経験を生かして、大勢の命を救った事は、すばらしい事でした。
 後日、病がいよいよ重くなった時、門人たちを枕元に呼んで「決して、事を急いではいけない。決してあきらめてはいけない」と教えたといいます。これが尊徳の生き方そのものでした。座右の銘にしたい言葉です。 貧しい小田原の百姓が、幕府の役人にまでなったその努力と偉大さに、ただただ感動です。この時代、普通ではなしえない事です。
 ある歴史学者が「乱世に生まれていたら天下を統一していたのではないか」と言ったそうですが、もっともなことです。さらに、戦後の占領下、連合国軍総司令部(GHQ)の高官が「日本のリンカーン」と絶賛したそうです。
 2011年3月11日の東日本大震災後、尊徳の教えが注目されています。特に「節電の夏」に「節約」が注目です。しかし、今までの自然災害と違う所があります。「福島原発の放射能漏れ」が起きた事です。対策は一刻の猶予もない。そして、汚染された土地は、あきらめざるをえない。安心して住めるようになる目途は立っていない。脱原発の方向に舵を切った日本の政策に尊徳も納得していると思います。

 こうして二宮金次郎(尊徳)を学ぶと、知らない事ばかりでした。ぜひ『尊徳記念館』に行き、その業績に触れる事をおすすめします。

 【二宮金次郎の子孫の講演】
 中桐万里子さんは、1974年生まれ。二宮金次郎(尊徳)から数えて七代目となる子孫にあたる。白百合女子大学附属小・中・高で一貫教育を受ける。慶應義塾大学環境情報学部卒業。その後、京都大学大学院に進学。2005年、京都大学で教育学の博士号(教育学博士)を取得して卒業。専門は、臨床教育学。現在は、関西学院大学講師、国際二宮尊徳思想学会常務理事などを務めている。
 2012年7月6日、JAはだの主催の講演を秦野市文化会館に聞きに行った。演題は『二宮金次郎の生涯と知恵。~現代の教育に生かすヒント~』だ。
 まず自己紹介があった。中桐万里子さんは、二宮家五代目の祖母から、金次郎の話を繰り返し繰り返し聞いて育った。中桐という姓であるのは、祖母が嫁いで姓が変わったためだ。 私は、この祖母の気持ちが痛いほどわかった。私の家も、母が父を養子に迎えて結婚し姓を守ったのに、私は嫁いで池田となった。元の姓は、ハンコ屋が「珍名さんが掲載されている全国冊子にも無い」と言うほど珍しい名前だった。二宮家五代目の祖母が孫に何度も何度も二宮金次郎を語ったように、私は二人の娘たちを抱きしめて「偉い人になってね」と繰り返し繰り返し言って育てた。小さい娘たちは、「偉い人って、なあに?」と言い、理解できないでいた。結婚して四十年以上も過ぎた今では、姓などどうでもいい事になった。時代の流れがそうさせてくれた。時代の流れは速く、姓などにこだわっている場合ではなくなった。
 二宮金次郎には有名なエピソードがある。ナスの話だ。ある年、田植えを終えた頃に、金次郎はナスの漬け物を口にして、「秋ナスの味だ」と感じた。「これから夏を迎えるはずが、この味はおかしい」と冷夏の到来を予見する。金次郎は村中を駆け回って今植えた米の苗を抜き、稗や粟の寒さに強い作物の苗に植え替えさせた。そして予想通り冷夏がやって来た。「先手必勝」のこの作戦により、金次郎は、その年に農民を飢饉から救った。この年から天保の大飢饉がはじまります。
 ホールの後方の観客が、「今のナスはハウス栽培だから、夏も秋もナスの味は同じだ。金次郎が食っても、味の違いは判らないだろう」と言っているのが聞こえた。観客は農協の関係者が多く、今日は研修会。ナスの味は現代ではなく、天保の時代の話なのだが・・・と観客の反応に不安になった。
 中桐万里子さんは、このエピソードについて次のようにコメントされた。
 「私が思うに、金次郎は身長180センチ、体重94キロの大男だった。江戸時代末期の農民にしては大柄で、顔もいかつい。それで、この男が、『今植えた米の苗をぬいて、稗や粟に植え替えよ!』と怒鳴れば、『田植が終わったばかりなのになあ』と不平不満のある農民も、恐くて従わざるをえなかったのではないか」と。会場からは、少し笑いがあった。ここはどっと笑う所なのだが・・・。小田原市の『尊徳記念館』に展示してあるワラジの大きさを、みんな知らないから笑えなかったのだろう。金次郎は体格の良い人だった。
 今日の講師、子孫の中桐万里子さんも、長身でがっしりした体格だ。金次郎の生きた時代は天災人災の続く激動期でした。金次郎は、「私の名を残すな、行ないを残せ」という名言を残している。
 この時期、自然災害や悪政による借金で苦しんでいた農民たちの救済に立ち上がる。金次郎は六百以上の農村を回り、農民たちを飢饉や借金苦から救った。金次郎の考案した「報徳ファンド」の話もあった。
  「Give and Take」という言葉がある。人は何か物をあげると、お礼に見返りを求める。しかし、尊徳の教えは「Take and Give」だと中桐さんは言う。借金に苦しむ農民に無利子無利息でお金を貸す。返済し終えた所で、そのまま二ヶ月同じ返済を続けさせます。たとえば百万円返し終えた人に、また二ヶ月返し続けさせるのです。そうして得た二十万円が貯蓄され、次に困った人に貸すのです。「これは、おかしい。詐欺ではないか」と思われる方もあるかもしれませんが、借金が無くなったその喜びを次の人に形で表しなさいという物です。農民たちはどうしただろうか? 農民たちは、借金が無くなった喜びを、また二ヶ月続けることで表した。 尊徳は、与える人になること、次の担い手になることを諭した。与えることこそ人の喜びではないか、と講演は結ばれました。
 「徳はドラマで、報徳とは恩返し」。 貧しい農民が、借金を返し終えても、また二ヶ月間お金を持って来たのには訳がある。金次郎は、農民に勉強を教えた。「読み・書き・ソロバン」だ。さらに利子の計算などの「経済学」、「土木工学」「農学」「文学」「絵画」などを教えた。「教え育んだ」から、農民は喜んで恩返しをしたのです。これが、「教育」の原点です。
 では、今だったらどうでしょう。借金が返し終わっても、引き続き同じ行いをするでしょうか。それより、年寄りからお金をかりて返すこともせず、土下座で終わらせて平気な人もいる社会です。
  「私たちは大自然に<無力>なのではなく<無知>なだけ、無力と無知は違う」という言葉が印象に残っています。東日本大震災復興の道しるべになる言葉です。
  二宮金次郎(尊徳)の教えは、子孫に受け継がれ、若々しい言葉で語られた。難しい理論も、親しみを持って聞く事ができた。立派な講演でした。講師と同世代の若者は、どのように聞いただろうか。
 (註)国際協同組合年記念 第90回国際協同組合デー研修会。
  日時、2012年7月6日(金)午後6時開演。場所、神奈川県秦野市文化会館小ホール。
  演題、二宮金次郎の生涯と知恵。講師、中桐万里子。

 【二宮金次郎の子孫の講演】(Ⅱ)
 平成二十五年十月十九日(土曜日)『第19回全国報徳サミット秦野市大会』が秦野市文化会館で開催された。中桐万里子さんの「豊かなひとづくり~二宮金次郎にみる知恵~」と題した基調講演を聴きに行った。

  <名前が「二宮」でないのは>
 四代目までは男子が「二宮」を継いだが、五代目からは、女性が継いでいる。自分は七代目子孫にあたる。

 <金次郎銅像の解釈は>
 百五十年以上経つが、今でも二宮金次郎が知られているのは、教科書で教えられたこともあるが、それ以上に有名になったのは、各地にある銅像が一役を担っている。銅像は読書をし、薪を背負い、足を一歩踏み出している。普通、勤勉な子どもの象徴とされるが、このスタイルは、行動の前に本を読んで学び、考える。物事を知ってから行動、勤労の一歩を踏み出す。読書は、実践主義者金次郎の一歩を踏み出す、実行するための大切な姿勢なのだ。

 <初夏なのに秋ナスの味は>
 尊徳が初夏にナスを食べたところ、秋ナスの味がしたことから気候不順を予測し、「今植えた米は抜け。茶畑はつぶせ、寒さに強いヒエやアワなどの冷害に強い農作物を作れ」と指導し、天保の大飢饉をしのいた。
 この事例は、小さなことに目を配り、自らの感覚や経験を大事にする事。地道な現実観察が大切だと教えられる。大きな決断は、よく見て知る事からはじめられる。普段の何気ない事、どうでもいい事、小さい事が大きなヒントにつながる。小さな事に目を向ける事は、大きな幸福の手がかりになる。

 <尊徳の銅像は>
 大人になった銅像は本を持っていない。クワやカマ、測量などを記載する帳面や筆を持っている。知る事から実践へ。現場で行動する二宮尊徳の姿だ。 目の前の田圃をよく見る。よく見る、知る事とは、どのような事か。ルーツを考える。荒地を切り開いたのが田圃。そのプロセスを知る、ロマンやドラマを知る。それが見えて来た時、感動が生まれ、愛着が生まれる。そこから頑張るパワーが生まれる。先人を知る、過去の事実、歴史を知る。心眼を持って見る。過去を知ると明日へのパワーがもらえる。現場を知ると、おのずとパワーがもらえる。育って来たプロセスをよく知る事から明日へ。「よし、明日も頑張ろう」現実に目をむけると報徳につながる。

 <“報徳”という言葉は>
 “報徳”という言葉は、「頑張れば報われる」と解釈される事があるが、見返りの思想ではまったくない。「報いて実践しよう」という恩返しの思想。「ありがとう」の反対語は「あたりまえ」。「あたりまえ」から脱却する事が恩返し“報徳”の思想だ。

 ・・・・・・七代目子孫・中桐さんの若い語りは、ホールを埋める参加者を呻らせた。「持ち時間を二分オーバーしてしまいました」と謙虚で素直。私、池田小百合は、熱狂的なファンになってしまった。また講演を聴きたいと思っている。感動が、いつまでも続いている。

▲第19回全国報徳サミット
秦野市大会 プログラム
江戸時代後期の農政家・二宮
尊徳(金次郎)にゆかりのある
全国十八市町村が集い、一般
の人もふくめて千二百人が
参加した。豊頃町(北海道)、
相馬市、南相馬市、大熊町、
浪江町、飯館村(福島県)、
筑西市、桜川市(茨城県)、
日光市、真岡市、那須烏山市、
茂木町(栃木県)、小田原市、
開成町、秦野市(神奈川県)、
掛川市、御殿場市(静岡県)、
大台町(三重県)ほか。
▲資料編 尊徳に直接教えを
受けていない
安居院庄七(あぐいしようしち)
や草山貞胤(くさやまさだたね)、
報徳を広めた郷土の偉人の
活躍にも注目したい。
尊徳の作った「ひな型」が、
わかりやすく、すばらしかった
事を物語っている。
▲第19回全国報徳サミット
秦野市大会終了後、参加者
全員に配られた手さげ袋の絵。
中には秦野の名水、桜まんじ
ゅう、菜種の三点。
手さげ袋に描かれた「にのみ
やそんとくん」は本を読んで
いない。

 【二宮金次郎の子孫の講演】(Ⅲ)
 第57回尊徳祭 会場 小田原市尊徳記念館 平成26年10月18日(土)
  ◎13時40分~小学生の作文発表
  五人の小学生が「二宮金次郎とわたし」の作文を読みあげた。小田原市内の小学校では小学校四年生になると二宮金次郎の学習をする。五、六年生は、ゆとりの時間で発展学習として金次郎の自由研究をする。作文はその一つ。
 五人の内、男子は一人だったのが気になりました。女子は、落ち着いていて、はきはきした発表でした。内容は素直にまとまっていて期待が持てました。

  ◎14時30分~二宮尊徳7代目子孫 中桐万里子氏の講演
  「わたしらしさ、この子らしさ~二宮金次郎の実践を手がかりに~」

  講演内容
  <「二宮」でなく「中桐」の名前の理由>
  四代目までは「二宮」でした。あとは女性で継いでいます。 金次郎は五十六歳の時、尊徳(たかのり=そんとく)と名前をかえた。

  <「二宮金次郎」が有名な理由>
  「二宮金次郎」が今でも知られているのは、教科書(国語・音楽)で教えられたこともありますが、何といっても「金次郎像」が全国にあるからです。読書をし、学習したら一歩を踏み出す。そして活動する。働く=勤労、人の役に立つ。薪は勤労の象徴。金次郎像には、一歩でいいから足を出して進む。くじけそうなとき、どんな時も一歩をわすれるなという教えがある。
  大人になった尊徳は、本を持っていない。帳面と筆を持っている。メモをしている姿です。測量の記録、住所録、お金の計算、日記など、何でもメモをした。農民の話もメモを取りながら聴いた。中桐万里子氏の「尊徳記念館」での講演は初めて。三歳の時、尊徳の像の除幕式に参加した写真が残っている。

  <ナスを食べた金次郎の話は有名>
  初夏、ナスを食べると秋ナスの味がした。冷夏がやって来る事を予告し、今植えた田んぼのイネを抜いて冷夏でも育つアワ・ヒエ・雑穀を植えさせた。反対する百姓も大勢いたが、大男(1メートル92センチ)の金次郎が怒鳴って回ったので、反対者も従った。天保の飢きんは七年にも及んだ。金次郎にしたがった多くの百姓が生き延びることができた。「秋ナスの味」を現場で知る。小さなメッセージに気がつく。小さな物から大きなヒントをもらう。

  <「積小為大」の応用>
 小さな事にも目を向ける。教育はその積み重ね。 みなさんは、「十円玉」を知っていますか。「雀」はどんな鳥か知っていますか。なあんだ、そんな事、だれでも知っているよ。では、絵を描いて下さい。と言うと、マルの中に「10」を描く程度でしょう。雀の顔は? 物をよく見ることから始める。その子の小さな事でも見逃さない。知る。なれると物事が見えなくなる。「普通」という言葉をよく聞きます。自分は普通と思っている人が多い。しかし「普通の子」はいない。それは何か大切な事を見落としている。アンテナをはって小さな事をも見逃さないようにする。挨拶をする、時間を守る、返事をする。しつけをする。子どもたちを見つめる。小さな宝の種を実らせよう。
  障害を持った子も、観察して好い所を一つでも、二つでも発見して行く。小さい出来事の積み重ね。一人一人の物差しで育てる。すると輝きが生まれる。障害を持って生まれてきた白熊のピース君は、親から育児放棄された。動物は弱い物を捨てる。障害児を育てるのは人間だけ。尊徳は困難にも向き合った。不順な天候、荒れた土地、理解してくれない村人、知恵を絞り、困難に向き合い、敵を受け入れ、ピンチをチャンスにしていった。どんなものとも共存する。
 子どもの個性を伸ばすには、子育てをしている大人が自信を持って生き生きと生きていることが大切。どの子も可能性を持っている。荒れ地は放っておくと荒れたままだが、子どもたちを健やかに育てるためには、大人と子どものコラボレーションが不可欠。大人の育てる力、子どもの育つ力、豊かな「育ち」が何よりも大切。好い所のない子どもはいない。子どもをよく見る、小さな事に気がつく。声にする。できた事をほめる。すると大きな自信を生む。

  <「宝物」の話>
  「田から生れた物」が「宝物」。米、作物。日々の労働がなければ作物はできない。その時、絆が生まれる。人と人。他社と。地域とのかかわり。このかかわりは、なかなかお目にかからない物ではない。日常の小さなものの中に、宝は潜んでいる。

  <「Take and Give 」について>
  「Give and Take」という言葉がある。人は何か物をあげると、お礼に見返りを求める。しかし、尊徳の教えは「Take and Give」。受ける側から創造し、与える側へ。まず先に見返りを求めない「Take」、与える。奉仕する。すると、「Give」感謝される。そこで生まれる喜びと誇り。

  <「報徳」について>
  不幸になろうとする子はいない。みんな幸せになろうとしている。報徳は恩返しという実践。徳に報いる。この子らしさ、田畑の実り=心の実り、それは家庭・地域・社会で育てる。一人一人が主役。未来へ。「報徳」というかかわり。幸せを力に、ドキドキ・ワクワク感を力に、「宝の種」への気づきを力に豊かな実りに向かう明日への一歩を。自分の幸せを相手と共に。

 以上、中桐万里子氏の「尊徳記念館」での講演を、私、池田小百合の主催する童謡の会は全面的に支援しました。赤いリボンの花束を二つ渡すこともできました。会場の女性のほとんどが、童謡の会の会員でした。小田原市、大井町、中井町だけでなく、遠く真鶴町からもかけつけてくれました。みなさん、どうもありがとうございました。いかがでしたか。大井町の童謡の会の会員からは、「尊徳記念館講演会は有意義でした。このような機会を与えて下さり、池田先生に感謝します。帰りは家まで歩きました」という言葉をいただきました。


≪著者・池田小百合≫

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