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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
岡野貞一作曲の唱歌
 朧月夜    故郷   春が來た   春の小川    紅葉
岡野貞一略歴    高野辰之略歴
童謡・唱歌 事典





朧月夜

作詞 高野辰之
作曲 岡野貞一
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008年12月1日)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

△2010年3月10日 神奈川県足柄上郡大井町 菜の花祭り

△大井町篠窪から菜の花畑と富士山(撮影:鈴木裕さん)
平成28年1月25日


 【発表】
 『尋常小学唱歌』第六学年用(文部省)大正三年六月十八日発行に掲載されました。日本の美しい国土を子供たちに伝えるために作られ、歌詞は文語体ですが、現在まで小学校六年生の音楽教科書に掲載され、歌われ続けています。タイトルは「朧月夜」。歌詞のリズム(音数律)は四・四・六調で整っています。
 『初等科音楽 四』国民学校初等科第六学年用(文部省)昭和十七年十二月発行に掲載された時、曲名が平仮名書きの「おぼろ月夜」になりました。 ※国民学校芸能科音楽参照。

 【どこにでもあった風景】
 一番は、春風が小さい花びらを揺らす一面の菜の花畑。その向うに太陽が沈み、春霞がかかった西の空には「夕月」(三日月)があり、黄色の菜の花畑は、ほんのりと明るい。「菜の花」は春の季語として昔から俳句の世界で使われた。与謝蕪村の俳句に「菜の花や月は東に日は西に」がある。ただし、この月は満月に近い丸い月。
 二番は、さらに時が進み、「里わの火影も」「森の色も」「田中の小路を たどる人も」のように見えるものだけでなく、「蛙のなくねも」「かねの音も」など耳でとらえたもの、そして五回出てくる「・・・も」で列挙されるすべてのものが霞んでいる、のどかな春の宵の情景です。「朧」も春の季語。「灯朧(ひおぼろ)」「草朧」「鐘朧」などがある。
  これは、かつて全国どこにでもあった風景です。しかし、歌を口ずさめば、だれでも心の中に静かで幻想的な菜の花畑が広がります。それは、いつかどこかで見た事があるような思いを抱かせます。

  <月の形の違い>
  “「与謝蕪村の俳句に詠われている月」は、西の空に日が沈む時に、東の空に見える月。この月は満月に近い丸い月である。月は太陽の光を反射して輝いている。そのため月の形は、太陽の光の当たり方で変わる事になる。そして月面の、太陽の光に照らされた部分は明るく輝いて見えるが、光の当たらない部分は影となって暗くなり、闇夜に隠れて見えなくなることによって月の満ち欠けが起こるのである。月の形は、太陽と月の位置関係によって決まる。月と太陽が地球を挟んで反対の位置にあると、月面に正面から太陽の光が当たるので満月となる。太陽が西の空に沈みかけた時、正反対に東の空から昇ってくる月は満月なのである。
  一方、「朧月夜の月」は、作詞者は夕日が沈み、だんだん暗くなっていくようすを見守っている。西の方向を見ている。そして、空を見れば夕月が掛かっている。つまり西の方向に月を見ているのである。また、「空を見れば」とあるので、与謝蕪村の俳句にあるように、地平線付近に月があるわけではない。太陽が沈んだ時に、西の空に月がかかっているとすると、太陽と月の位置が近いので月の右側が少しだけ輝く事になる。そのため三日月のような形になる。夕方の月を表す「夕月」という言葉は、三日月という意味を含むこともあるという。
  「朧月夜」というと、挿絵には満月が描かれていることも多く、満月をイメージする方も多いかもしれないが、実際には「朧月夜」の月は三日月と考える方が、歌詞のニュアンスからは自然なのである。”稲垣栄洋著『赤とんぼはなぜ竿の先にとまるのか? 童謡・唱歌を科学する』(東京堂出版)による。

 <教科書での扱い>
  では、教科書に掲載されている「おぼろ月夜」の挿絵の月を見てみましょう。
  ・『新しい音楽6』(東京書籍)平成二十一年発行には、“けしきを思いうかべながら歌いましょう”と書いてあり、8ページ右上に、ぼやけた黄色い丸い物が描かれている。これが月のようだ。
  ・『小学生の音楽6』(教育芸術社) 平成二十一年発行には、手前に菜の花畑、その向うに家々、そして山の稜線に太陽が沈む写真が掲載されている。月は描かれていない。
  ・『音楽のおくりもの6』(教育出版)平成二十一年発行には、手前に菜の花畑、その向うの闇の中に家が点在し、川が流れている。6ページ中央には、暗い山の上に霞んだ丸い月がある写真が掲載されている。日時場所は不明。 

 【歌い継がれている理由】
 大人になっても、好きな歌としてあげる人が多い曲です。長く歌い継がれているのは、なぜでしょうか。
 「春風そよふく 空を見れば」というような、日本的な豊かな季節感を表現した美しい詩と、歌いやすく覚えやすい懐かしさのあるメロディーが要因という理由が考えられます。
 しかし、それだけではありません。文部省の教育的配慮が関係しています。文部省は、年齢や環境や境遇を超えて、共通に歌える歌を持つ事は意味の深い事として、昭和三十三年改訂の学習指導要領から「小学校音楽共通教材(歌唱)」を開設しました。
 つまり、同時代のどの地域の子供も共通に歌える歌を持っていて、成人した時に幼い頃の共感を誘う思い出の歌、生涯心に残る歌を選定したのです。家庭で父母や兄弟とも同じ歌が歌える事は、懐かしい思い出にもなります。
 「おぼろ月夜」は、第六学年用「共通教材」にずっと選ばれていて、他の多くの音楽教材と共に必ず教科書に掲載され、教えられています。ですから、世代を越えて歌えるのです。「若い人と歌える歌がない」と嘆いている人は、「共通教材」の曲を取り上げ歌ってみてはいかがでしょうか。
 ちなみに平成十一年の六年生用「共通教材」は、「おぼろ月夜」の他に、「ふるさと」「われは海の子」そして日本古謡の「越天楽今様」が選ばれています。このように教科書に掲載する曲の選択は重要です。子供たちの心に響く歌を取り上げてほしいと思います。

 【歌詞について】
 歌詞を詳しく見ましょう。難解な言葉なので、説明が必要です。
  ・「入日薄れ」夕日の光がうすくなって。
  ・「山の端」福井直秋編『尋常小学唱歌伴奏楽譜歌詞評釈』第六学年(大正3年8月)によると、山の端(し)即ち山の裾。山の麓。故に「山の端霞深し」は山の麓あたりは霞が濃くたなびいて居ると云ふことなり。
  ・「夕月かゝりて にほひ淡し」夕方の月が空に出ていて、ほんのりと明るい。「にほひ」は古典では視覚に関する語、目に立つ色合い。
  ・「里わ」福井直秋編『尋常小学唱歌伴奏楽譜歌詞評釈』第六学年(大正3年8月)によると、里の廓(くる)の意、村里のこと。
  ・「たどる」歩いて行く。
  ・「蛙のなくね」蛙が鳴く声。
  ・「さながら」のこらず、すべて。
  ・「朧月夜」ぼんやりとかすんで見える春の月。また、その月の出ている夜です。
 この歌では「おぼろづきよ」と読みます。古くは「おぼろづくよ」と読みました。『源氏物語』に「朧月夜(おぼろづくよ)の君」が登場します。右大臣の女(むすめ)で、弘徽殿(こきでん)の大后(おおきさき)の妹。光源氏との密会で、東宮の妃になれず、尚侍(ないしのかみ)として入内(じゅだい)した人です。

 <霞(かすみ)と霧(きり)>
 薄ぼんやりとたなびく霞と、目の前に深くたちこめる霧。春には霞といい、秋には霧(例・唱歌「牧場の朝」)と呼び分ける。気象学では視程一キロ以下のものが霧、それより薄いものが霞。「たちのぼる」は霧に使うが、霞には使わない。「たなびく」はその逆。夜には霞といわず、朧という。
 「朧月夜」では、一番に「見わたす山の端 霞ふかし。」とあり、まだ日が暮れていない。二番になると「さながら霞める 朧月夜」とある。風景は夕闇に包まれていく。一番から二番にかけて、夕刻「霞」から宵「朧」へ時間が流れます。

 現在(平成二十一年発行)の六年生の教科書(東京書籍)には、「おぼろ月夜」のタイトルで掲載されている。「おぼろ」が平仮名なのは、「朧」の漢字は六年生で学習しないからです。小学校学習指導要領による学年別漢字配当表にもとづいた表記です。
 歌詞は「夕月かかりて においあわし」と、今の子どもたちでも読めるように、現代かなづかいに改めてあります。意味は「夕方の月が空に出ていて ほんのりと明るい」と書いてあります。
 初出「朧月夜」には句読点がある。二番は「里わの火影も、森の色も、田中の小路を たどる人も、蛙のなくねも、かねの音も、」と読点がある。そして列挙される全ての物が「さながら霞める 朧月夜。」に係る。だから、句読点が必要なのです。教科書掲載の「おぼろ月夜」には句読点が付いていない。句読点を省略した理由がわかりません。勝手に省いてしまうと、元の歌詞がわからなくなってしまいます。
 しばしば、「朧月夜」と「おぼろ月夜」とを混同した解説を目にします。「朧月夜」のタイトルで、「おぼろ月夜」の歌詞を使ったため、<「におい」は古典では視覚に関する語、目に立つ色合い>と、なっていたりします。<「におい」は、歴史的かなづかいで書くと、「にほひ」となります>と、前置きすると好いでしょう。せっかく大人向けの解説なのですから、「文語体は格調高く美しい」ことを示してほしいと思います。
 
 【楽譜について】
 年代順に楽譜を詳しく見ましょう。
  ・『尋常小学唱歌』第六学年用(文部省)では、曲名は「朧月夜」、ニ長調、斉唱、四分の三拍子、六音音階で作曲されています。二部形式で、四つのフレーズがだいたい同じリズムで作られているので、よくまとまった感じがします。発表当時は、作詞・作曲者名は伏せられていたので、何も書いてありませんでした。
  ・『初等科音楽 四』国民学校初等科第六学年用(文部省)昭和十八年発行では、曲名は「おぼろ月夜」、ニ長調。四分の三拍子の記号の3だけが書いてあります。二部合唱のための教材として掲載。編曲は下総皖一。国民学校芸能科音楽教科書編纂委員の橋本国彦と下総皖一は、教科書に作詞・作曲者名を入れるように主張したが、文部省の伝統ということで、それは認められなかった。当時、東京音楽学校教授であった橋本国彦は、昭和十五年五月、編纂委員に選ばれたものの、昭和十六年に辞任した。後任は東京音楽学校助教授の城多又兵衛 (下総皖一「教科書が国定であった頃」(『教育音楽 小学版』)昭和三十六年三月号)六一ページによる。これは、木村信之編著『音楽教育の証言者たち 上 戦前編』(音楽之友社)昭和六十一年発行で見る事ができます。この本は、唱歌の研究者は必見です)。
  ・『六年生の音楽』(文部省)昭和二十二年六月五日発行では、曲名は「おぼろ月夜」、ハ長調。二部合唱の下にピアノ伴奏譜が付いています。強弱記号の学習のための教材。「作詞 作曲 不明」と記されました。
  ・『新訂標準 音楽6』(教育出版)昭和四十四年一月二十日発行では、三拍子の指揮の仕方や、三拍目から歌い出す(弱起・じゃっき)を学習するための教材。歌い出しの「菜の」は三拍目から始まります。前半は斉唱で、後半は部分二部合唱です。この部分二部合唱は歌いやすいので、子供たちに人気です。全体を、やわらかい声で歌いましょう。文部省が選定した曲ということで、「文部省唱歌」と記されました。

 <「文部省唱歌」について>
 いわゆる「文部省唱歌」といわれている曲は、文部省が明治四十三年から昭和十九年に刊行した教科書に掲載された、文部省が選定した曲をいいます。作詞者作曲者名は明記されていません。

 【作者名の明記】
 文部省は昭和二十二年、新主旨にもとづく編集による音楽教科書を発行しました。この時はじめて作詞者と作曲者の名前を明記しました。作者の名が公表されたのは、マッカーサー元帥の指令によるものです。戦前の文部省唱歌の多くは「不明」と記されました。

  【合議制だった】
 『尋常小学唱歌』(全六冊)の編纂は、歌詞委員と楽曲委員に分かれて任命された
  〔編纂委員長〕湯原元一は東京音楽学校校長。
  〔歌詞委員〕五名
 (主任)吉丸一昌(よしまるかずまさ)は東京音楽学校教授。「早春賦」の作詞者。
 (委員) 富尾木知佳(とみおぎともよし)、乙骨三郎(おつこつさぶろう) は文学者・上田敏の兄。以上三人は東京音楽学校教授。高野辰之(たかのたつゆき)は東京音楽学校助教授。武笠三(むかさあつむ)は文部省図書課文部編修;入省前は第七高等学校造士館で国語の教授を務める。のち図書局図書事務官第一課長兼図書監修官になった。
  この中で武笠三のみ文部省の役職にあって東京音楽学校の職員ではなかった。武笠三は芳賀矢一(はがやいち)と親しい関係にあった。芳賀矢一は文部省の教科用図書調査委員会第三部主査委員(起草担当)。
  〔楽曲委員〕六名
 (主任)島崎赤太郎東京音楽学校教授。楽曲委員が主だが歌詞委員会にも参加。
 (委員)楠美恩三郎(くすみおんざぶろう)、岡野貞一(おかのていいち)。以上二人は東京音楽学校助教授。南能衛(みなみよしえ)は東京音楽学校嘱託講師、のち同助教授。上真行(うえさねみち)、小山作之助。
  島崎赤太郎は編纂委員唯一の文部省留学生だった(1902-06年ドイツ留学)。その発言力は大きかったようだ。
 国が作ったことを強調するため、作詞・作曲者は明らかにされなかった。
  『尋常小学唱歌』(全六冊)の編集委員は作詞と作曲に分かれて任命された。
  ・作詞委員(委員長)芳賀矢一、(委員)上田万年、尾上八郎、高野辰之、武島又次郎(羽衣)、八波則吉(やつなみのりきち)、佐佐木信綱、吉丸一昌(かずまさ)。
  ・作曲委員(委員長)湯原元一、(委員)上真行、小山作之助、島崎赤太郎、楠美恩三郎、田村虎蔵、岡野貞一、南能衛

 [註:作詞委員や作曲委員のメンバーの出典は青柳善吾『本邦音楽教育史』1934年と思われるが、この記述は誤りであった。しかし、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)ほかで繰り返し引用されてきた。鈴木治「明治中期から大正期の日本における唱歌教育方法確立過程について」(神戸大学博士論文,2005年)は、残されている『小學唱歌教科書編纂日誌』「尋常小学第一学年唱歌歌詞」を詳細に検討している。(2014/10/14 池田)。]

 【「おぼろ月夜」の作者名の明記
  「故郷」を参照してください。

  【歌の風景】
 作詞者が高野辰之とされた事により、菜の花畑は高野辰之ゆかりの長野県の風景ではないかと考えられています。
 高野辰之は明治九年(1876年)四月十三日、長野県水内郡永江村永江で生まれました。幼年時代を豊かな自然のなかで育ちました。その故郷の春を思い浮かべて作ったものと言われています。

  <「菜の花」について>
 一般的に「菜の花」は、植物油を採るために栽培されているアブラナ(油菜)と、種を採るナタネ(菜種)の二種類がある。高野辰之の故郷は野沢菜の産地でした。種を採るために収穫せずに置いておいた野沢菜が黄色い花を咲かせていた。野沢菜は、アブラナ科アブラナ属の二年生植物。長野県下高井郡野沢温泉村を中心とした信越地方で栽培される野菜で、野沢菜漬けの材料とされる。別名、信州菜。茎と葉の丈は50~90cmにもなる。菜っ葉として葉っぱを食べるように改良されたもの。一面の野沢菜の花「菜っ葉の花」=「菜の花」が美しい春の風景を作り上げていた。カブ(カブラ)、白菜、小松菜、キャベツの花も黄色い花を咲かせる。春になると収穫されなかった菜っ葉の花が、花茎を伸ばして黄色い花を咲かせる。これらすべて「菜の花」と呼ばれていた。冬場のビタミン源として野沢菜の他、広島菜や小松菜などが広く栽培されていた。これらの野菜も種取り用に残された株が、春に黄色い花を咲かせ、「菜の花」畑となった。

 飯山瑞穂地区の「おぼろ月夜公園」に歌碑があります。一番の歌詞の「見わたす山の端」は、菜の花咲く長峰の丘から見た斑尾山の端ではないかといわれています。
  「高野辰之記念館」から三キロほどの「ふるさとの散歩道」に歌碑があり、散歩道の先の真宝寺の寺の鐘が、二番で「かねの音も」と歌われた鐘といわれています。
 <右の写真は真宝寺の鐘。「大塚薬薬報」第704号(平成二十七年四月十日発行)より>

  昭和十八年、高野は長野県下高井郡野沢温泉村の別荘「対雲山荘」に移り文筆業に専念し、晩年を過ごし亡くなりました。場所は現在の村営「クアハウスのざわ」の駐車場あたりで、終焉の地を記念して入口に歌碑があります。
 野沢温泉村には、その暮らしを偲ぶ施設として平成二年十月に「おぼろ月夜の館」が開館。記念館には著書や遺品、復元された書籍などが展示されています。書籍や書画の収集家としても知られ、収集品は「斑山文庫」と呼ばれ館の別称にもなっています。高野は斑尾山のふもとの村で生まれたので号を「斑山」とし、東京・代々木の邸内に建てた別棟の書庫を「斑山文庫」と呼んでいました。土蔵造りの建物は空襲でも焼け残り、ゆかりの品々が遺族から村へ寄贈され「おぼろ月夜の館」の建設となりました。
 <左の写真はおぼろ月夜の館。「大塚薬薬報」第704号(平成二十七年四月十日発行)より>

 高野辰之は、明治四十二年頃から、現在の東京都渋谷区代々木三-三-二に住んでいました。<朧月夜>の菜の花畑は、この付近の一面の菜の花畑が舞台になったとも言われている。昔は行燈などの照明の燃料とする菜種油を得るために、日本中で、アブラナが栽培されていた。一面の菜の花畑は、どこにでもあった。

 【「斑山」か「班山」】
 高野辰之の号は「斑山(ハンザン)が正しい。野沢温泉村の記念館は「斑山文庫」が正しい。<中野市役所総務部庶務課秘書広報係>による。(2009/01/20)

 【作曲者・岡野貞一】
 作曲者の岡野貞一は、鳥取県邑美郡古市村(現・鳥取市古市)で生まれ、少年時代を教会の讃美歌に親しみながら過しました。姉の影響で熱心なクリスチャンになりました。『朧月夜』の美しいメロディーは、讃美歌に影響されているといわれています。
 鳥取市鹿野街道に面した醇風小学校の前に歌碑があります。岡野が住んでいた頃は、この場所は牧場で、菜の花畑が広がっていて、久松山の上に月がかかる風景がありました。『朧月夜』の歌詞を見た岡野は、幼い頃の思い出に望郷を覚えて曲想を練ったのではないかといわれています。

 [註1]明治初期、高野の誕生のころは、「永江村」でした。明治二十二年に「穴田村」と「永江村」が合併し、「永田村」となった。「永田村」は、昭和三十一年九月三十日に「豊井村」と合併し「豊田村」になった。昭和三十一年九月三十日から平成十七年三月三十一日まで「豊田村大字永江」になっていた。平成十七年四月一日に「中野市」と「豊田村」が合併し、現在は「中野市大字永江」となっている(中野市 総務部 庶務課 秘書広報係/2008/12/12)。

 [註2]「鳥取県邑美郡古市村」について。江戸時代には「邑美郡古市村」でしたが、鳥取県の設置により、「鳥取県邑美郡古市村」になりました。その後、明治二十二年に「邑美郡美保村大字古市」となり、昭和八年には「鳥取市古市」となっています。現在の「鳥取市古市」は、「鳥取県邑美郡古市村」で間違いないのですが、昭和八年以降に行政区画が変更された事にともない、かつての「鳥取県邑美郡古市村」は、現在の「鳥取市行徳一丁目から三丁目」、「鳥取市幸町」、「鳥取市天神町」も含めた地域となります(鳥取市 総務部 総務課/2008/12/11)。

 【レコード情報】 ビクターB692 収録曲「冬げしき」「おぼろ月夜」「われは海の子」「ふるさと」。 “学校ダンス”用となっていて、歌詞カードではなく振付が印刷されている。
  歌唱 全国児童生徒発声指導研究会(高津小学校児童)。この川崎市立高津小学校は、昭和29年度NHK全国唱歌ラジオコンクール優秀校(最優秀は東京都中野区立上高田小学校)。
 この情報とコピーは、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんからいただきました。ありがとうございました(2011年2月18日)。

著者より引用及び著作権についてお願い】    ≪著者・池田小百合≫
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春が來た

作詞 高野辰之
作曲 岡野貞一
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/01/12)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【最初は『尋常小学讀本』の韻文「のあそび」】
 ・明治三十五年(1902年)文部省国語教科書編纂委員になった高野辰之が文部省編集の読本教材、明治三十六年(1903年)九月九日発行『尋常小學讀本 五』第二課(第三学年用)のために書いた韻文だとされています。タイトルは「のあそび」でした。「山に、來た。野に、來た。さとに、來た。」となっています。
   

 『尋常小學讀本 五』第二課の「のあそび」(子供が四人野原で遊んでいる挿絵があります)。
 [註]『尋常小學讀本』の第一期は「五」のように漢数字だけでした。第二期は「巻五」のように巻が付いている。

 だい二 のあそび。
かぜが、だんだん、あたたかになってきて、木もめをだしました。草もみどりになってきました。野原には、たんぽぽやすみれなどが、いちめんに、さきそろってゐます。空では、ひばりがさへづってゐますし、林では、うぐひすがないてゐます。ちょーちょは、花から花へ、まってゐます。
おはなとおちよとがつみくさをしてゐますと、太郎も、文吉も、あそびに、きました。
いま、みんなが、おもしろさうに、しょーかをうたってゐます。

   春がきた。春がきた。
      どこに、きた。
    山に、來た。野に、來た。さとに、來た。」
    花がさく。花がさく。
      どこに、さく。
    山に、さく。野に、さく。さとに、さく。」
     鳥がなく。鳥がなく。
      どこで、なく。
     山で、なく。野で、なく。さとで、なく。」

  【次々と作曲された】
 明治三十年代中期には音楽取調掛編≪小学唱歌集≫に続いた伊澤修二編の唱歌教科書のほか小学読本の韻文などを歌詞にして旋律を付けたものが出ていた。文部省唱歌編纂委員の南能衛助教授の報告によれば、実態では小学読本の同じ歌詞に多くの曲ができてしまった。はなはだしい場合には同じ学校で同じ詩に別の旋律が教えられたり、検定を通らない未熟な旋律も多数出回ってしまった。当然、教育現場に混乱が起きた。
  文部省としては読本に対応する模範的な検定唱歌教科書を用意しておくほうが良いと判断した。しかし、歌詞が先に発表されていて、作曲にむかない韻文もあり、作曲者は苦労した。旋律のつけられたものだけを発表した。旋律は全て日本人による旋律。合議制だったので作詞、作曲者は発表されず、著作権は文部省にあった。こうして≪尋常小学読本唱歌≫が誕生した。

 【「のあそび」「野あそび」の作曲】
  ・内田粂太郎・楠美恩三郎・岡野 貞一作曲『國定小學讀本唱歌集 尋常巻之中』(尋常科三學年用 東京元々堂書房発行、明治三十七年(1904年))に掲載。 タイトルは「のあそび」。作曲者不詳。歌詞は読本の韻文。「山に、來た。野に、來た。さとに來た。」となっている。

   

  ・吉田信太作曲『國定尋常小學讀本唱歌 下』(郁文舎、明治三十八年(1905年)六月一日)に掲載。読本の歌詞を使用。タイトル「のあそび」の下に(読本巻五)と書いてある。歌詞は「山に、來た。野に、來た。さとに、來た。」となっている。アクセントは「ハルガキタ」「サトニキタ」と逆になっている。最後の部分、「ハルガキタ(D)」と「サ(C)トニキタ」、(D)から(C)短七度の跳躍があり、歌いにくい。
 『国定読本唱歌遊戯教授書 尋常科≫(1905年)にも同じものが掲載されている。




 ・『新編教育唱歌集 第一集』明治三十八年(1905年)八月十七日(修正五版)東京開成館に掲載。タイトルは「野あそび」目次には(國定讀本歌詞)と書いてある。楽譜の一小節目、二小節目の最初の音はFなので、「ルガキタ ルガキタ」と、アクセントが逆で、よいできとはいえない。
 ●『原典による近代唱歌曲集』(ビクターエンタテインメント)では『新編教育唱歌集/第一集』明治二十九年(1896年)収録と書いてあり、間違っている。訂正四版までに「野あそび」の掲載はありません。
▲『新編教育唱歌集 第一集』
明治三十八年(修正五版) 「野あそび」が掲載

 [註]『新編教育唱歌集』修正五版(K120.73~41)は、八冊に分かれている。これは国立教育政策研究所教育研究情報センター教育図書館閲覧室で見ることができます(東京都目黒区下目黒6-5-22)。合本も発行されている。


 ・『新編教育唱歌集/第一集』合本七版再印刷、大正九年一月十日(大阪開成館)に収録。タイトルは「野あそび」目次には(國定讀本歌詞)と書いてある。旋律は「ミーミレドードー ミーミレドードー」と<むすんでひらいて>の開始部分が使われている。歌詞は「山にきた。野にきた。さとにきた。」となっている。

▲『新編教育唱歌集 第一集』
大正九年合本七版再印刷  「野あそび」が掲載

 [註]『新編教育唱歌集』明治三十九年一月二十八日訂正六版発行。明治三十九年四月十日合本七版発行。大正九年一月十日合本七版再印刷と次々増刷された。人気の唱歌集だったことがわかります。
   


  【「春が來た」に改作】
  ・『尋常小学讀本 巻五』(第二課)明治四十三年(1910年)二月二十八日発行、および『尋常小学読本唱歌』明治四十三年七月十四日にも掲載され、タイトルを「春が來た」に変更。この時、「山に、來た。野に、來た。さとに、來た。」だった歌詞を、「山に來た 里に來た のにも來た。」と、今のような語順にしました。『尋常小学読本 巻五』は、読みやすいように読点が入っている。「山に來た、里に來た、のにも來た。」
 『尋常小学読本唱歌』は、『尋常小学読本』の教科書に載っている教材に曲が付けられていた。読本(国語)の時間と唱歌(音楽)の時間の両方で学習しました。
   


  ・明治四十五年(1912年)三月三十日発行の『尋常小学唱歌 第三学年用』(文部省)と、昭和七年(1932年)四月六日発行の『新訂 尋常小学唱歌 第三学年用』(文部省)に掲載されています。

  ・昭和十六年(1941年)三月発行の『うたのほん 下』(文部省)では、国民学校初等科第二学年用に掲載されました。ハ長調。四分の四拍子の四だけが書いてある楽譜です。この時、三節の歌詞が二節に削られて掲載されました。歌詞が削られた理由は不明です。※国民学校芸能科音楽参照。

▲「うたのほん(下)」昭和十六年発行より.一番と二番が掲載されている.

  ・昭和二十二年(1947年)五月十五日翻刻発行『二ねんせいのおんがく』では、調性がハ長調から変ロ長調に下げられています。伴奏譜が付いているので、生徒が伴奏を弾いて歌う事ができました。「作詞 作曲 不明」と書いてあります。三番まで掲載
 ●藍川由美 校訂・編『原典ピアノ伴奏譜による日本の唱歌』(音楽之友社)や、CD『文部省唱歌集 故郷』歌・解説・藍川由美の「22年版では、3節の歌詞が2節に削られた。」これは間違い。二十二年版は、三節のまま掲載されています。昭和二十二年発行の『二年生のおんがく』を見れは、すぐわかります。この間違った記載は、多くの出版物で使われてしまいました。藍川由美著『これでいいのか、にっぽんのうた』(文藝春秋)の記載も同じ間違いです。
 ◎藍川由美校正・編『日本の唱歌〔決定版〕』改訂版・楽曲解説(音楽之友社、2006年5月発行)には「国民学校芸能科音楽『うたのほん(下)』(昭和16年3月発行)で、歌詞の第三節が削られて二節までとなった。」と書いてあります。これが正しい。

  ・昭和三十三年(1958年)から第二学年用「小学校音楽共通教材」に決まりました。昭和三十三年発行の『しょうがくせいのおんがく 2』(音楽之友社)では、階名唱の練習教材としてハ長調になっていて、伴奏譜が付いています。タイトルは『春がきた』。「文部省唱歌」と書いてあります。以後、小学二年生の音楽教材として『春がきた』というタイトルで掲載されています。『小学生の音楽2』(教育芸術社)平成七年二月十五日文部省検定済には、二部合唱の練習教材として掲載されていますが、伴奏譜は付いていません。「文部省唱歌/高野辰之 作詞/岡野貞一 作曲」と書いてあります。

 【歌詞について】
 高野辰之は、明治九年(1876年)四月十三日に長野県水内郡永江村永江で生まれました。幼年時代を豊かな自然の中で育ちました。その故郷の春を思い浮かべて作ったものといわれています。
 長いきびしい冬が去って、待ち望んでいた春が来たと、歌詞をすべて五文字に仕上げ(音数律は「五・五・五・五」と五音で整っている)、繰り返すことにより踊るような喜びの気持ちが伝わってきます。
 「春」「花」「鳥」「山」「里」「野」を歌ったものです。訪れた「春」の内容が二番では「花」、三番では「鳥」であったと説明されます。しかし、何の花か、何の鳥かは説明されません。その解釈は歌う人、聞く人に任されています。味わい深い作品です。
 詩人の野上彰は「一生に一度こういう詩を自分でも書いてみたい」と激賞しました。

 【曲について】
 「春が來た 春が來た どこに來た。」と、「山に來た 里に來た のにも來た。」の二つのフレーズでできた一部形式の曲です。二つのフレーズを比べてみると、リズムは同じですが、旋律の動き方が少し変わっていることがわかります。六音音階でできています。
 明るい春の弾んだ気持ちで歌いましょう。はじめの四小節は問いかけるように、後の四小節はそれに答えるような感じで歌います。
 これほど単純で美しい歌は他にありません。春が来た喜びが素直に伝わってきます。

 【歌碑について】
 作曲者とされた岡野貞一は、明治十一年(1878年)二月十六日、鳥取県邑美郡古市村(現・鳥取市古市)で生まれました。明治二十年六月、吉方学校尋常科(現・修立小学校)を成績優秀で卒業しました。岡野貞一が学んだ鳥取市立川町の修立小学校の校庭に「春がきた」の冒頭四小節の楽譜と歌詞を刻んだ歌碑があります。岡野貞一の生誕百十周年と、高野辰之の母校永田小学校と姉妹校の締結をした記念に一九八八年(昭和六十三年十二月三日、創立記念日)に建てられたものです。
 野沢温泉村「おぼろ月夜の館」にも一番の歌詞を刻んだ「春が来た」の歌碑があります。

 【手話で】
 歌詞は、手話の初心者が学習するのに最も適しています。「春」「來る」「どこ」「山」・・・歌いながら手話をすると、いっそう楽しくなります。

 【「春が来た」の作者名の銘記について】
 「故郷」を参照してください。

 (註)『小学唱歌教科書編作日誌』(pdfファイル3MB)によると次のようです。
  ・明治42年6月26日 第二回合同委員会で、読本歌詞「春が来た」は「作曲スベキモノトス」と決定。
  ・明治42年7月7日 作曲関係者委員会で、「春が来た」は小山作之助、楠美恩三郎、南能衛の一の組が作曲を分担することになった。岡野は二の組であった。月末が期限とされたが、翌月の全委員会での樂曲審査・投票には取り上げられていない。
  ・明治42年8月15日 歌題部会で三年一学期に配当。
  ・明治42年9月8日 楽曲関係委で楽曲審査の結果「再考」となり、「来二十三日迄ニ各委員ニテ改作ノコト」となった。
   ―― その後しばらくは議事にない。――
  ・明治43年1月29日 歌詞・楽曲関係委にて楽曲「春が来た」は「修正可決」された。
  ★作曲に難航したことが推察される。『日誌』からは作曲者はわからない。岡野貞一が作曲しなおしたのか、あるいは岡野があらたに作曲したのかもわからない。 『尋常小學讀本唱歌』参照。

  ・昭和三十三年(1958年)から第二学年用「小学校音楽共通教材」に決まりました。昭和三十三年発行の『しょうがくせいのおんがく 2』(音楽之友社)では、階名唱の練習教材としてハ長調になっていて、伴奏譜が付いています。タイトルは『春がきた』。「文部省唱歌」と書いてあります。以後、小学二年生の音楽教材として『春がきた』というタイトルで掲載されています。『小学生の音楽2』(教育芸術社)平成七年二月十五日文部省検定済には、二部合唱の練習教材として掲載されていますが、伴奏譜は付いていません。「文部省唱歌/高野辰之 作詞/岡野貞一 作曲」と書いてあります。

  ・『小学生の音楽2』(教育芸術社)平成二十一年発行は、タイトル「はるが きた」、文部省唱歌/高野辰之 作詞/岡野貞一 作曲 と書いてある。三番まで掲載(「花」「山」が漢字)、メロディー譜が付いている。


  『故郷』『朧月夜』も参照してください。

著者より引用及び著作権についてお願い】  ≪池田小百合≫

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春の小川

作詞 高野辰之
作曲 岡野貞一
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/01/17)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 きれいな春の花の咲く野原の中を、小川がさらさらと流れて行きます。その流れには、小さな魚の群れが泳いでいます。このような田園風景は全国どこにでもあります。しかし、都会ではなかなか見ることができなくなりました。『春の小川』は、昔の東京にあった小川を歌ったものです。

 【初出は三番まで】
 「春の小川」が最初に掲載されたのは大正元年(1912年)発行の『尋常小学唱歌』第四学年用で、歌詞は「さらさら流る」「ささやく如く」など文語体で三番までありました。
 川の流れる音を「さらさら」としたことが、この歌を強烈に印象付け、愛唱歌となりました。「さらさら」は川の流れのようすを表した擬態語です。擬態語は。動きやようすなどの感じを表す言葉です。
 三番には「歌の上手よ、いとしき子ども」の一節があり、作詞者・高野辰之が養女に迎えた娘・弘との楽しい春の散歩のひとときがうかがえました。
 [註]明治四十四年(1911年)五月、高野夫妻には子供がなかったので、妻つる枝の実家真宗寺から、つる枝の兄弘円の三女弘を養女に迎えます。
 信濃毎日新聞の記事(昭和49年5月18日朝刊)には養女の名前は高野弘子となっている。高野辰之記念館に勤務されていた小林雅美さんに、「正式には高野弘(三女)が正しい」と教えていただきました(2015/12/22)。

 歌詞の音数律は、すべて(七・七)調。細分すれば一、二、三番ともに(三・四・四・三)のリズムになっている。



 【『新訂 尋常小学唱歌(四)』にも三番】
 昭和七年(一九三二年)十二月十日発行の『新訂 尋常小学唱歌』第四学年用(文部省)にも、三番までの歌詞が掲載されました。歌詞の内容は同じですが、表記のしかたが少し変わっています。「春の小川はさらさら流る。」とか、「にほひめでたく色うつくしく」など。研究者の中には、『新訂 尋常小学唱歌』の存在を知らない人が多いようです。違いを比べてみて下さい。
 

  <『新訂 尋常小学唱歌』伴奏譜> 
  『新訂 尋常小学唱歌』伴奏附 第四學年用 昭和八年二月十五日発行より。
  楽譜は北海道在住の北島治夫さんから送っていただきました。 「左手は小川の流れを模していて、右手は一オクターブ上でメロディーを流し、中音域に歌が入るようになっている。「ハールノ」から左手のロメディーが八小節同じなので、メロディーラインと不協和音になることもある」(北島)。
 この『新訂 尋常小学唱歌』伴奏譜より先に『尋常小学唱歌 伴奏楽譜 歌詞評釈 第四学年用』(大正二年六月発行)がある。これには、福井直秋の歌詞評釈及び語句註解が掲載されている。
  


 【口語体、三番削除に】
 ・昭和十七年(一九四二年)発行の『初等科音楽(一)』(文部省)国民学校初等科第三学年用に掲載された当時は、三年生では文語体を教えていなかったので、歌詞が口語体に改められました。そして、子どもへの愛情があふれた三番が省かれ、春の風景の歌になりました。戦時下であった当時の文部省としては、親子の楽しいひとときが書かれた三番は不適当と判断したのでしょう。一番、二番の改作は林柳波がしたとされています。私の童謡の会では、原作の三番までの歌詞で歌い継いでいます。

 ・さらに、昭和二十二年発行の『三年生の音楽』(文部省)で、一番の「咲いてゐるねと」の部分だけが「さけよさけよと」に戻されました。これは、二番の「あそべあそべと」に韻を踏む形でそろえたためと思います。現在は小学校三年生の音楽教材(共通教材)として、この歌詞で歌われています。

 「いったい何のための改作だったのだろうか。」と疑問に思う人もあるようですが、改作には、時代的背景など、それぞれ理由がありました。しだいに『春の小川』に三番があったことを知る人は少なくなっています。

 <『音楽3』教師用指導書 伴奏譜>   『音楽3』教師用指導書(教育出版)昭和42年頃より
 現在、一般的に使われている伴奏譜です。右手、小川の流れの中にメロディーがあり歌いやすい。

 <簡易伴奏譜>  『音楽3』教師用指導書(教育出版)音楽3050 教出17 より
 子供用教科書にも、教師用指導書にも簡易伴奏譜があるので、誰でも弾いて楽しむことができました。左手が「ドソミソ」「ドラファラ」という唱歌定番の簡易伴奏譜になっている。これが、当時の教師に喜ばれた。七月まで「春の小川」を歌わせていたという話を男の先生から聞いたことがある。


 ▼『三年生の音楽』(教育芸術社)昭和29年文部省検定(昭和30年発行) 子供用簡易伴奏譜は、さらに簡単。しかし、この伴奏では水の流れをイメージする音が聞こえて来ない。美しさに欠け、つまらない伴奏になっている。


 【詩の風景】
 高野辰之は、幼年時代を長野県下水内郡永江村大字永江(現・中野市永江)の豊かな自然の中で過ごしました。 明治四十二年頃から、東京府豊多摩郡代々幡村大字代々木字山谷一六七(現・東京都渋谷区代々木三-三-二)に住んでいました。「春の小川」は、原宿から代々木公園、渋谷へ広がる野原を流れる小川の岸を歩きながら作った歌だと伝えられています。しかし、現在のその場所は、家々が立て込み、小川を見ることはできません。モデルと言われる河骨川という宇田川の支流は、東京オリンピックのとき下水道の一部になり、当時の面影を失ってしまいました。小田急線の代々木八幡駅近くの線路沿いにある歌碑により、そのことがわかる程度です。歌碑は昭和五十三年十二月六日に建立・除幕されました。

 ●『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』 (平凡社)の「昭和三十五年十二月六日除幕」は間違い。昭和五十三年が正しい。
 (註) 三田英彬著『菜の花畑に入り日うすれ』(理論社)によると「明治四十年十月、府下豊多摩郡上渋谷村百六十六に自宅を新築したものの、建築後一ヶ月で移転を命じられる。万国博覧会の敷地のために、借地人二百人ほどが、立ち退きを命じられた。明治四十一年春から新築した建物は棟梁に命じて移した。地代が月一坪一銭五厘の土地を立ち退いて、四銭五厘のところへ移った。新築当時の地番で言えば、府下豊多摩郡代々幡村大字代々木字山谷一六七番地(現在の渋谷区代々木三-三-二)。その後に新居に移った」とあるので、明治四十二年頃から代々木三丁目三番地二号に住んでいた事になります。  
  ・・・書庫は隣接させた。書庫をコンクリートとしっくいで頑丈に建てた。二階建てで屋上にも出られる、火災にも負けないという先見の明を誇った建物だ。書斎からはまるで大金庫の入口かと見紛うばかりの出入口が続いてあった。これを自分の号を冠して「斑山文庫」と呼んでいた。太平洋戦争下の昭和二十年五月二十九日、自宅も戦火にまみえ焼失したが、斑山文庫だけは焼け残った。出入り口の鉄製の扉もぐにゃぐにゃになったほどの戦火の熱であったというが、中の資料はすべて無事であった。
 (三田英彬著『菜の花畑に入り日うすれ』(理論社)より抜粋。『朧月夜』を参照してください)

  「高野辰之記念館」から三キロほどの「ふるさとの散歩道」にも『春の小川』の歌碑があります。そのわきを班川がさらさらと流れています。「班川(はんがわ)」については、『故郷』を参照してください。

 <モデルの川について芳賀綏(はがやすし)氏の意見>
 新聞や雑誌に時折<「春の小川」のモデルの川はどこ?>というような記事が掲載されます。高野辰之宅のあったところ(現・渋谷区代々木三丁目)には、現在、芳賀綏さんと妻の文子(あやこ)さんが暮らしています。文子さんは高野辰之の孫で、綏さんは東京工業大学名誉教授(日本文化論)。 毎日新聞の記者の質問に対して「歌詞を作るうえで、河骨(こうほね)川はヒントになったと思います。でも、特定の風景を実況中継したわけではない。それでは全国の人たちの心に響かないから」と答えている(2011年4月20日 毎日新聞 20世紀遺跡 近現代史をめぐる(10)より抜粋)。全国どこにでもあった風景だったから、今も愛唱されているのです。

 【『春の小川』の作者の明記について】
 「故郷」を参照してください。

  【作者の明記『小学唱歌教科書編纂日誌』では】
  『小学唱歌教科書編纂日誌』(pdfファイル3MB)では、次のようです。
   明治42年8月15日  歌詞部会で四年一学期に「春の川」を撰定配当。
   明治43年1月18日  下村炗に「春の川」作詞依頼。
   明治43年2月9日  作歌の件にて下村炗に書状発送。
   明治43年2月12日 「春の小川」歌詞審査修正。
   明治44年3月18日 「春の小川」歌詞議題。
   明治44年6月24日 「春の小川」歌詞議題。
  『尋常小學讀本唱歌』参照。

  <考察>
  ・曲名が「春の川」から「春の小川」に変わった。作詞依頼から修正を経て一年後に議題となっている。下村には明治43年4月と明治43年12月に別曲の作詞依頼をしている。高野辰之、岡野貞一の名前はない。
  ※『小学唱歌教科書編纂日誌』の情報は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました(2014年12月6日)。

 【曲について】
  曲は ハ長調、四分の四拍子、六音音階(ドレミ ソラシ)、二部形式の曲です。 四分音符と四分休符だけの単純なリズムを使って、感動的な作曲をしています。まず「はーるの」「きーしの」というように第一、第二拍を一音節で歌い、次の三拍以降は一音符に一語を充てているのが特徴です。 メロディーラインが安定しているので、安心して歌えるところに、この歌の良さがあります。  階名唱やハーモニカ・たてぶえ・鍵盤楽器の練習教材として人気の曲です。

 【レコード情報】
 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所有。
 (1) ビクター B458 歌・東京少年合唱隊、東京少女合唱隊
 (2) ビクター B278 歌・ビクター児童合唱団
  (註) (1)(2)ともに戦後の録音なのに、「初等科音楽 一」の歌詞で歌っています。
  「咲いているねと ささやきながら」の方がやさしい感じがするからでしょうか(北島記)。
 (3) ビクター B468 歌・滝川正子 「三年生の音楽」の歌詞で歌っています。
 (4) コロムビア 33164 歌・文谷千代子、中島けい子、清宮スミ子
     ピアノ、フリュート、フレンチホルン伴奏 伴奏編曲 文部省
  (註) 歌詞カードが付いていたのでコピーしました、真っ黄色になっていたのですが何とかコピーできました。
   このレコードには(第四学年)の「動物園」「かげろふ」も収録されています(北島記)。
▲歌詞カードには文部省認可-正しい歌ひ方 監修指導 東京高等師範学校教官 井上武士
とあります。そして貴重な写真付きです。
 中島けい子の名前がある。本名は中島啓子。鹿児島県南大隅町佐多出身。
2014年11月23日、57歳没。

 【単純な疑問】
 平成二十一年発行の小学校三年生の教科書(教育出版、教育芸術社、東京書籍)を見ると、二番までの歌詞が掲載されています。歌詞は昭和二十二年発行の『三年生の音楽』(文部省)と同じです。〔春の小川、文部省唱歌、高野辰之 作詞、岡野貞一 作曲〕と書いてあります。
 初出の歌詞は三番まであり文語体でした。現在では三番が削除され、林柳波が改作した一番と二番の歌詞が掲載されています。しかし、作詞は高野辰之と書いてある。これは、おかしいのではないでしょうか。これだけ変えられてしまった「春の小川」を高野辰之作詞とするのは疑問です。


▲はるのおがわ/絵は竹山博。「童謡画集(5)」1958年6月30日刊、講談社より



 『故郷』 『朧月夜』 『春が来た』も参照してください。


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪池田小百合≫


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故郷

作詞 高野辰之
作曲 岡野貞一
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008/12/28)

(
池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より


 【発表年月】
 『尋常小学唱歌』第六学年用(文部省)大正三年(1914年)六月十八日発行に掲載されました。

 【タイトルについて】 
 この歌の場合、だれもが『故郷(ふるさと)』と読みます。文部省唱歌の中で最も知られ、人気があるからです。しかし、近年 「ふるさと」は、新聞その他の出版物では、圧倒的に「古里」と書く方が多くなっています。「故郷」は、「こきょう」と読むからです。

 【歌詞について】 
 歌詞は文語体で、三・三・四(六・四)調のリズム(音数律)でできています。これが、美しい詩を作り上げています。六・四調は、三拍子の歌に都合が良いもので、西洋の唱歌にも多くの例があります。
 ・「かの山」「かの川」=あの山、あの川。
 ・「忘れがたき」=忘れられないという意味です。
 ●手話の先生から、「忘れがたき」の手話を、「忘れる」+「敵討ち」と教えていただきましたが、この解釈は間違いです。その場にいた百人以上の人々が、そのように教えられた手話を覚えて帰宅してしまいました。
 ・「恙なしや友がき」=友だちは元気でいるだろうか。「恙なし」という言葉は語源由来辞典によれば「ツツガ」=「病気や障害」がないという意味です。ダニの一種ツツガムシによるツツガムシ病は、佐々学著『風土病との闘い』(岩波書店、一九六〇年発行)で知る事ができます。
 ・「思ひいづる」=思い出すという意味です。
 ・「山はあをき」=里山のグリーンのことです。

 <三番について>
 ・福井直秋編『尋常小学唱歌 伴奏楽譜 歌詞評釈 第六学年用』(大正三年八月発行)によると次のようです。
  “我志を成し遂げて何日(いつ)錦を着て故郷へ帰らるる事であろうぞと云ふ意、『山はあをき故郷 水は凊き故郷』は共に『故郷』の下に『に』を入れて解釈すべし”。
 ・中村幸弘編著『読んで楽しい日本の唱歌』Ⅱ(右文書院)によると次のようです。
  “ひとたび「青雲の志」を懐いて、故郷を出たとしても、立身出世の目的を果たして、いつ、その故郷に帰れるのであろうか、という、やや不安な思いを意味して結ばれます。ところが、その「いつの日にか帰らん」を、さきごろ、ちょっと課題にしましたところ、いつの日にか、立身出世して帰ってこよう、というように受けとめる人が多かったように思います。古典語としては、不定詞「いつ(の日にか)」があるのですから、疑問文になろうと思います。それを現代語の「いつか」という未来の不特定の時を指していう副詞と受け止めてしまうのであろうと思います。誤解して受けとめたい気持ち、よくわかります。
  「いつの日にか帰らん」の「ん」は、意志の助動詞ではなく、推量の意味の連体形という形で、<・・・(ことができるのであろ)う(か)>という意味を担(にな)っているのです。そのうえで、不安のなかの決意を感じとっていきたいと思います ” 。

 【大人向けに作られた唱歌】 
 みんなが集まって歌う時、リクエストの多いのが、この歌です。「兎追ひしかの山」と口ずさめば、全国どこにでもあった山川や自然の風景が広がり、日本の美しさに喜びを感じます。自分の故郷を思い出す人も多いことでしょう。故郷を離れた人が故郷を思い出している歌だからこそ故郷は理想化されていっそう美しく輝きます。幼い頃の思い出も甦ってきます。繰り返し歌ってもあきない美しい文語体の歌詞に、清々しいメロディー。
 心地良い優しい旋律は、讃美歌のようだと言われます。 しかし、一般の文部省唱歌がそうであるように、子供が歌って楽しむための歌ではありません。
 歌詞は子供の発想ではないし、子供の歌の範ちゅうを越えています。当時の唱歌の作者たちには、やさしく親しめる曲を書こうとする意図がなかったからです。この事は、後の「赤い鳥童謡運動」で批判されました。文部省唱歌は、大人向けに作られたからこそ、大人になってから好きな歌とされ、愛唱され歌い継がれるのです。

 【音楽の教科書に掲載】 
 発表以来、親子で歌う事ができるほど長く親しまれている理由の一つに、小学校の音楽教科書に掲載されていたということがあります。その経過を追ってみましょう。

 【初出】
 『尋常小学唱歌』第六学年用(文部省)大正三年(1914年)六月十八日発行では、曲名は「故郷」、ト長調、斉唱、四分の三拍子の曲。強弱記号やブレス記号が書いてあり、表情ゆたかに歌うように指示してあります。七音音階で作曲された二部形式の美しい、 まとまりのある曲です。発表当時は、作詞・作曲者名は伏せられていたので、何も書いてありませんでした。

  【合議制だった】
 『尋常小学唱歌』(全六冊)の編纂は、歌詞委員と楽曲委員に分かれて任命された。
 “高野辰之作詞、岡野貞一作曲の文部省唱歌6曲は現在も共通教材[註1]として、全ての小学校音楽教科書に掲載されています。コンビ[註2]というよりは、当時の編纂日誌によれば職務として、作詞委員の合議、作曲委員の合議でつくられました。
 学年や歌詞が、社会変化に合わせて変更になったり、国語で習う漢字の変更で、「漢字」が変わったり「ひらがな」になったり[註3]してきています。
 6曲が高野・岡野と日本音楽著作権協会から著作権を認められたのは、亡くなって20年以上たった昭和42年と48年。[註4]歌は知られていて歌われていても、だれの作品か知られていなかった理由です”(『大塚薬報』4 2015/№704 文・小林雅美)。

  [註1]小学校音楽共通教材(唱歌) 昭和33年開設
    第1学年(日の丸の旗)ひのまる
    第2学年(春が來た)はるがきた
    第3学年(春の小川)春の小川
    第4学年(紅葉)もみじ 昭和33年・43年は3年掲載。昭和52年から4年へ
    第5学年 なし
    第6学年(朧月夜)おぼろ月夜、(故郷)ふるさと

  [註2]多くの出版物で「高野辰之と岡野貞一のコンビによる」と、「コンビ」という表現が使われているが、これは正しい表現ではない。
  [註3]例えば、初出のタイトルは「故郷」だったが、現在は「ふるさと」と「ひらがな」になっている。
  [註4]【日本音楽著作権協会が認定】を参照

  【いつ歌うか】
 「四季に関係なくいつでも歌える」と思っている人が多いようですが、尋常小学校第六学年が夏に歌うように作られたものです。思い出の風景、懐かしい人々、強い郷愁を胸に秘めつつ、仕事があって、この夏は帰郷できないという境遇を歌詞にしてあります。『尋常小学唱歌』には、次の順で掲載してあります。

     三 朧月夜 四 我は海の子 五 故郷 六 出征兵士 七 蓮池 八 燈臺 九 秋

 当時は尋常小学校より上にはなかなか行く事ができなかったので、六年生用のこの歌は最後に習った名曲になりました。

 次の『新訂 尋常小学唱歌』第六学年用(文部省)昭和七年十二月十日発行にも掲載されている「故郷」は、二番の歌詞に「如何にいます、父母」「恙なしや、友がき、」というように読点が入っていて、読みやすくなっています。したがって、初出の歌詞と違うので出版物への掲載には注意が必要です。

  【国民学校の教科書には掲載されていない】
 ずっと子供たちに歌われていたと思われていたこの歌は、『初等科音楽 四』国民学校初等科第六学年用(文部省)昭和十七年十二月発行には掲載されていません。戦時下の国民学校では歌わせていませんでした。※国民学校芸能科音楽参照。
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)の、「大正三年六月に発表されて以来、国定教科書に載り続け、今でも共通教材に指定され」は間違い。『初等科音楽 四』(文部省)には掲載されていません。この文章は多くの出版物に使われてしまいました。

  <国民学校の教科書に掲載されなかった理由の考察>
 美しい日本の風景、父母や友人を思いやる心、立身出世の内容にもかかわらず、なぜ掲載しなかったのでしょうか。疎開した子供たちが、この歌を歌って望郷の念にかられるのを、さけたかったからでしょうか。国民学校音楽教科書の大部分は、軍国教育にそった新作の歌でした。

  ≪『初等科音楽 四』(文部省)の掲載曲≫
 君が代、勅語奉答、天長節、明治節、一月一日、紀元節、明治天皇御製、敷島の、おぼろ月夜、姉、日本海海戦、晴れ間、四季の雨、われは海の子、満洲のひろ野、肇国の歌、体錬の歌、落下傘部隊、御民われ、渡り鳥、船出、鎌倉、少年産業戦士、スキー、水師営の会見、早春、日本刀。注目したいのは、「おぼろ月夜」が掲載されていることです。

  (I)安田寛は、“軍国主義者からは「めめしい」と非難され、国民学校の教科書から消されたのではないか”(『「唱歌」という奇跡十ニの物語』文春新書、2003年、p.162より)と推定しています。私の童謡の会の会員からも「めめしい」からではないかとの意見が出ました。それでは、掲載曲の中の<姉>は、軟弱で、めめしくないのでしょうか。姉が嫁ぐのを弟が悲しむ歌です。「・・・さびしさこもるあかね雲。」「・・・こよひはうるむ空の星。」とあります。
  (II)山中恒は、“子どもたちが家庭で、兄姉あるいは親たちから聞いて知っているということで、敢えて外したのかもしれない。”(『ボクラ少国民と戦争応援歌』音楽之友社、1985年、p.105より)と書いています。
  (III)私、池田小百合は、2009年8月6日 NHKシリーズ証言記録『兵士達の戦争・人間魚雷回天』を見ました。・・・訓練を終えた五人の搭乗員が選ばれました。しかし、エンジンの故障で三隻は出撃できませんでした。二人は出撃し帰らぬ人となりました。そして終戦となりました。人間魚雷回天は、ほとんど勝利を上げないまま104人が命を落としたと放送は締め括りました。・・・この放送の中で、生き残った人が次のような重要な証言をしました。
 『“<故郷>という歌の中に「いつの日にか歸らん」というのがあるけれど、俺たちにはないなあ”と話し合ったんですよ』と言うのです。
 私は、これが<故郷>が国民学校の教科書に掲載されなかった理由だと確信しました。
 国語の教科書だけでなく、音楽教科書も、国の政策に使われていました。

  【戦後の復活】
 戦後、再び『六年生の音楽』(文部省)昭和二十二年六月五日発行に掲載された時、曲名が平仮名で「ふるさと」となりました。二十二年版の教科書には特筆すべき事がいつくかあります。
 (1)歌詞は文語体のままになっています。文部省は、例えば「如何にいます父母」を、「どうしていますか パパママ」というように口語体に直したのでは、品格がなくなる事を承知していたのです。この事は、すでに『童謡の風』3号(日本国際童謡館)平成八年六月一日発行で、藤田圭雄が「これからの童謡(2)」で論文として発表しています。
 (2)一音低くト長調からヘ長調に移調してあります。子供たちは、広い場所で思い切り声を出して遊ぶ生活が少なくなると、しだいに小さい声で話すようになり、声域も狭くなってしまいました。
 高い「ミ」の音を避けるためですが、作曲者が意図した調性が違うと、曲としての印象も変わります。他にも「おぼろ月夜」はニ長調からハ長調に、「冬景色」はト長調からヘ長調に移調してあります。文部省は、「子供が歌いやすいように」と子供に配慮したのでしょうが、曲の印象までは考えになかったようです。
 (3)三部合唱に編曲してあります。下にピアノ伴奏譜が付いています。今までにない画期的な教科書でレベルが高い。戦後の楽しい音楽教育を目指した文部省の姿勢がうかがえます。これをきっかけに、ピアノブームが始まり、合唱団が各地にでき、急速に音楽が身近なものになっていきました。
 (4)「作詞 作曲 不明」と記されました。

 ●川崎洋著『歌の教科書』(いそっぷ社)の、「昭和26年から現在にいたるまで、六年生の教科書に一度もとぎれることなく載っている。」は、間違い。「昭和22年から現在にいたるまで」が正しい。

 【小学校音楽共通教材(歌唱)】
 昭和三十三年、共通教材開設。昭和四十三年改訂、昭和五十二年改訂、平成元年改訂、平成十一年改訂。「ふるさと」「おぼろ月夜」は、ずっと第六学年用の共通教材に選ばれている。


 【「兎追ひし」の考察】
 昭和三十三年には、「小学校音楽共通教材(歌唱)」が開設され、以後「ふるさと」は六年生の音楽教科書には必ず掲載される曲に指定されました。この年発行の『改訂 小学生の音楽6』(音楽之友社)の楽譜を見ると、「うさぎ追いし」となっています。歌詞表記の一部に漢字をあてる方法は、「兎美味しい」と勘違いするのを最小限に防ぐ事ができます。

▲『小学生の音楽6』(音楽之友社)・タイトルは「ふるさと」,作詞作曲不明とある
 ト長調。四分の三拍子。三部合唱に編曲してある。
 「うさぎいし」「いつのにか」と歌詞表記の一部に漢字を当てている。
 ピアノやオルガンで弾いて楽しめるように簡易伴奏譜が付いている。

 昔の子供は、山で兎を追いかけて捕まえ、川で小鮒を釣るのが遊びであり家庭の助けでもありました。それを家族で食べていました。今の子供には想像できない生活でしょう。
 これに対し、鎌倉市佐助にお住まいの方から、次のような手紙をいただきました。
 「二十数年前、飯山の方に旅行した時に、『故郷』の歌を思い出 し、乗っていたタクシーの年配の運転手さんに、『この辺には兎が多かっ たのですか』と聞いた所、『今でも沢山いますよ。私の子どもの頃は、学校総出で兎狩りをしたものです』と言う返事が返ってきました。運転手さんの話によると豪雪地帯のこのあたりでは、春になって雪がとけると兎が出て来て、やっと芽吹いた木の若芽や畑の作物を食べてしまう。そこで、先生が生徒をひきつれて兎狩りをやったのだそうです。その時に使う仕掛けも教えてくれました。まず、細い針金の両端に木片を結びつけて、野原一面にまいておきます。それからみんなで兎を追い出すと、飛び出して来た兎は、この仕掛けが足にからんで動けなくなるので、捕まえて兎汁を作って食べたのだそうです。 「兎追いし」は、「兎を追いかけて捕まえて食べてしまう事だ」などと言うと、今時の先生から「そんな解釈は残酷で教育上よろしくない」などとクレームが付きそうですが、昔の人たちの生活を正しく伝えて行くのは大切な事で、私は池田さんの説は卓見であると思っております」(2005/2/4)。
 高野辰之記念館より、“「兎追い」は冬・凍み渡り頃の子どもたちも加わった、村総出のタンパク質を補うための行事でした。里山には今も兎がいます”と教えていただきました。(2009/12/11)

 【作者名の明記】
 文部省は昭和二十二年、新主旨にもとづく編集による音楽教科書を発行しました。この時はじめて作詞者と作曲者の名前を明記しました。作者の名が公表されたのは、マッカーサー元帥の指令によるものです。戦前の文部省唱歌の多くは「不明」と記されました。

 【「ふるさと」の作者名の明記について
 「ふるさと」の作者名が明記されたのは、いつからでしょうか。

 <作詞者・高野辰之の場合>
  昭和四十七年(1972年)、高野辰之の養女の高野弘(当時六十五歳。東京都渋谷区代々木)が、音楽著作権協会に“高野辰之が「ふるさと」の作詞者”と名のり出ました。音楽著作権協会は、高野の知人などの証言をもとに高野の作詞と認め、同協会の著作権名簿に登録しました。このほか「おぼろ月夜」「紅葉」「春の小川」の三曲も同じころの作であることがわかりました。同協会からこの報告を受けた文化庁著作権課もこの四曲の著作権については、協会のいうように高野の作詞として了解しました(高野辰之記念館に保存されている新聞記事より抜粋。信濃毎日新聞 昭和49年5月18日朝刊)。
 [註]信濃毎日新聞の記事には、養女の名前は高野弘子となっている。高野辰之記念館に勤務されていた小林雅美さんに、「正式には高野弘が正しい」と教えていただきました(2015/12/22)。

 <作曲者・岡野貞一の場合>
 (I)作曲者名が岡野貞一になっているのは、赤井励の論文「≪尋常小学唱歌≫研究の現状」によると、「音楽史家の遠藤宏が昭和二十三年(1948年)の『教育音楽』誌上で、伝聞により尋常小学唱歌の名曲「故郷」や「春の小川」について資料の提示なしに岡野貞一個人の作曲説を発表、著作権設定の道を作った。もちろん岡野は立派な音楽家だったと思うが、このことが今日の著作権問題混乱の原因のひとつになっている」 (『原典による近代唱歌集成 解説・論文・索引』(ビクターエンタテインメント) 2000年4月発行による。この全集の楽譜は、原典でないものも多いので使用には確認が必要です)。 以上のように遠藤宏の説が、著作権が認められるきっかけとなった。

 (II)東京にあった岡野貞一の自宅は終戦直前の空襲で焼失したため、直筆の楽譜や日記などの一次資料は残っていない。そのため「故郷」を作曲したかどうか調べられなくなりました。

 (III)岡野は昭和十六年(1941年)十二月二十九日に亡くなりました。享年六十三歳でした。その直後に出た東京音樂學校(現・東京芸術大学)同聲會の『同聲會報』第二百六十二號、皇紀二千六百二年、昭和十七年五月號、昭和十七年(1942年)五月二十日発行には、名曲「春が來た」「故郷」「兒島高德」「三才女」「水師營の會見」「朧月夜」「橘中佐」等々の小学唱歌を作曲したと紹介されています。遠藤宏の説より六年も早い段階で岡野貞一の作曲を認めている貴重な資料です。
  『わらべ館』の童謡唱歌の専門職員・平緒佐和氏は、企画展「唱歌『ふるさと』100年の歩み」(2014年6月18日~10月14日まで開催)の準備で、神奈川県在住の岡野の遺族が保管していた東京音楽学校の同窓会の雑誌を読み、「ふるさと」は岡野の作曲とする記述を発見した。(平成二十六年(2014年)7月10日朝日新聞による)。

 (IV)音楽雑誌『音樂之友』三月號(第二巻 第三號)昭和十七年(1942年)三月一日発行には、鳥取県鳥取市岩美町出身で、東京音楽学校で同時期に教鞭をとっていた作曲家・田村虎蔵が岡野貞一を追悼する内容が掲載されている。田村と岡野は同郷。
  田村は、「岡野貞一君を悼む」と題し、「今や全国的に愛唱されている文部省唱歌のうち、「春が來た」「故郷」「兒島高德」「三才女」「水師營の會見」「朧月夜」「橘中佐」「廣瀨中佐」等の如き、或は私の編纂した唱歌教材集中、「大阪の役」「保護鳥」などの如き、皆君の作曲である」と岡野の業績をたたえている。
  この『音楽之友』は「わらべ館」所蔵。「わらべ館」が古書店から購入したもので、研究者の間でも余り知られていない貴重な資料。

  (註)私、池田小百合は 『同聲會報』 昭和十七年五月號掲載の「春が來た」から「橘中佐」までの曲名の並び順が、先に発行された『音樂之友』昭和十七年三月號と同じなのが気になります。

  【日本音楽著作権協会が認定
 ・昭和四十二年(1967年)、日本音楽著作権協会(JASRAC)が発行した『日本音楽著作権協会管理 唱歌作品集』(昭和42年12月15日発行)で、「朧月夜」「故郷」を岡野貞一作曲と認定。文部科学省の担当者によると、『唱歌作品集』以外で岡野が作曲者だとする資料は確認できないという。高野辰之は、「春が来た」「日の丸の旗」が掲載され著作権が認められました。
昭和四十八年三月十三日、日本音楽著作権協会の理事会で「紅葉」「春の小川」「朧月夜」「故郷」について、高野辰之の著作権を承認(同協会会報195)。岡野貞一作曲については四曲とも「すでに認定済み」とあります。

 【小学校学習指導要領でも認定】
 『小学生の音楽 6』(教育芸術社、平成四年(1992年)発行)を見ると「文部省唱歌 高野辰之作詞 岡野貞一作曲」となっています。教育芸術社に問い合わせた所、「文部省は、平成元年(1989年)三月に発行した小学校学習指導要領から岡野貞一を作曲者としている。これに伴い、平成四年発行の教科書から作者名を記載」と教えていただきました(平成十六年二月二十三日教育芸術社編集部による)。   

 【今の教科書のあつかい】
 全ての教科書は、ヘ長調で掲載しています。 合唱のスタイルで掲載されていますが、伴奏譜は付いていません。「文部省唱歌 高野辰之作詞 岡野貞一作曲」となっています。
 たとえば『音楽6』(教育出版、平成7年2月15日文部省検定済)は、三善晃編曲の二部合唱の解説に、「伴奏をつけずに歌ってみよう」と指導しています。アカペラで歌う事は、合唱の豊かな響きを味わう事ができます。

 【信州の山里の風景】
 作詞者が判明した事により、「故郷」は、高野辰之の故郷である信州の山里の風景をイメージして作詞されたものとされました。
 歌詞の「かの山」は、「斑尾山(まだらおやま)」の裾野、永江の「熊坂山(くまさかやま)」、「大平山(おおひらやま)」、「大持山(だいもちやま)」などの里山だろうと、いわれています。
 手前の菜の花畑は唱歌『朧月夜』のモデルの長峰の丘です。これらは、高野辰之記念館のパンフレットの写真で確認できます(2004/3/16)。

 【「斑川」か「斑尾川」か】
 「小鮒釣りしかの川」は、出版物によって「斑川」だったり、「斑尾川」と書いてあるものもあります。
 ・<斑尾高原ホテル>の関係者によると、「斑尾山を源に村を流れる斑川です。物的証拠をと思いましたが見あたらず、しかし橋には、はっきりと刻まれています」と教えていただきました(2004/3/19)。
 ・<中野市役所総務部庶務課秘書広報係>によると、「斑川」と「斑尾川」は両方存在します。「斑尾川」の上流部に「斑川」があります。高野辰之の『故郷』の歌詞に出てくる「小鮒釣りしかの川」は「斑川」といわれています(2009/01/06)。
 ・<高野辰之記念館>によると、「かの川」は「斑川」といわれています。 「斑川(ハンガワ)」は清流で鮒はいませんが、詞は創作ですから「小鮒」となっています。(2009/12/11)
 斑川は、辰之が子供の頃は、カジカやヤマメなど清流にしか棲まない川魚がたくさんいたという。 「故郷」の歌詞は“小鮒釣りし”だ。他の歌詞は辰之の生活と一致しているのに、ここだけ創作して「小鮒」にしたというのは奇妙です。
 小鮒は用水路にいる小さなフナ。フナは産卵の時期になると流れのゆるやかな用水路や田んぼの中に移動して産卵する。 用水路や田んぼは水の流れがゆるやかで、あたたかく、小さなプランクトンも豊富なので小さな幼魚が育つのに適した環境。 大きくなったフナは大きな川や池へと戻って行く。
 「かの川」は、子供たちが釣りをするような小さな用水路でなければならない。 このような子供たちの遊び場となる小川には小鮒がいた。
 その後、月刊誌『大塚薬報』の「高野辰之」特集(文・小林雅美)では、“「かの川」は「斑川」といわれています。斑川は清流でイワナはいても、鮒はいませんが、一般的な「小鮒」となっています。文部省唱歌は日本のどこで歌っても合うように作られました”と直してあります。

▲月刊誌『大塚薬報』第704号
(平成二十七年四月十日発行)
「大塚薬報」より、<斑川の清流>及び<雪深い「故郷」の風景>   

  【高野辰之・略歴
 ・明治九年(1876年)四月十三日、長野県水内郡永江(ながえ)村(現・中野市永江)で生まれました。父・仲右衛門、母・以志。弟二人妹三人の農家の長男でした。幼年時代を豊かな自然の中で育ちました。「高野辰之記念館」のパンフレットの略譜には「長野県下水内郡永江村(現豊田村)に生まれる」となっています。生家は「高野辰之記念館」と別にあります。

  [註]明治十二年から下水内郡になった。明治二十二年に「穴田村」と「永江村」が合併し「永田村」となった。 「永田村」は、昭和三十一年九月三十日に「豊井村」と合併し「豊田村」になった。昭和三十一年九月三十日から平成十七年三月三十一日まで「豊田村大字永江」になっていた。 平成十七年四月一日に「中野市」と「豊田村」が合併し、現在は「中野市大字永江」となっている(中野市総務部庶務課秘書広報係/2008/12/12)。

 ・明治十四年(1881年)四月六日、満四歳十一ヶ月で下水内(しもみのち)郡永江学校へ入学。四月生まれなので、すぐ五歳になる。永江学校は寺子屋のようなところだったようです。
 ・明治十七年八月四日、下水内郡永江学校「小學初等科第壹級」卒業証書が残っている。
 [註]明治七年五月二十五日、北永江天正寺境内に彰義学校開設。明治十三年に永江学校と改称。明治十五年五月八日、北永江鳥居田に新築移転(現・永田窓口サービスス テーション)。明治十九年四月一日永江学校は豊津学校永江支校と改称。

 ・明治十九年(1886年)十二月二十三日、豊津学校永江支校中等科第二級卒業。卒業証書の写真がある。
 [註] 明治二十二年四月一日、豊津学校永江支校は永田尋常小学校へ改称(村の合併による)。
 ・明治二十年(1887年)四月、飯山学校高等科へ入学。
 ・明治二十一年(1888年)四月、飯山町の新設の下水内(しもみのち)高等小学校(現・飯山市立飯山小学校)に進学しました。二里の野道を徒歩で通い、雪の降る冬だけ真宗寺(現・飯山市南町)に下宿させて もらいました。
 ・明治二十三年(1890年)三月三十日、下水内高等小学校を卒業。満十三歳(四年の所を飯山学校高等科も含めて三年間で卒業した)。
 五月一日、 母校の永田尋常小学校(旧永江学校)の代用教員(約三年間)になりました。それ程、高い才能の持ち主でした。この時、辰之十四歳。師範学校の入学年齢に達していなかったため、師範学校の入学年齢になるまで勤めました。
 [註]明治二十五年四月、永田尋常小学校は永江尋常小学へ改称。明治三十三年四月、永江尋常小学は永田尋常高等小学校へ改称。明治三十五年五月、永田尋常高等小学校は南永江篭原へ新築移転。明治四十三年十二月、永田尋常高等小学校火災。分散授業。大正四年十一月、永田尋常高等小学校は北永江に移転。

 ・明治二十六年(1893年)四月、長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部・当時は全寮制)に入学。満十六歳、すぐ十七歳になる。
 ・明治三十年(1897年)三月卒業。四月より母校の下水内高等小学校訓導 となりました(一年半勤務)。満二十歳、すぐ二十一歳になる。真宗寺に通年下宿させてもらいました。
 ・明治三十一年(1898年)六月、難関と言われた師範学校・尋常中学校・高等女学校の国語科教員検定試験に合格。この検定試験の際に上田萬年(かずとし)と出会う。東京の本郷龍岡町森本方に試験のため滞在。
 ・明治三十一年七月十五日、一時帰郷、下宿先の真宗寺の住職・井上寂英の三女・つる枝(十七歳)と結婚しました。この時、辰之二十二歳。つる枝の母よしえは、「将来、人力車に乗って来る男になるなら」との条件で結婚を許したそうです。挙式は高野家で行われた。
 [註] 読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)には、“将来、人力車に乗って山門から入って来る男になるなら”と書いてあります。これは、多くの出版物で使われてしまっています。
  『私の心の歌 秋 赤とんぼ』(学習研究社)には、“将来、人力車に乗って寺の山門から入って来るような男になると約束するなら結婚を許します・・・”と書いてあります。さらにこの本には“やがて、文字どおり功成り名を遂げた高野が、寺の山門を人力車でくぐったのは大正十四年のことだった。”と書かれている。
  しかし、『定本 高野辰之』で、辰之の孫の夫の芳賀綏氏は「下車・下馬せずに門をくぐるような不作法・非常識は、辰之のデリカシーと明治の人の教養が許すことではなかったはずだ」と書いている。

 ・明治三十一年九月、検定試験の試験官だった上田萬年を頼り上京。東京帝国大学(現・東京大学)では授業料を納めて勉強をしました。当時、一月期は四月ではなく、九月始まりでした。一年半、国文学の研究に没頭。
  同時に「写字生」でもあった。上田萬年の指導で『浄瑠璃』の本七千八百冊の目録編纂を行いました。複写機のない時代のことです。結局、後日『浄瑠璃史』を出版することになるので、自分の研究をしていた事になります。
  ・明治三十三年二月、母から約束は一年なので帰郷するよう手紙が来ました。もう少し勉強させて下さいと返事をしましたが、農家の長男としては辛い決断でした。
  しかし師範学校を卒業後、高等小学校訓導を一年半しか勤めなかったため、師範学校で免除を受けた授業料を県へ納めるか、教員にもどるか、ということになりました。
  ・明治三十三年(1900年)四月、長野県へ戻り二年間、長野県師範学校に奉職。師範学生時代の給費の返還免除のため、平家物語・古今集・徒然草や、文法・国文学史を二年間教えました。教えながら東京での研究をまとめて二十四歳で最初の本『浄瑠璃史』を出版しました。
  [註]明治九年(1876年)九月、筑摩県と長野県の合併により、旧筑摩県師範学校は長野県師範学校松本支校となる。明治十六年(1883年)六月、松本支校を廃止。明治十九年(1886年)九月、師範学校本校を松本に移転。師範学校令(明治十九年四月十日に公布された勅令)により長野県尋常師範学校と改称(四年制)。明治三十一年(1898年)四月、師範教育令(明治三十年十月九日公布された勅令)により長野県師範学校と改称。

  ・明治三十五年(1902年)四月、つる枝と二人で再び上京。辰之は二十六歳、つる枝は二十一歳の春でした。上田萬年の世話で、すぐに文部省国語教科書編纂委員になることができました(國語讀本の編纂は三名でおこなった)。
  ・明治四十年(1907年)、三十歳頃から民話を採録し、わかりやすく書き直して、『家庭お伽(とぎ)話(ばなし)』として毎月発表しました。共著で五十冊以上。
  ・明治四十一年(1908年)、東京音楽学校邦楽調査掛を嘱託
  ・明治四十二年(1909年)四月十三日、母・以志が逝去、享年六十二歳。(この日は辰之の満三十三歳の誕生日)。
  六月、文部省小学校唱歌教科書編纂委員嘱託
  ・明治四十三年(1910年)六月、三十四歳で東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の教授となって、教科書編纂と並行して、「日本歌謡史」の講義をするようになった。
  ・明治四十四年(1911年)五月、高野夫妻には子供がなかったので、妻つる枝の実家真宗寺から、つる枝の兄弘円の三女の弘を養女に迎えます。
 [註]信濃毎日新聞の記事(昭和49年5月18日朝刊)には、養女の名前は高野弘子となっている。高野辰之記念館に勤務されていた小林雅美さんに、「正式には高野弘(三女)が正しい」と教えていただきました(2015/12/22)。

  ・大正十四年(1925年)一月十二日、論文「日本歌謡史」で東京帝国大学から文学博士号の学位を授与。四十八歳。この年の二月には妻のつる枝と養女の弘を伴い帰郷。村中の歓迎を受けました。生家では父・仲右衛門に報告。翌日には飯山の真宗寺へ行き、つる枝の母よしえや、つる枝の兄の弘円に会い、近隣や檀家にも歓迎されました。文字通り故郷に錦を飾りました。
  ・大正十五年(1925年)一月、『日本歌謡史』出版。著書は『近松門左衛門全集』『江戸文学史』など七十冊以上にのぼった。
   三月、東京帝国大学講師
  ・昭和三年(1928年)四月十四日、帝国学士院賞を授与され、六月には天皇・皇后両陛下に講義する栄誉を賜りました。
  ・昭和十一年(1936年)三月、東京音楽学校教授・東京帝国大学講師を辞任。五十九歳十一ヶ月。すぐ六十歳になる。東京音楽学校教務嘱託で七月まで残って、邦楽科の設置に尽力した。
  ・辰之は酒と風呂が大好きでした。六十四歳の時に軽い脳溢血にかかり、六十六歳で野沢温泉村の別荘「対雲山荘(たいうんさんそう)」に移りました。
  ・昭和二十二年(1947年)一月二十五日、長野県下高井郡野沢温泉村の別荘「対雲山荘」にて亡くなりました。享年七十二歳(数え七十二歳、満七十歳九ケ月)。墓は野沢温泉村にあります。斑尾山(まだらおやま)を遠くに望む、この山間の地をこよなく愛し、「斑山(はんざん)」と号した。野沢温泉村には「高野辰之記念おぼろ月夜の館」があります。
  ・平成三年四月、「高野辰之記念館」(長野県中野市永江)が、永田小学校移転後の跡地に開館。
  以上は、高野辰之記念館に勤務されていた小林雅美さんに教えていただきました(2015/12/22)。ありがとうございました。

 【『東京藝術大学百年史』の高野辰之の略歴】
 『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第二巻』(音楽之友社)の日本人教師1326ページには次のように書いてあります。

  高野辰之(たかの たつゆき)
  長野県平民
  ・明治九年(1876年)四月十三日 長野県下水内郡永田村二百三十八番地生。
  ●“明治九年(1876年)四月十三日 長野県下水内郡永田村二百三十八番地生。”と書いてあるのは間違い。“長野県水内郡永江(ながえ)村(現・中野市永江)で生まれた”が正しい。
  (註)明治十二年から下水内郡になった。明治二十二年に「穴田村」と「永江村」が合併し「永田村」となった。「永田村」は、昭和三十一年九月三十日に「豊井村」と合併し「豊田村」になった。昭和三十一年九月三十日から平成十七年三月三十一日まで「豊田村大字永江」になっていた。 平成十七年四月一日に「中野市」と「豊田村」が合併し、現在は「中野市大字永江」となっている(中野市総務部庶務課秘書広報係/2008/12/12)。

  ・明治三十年(1897年)三月二十六日 長野県師範学校卒業。四月四日 任長野県下水内郡下水内高等小学校訓導。
  ●“明治三十年(1897年)三月二十六日 長野県師範学校卒業。”と書いてあるのは間違い。“長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部・当時は全寮制)卒業。”が正しい。
  <校名変遷>
  ・明治8年12月 長野県師範学校
  ・明治19年9月 長野県尋常師範学校
  ・明治31年4月 長野県師範学校
  ・昭和18年4月1日 長野師範学校≪官立≫
  ・昭和24年5月31日 信州大学教育学部

  ・明治三十一年(1898年)五月 師範学校中学校高等女学校教員国語科検定試験に合格文部大臣より国語科教員免許状取得。十一月十九日 明治三十二年十月三十一日まで長野県より休職を命ぜられる。
  ・明治三十三年(1900年)四月十三日 任長野県師範学校教諭兼訓導。
  ・明治三十五年(1902年)四月十日休職を命ぜられる。四月二十一日 国語教科書編纂委員嘱託。
  ・明治三十七年(1904年)七月十三日 国語教科書編纂委員嘱託を解かれる。
  ・明治四十一年(1908年)三月四日 東京音楽学校において邦楽調査嘱託。
  ・明治四十二年(1909年)二月一日 同校国語および歌文の授業嘱託。二月八日 依願免本官。三月十一日 第三部起草員職務補助嘱託。六月十二日 小学校唱歌教科書編纂委員嘱託。
  ・明治四十三年(1910年)六月二十五日 任東京音楽学校教授。
  ・大正五年(1916年)七月六日 任文部省図書官叙高等官五等。七月七日 邦楽調査員嘱託。
  ・大正六年(1917年)十一月十二日 兼任東京音楽学校教授。叙高等官四等。十一月十四日 邦楽調査掛主事。
  ・大正九年(1920年)四月二十八日 専任東京音楽学校教授七級俸下賜。六月二十三日 大正九年度文部省視学委員を命ぜられる。七月二十七日 教科用図書調査委員会主査委員の職を奉しその尽力により銀盃一組を受ける。
  ・大正十四年(1925年)一月十二日 文学博士の学位を授かる。
  ・大正十五年(1926年)三月二十一日 東京帝国大学講師嘱託。
  ・昭和三年(1928年)四月十四日 帝国学士院より学士院賞を受ける。六月四日 天皇皇后両陛下に御進講仰せ付られる。
  ・昭和四年(1929年)十一月二十日 唱歌編纂掛編纂員を命ぜられる。
  ・昭和六年(1931年)八月二十六日 東京音楽学校長欧米各国に出張中校長事務代理を命ぜられる。九月三十日 昭和六年度本校講師嘱託。十二月 校長帰朝につき校長事務代理を免ぜられる。
  ・昭和七年(1933年)五月三十一日 五級俸下賜。六月一日 叙徒四位。六月十五日 陞叙高等官二等。

 【岡野貞一・略歴
  ・明治十一年(1878年)二月十六日、鳥取県邑美郡美保村大字古市(現・鳥取市古市)で、長男として生まれました。士族の血を引く家柄でしたが、生まれた当時、父には定職がなく幼い頃に吉方町の小さな家に移り住み、質素な生活をしました。
 <「鳥取県邑美郡美保村大字古市」について>
 岡野が生まれた邑美郡の名は明治二十九年に消滅した。明治二十九年から昭和八年(鳥取市に編入)の間、岩美郡美保村であった。明治二十九年新設の岩美郡の名は現在まで続いている。
 ●『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』(講談社)は「鳥取県岩美郡に生まれている」。これは正しくない。
 ・明治十六年(1883年)十月、吉方学校に入学。父親は吉方学校三年生の時に死去しました。母親が縫物や近所の手伝いをして生計を支えていました。近くには、源太夫山や袋川があり、学校から帰ってから家の手伝いをした後は、山に登ったり釣りをしたりして遊びました。
 ・明治二十年六月、吉方学校尋常科(現・修立小学校)を成績優秀で卒業。
 ・明治二十年七月、四年生から久松山のふもとの西町に転居し、三郡(邑美・法美・岩井)高等小学校に入学。この頃、姉の影響で鳥取教会に通い始め、十四歳の時に洗礼を受けました。教会のセベランス牧師や永井幸次(後の大阪音楽大学創設者)との出会いから音楽に心をひかれるようになり、讃美歌に接し、オルガンに親しみ音楽の道を志す事を決心しました。
  ・明治二十四年(1891年)三月、鳥取高等科小学校(現・久松小学校)を卒業。
 (註)久松小学校のホームページでは「公立鳥取高等小学校」となっている。
  ・明治二十六年(1893年)四月、十五歳で岡山市のキリスト教系の私立薇陽学院に入学。アダムス宣教師に音楽的才能を認められ二年で退学。
  ・明治二十八年(1895年)六月、音楽学校受験のために上京。当時、高等師範学校附属音楽学校の四年生だった永井幸次と生活を共にし、大きな影響を受けています。
  ・受験勉強一年余の後、明治二十九年(1896年)九月、高等師範学校附属音楽学校(現・芸大音楽学部)の予科に入学、明治三十年(1897年)七月修了と同時に本科に入学。専攻は声楽でしたが、ピアノ、オルガン、チェロも巧みに弾き、明治三十三年(1900年)七月、首席で卒業しました。
  ・明治三十三年(1900年)九月、研究生となり、東京音楽学校授業補助を命じられ、後進の指導に当たった。その後、明治三十九年(1906年)には助教授に昇進。
  ・明治四十二年(1909年)、文部省小学校唱歌教科書編纂委員になり、明治四十三年、文部省が初めて刊行した『尋常小学読本唱歌』全一冊と、明治四十四年から大正三年にかけての『尋常小学唱歌』全六冊、これら唱歌集の作曲に力をつくし、大きな業績を残しました。
  ・大正十二年(1923年)に東京音楽学校教授になり、昭和七年(1932年)に退官。退官後も講師として勤務。このように後進の指導をしながら、敬虔なクリスチャンとして、毎週日曜日、東京の本郷中央会堂(現・日本基督教団本郷中央教会)でオルガンを弾き、聖歌隊の合唱指導を欠かしませんでした。それは、四十二年間におよびました。
  ・昭和十六年(1941年)十一月、姉の夫の小野田元が亡くなりました。風邪をおして葬儀委員長を務めましたが、肺炎を併発し、同年十二月二十九日に日大附属病院で亡くなりました。享年六十三歳でした。 以上は、岡村茂・鈴木恵一監修『日本のふるさと 岡野貞一 田村虎蔵 名曲のしおり』(鳥取市、昭和六十二年発行)を参考にしました。

  【小野田元について】
 その名は、岡野貞一の姉の夫として必ず紹介されますが、ほとんど知られていません。『岡山教会百年史下巻』の「岡山教会教職一覧表」の歴代牧師・副牧師・伝道師一覧表には載っていません。無牧中教務及講壇応援の欄に小野田元の名があります。「小野田元 在住年月/大十一年(1922年)十一月~大十二年(1923年)八月 教務援助」と書いてあります。

 【『東京藝術大学百年史』の岡野貞一の略歴】
 『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第二巻』(音楽之友社)の日本人教師1321ページには次のように書いてあります。

  岡野貞一(おかの ていいち)
  鳥取県士族
  ・明治十一年(1878年)二月十六日 鳥取県邑美郡古市村生。
  (註)正確には、明治十一年(1878年)二月十六日、鳥取県邑美郡美保村大字古市(現・鳥取市古市)で、長男として生まれました。士族の血を引く家柄でしたが、生まれた当時、父には定職がなく幼い頃に吉方町の小さな家に移り住み、質素な生活をしました。

  <「鳥取県邑美郡美保村大字古市」について>
 岡野が生まれた邑美郡の名は明治二十九年に消滅した。明治二十九年から昭和八年(鳥取市に編入)の間、岩美郡美保村であった。明治二十九年新設の岩美郡の名は現在まで続いている。

  ・明治十六年(1883年)十月 因幡国公立吉方小学校に入学。
  ・明治二十年(1887年)六月 同校尋常科卒業。七月 鳥取県邑美法美岩井三郡高等小学校に入学。
  ・明治二十四年(1891年)三月 同校卒業。
  ・明治二十五年(1892年)十月二日~同二十六年(1893年)二月二十五日 鳥取県人 今岡直織につき漢学修業。
  ・明治二十六年(1893年)四月十日 岡山市私立薇陽学院に入学。
  ・明治二十八年(1895年)六月 同学院退学。
  ・明治二十九年(1896年)九月十一日 高等師範学校附属音楽学校予科入学。
  ・明治三十年(1897年)七月 同校予科修了。九月十一日 同校本科入学。
  ・明治三十三年(1900年)七月 同校本科卒業。九月十七日 同校研究科入学。 授業補助を命ぜられる。
  ・明治三十七年(1904年)三月三十一日 唱歌の授業嘱託。
  ・明治三十八年(1905年)一月三十一日 唱歌の授業嘱託。
  ・明治三十九年(1906年)十月十九日 任東京音楽学校助教授。

  <参考 校名変遷>
  ・明治12年 文部省音楽取調掛
  ・明治20年10月4日 東京音楽学校
  ・明治26年9月11日 高等師範学校附属音楽学校
  ・明治32年4月4日 東京音楽学校
  ・昭和24年5月31日 東京藝術大学音楽学部

  ・明治四十年(1907年)七月十六日 明治四十年開校の師範学校中学校高等女学校教員等夏期講習会講師補助を命ぜられる。九月十八日 明治四十年開設の師範学校中学校高等女学校教員等夏期講習会講師補助。九月十三日 唱歌編纂員を命ぜられる。
  ・明治四十三年(1910年)六月九日 明治四十三年度第二回師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。六月二十二日 明治四十四年度第二回師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。
  ・大正元年(1912年)九月三十日 明治四十五年度第二回師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。
  ・大正二年(1913年)九月十六日 大正二年度第二回師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。
  ・大正三年(1914年)六月二十三日 大正三年度第二回師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。
  ・大正四年(1915年)六月二十二日 大正四年度第二回師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。十一月十日 大礼記念賞を受ける。
  ・大正六年(1917年)六月 大正六年度師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。
  ・大正七年(1918年)十月十日 大正七年度師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。十二月十七日 小学校唱歌作曲委員嘱託。
  ・大正九年(1920年)七月六日 大正九年度師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。
  ・大正十年(1921年)五月十六日 教員検定委員会臨時委員。七月十四日 師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。十月二十五日 文部省視学委員。神奈川県へ出張。
  ・大正十一年(1922年)四月二十六日 教員検定委員会臨時委員。
  ・大正十二年(1923年)四月三十日 教員検定委員会臨時委員。六月二十五日 任東京音楽学校教授。
  ・大正十三年(1924年)五月十九日 教員検定委員会臨時委員。
  ・大正十四年(1925年)四月二十七日 教員検定委員会臨時委員。
  ・大正十五年(1926年)三月二十四日 教員検定委員会臨時委員。
  ・昭和二年(1927年)三月二十五日 教員検定委員会臨時委員。
  ・昭和三年(1928年)三月三十日 教員検定委員会臨時委員。五月十一日 生徒監事務取扱。十二月二十日 兼任東京音楽学校生徒主事。
  ・昭和四年(1929年)三月一日 教員検定委員会臨時委員。
  ・昭和五年(1930年)一月八日 管絃楽部員を命ぜられる。
  ・昭和七年(1932年)二月八日 依願免本官並兼官。東京音楽学校教務嘱託。八月八日 東京音楽学校教務嘱託を解かれる。東京音楽学校講師嘱託。

 【岡野貞一の美しい曲】
 岡野貞一が作曲した『故郷』は、吉方町に移り住んだ幼い頃、源太夫山に登って遊んだり、袋川で釣りをした記憶に望郷を覚えて、曲想を練ったのではないかといわれています。
 そして、讃美歌の影響を受けた三拍子の整ったメロディーが誕生しました。オルガンの伴奏で聴くと、大変美しい曲です。

 【岡野貞一も帰郷した】
 東京音楽学校教授になった翌年の大正十三年に一度だけ故郷に帰っています。十五歳で鳥取を離れて以来のことでした。それは、鳥取高等女学校の校歌の作曲を依頼され、歌詞を読んでいるうちに少年時代のことが思い出され帰郷したくなったようです。作曲の打ち合わせも兼ねて、家族三人(夫人と長男を連れ)で帰郷しました。岡山経由で途中母親の墓参りや、姉夫婦に会ったりもしました。岡野の「忘れがたき故郷」「思ひいづる故郷」の鳥取では、久松山や砂丘など昔懐かしい場所をまわりました。砂丘では寝転んだり、裸足で歩いたりして大満足だったようです。それから東京に帰り、校歌の作曲にとりかかったのですが、自分でも驚くほどスラスラと曲が出来上がったそうです。
  以上の事は、『鳥取県 子どものための伝記 第二巻』(文・鈴木恵一 編著・鳥取県子どものための伝記刊行会)で知る事ができます。また、『鳥取県百傑伝』(昭和四十五年発行)155ページには「敬未亡人によれば、『主人は昭和十年頃に一度鳥取へ帰りました。』(略)」とあり、鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)12ページにも、この未亡人の談話が紹介されています。しかし、これは未亡人の記憶違いのようです。なぜなら、鳥取高等女学校(現・鳥取県立鳥取西高校)の校歌は、大正十三年に作られているからです。松下政蔵 作詞、岡野貞一 作曲/歌詞「ゆかり久しき久松の~」。

 【歌碑】
  ・平成三年四月二十六日、永田小学校校庭跡に高野辰之記念館が新築しました。
  (註)高野辰之記念館の住所 長野県中野市大字永江1809。

 高野辰之記念館の前、旧永田小学校の校庭の片隅に「開校百周年記念碑」『故郷』があります。著作権確認にともない、高野辰之を称えて昭和四十九年十一月十二日に建立しました。

 (註)永田小学校は明治七年五月に開設。昭和十六年四月一日に永田国民学校と改名。昭和二十二年四月一日に永田小学校と改名。昭和三十一年九月三十日に村の合併で豊田村立永田小学校と改名。昭和五十六年四月一日、二百五十メートルほど南へ新築移転。平成十七年四月一日に中野市と豊田村が合併したため中野市立永田小学校と改名。現在の住所 長野県中野市大字永江1824-4。

 碑のあるところは現在、永田社会体育運動場になっています。

 また、飯山市の<斑尾高原ホテル>敷地内の木立の中に、斑尾高原開発十周年を記念して歌碑『ふるさと』があります。

 岡野貞一の故郷の鳥取県立博物館に隣接した「久松公園」、そして山口県熊毛郡田布施町の「ふるさと詩情公園」にも、みんなの愛唱歌として歌碑が建てられています。


 ★鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)11ページには、<「故郷」の歌碑・山梨県内。右側のレリーフは建立者の肖像>の写真が掲載されていますが、音楽之友社では、「この歌碑については不明」との返事です(平成十六年二月二十四日)。立派な歌碑です。歌碑研究家は必見です。
 2014年7月28日、鳥取県の「わらべ館」から送られて来た『唱歌「ふるさと」100年の歩み』展示風景の写真の中に、今まで不明だった山梨県の「ふるさと」の歌碑がありました。問い合わせた所、山梨県笛吹市にある『青楓美術館』を紹介していただきました。次の事が判明しました。
  『青楓美術館』は、画家の津田青楓と親交のあった一宮町出身の歴史家、故・小池唯則が私費で昭和四十九年十月二十三日に開館。昭和五十九年に遺族から寄贈され、今では公営(町立だったが、合併により市立となった)の美術館として公開されています。
  津田青楓は、明治から昭和五十年代まで活躍した洋画・日本画家で、二科会の創立委員も務めた。夏目漱石との交流も深く、絵を教えたり、作品の装丁を手がけたりしていました。与謝野晶子など文壇の方々との交流があった。小池唯則は「ふるさと」の歌が好きで歌碑を建てました。右側のレリーフは、建立者・小池唯則の肖像です。場所は山梨県笛吹市一宮町北野呂3-1『青楓美術館』の庭にあります。


 だれでも知っている文部省唱歌ですが、わからない事が沢山あり調査に手間取りました。『朧月夜』も参照してください。

 これを利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記して ください。それはルールです。

 【レコード情報】 
 ビクターB692 収録曲「冬げしき」「おぼろ月夜」「われは海の子」「ふるさと」。 “学校ダンス”用となっていて、歌詞カードではなく振付が印刷されている。
  歌唱 全国児童生徒発声指導研究会(高津小学校児童)。この川崎市立高津小学校は、昭和29年度NHK全国唱歌ラジオコンクール優秀校(最優秀は東京都中野区立上高田小学校)。
 この情報とコピーは、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんからいただきました。ありがとうございました(2011年2月18日)。

 【プラシド・ドミンゴも歌った】
 平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災から一ヶ月後の四月、 世界三大テノールの一人といわれるプラシド・ドミンゴが来日し、コンサートの最後に歌ったのは「故郷」だった。ドミンゴは、次のようなメッセージを寄せています。
  「私は歌の力を信じています。人々が失ったものを歌で取り戻すことはできないかもしれませんが、悲しみを癒やすことはできるはずです。震災後、多くのコンサートが中止になったと聞いていましたが、日本に行く事が私の務めだと考えました。・・・被災し、大切な人を亡くした方々に心からお悔やみを申し上げます。・・・」2011年7月20日読売新聞掲載。
  歌によって元気をもらった人は多かったのではないでしょうか。復興は、みんなの願いです。
 

▲2011年4月に来日し公演。大震災の犠牲者追悼と復興への祈りを込めて
日本語で「故郷」を歌ったブラシド・ドミンゴ。寄付金もあった。

  【後記】
  2014年は、「故郷」が誕生して百年になります。「長期に渡って歌い継がれている」と思っている人が多いようですが、戦時中は教科書から削除され、歌われませんでした。『初等科音楽 四』国民学校初等科第六学年用(文部省)昭和十七年十二月発行には掲載されていません。
 戦時中は、満洲も日本の領土でした。満洲の教科書にも掲載されず、満洲の子どもたちが「故郷」を覚えて歌ったのは内地に引き揚げてからです。
 【満洲の唱歌教科書】参照。
 戦後、再び『六年生の音楽』(文部省)昭和二十二年発行に「ふるさと」が掲載され、広く全国で歌われました。
 また、著作権の問題も検討の余地があります。

 私は、国立音楽大学の夏季講習(合唱)講座で、「ふるさとの歌」を教えていただきました。「ふるさとの歌」に続いて「故郷」を歌うのです。指導された教授が、「古い曲も、新しい曲に生まれ変わる」と言われました。「ふるさとの歌」は、いろいろなバージョンがありますが、私の童謡の会では、以下の歌詞で歌っています。


 【著者より著作権についてのお願い】
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紅葉

作詞 高野辰之
作曲 岡野貞一
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2012/12/06)


 【初出】
  ・明治四十四年六月二十八日発行の『尋常小学唱歌』第二学年用(文部省)に掲載されました。

 【歌詞について】
 音数律は最後の行(七・五)を除き、すべて(七・七)調。細分すれば一、二番とも(三・四・四・三)となっている。最後の二行「赤や~錦」は、都都逸(どどいつ)のリズム(七・七・七・五)で、近世小唄調といわれる江戸期以来の代表的な日本歌謡の律調でできている。

 一番は、秋の夕日に照らされて一段と色が鮮やかに映える山の紅葉が詠まれています。
 濃い紅葉も薄い紅葉も沢山ある中で、赤さが際立ってきれいに色をつけた楓や蔦は、対照的に松の緑を引き立てている。それを「松をいろどる」と詠んでいる。
 山全体を着物とみると、ふもとは着物の裾のような、色合の美しい模様に染まっている。「裾模様」は、訪問着の裾に描かれる模様のこと。昔は季節ごとに着る着物が決まっていて、それは裾模様で表していた。

 二番は、渓の流れに散って重なりながら流れる紅葉を詠んでいる。水の上でも赤や黄色の色さまざまに美しい錦織物のようだ。錦は、金糸・銀糸・色糸などで模様を織り出した絹の織物。
 昔から和歌などでは紅葉を錦に見立てる事が美の類型として確立していた。一番では「裾模様」、二番では「織る錦」と織物にみたてている。
 日本人が好きな年中行事には、春の桜を愛でる「お花見」と、紅葉を愛でる行楽の「紅葉狩り」がある。

 ●「散り浮く紅葉」散って浮いている紅葉。童謡や唱歌の指導者が自慢げに「散り浮く」の「散り」は、「チリ・ゴミ」の「チリ」ではありませんよ。などと、ふざける場面をしばしば見かけますが、「谷の流に散り浮く紅葉」が理解できない大人はいません。

  <紅葉> 秋になると落葉樹の葉が赤や黄色に色づきます。赤くなるのはアントシアン、黄色になるのはカロテノイドという色素によるものです。カエデの仲間の紅葉は特に美しく、野山の秋をかざります。日本には、紅葉の代名詞、カエデの仲間だけでも約三十種が生育しています。紅葉がはじまるのは、北や山地ほど早く、しだいに南や平地に下がります。

 <イロハモミジ>ムクロジ科(別名イロハカエデ・カエデ科) 真っ赤に色づくカエデの代表種で、見る機会が最も多い。葉は小さく、縁にぎざぎざした不ぞろいな重鋸歯(鋸歯のなかに鋸歯がある)が並ぶ。幼児の手をモミジにたとえるが、裂片は五個か七個で、七個が多い。裂けた葉先を「イロハニホヘト」と数えて遊んだのが名の由来。

 <ツタ>ブドウ科 つる性で木の幹や岩にはりついてのびる。秋には真っ赤に染まって「つた紅葉」と讃えられる。


 【モデルの地】
 全国どこにでもある紅葉の風景です。文部省唱歌は全国の子どもが歌うために作られたので、歌う時、モデルの地にこだわる必要はありません。
 作詞者とされる高野辰之は、長野県の出身なので、長野県の山々や、東京からの帰郷の時に見た軽井沢の碓氷峠(うすいとうげ)あたりとも言われています。
 具体的には信越本線の熊ノ平駅からの眺めとする説があります。路線は明治二十六年に開通。熊ノ平駅は碓氷峠のある軽井沢駅から横川駅の間にあった。軽井沢から横川間に給水と給炭および上下列車すれ違い退避などを目的に明治三十九年に新設された駅だった。駅設置の目的上、必ず長い停車時間があった。高野辰之は、この眺めを詞にしたという。鉄道の気配が感じられないので、「ゴットンゴットン」とゆっくり走るアプト式鉄道(線路の真ん中に歯型のレールを敷き、機関車がそれを噛みながら登坂する)の車窓から眺めた紅葉の景色ではなさそうだ。
 昭和三十八年に碓氷峠に新しい線が開通、熊ノ平駅はその後の複線化や電化、運転方式の見直しなどによって役目を終え、昭和四十一年に廃止された。横川・軽井沢間の路線は平成九年の長野新幹線開通とともに廃止された。碓氷峠は西條八十の「ぼくの帽子」にも歌われている。

 【曲について】
 へ長調(F Dur)、四分の四拍子、二部形式で作られている。
 初出は斉唱でした。現在は小学校四年生の教科書に平仮名で「もみじ」のタイトルで掲載されています。中野義見が輪唱のように編曲した二重唱で歌われています。この中野義見の編曲は、紅葉が重なり合うようすを輪唱のようにしたところが見事です。低音部は覚えやすい旋律になっている。

▲「新しい音楽 4」(東京書籍)昭和63年発行
 中野義見 編曲の「もみじ」二部合唱になっている。

 【教科書掲載、その後】
  ・昭和七年発行の『新訂 尋常小学唱歌』第二学年用(文部省)には「紅葉」のタイトルで掲載されています。
  ・昭和十六年発行の『うたのほん下』国民学校第二学年用(文部省)には、掲載されていません。
  ・昭和二十二年発行の『二年生の音楽』『三年生の音楽』『四年生の音楽』(文部省)には掲載されていません。
  ・タイトルは平仮名で「もみじ」となり、昭和三十三年、四十三年、小学校音楽共通教材(歌唱)第三学年用に選ばれました。
 昭和三十年発行の『三年生の音楽』(教育芸術社)には、簡易伴奏の楽譜が掲載され、「文部省唱歌より」と書かれています。
  ・タイトルは平仮名で「もみじ」で、昭和五十二年、平成元年、平成十一年、小学校音楽共通教材(歌唱)第四学年用に選ばれました。

 【「紅葉」の作者名の銘記について】
 「故郷」を参照してください。

 【高野辰之の略歴】参照

 【岡野貞一の略歴】参照

 【歌碑】
高野辰之
記念館
▲高野辰之記念館前庭 (松野和代さん撮影) ▲長野市篠ノ井茶臼山
恐竜公園「童謡の森」

 【西條八十「ぼくの帽子」】
 西條八十の「ぼくの帽子」は、森村誠一の推理小説『人間の証明』で、親子の情愛を示す重要なモチーフとして使われたことから広く知られるようになったが、この小説以前から、「ぼくの帽子」は西條八十の代表作として有名だった。
 詩には「碓氷(うすゐ)から霧積(きりつみ)へゆくみちで、」という文がある。息子の西條八束によると、 “私が病身だったので、毎年貸別荘を借りて行った。父は軽井沢はあまり好きでなく、夏の間、時々来ては数日だけ滞在した。しかし、その間に霧積温泉まで父が歩いて行ったとは、とても思えない。霧積付近の山道の事など、誰かから聞いたのではなかろうか。祖父の死後、祖母がまだ盲目になる以前に、父は祖母と二人で伊豆の温泉に行ったことがある。その際、祖母が自然の山野に出ると、すっかり生き生きとして、そこらの草や花の名前などを片っ端から父に教えてくれたことを、驚きと深い感激を持って書いている。おそらく父が祖母とそのような自然界へ出た経験はほとんどなかったと考えられるから、この詩も父が、その時の事を思い浮かべながら書いたものと想像される。父は驚くほどイマジネーションが豊かであったから、そのような経験をもとに詩を書くのは何でもなかったであろう。”
 麦稈帽子について西條八十は、子供の頃の思い出を書いた文章の中で「父が経済的に特に厳格な人だったため、夏になって麦稈帽子を買ってもらう事も、できなかった」という。
 息子の西條八束は、 “これが思い出として父の心の中にあって、無くした麦稈帽子を惜しむ気持ちという形で、このような詩になったと考えられる”
   (参考) 西條八束著 西條八峯編『父・西條八十の横顔』(風媒社)。

 <初出>

  ・大正十一年(1922年)二月号の『コドモノクニ』に発表。
  ・第三連「骨打(ほねを)つて」は誤植。「骨折つて」が正しい。

 <詩について>
  ・「僕」が「母さん」に呼びかける形式の童謡です。「母さん、」という呼びかけが感動を呼びます。
  ・「です」「ます」調のバラード。
  ・「碓氷」は長野県北佐久郡軽井沢町と群馬県安中市松井田町(平成十八年、碓氷郡松井田町は安中市と合併)との境にある峠。
  ・「霧積」は松井田町にある霧積温泉付近の高原。
  ・「薬売」は越中富山の薬売のこと。
  ・「車百合」はユリ科。オレンジ色の花が夏の高原を彩る。(七から八月。三十から七十センチ。亜高山帯から高山帯)。
 
 ●挿絵の伊藤孝は白いユリを描いている。これは「車百合」ではない。

  ・「以太利麥(いたりあむぎ)」イタリア産の麦わらのこと。
  ・「Y・S(わい・えす)」は「僕」西條八十のイニシャル。
 
(ページ折れで見えない部分は) けれど、たうとう駄目だった。
                     なにしろ深い谿で、それに草が 

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