HOME -> 人物・氏族データ -> な行 -> 根城南部氏(遠野南部氏)(八戸氏)
1189年の奥州合戦での戦功により南部光行が陸奥国糠部郡の地頭職を賜り、光行の三男の波木井実長が糠部郡の八戸を受け継いだとされるが、これらは史料的に疑問視されている。八戸の所領と居城が確実に確認できるのは南部師行の頃からで、実質的には師行が根城南部氏(八戸氏)の祖ともされている。
城名 | 概略 |
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中山構館 | 1332年に奥州へ下向した南部師行がまず始めに居住した場所と伝わるが、ここに居たのは短期間で、後に八戸郷の工藤氏の館(後の根城)を改築して移り住んだとされている。 |
根城 | 1332年に4代目の南部師行が築いたとされるが、実際は元々あった工藤氏の城を師行が増改築して利用したと考証されている。22代目直義の頃まで根城南部氏代々の居城となる。 |
鍋倉城 | 遠野移封を命じられた南部直義が阿曽沼氏の山城を利用して整備し、以後は遠野南部氏代々の居城となった。ただ、当主は南部藩の家老という立場上、盛岡に居ることが多かった。 |
姓 | 居城 | 概略 |
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新田氏 (新井田氏) |
新田城 鍋倉城 |
一門衆。南部政長の次男の政持が新井田郷を領して新田氏を称したのが始まり。根城南部氏の一族の筆頭であり、本家に跡取りが居ない場合は新田氏から養子を迎えるのが常だった。 |
中館氏 | 中館 鍋倉城 |
一門衆。南部政長の三男の信助が中館を領して中館氏を称したのが始まり。 |
七戸氏 (七戸南部氏) |
七戸城 | 一門衆。兄の子へ根城南部氏の家督を譲って七戸郷へ隠居した南部政光が始まりで、政光の子孫は七戸氏を称した。 |
沢里氏 | 根城 鍋倉城 |
一門衆。元は工藤氏一族の横溝氏の傍流とされ、後に南部長安の三男の信治の子孫が養子に入り、根城南部氏の一族となったという。 |
岡前氏 | 根城 | 一門衆。南部長安の三男の信治の子孫。 |
蛎崎氏 (武田氏) |
蛎崎城 | 一門衆。南部氏一族の武田信義が蛎崎に移り住み蛎崎氏を称したのが始まり。1448年には蛎崎信純が「蛎崎蔵人の乱」を起こして南部政経に討伐され、一族郎党を連れて蝦夷島へと逃れた。南部氏は同族の甲斐武田氏としているが、松前氏の資料では若狭武田氏の一族だとしている。 |
田中氏 | ? | 一門衆。南部光経の庶子の光清が田中氏を称したのが始まりとされる。田中光親は「蛎崎蔵人の乱」の平定で活躍したという。。 |
赤星氏 | 田名部館 | 南部氏家臣。田名部の領主。赤星五郎は南部師行の命により田名部を領したという。1448年の「蛎崎蔵人の乱」では、蛎崎蔵人によって赤星修理が謀殺されている。。 |
西沢氏 | ? | 南部氏家臣。1367年に波木井の南部氏居城で行われた祝宴で西沢平馬は年男を勤めたが、宴の最中に敵襲を受け、平馬は年男の衣装鎧のまま出陣して敵を撃退したという。西沢氏は代々根城南部家の重臣を勤め、1411年の秋田征伐や1456年の「蠣崎蔵人の乱」の平定などで活躍している。 |
工藤氏 | 尻内館 | 南部氏家臣。北条氏の被官として糠部郡の郷里へ地頭代として派遣された工藤祐経の子孫と一族で、南部氏以前の八戸の領主だったとも伝わる。1321年の「安藤の乱」が発生した頃の惣領は工藤貞祐で、糠部郡各地の工藤氏一族や縁者(南部氏など)を率いて乱を平定した。鎌倉幕府の滅亡後に所領を没収され、南北朝時代に根城南部氏が台頭するとその家臣となったという。 |
福田氏 | 福田館 | 南部氏家臣。福田の領主。工藤氏一門で、南北朝時代に南部氏の家臣となったという。 |
葛巻氏 | 是川上館 | 南部氏家臣。葛巻の領主。工藤氏一門で、南北朝時代に南部氏の家臣となったという。 |
三上氏 | ? | 南部氏家臣。南部氏祖の光行の代から使える南部四天王の三上氏一族で、三上長冨の庶子が南部師行に従い奥州へ移り住んだのが始まりという。一族は代々根城南部家の重臣を勤め、1411年の秋田征伐などで活躍している。『東北太平記』には三上筑前が登場するが、損な役回りが多い。 |
福士氏 (富士氏) |
鍋倉城 | 南部氏家臣。甲斐国福士郷、または浅間神社神官の富士氏を発祥とする。福士長忠の庶子が南部師行に従って甲斐国から奥州へ移り住んだのが始まりという。三管領(三家老)の一人。1448年の「蛎崎蔵人の乱」では福士長高が南部政経の軍師を務め、江戸時代に子孫の福士長俊がこの時記録を元にして軍記物語の『東北太平記』を創ったという。 |
類家氏 | 類家館 | 南部氏家臣。類家の領主。一族は代々根城南部家の重臣を勤め、1411年の秋田征伐などで活躍している。 |
楢館氏 | 楢館 | 南部氏家臣。楢館の領主。楢館左衛門の名が伝わる。子孫には楢山氏もいる。 |