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鍋倉城 なべくらじょう

別名
横田城、遠野城
時代
安土桃山時代~江戸時代
分類
中世山城
規模
面積:東西400m×南北300m、標高:343.9m、比高:約80m
現状
鍋倉公園
場所
岩手県遠野市遠野町
最終訪城日
2010年10月31日

天正年間に阿曽沼広郷によって築かれた山城で阿曽沼氏の代々の居城となった場所。近世には遠野南部氏(根城南部氏)の代々の居城となった。今は鍋倉公園として整備されている。

城史

年代 出来事
1573~1592年 横田城を居城としていた阿曽沼広郷は、猿ヶ石川の氾濫による城下の被害に度々悩まされていたため、鍋倉山に新たに城を築いて居城を移した。阿曽沼氏はこの新しい城も今までの旧城同様に横田城と呼んだという。
1600年 阿曽沼広長は南部氏に従い出羽国の最上へと出兵していたが、その間に遠野では鱒沢広勝らが謀反を起こして火渡氏等の阿曽沼氏の忠臣を討ち取っており、広長が戻った頃には城は敵の手に落ち、遠野郷は既に謀反勢によって制圧されていた。このため広長は妻の実家である世田米へと身を寄せるしかなかったという。
1601年 阿曽沼広長は気仙の領主や葛西氏残党、そして伊達氏の援助を受けて遠野奪還へ向かうが、3月の平田坂の戦い、9月の遠野城の戦い、11月の樺坂の戦いでも結局勝利を収めることはできず、無念のまま世田米で生涯を終えたという。
1602年 遠野郷から阿曽沼氏を排除した南部氏は、阿曽沼氏から寝返った上野広吉を阿曽沼氏の旧城の城代に命じた。
1615~1625年 上野広吉が病死したため、新たな城代として毛馬内三左衛門が移された。
1627年 仙台藩との境界としての重要性から根城南部氏の南部直義が八戸より遠野へ移され、直義はこの城を改修して鍋倉城と称し、遠野南部氏代々の居城としたという。この時、新たに城下町も整備されたという。
1869年 「戊辰戦争」で奥羽越列藩同盟軍が敗北したことにより、同盟軍の南部氏は白石へと転封され、遠野南部氏の居城も同時に廃城となった。

縄張り

城は遠野盆地南部の鍋倉山の上に築かれており、山頂に本丸、中腹南部に二の丸、東部に三の丸が設けられている。山の斜面には横堀も造られており、本丸と二の丸の間は堀切(割堀)となっている。また、一部の横堀は水を貯めていたようである(水溜堀)。

【本丸】
鍋倉山の山頂は本丸となっており、東側に本丸御殿、西側に八幡神社があったが、今は郭を囲む土塁の一部が残っているだけとなっている。大手口は北側にあり、城主が利用した本丸御殿の玄関へ直接繋がる道と、藩士が日常利用した道とに分かれている。搦手口は南側にあり二の丸へと抜ける堀切に繋がっている。

【二の丸】
鍋倉山の中腹南側に二の丸があり、ここには遠野南部氏一門筆頭の新田氏の屋敷があった。現在は何も残っておらず、1973年に大慈寺から移された南部家の墓所となっている。二の丸の虎口は車道が造られて大部分が削られて消失している。

【三の丸】
鍋倉山の中腹東側に三の丸があり、ここには遠野南部氏重臣の中舘氏や福田氏の屋敷があった。現在は一部の土塁しか残っておらず、庭園風に整備されている。また、郭の端には模擬櫓風の展望台が造られている。

【展望台】(模擬櫓)
三の丸の端には模擬櫓風の展望台が造られており、ここからは城下町や遠野盆地が一望できる。また、櫓内に入ると自動で解説アナウンスが始まる。なお、展望台は冬季は閉鎖される。

【横堀】
山の中腹には横堀が造られており、特に本丸直下や二の丸の西側に顕著に確認できる。一部の堀は水を貯めて「水溜堀」と呼ばれていたそうだが、残念ながら水溜堀の正確な位置は確認できなかった。

関連施設

【遠野市立博物館】
遠野の歴史や文化について展示している博物館。図書館に併設。
<開館時間>9:00~17:00(入館は16:30迄)
<休館日>毎月月末、月曜日(11月~3月)
<入館料>310円(高校生:210円、中学生以下150円)
<駐車場>図書館側にあり
<場所>岩手県遠野市東舘町3-9

【遠野城下町資料館】
城下町および南部氏に関係する物品を展示している資料館。
<開館時間>9:00~17:00(入館は16:30迄)
<休館日>年末年始
<入館料>310円(高校生:210円、中学生以下150円)
<駐車場>遠野むかし話村:1時間まで150円、以後+70円/時
<場所>岩手県遠野市中央通り4-6

アクセス

注意

関連リンク情報