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赤星五郎によって築かれ、赤星氏の代々の居城となったが、「蛎崎蔵人の乱」後は新田氏が城主となった。江戸時代には南部藩の代官所が置かれた。現在は代官山公園となっている。
年代 | 出来事 |
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1334年頃 | 陸奥国代となった南部師行は、宇曾利郷の領主の安東元親殺しの罪で謀反人の新井常安を討伐し、武田修理と赤星五郎を宇曾利郷の目代に命じて管理させた。この時、赤星五郎は田名部に城を築いて居城としたという。 |
1348年 | 護良親王の遺児の良尹王が南部信政の招きで宇曾利郷へと下向し、順法寺城を修繕して居城としたという。この時、赤星氏は武田氏と共に良尹王の家臣扱いとなったという。 |
1448年 | 義純王は家臣の蛎崎蔵人に招かれた船の上での宴で溺死し、赤星氏も巻き込まれて溺死したため滅亡したという。この事件以降の南部氏と蛎崎氏の戦いは「蛎崎蔵人の乱」と呼ばれることになる。 |
1455年 | 「蛎崎蔵人の乱」は当初南部氏が諸所の事情で兵を動かせなかったことが災いし、蛎崎軍とそれに味方する安東軍等に七戸まで攻め込まれる事態に陥ったが、南部政経は準備を整えて反撃に転じ、ついに蛎崎城を攻め落として乱を平定した。 |
1457年 | 宇曾利郷は根城南部氏の直轄領となり、南部政経の命で新田盛政が田名部館に移されたという。 |
1573~92年頃 | 南部氏家臣の安宅右近が田名部館に入り、450石でこの地を治めていた。 |
1627年 | 根城南部氏の遠野移封により、田名部の地が根城南部氏から三戸南部氏へ明け渡される。 |
1635年 | 南部氏の家臣となった菊池正義の子の正興は、南部氏の命で田名部館に移り住んだという。 |
1661~71年 | 田名部館は代官所として整備され、代官が置かれたという。(代官所は1627年、1634年開設説もあり) |
1872年 | 代官所は破却され、残った建物を利用して学校(後の田名部小学校の前身)が開設されたという。正確な時期は不明だが、その後の学校の変遷や大火で当時の建物は全て失われたという。 |
城は小川右岸の丘陵地帯の堀切によって切り離された東端部に築かれており、土塁に囲まれた単郭の城館のように思われるが、現在は代官山公園となっており郭内の遺構は定かではない。