
米ヶ崎城 よねがさきじょう
築城年代は不詳だが浜田氏家臣の及川氏の居城で、後に浜田広綱の居城となった。現在は南部が神社と雑木林と畑で、北部は住宅地となる。▼遺構や見所
■ 本丸上段(米崎八幡神社) ■
海に突き出た半島の末端部が本丸で、本丸内の最も高い場所に八幡神社が祀られている。この部分には当時は櫓があったと考えられている。
■ 本丸下段 ■
本丸の低い場所は神社のある場所よりも広い削平地になっており、何らかの施設があったと思われる。
■ 本丸腰郭 ■
本丸北側の一段低い場所は恐らく桝形虎口に近い用途の腰郭だと思われ、道はここで折れ曲げられている。現在は多少藪と化しているが紫陽花が沢山植えられている。
■ 二の丸 ■
本丸から堀切を隔てて内陸側にある広い郭で、浜田氏の居館はここにあったとされる。現在は畑になっており、北側の松の根本に浜田広綱と大和田掃部の墓碑がある。
■ 堀切? ■
三の郭の北と南は堀切のような地形で他の郭と切断されているが、堀切にしては幅が広すぎるため、ここも郭として使用されていたのかもしれない。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 中世築城については詳細不明だが、及川氏の居城と伝わる。及川氏
- 1560年?浜田広綱は及川氏の居城だった米ヶ崎城を接収し、改修を加えて新たな居城とした。これに伴い及川氏は蛇ヶ崎城へと移された。浜田広綱
- 1590年7月奥州仕置で葛西氏が没落したため、家臣である浜田氏を始めとする千葉氏一族も所領を失った。そして、気仙郡などの旧葛西領のほとんどが木村吉清の所領となった。木村氏の持城
- 1590年10月木村氏の圧政に対する抗議を発端とした「葛西大崎一揆」が起こり、一揆軍に各地の城が占領されるが、この時の気仙郡の状況は定かでない。木村氏の持城
- 1591年8月「葛西大崎一揆」は伊達氏や蒲生氏の軍勢によって鎮圧され、木村氏は改易処分となり、旧葛西領は伊達政宗に与えられることになった。伊達氏の持城
- 1615年仙台藩の要害や在所等にも見られないため、幕府の命に従い廃城となったと思われる。仙台藩
▼詳細情報
最終訪城日 | 2017年7月16日 |
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別名 | 島崎城 |
前身 | - |
普請開始 | 中世 |
築城完了 | 中世 |
築城者 (設計者) | 千葉氏一族? |
分類 | 連郭式中世平山城(海城) |
規模 | 東西500m×南北500m |
標高 | 標高:25m、比高:約22m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 空堀、堀切、土橋、土塁、郭跡 |
標柱・説明板 | - |
現状 | 米崎八幡神社、畑、雑木林、住宅地 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 岩手県陸前高田市米崎町字館 |