オタク道補論・妄想の二つの原理

0 はじめに

 拙稿「オタク道」において示した我々の基本前提は、オタクは妄想という観点から解されるべきである、というものであった。すなわち、妄想行為こそがオタクの核心である。
 ここで、妄想の具体的内実が問題となる。この主題については「萌えの主観説」を中心に、いくつかの論考で暫定的に考察しておいた。
 本稿は、これら一連の論考を総括することを試みるものである。

1 問題の確認

 妄想とは、オリジナルの物語のコンテクストを離れ、別のコンテクストに置かれた場合、当該のキャラクターがどのような振る舞いを見せるのか、ということをシミュレートすることである。
 この妄想には、基本的な二つの方向があると思われる。それを、「萌え」と「燃え」と名づけたい。ただし、妄想すなわちオタク的存在様式が「萌え」と「燃え」だけで語り尽くしうる、と主張するものではないことを付言しておく。どちらにも入らない妄想もありうる。
 「萌え」という言葉は多用されている。ここまで多用される、ということは、何がしかオタクの本質を衝いているからであろう。しかし、その意味は曖昧のままにとどまっている。まずは、「萌え」の内実を確定しなければならない。
 一方、「燃え」という言葉はそれほど用語として浸透しているわけではない。しかし、これを考えることにより、「萌え」だけでは見えてこない妄想の存在性格が見えてくる。すなわち、次いで、この「燃え」概念を、「萌え」の対抗概念として、鍛え上げねばならない。
 まず、「萌え」と「燃え」に共通する構造を明らかにしておこう。両者とも、妄想の対象となるキャラクターを肯定的に評価する、というオタクの態度を表現する語である。
 これらの語は、キャラだけではなく、属性や作品についても使われる。しかし、「オタク道」で論じたように、そのような使用法は転用であり、派生的な意味であると考えられる。少なくとも「萌え」は、第一義的には、キャラに対して使用されるべき語である。「萌え」妄想はキャラを軸に展開されるのだから、これは当然のことと言える。
 さて、問題は、「萌え」と「燃え」の差異である。
 これまた「オタク道」で論じたことであるが、妄想を行うためには、キャラ立て読解が要請される。結論から述べるならば、キャラ立て読解の際の方法の差異が、「萌え」と「燃え」の差異を生み出している。

2 萌えとはなにか

 以下は、「萌えの主観説」の議論を発展させたものである。
 「萌え」とは、キャラについて、エピソード単位でキャラ立て読解を行う形式の妄想における、評価語である。
 ある作品について、その全体を貫く大きな物語の流れをストーリーと呼ぼう。そのストーリーを構成する、より短い出来事についての記述を、エピソードと呼ぼう。
 萌えに導かれたキャラ立て読解は、物語のストーリーを、エピソード単位に分解したうえで行われるのである。
 逆に言えば、ストーリーの大きな流れ、物語の主題、思想などは、徹底的に無視される。このような形式での妄想を誘うようなキャラについて、「萌える」と形容するわけだ。
 「萌え」とは作品をキャラ中心に読む、というオタクの解釈態度と切り離せないものである。このことを、「萌えは主観的である」と表現することもできよう。つまり、具体的なキャラの名前を並べて「萌え」とはなにかを定義することなど不可能である。

3 燃えとはなにか

 以下も、「萌えの主観説」の議論を大幅に発展させたものである。
 「燃え」は「萌え」とは異なる。
 「萌え」の場合には、妄想に際して、キャラだけが問題になる。この意味で、「萌え」は純粋である。一方、「燃え」には、別の観点が入る。キャラ立て読解の前に、作品そのものが「燃え」の理念を具現しているかどうか、が判定されねばならない。そして、「燃え」の理念を満たしている作品にのみ、妄想が行われる。これが「燃え」である。
 すなわち、キャラ「燃え」には、必ず作品「燃え」が随伴する。燃える作品のキャラのみが、燃えキャラでありうる。
 これが、「燃え」の論理である。

4 「萌え」と「燃え」

 以上の対比から、「萌え」と「燃え」の様々な差異が説明されてくる。
 どんな駄作であっても、そこに萌えキャラを見出すことは原理的に可能である。作品そのものの評価と、キャラの萌え度は別であるから。
 しかるに、駄作に燃えキャラは存在しえない。作品全体に燃えるところがなければ、いくら個別のカッコいいシーンを積み重ねても、燃えはしない。どんな流麗なデザインのロボットも、腑抜けた作品のなかではその魅力を失う。逆に、どんなに珍妙で無骨なデザインのロボットでも、作品そのものが燃えていれば、肯定的に評価される可能性がある。キャラ燃えは、作品の燃えを必要条件として要求するのだ。
 ここから、さしあたり以下のような帰結が導かれる。
 第一に、オタクの妄想という観点からすると、「萌え」のほうが「燃え」よりも純粋である。
 純粋である、というのは、優れている、という意味ではない。「燃え」は、キャラ立て読解だけではなく、作品そのものの評価という観点も必要とする。この意味で、純粋な妄想の発揮ではない。何らかの批評の契機が混入しているということだ。
 第二に、萌やすより、燃やすほうが難しい。
 これは当然であろう。「燃え」のほうが、多くを要求するのだから。駄作に終わっても「萌え」の可能性は残るが、「燃え」はそうはいかない。作品としての質が燃えに足りなければ、キャラ燃えもない。
 次いで、もう少し内実に立ち入って考えていこう。

5 作品の「燃え」評価

 「燃え」は、作品そのものの「燃え」評価を必要とする。では、作品の「燃え」評価とはどのように行われるのか。作品そのものが「燃え」の理念を具現しているかどうか、が判定基準となる、と先に述べておいた。では、「燃え」の理念とは何か。
 ここで指摘したいのは、「燃え」の理念は一つではない、ということだ。「燃え」の理念は、様々な具体的形態において現れる。例えば、以下のようなものだ。
 等身大ヒーローの「燃え」。スーパーロボットの「燃え」。怪獣の「燃え」。少年バトル漫画の「燃え」。さらには、もっと内容を限定されたものとして、仮面ライダーの「燃え」、ガンダムの「燃え」などが考えられる。各々のジャンルに対応して、各々の「燃え」があるわけだ。
 すなわち、「燃え」作品は、必ず「〜もの」というかたちで、あるジャンルに属すのである。
 そして、各々のジャンルには、そのジャンルであるかぎり、目指さねばならない理想のかたちがある。これを当該ジャンルの「燃え」の理念と呼んでいるわけだ。この「燃え」の理念にどれだけ近づいているかによって、その作品の「燃え」度が決まる。
 これは非常に重要である。別の角度からも述べよう。
 燃えるか燃えないか、を語るときには、必ず、その作品がどのジャンルに属しているのか、という判断が先行しなくてはならない。ただ単純に燃える、ということはありえない。燃えは、「この作品は等身大ヒーローものとして燃える」とか、「この作品はスーパーロボットものとして燃える」とか、「〜もの」という限定つきでのみ、成立するのである。
 「萌え」については事情はまったく異なる。先に強調したように、「萌え」は、そもそも作品全体への目配りを必要としない。ただキャラだけに着目すればよいのだ。「萌え」は、作品のジャンルについての判断を必要としない。どんなジャンルの作品であれ、「萌え」はまったく同様のものなのだ。

6 「燃え」とマニア性

 このような「燃え」の論理から、重要な「萌え」と「燃え」の差異が導かれる。
 「燃え」は、マニア的な態度に親和性をもつのである。ちなみに、マニアの定義は「オタク道」に準じている。
 「燃え」は、ある作品をジャンルのうちで評価する。つまり、的確な「燃え」評価を行うためには、ジャンルに通じていなければならない。個別の作品だけを見て、「燃え」を語ることはできないのだ。その作品が属する、「〜もの」というジャンル全体について一定の濃さがなければ、正しく燃えることはできないのだ。
 ここから、「燃え」については、評価するオタクの濃さの度合いの違いによって、作品の位置づけが決定的に異なってくる、という事態が導かれる。
 近年、これが典型的に現れたのは、仮面ライダーとガンダムである。いわゆる平成ライダーやら種ガンやらは、「仮面ライダー」もしくは「ガンダム」というジャンルに薄いオタクにとっては、面白い作品であったのかもしれない。しかし、「仮面ライダーについて濃いオタク」や「ガンダムについて濃いオタク」にとっては、生理的な拒否の対象にすらなってしまった。
 濃い連中の言い分は、「あれは仮面ライダーじゃない」「あれはガンダムじゃない」というものであった。つまり、仮面ライダーを名乗るならば、仮面ライダーとして燃えるものでなければならないのだ。ガンダムであれば、ガンダムとして燃えるものでなければならないのだ。この「仮面ライダーとして」「ガンダムとして」という価値基準が、この場合の「燃え」の理念、ということになる。
 「燃え」は厳しい。作品それだけを単独で見ればそれほど酷い出来でない場合でも、「仮面ライダーとして」「ガンダムとして」駄目であれば、もう完全に駄目、論外、失格である。薄い連中が、これらの作品を評価するのは、その理念を「奴らが判っていないから」ということになる。
 Gガンなどは面白い。最初は「ガンダムとして」受け取られ、燃えない、とされた。しかし、「スーパーロボットものとして」視聴すべきだ、と理解された瞬間、燃えあがったわけだ。「燃え」の理念の置き方によって、評価がひっくり返ることもあるのだ。作品自体の読みが濃くなければ、正しく「燃え」を語ることはできないわけだ。
 このように、「燃え」は濃さを要求する。濃さは、あるジャンルそのものを愛好する、というマニア的な態度から生まれる。「燃え」は、狭義のオタク的能力だけでなく、マニア的能力の発揮をも要求するのだ。
 ところが、「萌え」については、このようなことはない。
 あるキャラについて、適切に萌えるためには、その作品についての背景知識などはまったく必要ない。純粋にキャラ立て読解を遂行すればよい。綾波やらアスカやらに萌え萌え言うために、エヴァンゲリオンに散りばめられた引用の理解はまったく必要ない。プリズムコートをギャルゲーとして楽しむために、オタ小ネタの理解はまったく必要ない。背景知識は「萌え」には不要なのだ。
 しかし、たとえば『仮面ライダーSPIRITS』に燃えるためには、各シーンの細かい点について、どこがどこの引用なのか、ということをある程度理解できなければならないだろう。濃くなければ、燃えることはできないのだ。

7 おわりに

 まとめておこう。
 「萌え」は濃さを必要としない。レベルの高い「萌え」に必要なのは、濃さよりもセンスの鋭さである。作品の細部に着目し、そこから誰もが考えもしなかったようなキャラの萌えポイントを語ってみせること、これが高度な「萌え」妄想となろう。優れた「萌え」オタは、「萌え」とは一見無縁な作品にすら、萌えキャラを見出すのである。
 これは、「燃え」にはありえない。燃えキャラは、燃え作品にしか存在しないのである。そして、作品の「燃え」を判定するためには、ジャンルに特有の「燃え」の理念を理解していなければならない。こういうわけで、「燃え」には当該作品の属するジャンルへのマニアックな眼差しが不可欠となる。「燃え」には、センス以外にも知識の濃さが要求されるのだ。
 「萌え」は主観的であった。一方、「燃え」のほうは客観性ないしは共同主観性を志向する度合いが強い。これは、「燃え」が、「〜ものはこうあるべきだ」という規範的な理念にかかわること、また、作品そのものの正しい読解にかかわることによる。「萌え」ならば趣味の違いで片付くような意見の相違が、「燃え」では譲れない争点になりうるのだ。
 差異を強調しすぎた。少しバランスをとろう。これまでの「燃え」の解析では、作品ジャンルについての濃さを強調したが、キャラ立て読解のセンスの必要性も忘れてはならないだろう。「燃え」について、「萌え」との対比で、作品燃えの観点を強調した。しかし、「燃え」も最終的にはキャラ燃えに帰着しなければならない。ヒーローやスーパーロボットについて妄想するセンスを欠いた「燃え」オタクは、作品についての薀蓄をひけらかすばかりの退屈な人間に容易に堕落するだろう。これはあまり格好の良いものではない。
 ともあれ、このように、同じオタク的妄想行為の論理でありながら、「萌え」と「燃え」はかなり異なる。
 オタクを名乗るのであれば、この二種の論理の双方に通じていてほしいものである。近年の若年層には、「萌え」専門のオタクが散見されるようだ。これは残念なことだ。
 エロスとヴァイオレンスをバランスよく摂取しなければ、健やかに歪んでいくことはできないと思うのだが。

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