「萌え」の三つの用法

0 はじめに

 「萌え」とは何かについては、いろいろ論じてきた。
 「オタク道」。
 「エロゲーは本当にオタク文化なのか」。
 「萌えの主観説」。
 「オタク道補論・妄想の二つの原理」。
 このあたりである。
 本稿は、これまでの議論を前提したうえで、より具体的に「萌え」概念の内実について考察することを試みる。
 その際、着目するのは、以下の事実である。
 「萌え」概念には三つの基本的な用法がある。
 既存の「萌え」の定義の試みは、ほぼすべてがこの事情を把握し損ねている。それゆえに、どこか的外れなものになってしまっているのだ。
 三つの用法について順に考えていく。その際、用例はすべて森薫『エマ』から採った。

1 用法(イ)・キャラについての「萌え」

 用法の一つめは、物語内のキャラクターについて、「萌える」場合である。

用例(イ)「私はエマさんに萌える」。

 私は先に挙げた論考において、妄想という観点からこの機制を説明しておいた。
 オタクは、物語内のキャラについて、所与の物語には描かれざるありようを妄想する。このとき、ラヴやエロの情念が動因の妄想を強く誘うキャラについて、「萌える」と述べるわけだ。
 私見では、妄想の契機なくして「萌え」はない。「萌える」とは、妄想喚起性にそくしたキャラについての肯定的評価の一種である。
 ちなみに、一人のキャラでなく、複数のキャラのカップリングについて「萌え」と言う場合もあるが、応用として処理できるだろう。本稿では単数形だけで論じていく。

2 用法(ロ)・エピソードについての「萌え」

 用法の二つめは、物語内の特定のエピソードについて、「萌える」場合である。

用例(ロ)「私はエマさんがレースのハンカチを欲しがるところに萌える」。

 注意すべきは、この用法(ロ)は先に指摘した用法(イ)とは異なる、ということだ。
 妄想するためには、キャラ立て読解、という特殊な物語の読み方が必要である。これは、物語から、そのキャラがどんなキャラか、という本質を読み取る、ということだ。
 このとき、キャラの魅力を強く表現しているエピソードを、「萌える」という語で評価することがある。用法(ロ)はこれである。
 「レースのハンカチを欲しがる」エピソードは、エマというキャラの魅力をよい仕方で表現している。このエピソードのおかげで、エマというキャラは立つ。そして、エマというキャラが立っているからこそ、我々は用法(イ)の意味で「エマに萌える」ことができるわけだ。
 ここで基本原則を再確認しておこう。ここでの「萌え」は、特定のエピソードについて語られるものであるが、やはりつねに「そのエピソードを超えて妄想しうる」という観点が背後になければならない。
 用法(イ)の「キャラ萌え」を支えるようなエピソードを、同じ言葉の異なる用法(ロ)で「萌え」と表現する、というわけだ。
 これは、二次創作の評価についても当てはまる論理である。よい二次創作とは、用法(ロ)の意味で「萌える」ものでなければならない。すなわち、キャラの本質を表現できていなければならない。キャラの本質を把握していない二次創作は、エロかろうがどうだろうが、評価されることはないのである。

3 用法(ハ)・属性についての「萌え」

 用法の三つめは、キャラの属性について「萌える」場合である。

用例(ハ)「私はメイドに萌える」。

 この用法について重要なのは、これをたんに用法(イ)の全称量化と考えてはならない、ということだ。つまり、用例(ハ)を「私はすべてのメイドであるキャラに萌える」と翻訳してはならない。
 属性はキャラを分類するたんなる手段ではないからだ。
 ここで重要なのは、用法(ロ)である。キャラに萌えるためには、萌えるエピソードを読み取る作業が先行しなければならないのであった。これはすなわち、物語から適切に萌えるエピソードを切り出すことができなければならない、ということである。
 そして、属性とは、この「エピソードの切り出し方」の手がかりを与えてくれるものなのである。「妄想のための便利な道具」と言ってもよい。
 「メイド萌え」とは、「物語からメイドならではの萌えエピソードを切り出すことに優れている」ことを意味するのである。
 先の用例(ロ)が萌えエピソードであることを認知するためには、「メイドとは何か」がある程度わかっていなければならない。
 「レースのハンカチを欲しがる」エピソードは、たとえば「メイドの社会的経済的な地位と職業倫理」についてある程度の理解がなければ、その萌えのインパクトを正しく受け止めることができないものである。それができて初めて「メイド萌え」「メイド属性」を名乗ることができるのである。
 たんにその属性に分類できるキャラなら何にでも「萌え」と言ってしまうような輩には、その属性「萌え」を名乗ることは許されない。
 用法(ロ)の「エピソード萌え」における「物語のキャラ立て読解」のための「属性ごとに具体的な方法論」、これを体得した人間を「ある属性「萌え」」と表現するというわけだ。これが用法(ハ)である。
 つまり、「あるオタクが何々属性である」という表現は、そのオタクの「濃さ」や「深さ」がどこに向いているのかを示している、と解すべきなのである。
 ところで、何度か強調したが、私の理解では、キャラ萌えこそが萌えの核心であり、属性はあくまでキャラ萌えのための道具にすぎない。以上の議論は、別に濃くも深くもない属性のキャラについて萌えることを否定するものではない。当たり前の話であるが。
 また、余談になるが、『エマ』という作品は、これまでの「メイド萌え」の多くが実は「エプロンドレス萌え」でしかなかったこと、つまり、自称「メイド萌え」の多くが「メイドとは何か」をまったく理解せずにメイドっぽい服装のエロさだけに萌え萌え言っていたこと、これを図らずも喝破した点に歴史的重要性をもつことを付記しておく。

4 その他の用法について

 私の定式化によれば、「萌え」はつねに「物語内のキャラについて妄想する」という場面にそくして語られるものである。
 このとき、見かけ上の反例が想定できる。これを検討しておく。
 一点目。ある作品について、「萌え」と言う場合がある。「『エマ』という作品は萌える」というようなものだ。
 私はこれは、「『エマ』という作品には萌えキャラがいる」という用法(イ)の省略表現である、と考える。擬人化でもしないかぎり、作品そのものには萌えたり萌えなかったりはしないだろう。
 二点目。一枚絵のイラストについて、「萌え」と言う場合がある。また、一個のフィギュアについて、「萌え」と言う場合がある。これらはどう考えるべきか。
 私はここでも「キャラについての妄想」の契機がないかぎり、「萌え」という語はそぐわない、と考える。
 一枚絵のイラストないしは一個のフィギュアを、「あるキャラについての一エピソードを切り取ったもの」として解釈し、そのキャラについて妄想を行って初めて、ここに「萌え」と言う余地が生まれる。
 たんにそのイラストそのもの、フィギュアそのものを批評したり愛玩したりしているだけでは、「萌え」はけっして生まれない。「萌える」という語は、イラストのイラストとしての出来のよさ、フィギュアのフィギュアとしての出来のよさを語るものではないのである。あくまでそこに「物語」を読み込み、さらにそこから「萌えキャラ」を読み取る作業が不可欠なのである。
 「このイラストは萌える」「このフィギュアは萌える」といった表現は、「この作品は萌えキャラの萌えエピソードを表現している」という、用法(イ)および用法(ロ)の省略表現である、と分析すべきであろう。

5 おわりに

 基本的に「萌え」は趣味の言語である。
 趣味の言語というものは、趣味の実践のなかで学んでいかなくては、その意味を理解することは不可能である。明示的な定義を与えることは原理的に不可能といってもよい。
 しかし、昨今、的外れな「萌えの定義」があまりにも多く飛び交っている。さらには、レベルの低いオタクが「萌え」概念を濫用することで、言葉の意味に無用な混乱を引き起こしてもいる。ここで可能なかぎりの整理を試みたのは、この現状を憂慮してのことである。
 なかなか困難な作業であり、不備も多いかと思うが、本稿がよりよい「萌え」論のための一つの叩き台となれば幸いである。

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