さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
十八禁ゲーム、つまりエロゲーの話です。でも未成年者も大丈夫です。
エロゲーは、しばしば典型的なオタク文化として論じられる。エロゲーからオタクを語っていこう、という人は多い。しかし、私はこれに重大な疑念をもっている。
私見では、エロゲーの論理とオタクの論理は対立することがある。エロゲーだけからオタクを理解することはできないのだ。
本稿ではこれを論じたい。
ここで、萌えの論理と抜きの論理、という区分を導入してみよう。
いわゆるエロのジャンルを貫くのは、抜きの論理であると考えられる。抜きの論理は、キャラよりもシチュエーションを重視する。簡単なことだ。愛好するキャラが出ていても、脱いでいなければ抜けないのだ。逆に、好みのシチュエーションでエロっていれば、キャラが変わっても、まあ抜ける。これは、あらゆるエロに共通する構造である。このあたり、実写AVについてオタクでない人々が語り合っているところを観察していただくとよくわかる。キャラ(この場合は女優)を中心に語ることは、特殊なファン以外、あまりない。シチュエーションの好みのみが論題となっていることに気づくだろう。
それとは異なり、オタクの論理はキャラクターにたいする萌えである。(詳細は拙稿「オタク道」を参照されたい。)萌えの論理は、シチュエーションではなく、キャラに焦点を置く。逆に言えば、キャラがしっかり立っていて、萌えるものであれば、さしあたりシチュエーションの類種は問わない。シチュエーションのほうが従属的な位置に退くのである。
エロは、シチュエーション。萌えは、キャラ。このように分類できる。
萌えの論理と抜きの論理は区別されねばならない。しかし、これは、一つの作品に両者が共存することを妨げるものではもちろんない。
当然のことながら、同じエロシチュエーションであれば、萌えキャラがいたほうが、抜ける。これは確かだ。キャラに魅力があるにこしたことはない。当たり前のことだ。
逆に、萌えキャラがあったときに、エロいシチュエーションがあったほうが嬉しい、というのも人情である。
すなわち、萌えと抜きとは、基本的には相互に補完しうる。こういうわけで、多くのエロゲーは、萌えの論理と抜きの論理のハイブリッドで構成されている。
ところが、この理屈では上手くいくはずの相互補完関係が、実際には困った帰結をもたらすことがある。これが問題なのだ。
抜くことを主眼としたエロゲーがある。これを抜きエロゲーと呼ぼう。抜きエロゲーにおいては、抜きの効力をより高めるため、萌えの要素を追加することが行われている。エローいシチュエーションに、萌えを加えることにより、よりエロく、というものだ。
ここで、問題は、抜きエロゲーにおいて萌えの低レベル化が起こる、ということだ。抜きエロゲーでは、薄っぺらい、安っぽい、大量生産の、どこかでみたような、手垢のついた萌えが通用してしまう。浅薄なキャラづくりが許されてしまうのだ。
これは、ある意味仕方のないことかもしれない。抜きエロゲーはオタクメディアである前に、エロメディアなのだ。記号的な萌えキャラを抜きのためのスパイスとしてのみ使う、という戦略自体を批判することはできない。
しかし、ここから帰結する事態は深刻である。スパイスとしての安い萌えの大量摂取が、オタクたちの眼を腐らせるのだ。
そもそもキャラ立てにおける記号性は、抜きエロゲーにおいてのみ存在を許されるはずのものだ。スパイスとしての萌えはあくまでスパイスとしてしか機能しない。それだけで味わいを云々できるものではないはずだ。
ところが、近年の漫画やアニメーションの糞つまらない萌え作品を思い出してほしい。全ジャンルにわたって、記号的な低レベル萌えキャラが氾濫してしまっている。どぎついスパイスの味しかしないようなジャンクフードが溢れてしまっている。
エロゲーにおける記号的な萌えが、いつのまにか萌えの典型として流通するようになってしまったのだ。どうやら萌えにおいても悪貨は良貨を駆逐するようだ。
そして、その悪貨の供給源の一つは、間違いなくエロゲーである。他のジャンルを眺めてみよう。
ギャルゲーにも記号的なキャラ造形はある。しかし、エロの契機がないゆえに、キャラをきちんと立てるべし、というプレッシャーは、エロゲーにおいてよりもギャルゲーにおいてのほうがはるかに強い。それゆえ、ギャルゲーにおいては記号化に一定の歯止めがかかると思われる。エロ漫画もキャラの記号化の傾向を多少もつ。しかし、漫画は作家性が強いので、この記号化がそれほど深刻に浮上することはない。
やはり、記号的萌えキャラが野放しになるのは、まずもってエロゲーにおいてなのだ。
まとめよう。抜きの論理はキャラよりもシチュエーションを重視する。抜きの論理をもつエロゲーにおいては、キャラの記号化が必然的に将来される。そのような、エロゲーだからこそ許されるはずの薄っぺらい萌えは、エロゲー中心に育成されたオタクから全ジャンルに伝染し蔓延する。ついには、エロゲーに触れずともこの病原菌に感染するオタクが出るようになる。
結論はこうだ。萌えの論理に抜きの論理を混入させることにより、エロゲーがオタク文化の低レベル化を招いたのだ。
もちろん、エロゲーの功績もある。十八禁という枠は表現が自由だ。それゆえに、ギャルゲーではありえないような尖った作品が生まれる可能性を秘めている。『痕』、『Phantom』、『月姫』、どれもエロゲーでなければ制作されることはなかっただろう。その他にも、エロゲーならではの快作は多数ある。それはそうだ。しかし、ジャンルとしてのエロゲーが危険性をもつ、ということもまた、真実なのである。
総括。少なくともエロゲーとオタクは一枚岩ではない。エロゲーは、オタクとエロとのハイブリッドである。オタクにとっては、不純物入りなのだ。オタクの論理とエロの論理が対立する局面では、エロゲーはオタクにとって害毒にさえなりうる。
オタク的なエロゲーの読み方は、基本的に抜きを萌えのスパイスとして解釈するというものであるべきだ。逆であってはならない。抜きに流されてオタクの本分を見失ってはならないのだ。
オタクを論じる際、まず典型として挙げられることが多いエロゲーであるが、実情はまったく異なる。エロゲーとの付き合い方でオタクとしてのスキルが試されるような、境界例なのである。
はっきり言っておこう。二次元で手淫ができるということだけでオタクを名乗ることはできない。
ライトなオタクの皆さんには、しょーもない作品に萌え萌え言うのはもうやめてもらいたい。それは真の萌えではない。熟練エロゲーマーの皆さんには、オタクの論理とエロの論理の区別を明確にして語っていただきたい。外野が誤解するので。そして、オタク評論家のセンセイには、最低限このへんの機微について理解してから口を開いていただきたいものである。
ということで、萌えて抜ける良質のエロゲーが増えることを祈りつつ筆を置くことにしたい。