妄想と遊戯

はじめに

 私はいちおうなんとなくオタクにかんする普遍的理論の構築を目標としていたりするわけだ。普遍的理論というからには、なるべく多くの、理想的にはあらゆるオタク的な現象を統一的に理解しようとしているわけだ。
 しかし、これは建前である。実際のところは、そう世の中上手くは運ばない。他の普遍性を志向する理論と同様に、自分の説明できない事柄に非本質的というレッテルを貼って棚に上げてしまうことで、見かけの普遍性をなんとか保とうとしているところがなきにしもあらず、なのである。
 私が故意に切り落としている事柄として、もっとも重要なものがゲーム、それもロールプレイングゲームである。ゲームの排除にどのような理由があり、どのような問題があるのか、ここで簡単に整理しておきたい。
 旧稿と被る論点も多いがご容赦いただきたい。

オタク的営為の三分類

 大きな話からはじめよう。オタクの営みをなるべく網羅的に集めてみると、それらはだいたい以下の三つくらいに分類できると思われる。
 1)鑑賞する。
 2)遊戯する。
 3)創作する。
 まずは、これらのそれぞれについて、なにをどう切り落としているのかを確認してみたい。

鑑賞と物語中心主義

 私がまずもって重視しているのは、1)の鑑賞である。作品の受容がなければそもそもオタクはオタクたりえない、というわけだ。ただし、ここで注意したいのが、私がとりわけ物語の鑑賞を特権視する、ということである。鑑賞は物語以外についても成立する。音楽とか絵画とか彫刻とかいった領域を考えていただきたい。しかし、ことオタクにかんするかぎり、キャラクターを含む物語の鑑賞が必要不可欠ではないか、と私は考えるわけだ。
 「もえあがり一元論」などの「もえあがり」概念などは、オタクの特有の物語の鑑賞態度を位置づけるために導入した道具立てだったりするのである。
 さて、この時点ですでに私は多くの事柄を切り落としている。先に挙げた物語以外の鑑賞の対象がまずそうだ。また、別の例としては、物語の要素のみに着目するゆえに、私は表現ジャンルの差異にほとんど重要性を認めない。それゆえ、漫画の作画、アニメの動画等々、諸々のジャンル固有の表現にかかわる事柄にかんしては、ほぼ無視を決め込む。これは、「オタク道」で、オタクとマニアに極端な区別をつけたあたりからの立場である。

創作と物語中心主義

 順番を変えて、次いで3)の創作を確認しておこう。
 基本的に私はここにオタクの妄想を位置づけている。「オタク道」からの、妄想と二次創作を連続的なものと捉える立場である。つまり、ここでも、1)の鑑賞において物語の鑑賞を重視したのと同様に、私は物語の創作を特権視している。すなわち、オタクの妄想を、与えられたキャラクターを使った物語の二次的な創作として考えるわけだ。
 ここには二つ注意すべき点がある。
 まず、妄想および二次創作を核に据えるがゆえに、私は一次創作行為をオタクにとって非本質的なものとする。これはすなわち、一次創作と二次創作とのあいだに強い区別を置くことを意味する。現代批評の観点からすれば、模倣と独創性を切り離して考えられない、ということはもはや常識であるし、実際に創作しているオタクの意識のなかでも一次創作と二次創作は連続的に捉えられているかもしれないのだが、オタクにかんする理論としては、そこを踏ん張るわけだ。
 もうひとつ指摘しておこう。ここでも物語中心主義を採るがゆえに、素朴にオタク的な創作の営みを考えたときに当然挙がるであろう事柄のいくつかが無視されている。具体的には、イラストレーションを描くこと、模型をつくること、が挙げられるだろう。このあたりはオタクの営みとして重要な事象であるはずだが、いまひとつ扱いきれない感が残る。

小括

 いろいろ問題はあるにせよ、私のオタク論の基本的な枠組みは、以上の1)鑑賞と3)創作の組み合わせでほとんど尽きている。オタクの営みを、独特の1)鑑賞すなわち「もえあがり」と、独特の3)創作すなわち「妄想」のコンボとして把握しようというわけだ。

遊戯の位置づけ

 さて、残るは2)の遊戯である。遊戯というよりも、横文字を使ってゲームのプレイと表現したほうが通りやすいかもしれない。
 そもそもゲームの外延は広い。野球、将棋、ままごと、トランプのひとり占いからいわゆるコンピューターゲームまで、すべてゲームのプレイである。一定の規則(ままごとの場合などは暗黙の規則となるだろうが)に則ってなにかをする、くらいの共通点で、ここまでさまざまな営みがゲームのプレイとして考えられるわけだ。というわけで、ちゃんとゲーム論をやるときは、規則ないしはルールへの配視が不可欠である。そこがゲームのゲーム性の肝をなすのだから。
 ところが、だ。私の枠組みでは、このようなゲームのゲームたる要素は無視される。すでに述べたように、私のオタク論は、1)鑑賞と3)創作の組み合わせからなる。このとき、ゲームは、1)鑑賞、それも物語の鑑賞をベースにして捉えられることになる。そういうわけで、物語性のないゲームはほとんど扱わないし、ゲームのゲーム性もほとんど問題にしないのである。
 オタクにとってのゲームの評価は、ゲームをやっている最中の快楽ではなく、ゲームをやり終わった後の妄想の快楽にそくして測られているのでは、と私は感じるのであるが、これはひとつにはゲームを鑑賞の観点から考える立場に由来しているのである。

役割演技遊戯と妄想

 さて、ここで微妙になるのがRPG(テーブルトークであれコンピューターであれ)である。ここは和訳したほうがいいのかもしれない。役割演技遊戯、つまりはごっこ遊びというわけだ。私のオタク論にとって、この形式のゲームの扱いが試金石になるのは、そこに妄想が重要な契機として含まれているように思えるからだ。
 すでに述べたように、私はオタクの妄想を3)創作から位置づける。しかし、RPGにおいては、我々はある意味で妄想しつつゲームをプレイしているように思える。とりわけ「君は自分が王子様だと妄想できるか」で主題にしたような、自己のありようにかかわる妄想は、明らかに役割演技と密接な関係をもつ。これをどのように考えるべきか。
 言いかえれば、妄想を3)創作として考える場合と、2)遊戯として考える場合とで、オタク論にどのような差異が生まれるのであろうか。
 このあたりはまだ詰めきっていないので暫定的な見通しだけを示すにとどめたい。
 注目すべきは、「妄想」というときに、妄想行為を考えているのか、妄想内容を考えているのか、ということである。
 私のオタク論は妄想を3)創作から考える傾向が強い。それは、妄想を、「みんなしかと見よ、これが他ならぬ私の妄想である」といったように、各々のオタクの作品として捉えるということを意味する。このことは、「オタク道補論・趣味としてのオタク」などに表れているように、私が妄想に濃さを要求することとも関係している。あるオタクの妄想は、あたかもひとつの作品であるかのように、別のオタクからの濃さにかんする批判的評価に晒されるわけだ。このとき、「妄想」という言葉が、妄想行為の結果としての妄想内容を指していることに注意されたい。妄想内容に着目することにより、オタクの濃さを問題にすることが可能になるのである。
 一方、2)遊戯としての妄想が問題になるときには、問題になるのは妄想行為そのものである。遊戯においては、妄想行為は結果としての妄想内容を目的としてなされるのではない。妄想することそのものが目的であり、快楽なのだ。遊戯としての妄想行為は、結果ないしは内容のありようには束縛されることはないのである。
 つまり、妄想を3)創作として考える場合と2)遊戯として考える場合との差異は、オタク論において、妄想内容に着目するか妄想行為に着目するかの差異に対応するのである。
 さて、すでに述べたように、これまでの私は3)創作寄りで考えてきた。たとえそれが自分自身にかんする妄想であったとしても、妄想内容に濃さを要求するがゆえに、私は妄想をあくまで2)遊戯ではなく3)創作として捉えることになるのである。このような立場は、妄想内容の濃さを要求しない役割演技遊戯を、オタクとしては不十分なものと見なす態度を導くであろう。たんに役割演技遊戯をするだけでは、妄想者ではあってもオタクではない、というわけだ。
 ちなみに、自分自身にかんする妄想も、ひとつの作品として他のオタクの評価の対象になりうる、という感覚が、オタクの妄想への微妙な距離感を構成している。これがないと、たとえば「オタク道補論・オタクにおける「二年生病」の研究」のオタク性小二病なんかが発症するのかもしれない。

おわりに

 妄想を論じるさいに、RPGの話をなぜ入れないのか、としろねこま氏(「S猫」)にご指摘いただいて、なんで入らないんだろう、この直感的な抵抗感はどこから来るのか、グダグダと考えていたら長くなってしまった。
 結果、見えてきたのは、いまひとつな感じがするので後退させようかなあ、とぼんやり思っていたオタクへの濃さの要求が、意外に根強く私の思考に根を張ってしまっているということであった。これが抜ければ、もしかしたら妄想をもっと滑らかに役割演技遊戯と関係させて論じられるかもしれないのだが、なかなかに難しいところである。
 まあ、理屈からすれば、妄想内容を重視することと、妄想行為の遊戯としての側面に目を向けることとは、両立しえないわけではないはずだ。
 もう少し詰めたいのだが、さしあたり今はこれが精一杯、ということで。

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