君は自分が王子様だと妄想できるか

 オタクは妄想する。そのさい、オタクの妄想の対象は、まずもって所与の物語のなかのキャラクターである。これはすなわち、オタクの妄想は、自分自身には向かわない、ということを意味するように思える。しかし、そうではない。本稿で強調したいのは、自分自身にかんして妄想することの重要性である。

 オタクは、とりわけ近年の萌えオタは、自分自身にかんして妄想することにたいしてきわめて禁欲的であるように思われる。虚構のキャラクターについてはさまざまな妄想を行うが、自分自身のあり方については表向き妄想することを避けるのである。(そうではない、という場合は以下の考察は無駄骨ということになるだろう。)
 ここで手がかりになるのが、「俺の嫁」や「私の婿」妄想である。カップリングにかんする妄想や、萌えキャラたちを一歩離れて生暖かい目で見守る妄想については、その重要性を否定するわけではないが、さしあたり議論の対象から除く。また、議論を簡略化するために、以下では俺の嫁妄想のみを扱う。
 虚構のキャラクターについてだけ妄想を行っているときには、自分自身にかんする妄想は別に問題にはならない。しかし、俺の嫁妄想は、虚構のキャラクターと自分自身との関係を妄想するものである。このときには自分自身にかんする妄想をする余地が十分にあるはずだ。
 しかし、それが表立って示されることは少ない。あるキャラクターが嫁になるさままでは妄想しても、自分自身が婿になるさままでは妄想しない、もしくは、妄想しても他者の目からそれを隠そうとする。そして、他者のそのような妄想に行き当たったときには、これはイタい、これは中二臭いなどといった否定的な評価をする。このような場面を我々はしばしば目にするのではないだろうか。
 つまり、少なからぬ萌えオタが、自分自身にかんする妄想を、あるべきではないものと考えているのだ。
 このあたりの影響で、俺の嫁妄想から妄想という意味あいが薄れ、たんなるキャラ萌えの表明と同義のものと受け取られるようになったと考えられるのだが、この問題については指摘するのみにとどめよう。
 このような萌えオタの態度は、より深い根をもつ問題に繋がっていると考えられる。

 まず、萌えと燃えとの差異から考察していこう。
 先に挙げた態度は、基本的には萌えオタに特徴的なものである。
 燃えにおいては事情は少々異なる。特撮ヒーローものに燃えるときには自分自身をヒーローの位置に置き入れる妄想が、巨大ロボットものに燃えるときには自分自身をメインパイロットの位置に置き入れる妄想が要求される。ここを否定してしまったら燃えは成立しえない。燃えには、自分自身にかんする妄想の可能性が不可欠の契機として組み込まれている。燃えについて、この契機をイタいとか中二臭いとか難じる者がいるとすれば、それが愚か者の調子にのった振る舞いでしかないことは誰にでもわかる。
 しかし、萌えにかんしては、自分自身にかんする妄想を問題とする余地があるとされているわけだ。萌えオタは、自分自身にかんして妄想することなくしてキャラクターに萌えることができると信じているのである。

 一つ確認しておけば、このことは、どうして萌えオタがオタクの現実にあれほどまでに関心をもつのか、という問題に繋がる。
 自分自身を妄想の対象としてはならない、という態度は、一歩進めば、自分自身の現実をつねに見据えなければならない、という態度を導くであろう。このゆえに、一部の萌えオタは、非モテやら脱オタやらといった、趣味としてのオタクの本業からすればほとんどどうでもいい話題にあれほど熱心になるのだと思われる。(もちろんそれだけが理由ではないが。)自分が自分自身にかんして妄想をしていない、自分はオタクの現実をよく認識している、ということを、絶えず確認しなければ済まないのだ。そのような絶えざる自己の現実の確認だけが、自分がイタくない、中二臭くないことを保証してくれると信じられているのである。

 しかし、ここで問うべきは、本当に萌えに自分自身にかんする妄想は不要なのか、ということだ。
 萌えオタたちの上述の努力とは裏腹に、実際の萌えは、萌えるオタク自身をも妄想のうちに巻き込むものなのではないか。
 もしそうであるとするならば、萌えオタが、自分自身にかんする妄想を頑なに抑圧していても、どこかに皺寄せが来ると思われる。

 出発点に戻ろう。素朴に考えれば、俺の嫁という妄想は、キャラクターだけでなく、オタク自身をも巻き込むものであるはずだ。自分自身にかんして妄想することなくしては、俺の嫁という表現は意味をもつことはない。なぜなら、本来は婿ではない自分が婿になるのだから。
 では、ここで、それでもなお萌えオタが自分自身にかんする妄想の契機をあくまで否定しようとするときに、なにが起きると予想されるだろうか。理屈からして以下のようになると思われる。
 まず、萌えキャラの造形が、オタクにでも嫁に来てくれるようなものになるだろう。そもそものキャラクター造形がそのようなものであれば、妄想をあまりせずともオタクは婿の位置に納まることができるであろうから。
 また、作品中に萌えキャラに慕われる主人公がいるとすれば、そのキャラクター造形は凡庸なものになるだろう。凡庸なキャラクターであれば、妄想をあまりせずともオタクはそれと容易に同一化できるであろうから。

 さて、こうなれば、「萌えキャラはオタクの欲望を満たすようなご都合主義の産物ばかりだ」という主張にはあと一歩である。マスメディアからネットから、媒体を問わず、批評家気取りのお調子者がよく言う台詞である。
 連中の思考の浅さは指摘するまでもないのだが、これまで問題にしてきたような萌えオタの自己抑圧が、そのような主張にある程度の説得力を与えてしまっていることも確かなのだ。
 はたしてこれでいいものだろうか。

 そこで、私は以下のような提案を行いたい。
 萌えオタは、自分が王子様であるときちんと妄想するべきだ。
 あるキャラクターについて、彼女は俺の嫁である、と愛を語る場合には、その必要条件として、自分自身が彼女の婿にふさわしい存在であることを、迷いなく、意識的に、万人の目の前で、強く深く妄想するべきだ。
 もちろん現実の我々は王子様よりはモグラかハエに近い存在であるかもしれない。しかし、現実がどうこうということは、妄想となんの関係もない。なにも躊躇う理由などない。自分が白馬の王子であると、高潔な騎士であると、勝手気ままに妄想すべきだ。そして、そのうえで、高らかに宣言すればよい。彼女は、こんなに素敵な俺様の嫁なのだ、と。
 このとき、萌え妄想は豊穣な多様性へと開かれるであろう。たんなる手っ取り早い欲望充足としての妄想、現実の代償としての妄想を超えて、妄想としての妄想の自由と快楽がここに確保されるのである。
 萌えオタは、自分が王子様であることを妄想してうっとりすべきなのだ。

 多くの萌えオタの現在の価値観からすれば、これはイタく中二臭い態度とされてしまうのかもしれない。しかし、実のところ、自分自身にかんする妄想に過度の拒否反応を示す態度は、若さゆえの心の弱さの一つの表れでしかない。妄想と現実を区別しきる自信がないから、妄想を抱えたまま胸を張って現実を生きていく自信がないから、自分自身にかんして妄想することを必要以上に恐がり恥ずかしがってしまうのだ。突飛な妄想を弄んでのオタクではないか。一般人のつまらんジョーシキ的価値観からの評価を気にしてどうする。
 このあたりに、私は多くの若い萌えオタの足腰の弱さを感じざるをえない。ことあるごとにオタクの現実を参照したくなるのは、自分自身が妄想と現実とのあいだの距離感をまだ測りかねているからに他ならない。妄想を妄想として追求できるのであれば、そのような自己確認の作業はなんら必要ないはずのものである。
 つまり、近年の一部の萌えオタがもつ、自分自身にかんして妄想することにたいして禁欲的であるべきだ、という価値観は、そもそも根っこから間違っているのである。

 ここで考察の角度を変えるために、一つ具体例を挙げてみよう。私はアニメ版『らき☆すた』を面白いと思う。しかし、それを分析した一部の言説がどうにも気に食わない。「泉こなたはオタクをそのまま受容してくれそうなキャラクターだから、俺の嫁としての人気がある」という類のものだ。
 少なくとも私はこの説明が当てはまる人間が濃いオタクだとは思えない。なぜならば、この人間には妄想と現実の区別がついていないことになるからだ。虚構のキャラクターを自分の現実のありようと妄想のうちで絡めるところまではよい。しかし、そこで、妄想が現実の自分を反映していることに過大な意味を負わせてしまうのは、妄想者としてはまったくもって生っちょろいと言わざるをえない。
 注意していただきたいのだが、私は上述のこなた論が間違っていると言いたいわけではない。それが正しいとすれば、ずいぶんとオタクとしてはヌルい態度だ、と考えているのだ。そして、それがオタクにかんする一般論として通用している(ように思える)状況にを首を傾げているのである。

 私の問題意識をもう少々一般化したかたちで示せば、以下のようになる。
 しばしばオタク的な作品の分析において、受け手の感情移入の容易さを重視したものを目にする。この作品のこのキャラ造形は、オタクたちの現実を反映しているから、感情移入がしやすい。そのような造形ゆえに支持されるのだ、というような類のものだ。
 もちろん場合によってはこの分析が上手く機能する場合もある。しかし、一般論から言えば、私は、このような分析は、方向性の根本からして不適切であると考える。
 オタクが妄想者であるならば、自らにかんして妄想することもできるはずだ。そして、そうであるならば、オタクはあらゆるキャラクターについて同一化できるはずなのだ。キャラクターが自分に似ていなければ感情移入できない、同一化できないなどという者は、オタクの名に値しない。自分とは似ても似つかないキャラクターにたいしても違和感なく同一化できる妄想力をもつことが、オタクの必要条件の一つなのである。
 思い返せば、エロ妄想では触手にだって同一化できるのだ。王子様になることなどどれほど容易いことか。
 そういったわけで、一般大衆向け作品の分析やエンタメ作品創作の方法論の分析ならともかく、オタクによるオタク的な観点からのオタク的な作品の分析にとっては、先に挙げたような考察の方向は、いささか筋違いなのである。ちなみに、オタクの現実を反映している描写は、まずもってネタとしての観点から考察されるべきであろう。
 さらに言えば、この類の分析は、すでに指摘した「萌えキャラはオタクの出来合いの欲望を満たすようなご都合主義の産物ばかりだ」といった浅薄な主張にたいして対抗する力をもたない。それでは困る。オタクの萌えの基盤はもっと豊穣なもののはずなのだ。

 議論がいささか散漫になったので、最後に私の主張をまとめておきたい。
 一点め。萌えオタにとって、自分自身にかんする妄想は重要である。これは、妄想の豊穣さの基礎をなす。
 二点め。自分自身にかんする妄想はないほうがよいとする価値観は誤りである。そのような価値観の背後には、妄想と現実の区別をつけきれないオタクとしての弱さがある。
 三点め。類似性からする素朴な感情移入をもちだしてオタクの嗜好を分析することは不適切である。オタクのもつ自分自身にかんする妄想は、類似性からする感情移入を超えるものであるからだ。
 さらに一つ論点を付け加えるならば、このように考察することにより、萌えオタと燃えオタの論理を統一的に把握することが可能になる。すでに述べたように、燃えオタについては、自分自身にかんする妄想が明らかに不可欠であった。実は萌えオタについても事情は同じだったのだ。燃えオタが自分自身をヒーローだと妄想してうっとりするように、萌えオタも自分自身を王子様だと妄想して、胸を張ってうっとりとすべきなのであり、その姿を他人に堂々と晒して自らの妄想のレベルを判定してもらうべきなのだ。

 というわけで、最後に問いたい。君は自分が王子様だと妄想できるか、と。この問いに肯定的に答えられることが、強く正しい萌えオタであることの一つの証なのだ。
 なあに、たいして難しいことではない。萌えオタである君は、もうすでにそれをなしているはずなのだ。ただ、そのことを否定し抑圧することを止めさえすればよいのである。

 ついでと言ってはなんだが、自分自身をも対象とする強靭な妄想者の一つのイメージを与えてくれる文献として、嶽本野ばらの初期のエッセイ集『それいぬ』(文春文庫Plus、2001年)をお薦めしておく。半端な覚悟の萌えオタは、乙女思想の徹底性を見習うべきである。
 (ちなみに、代表作『下妻物語』の時点での嶽本は、この著作よりももう少し先の地点に届いていると思うが、これはまた別の話。)

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