オタク道補論・趣味としてのオタク

はじめに

 私はこれまでオタクを趣味として考えてきたのだが、そのことについて突っ込んだ考慮が足りなかった。「なにか違う」と思いつつも、これまでほったらかしにしていたわけだ。面倒なのだ、この問題は。趣味一般について考えなければならないので、話が大きく雑になる。まとめるのが難しい。
 でも、そうはいっていられないようなので、この問題に向かってみた。
 オタクが趣味である、とはどのようなことか。

「オタク」概念の多義性

 「オタク」という言葉が複数の意味をもつことがある。
 オタクとはオタクな行為をする人だとしよう。ここでまず、「オタクな行為とはなにか」ということが問題になる。オタク的な行為の定義の違いによって、「オタク」の意味も変わりうる。ただし、このあたりについては「オタク道」などで別に論じたので、ひとまず措こう。
 本稿で問うてみたいのは、以下のことである。
 「とにかくオタク的な行為をすればオタク」なのだろうか。それとも「オタク的な行為を趣味にするのがオタク」なのだろうか。
 「オタク」という言葉を使うときには、どちらを指しているのかを明確にしなければならない。

趣味でなにかをするとはどういうことか

 私が「趣味」という言葉に込めている意味について明確にしておこう。ただし、これが唯一無比の辞書的な意味だと主張したいわけではない。一応概念史的な背景もあるのだが、ここでは省略する。
 そもそも「これが私の趣味だ」と言えるためには、「それで金をもらっていない」ということだけでなく、「そのことの枠内で濃さを追求しようとしている」ということが必要である。
 濃さを追求しない場合には、それが趣味だと言うことはできない。
 もちろん、「ゴロ寝でテレビを観るのが趣味だ」とか「毎朝の散歩が趣味だ」とかいった表現もある。これらの場合には、濃さを追求する余地はないだろう。もちろん、このような言葉使いが間違いとは言えない。本稿では、もっと限定した意味で「趣味」という言葉を使うわけだ。
 この「趣味」概念はそれほど奇妙ものではない。流行のCDをたまに買うだけで履歴書の欄に「趣味:音楽鑑賞」と書く人や、たまにベストセラーを読むだけで履歴書の欄に「趣味:読書」と書く人は滑稽であろう。それは、そのような連中が「趣味」という言葉の意味を裏切っているからだ。
 一つ注意をしておこう。このことは別に、「気晴らしや暇つぶしでなにかをすることが悪い」ということを意味しない。基本的には、人生どう生きようが自由なのだから、悪いはずがない。気晴らしでゴルフをし、暇つぶしで映画を観てもいいわけだ。
 ただし、ここには一つ条件がつく。趣味でそれをしている連中に迷惑をかけてはならないのだ。
 趣味でゴルフをしている連中がいたとしよう。そこに、ゴルフで気晴らしをしたい人が参加して、「気晴らしを気楽にやってなにが悪い」と怠慢なプレーを繰り返したとしよう。これは明白なマナー違反である。映画に行って、エンドロールの途中で出て行く行為がなぜ嫌われるのか。趣味で熱心に観ている人の邪魔になるからだ。
 では、なぜ気晴らしや暇つぶしの参加者は、趣味でやっている参加者にたいして配慮しなければならないのか。理由は単純だ。他人が大切にしているものは(それが自分にとってはどうでもいいものであればなおさら)可能なかぎり尊重してあげるべきだ、というだけのことである。これは、ごく当たり前のことであろう。

諸オタク論の分類

 オタクの話に戻ろう。
 他の趣味と同様に、「気晴らしや暇つぶしでオタクすること」と「趣味でオタクすること」は区別できるし、区別すべきだ。
 そして、この区別から、さまざまなオタク論を分類することができる。
 岡田斗司夫を筆頭とする、いわゆる第一世代系の論者は「趣味としてのオタク」を強調していたと思われる。
 他方、東浩紀や斎藤環などの非オタク系の論者は、非オタク独特の無理解ゆえか、現代のマジョリティであるため目に付きやすい「気晴らしないしは暇つぶしとしてのオタク」を典型的なオタクとして論じていたと思われる。
 本田透のオタク論は、「代償の論理」に基づくがゆえに、「気晴らしないしは暇つぶしとしてのオタク」に親和するものである。このことについては、すでに「本田透『萌える男』を読む」で指摘した。
 岡田以外の論者はみな、「趣味論」をやっているのではない。「現代の若者が気晴らしにどんなことをしているのか」という「若者論」的な立脚点に立っているのである。
 つまり、以下のように整理できる。
 岡田のものは「オタク自身による、趣味論としてのオタク論」である。
 東のものは「非オタクによる、若者論としてのオタク論」である。
 本田のものは「オタク自身による、若者論としてのオタク論」である。
 これらの議論はしばしば世代に訴えて分類されてきたが、私はそれには与しない。そもそも立論のしかたが違うのである。話の噛みあわなさの原因はここに求めらるべきなのだ。
 (一つ注意を。別に岡田の議論が正しいと言いたいのではない。立論のしかたそのものには正しいも間違いもない。私はこれらのオタク論はすべてどこか間違っていると思うが、それは立論のしかたゆえにではない。)

「オタク」概念の多義性の影響

 さて、「趣味としてのオタクすること」と「気晴らしや暇つぶしでオタクすること」が混同されてしまうとどうなるか。オタクについての間違った主張が出て来てしまうのである。いくつか指摘していこう。
 「昔のオタクは濃かったが、今のオタクはヌルい」という主張がしばしばなされる。
 ところが、このとき、「昔のオタク」というところでは「趣味でオタクをする人」が指示され、「今のオタク」というところでは「気晴らしなどでオタクをする人」が指示されている場合が多い。そうであるならば、そこから「昔のオタクは濃かったが、今のオタクはヌルい」と結論づけるのは誤りであろう。
 せいぜい言えるのは、「最近は気晴らしでオタクする人が増えた」とか「最近は気晴らしでオタクする人が発言するようになった」とかいった若者論的主張くらいである。
 似た主張に、「オタクは濃くあるべきだ」というものもある。こちらは事実ではなく規範にかんする主張である。
 これは、「趣味でオタクをしようとしている人」にたいしては当てはまるかもしれない。しかし、注意すべきは、「気晴らしなどでオタクをする人」にたいしては当てはまらないということだ。「気晴らしなどでオタクをする人」にたいして、そのヌルさを糾弾するのは端的に筋違いとなる。
 このあたりの線引きをきちんとしないと、第一世代系オタク論者によくみられる「ウザい説教臭さ」の罠に嵌り込んでしまう。
 他方、「趣味でオタクをする人」たちの輪の中に入っておきながら頓珍漢な言動をして、その揚句「気楽にオタクしてなにが悪い」と開き直るような態度も問題であろう。
 先に指摘した「気晴らしや暇つぶしの参加者は、趣味でやっている参加者にたいして配慮しなければならない」という原則がここに当てはまるわけだ。
 いまさら言うことでもないが、ネットではこの手のトラブルが頻発している。「ネットの情報は万人に開かれるべきだ」という原則と「気晴らしや暇つぶしの参加者は、趣味でやっている参加者にたいして配慮しなければならない」という原則とが、対立することがあるからだ。たとえば、無断リンク禁止問題をめぐる議論の背後にも、この対立が隠れていることがある。
 もう一つ対立するのが、「金を払った客は平等だ」という市場の原則と上述の趣味の原則である。それにかかわる人口が一定の規模を超えれば、趣味の場にも商業主義の論理が入り込まざるをえない。これは仕方がないことだ。しかし、市場に完全に支配されてしまえば、そこでは趣味としての趣味の場所は失われてしまうのである。

趣味の濃さいろいろ

 ここまで、趣味は濃さの追求を含意すべきだ、と強調してきた。ここで問題になるのが、濃さの内実である。この内実は、趣味の種類によって、さまざまなものでありうる。
 コレクター系の趣味は珍品の蒐集へ向かうだろうし、スポーツ系の趣味は上手くなることや勝つことに向かうだろう。創作系の趣味や鑑賞系の趣味の場合は、皆が認める一定の水準をクリアしたうえで(これがないと独りよがりに終わってしまう)、オリジナリティのある作品をつくること、オリジナリティのある鑑賞眼をもつこと、これが目標になるだろう。ファッションにおいては基準が流れ行く。移り変わるトレンドをきちんと追いかけること、さらには先取りできること、ここでセンスのあるなしが測られる。ついには自分でトレンドをつくれるようになれば、君はファッションリーダー、というわけだ。
 このように、趣味によって、濃さがなにかは多様である。当然のことであるが、趣味は濃さの追求を含意すべきだ、ということは、すべての趣味が同じ方向を目指していることを意味しない。
 さて、オタクの濃さにも独特の内実がある。私見では、オタクの濃さは「自分で濃い妄想を展開できるか」「他者の濃い妄想を理解できるか」あたりに帰着すると思われる。
 オタクの濃さとわりと勘違いされやすいのが、批評行為と教養主義である。批評はオタクとは無関係である。批評(っぽいもの)をして偉くなったと思うのは中二病である。こういう態度と、オタクに濃さを求める態度とを同一視してもらっては困る。また、教養は、妄想の濃さに必要であるがゆえに重要なのであって、けっしてそれ自体として価値をもつものではない。これらの論点については「オタク道」などですでに論じた。

おわりに

 最後に自分自身の過去の立場を反省しておこう。
 どうやら私もこれまでは「趣味でオタクすること」と「気晴らしや暇つぶしでオタクすること」をきちんと区別できていなかったようだ。
 そのため、「気晴らしなどでオタクする人」にたいしても濃さを要求してしまうような、「ウザい説教臭さ」の雰囲気がときおり出てしまっていたようにも思う。それは私のよしとするところではない。
 また、これまでよくやってきた「ヌルオタは存在するだけで全体のレベルを落とす」という議論も、ちょっと大人げなかったかなあ、と今は思う。それほど因果関係がはっきりしているわけでもないし。
 ついでに言えば、このときの「ヌルオタ」概念も、「趣味を極めていない人」を指すのか「そもそも濃さに興味のない人」を指すのかが混乱していた。前者であれば私にも当てはまってしまうではないか。
 では、ヌルオタ、いや、「気晴らしなどでオタクする人」にたいして、「趣味でオタクする人」はいかなる態度をとるべきか。メッセージを送るとすれば、たとえば、このようなものになるだろう。

 発端が気晴らしや暇つぶしであったとしても、縁あってオタクの世界に触れたのだ。せっかくだから趣味にしたらどうだろう。楽しいぞ。
 皆の真似をしてツンデレツンデレ言うだけの状態から脱することができる。個々別々のキャラのツンデレ具合の差異を見て取ること。他人がそうと思わないようなキャラの仕草に、かすかなツンデレの香りを嗅ぎ取ること。濃くなれば、これらができるようになるのだ。素敵だとは思わないかい。

 非難でも罵倒でも説教でもない。もちろん擁護でもない。誘惑の言葉こそ、ここで価値をもつものなのではないか。

 (掲示板でnoir氏およびまぼろ氏(「まぼろぐ。」)にいただいたコメントを手がかりに加筆した。たいへんに参考になりました。ありがとうございました。)

ページ上部へ