オタク道補論・オタクにおける「二年生病」の研究

はじめに

 多くのオタク論がヌルオタ批判に向かうことにどこか違和感を感じていたのだが、どうすればいいのかよくわからなかった。「オタク道補論・趣味としてのオタク」で少し新しい方向性を探ってみたのだが、いまひとつであった。
 そこで、まったく別の方向から、包括的かつ体系的なオタクの痛さ論を構想してみたい。
 さて、まず、痛さならなんでも論じるに値するというわけではないことを確認しておこう。
 別に自分の利害に直接的にかかわってはいない場合でも、ある種の他のオタクの痛い言動にイラつくことがある。しかし、どうしてイラつくのだろうか。利害関係がないなら、痛いなあ、と嘲笑して済むはずだ。たぶん、問題の言動が、どこかオタクの本質に由来しているのだ。そのとき、その言動を痛いと判定することは、オタクである自分自身に帰ってきてしまう。そのため、我々は他人の痛い行動を見ただけで自らも傷ついてしまい、過剰反応してしまうのである。このような痛さのみを扱いたい。
 このとき、オタクの痛さ論は、同時にオタクの本質にまで届くものとなるであろう。

オタク性二年生病の四類型

 オタクに本質的な営みとして、以下の四つが挙げられる。ちなみに、私はそのうちでも二番目を核心をなすものと理解しているのだが、本稿ではそこには立ち入らない。

1) 物語を鑑賞すること。
2) キャラクターについて妄想すること。
3) 作品について批評すること。
4) オタク的な営みについて反省すること。

 これらのうちのどれも、オタクであるかぎり避けては通れない営みである。しかし、そのどれについても、陥りやすい過ちが存在する。
 その営みに没頭する余り、そもそも踏まえておくべきだったものごとや、向かうべきだったものごとを見失ってしまうのだ。このとき、そのようなオタクは他者から見て痛々しくなる。
 そのような痛々しい状態を、一括して「オタク性二年生病」と名づけたい。オタク性二年生病は、以下の四類型に区分される。

1) 鑑賞が歪んでしまい現実を見失う。すなわち、オタク性小二病。
2) 妄想が歪んでしまい立場を見失う。すなわち、オタク性中二病。
3) 批評が歪んでしまい作品を見失う。すなわち、オタク性高二病。
4) 反省が歪んでしまい他者を見失う。すなわち、オタク性大二病。

 これらを順に検討していく。
 ちなみに、以下の議論がいわゆる「中二病」概念にインスパイヤされていることは言うまでもないが、かなり意味はずれているので注意されたい。

オタク性小二病の症状

 オタクは物語を鑑賞し楽しむ。それはいい。しかし、ときに、愛する作品の鑑賞に没入するあまり、オタクがあたかも小学二年生であるかのように行為してしまう事態が起きる。これを「オタク性小二病」と名づけたい。
 たとえば、仮面ライダーの真似をして塀の上から飛び降りて骨折する事例などを考えていただきたい。小学二年生ならばまあ仕方のない行為である。が、これを大きなお兄さんがやったら問題だ。このとき、大きなお兄さんは「オタク性小二病」患者と診断されることになる。
 ある程度年がいくと、愛する作品にそのまま没入することは難しくなる。そこで、愛する作品の類似物を自分を主人公に自ら妄想し、そこに没入する場合が多くなる。これも同じ事態と考えられよう。自分が特殊能力をもっているかのように振舞ってしまうこと、いわゆる「邪気眼」は、「オタク性小二病」に分類されるわけだ。
 つまり、こういうことだ。物語を心から楽しむときには、我々は知らず知らず物語のキャラクターに感情移入し同一化する。このとき、「現実の自分は違う」ということを見失い、その同一化がいささか非常識な仕方で現れてしまうのが、「オタク性小二病」なのである。
 ただし、適度の「小二病」気質は普通の人間ならば誰しももっているものであることも忘れてはならないだろう。なぜCMに芸能人が起用されるのかといえば、憧れの存在が手にした商品を買うことで、その人にどこかに近づけたような錯覚を我々がもつからに他ならない。これもまた「オタク性小二病」の弱い一種である。
 繰り返そう。鑑賞が歪んでしまい自分の姿を含めた現実を見失うこと、これが「オタク性小二病」である。

オタク性中二病の症状

 オタクは妄想する存在である。妄想は、あくまで与えられた物語を手がかりにし、それに寄生してなされるものである。つまり、いかなるオタクも特権的な妄想者であることはできない。作品はオタクの妄想とは独立に存在する。そして、その作品は、あらゆる人間のあらゆる妄想に平等に開かれているのだ。
 しかし、自らの妄想に耽溺するあまり、このことが忘却される場合がある。自らの妄想を唯一無比のものと錯覚し、その妄想を他のオタクや、ときには作者にまで押しつけてしまうのである。自分がただの一読者、一視聴者、一オタクにすぎない、ということが見失われてしまうわけだ。このような態度を、これが許されるのは中学二年生までだよな、という意味を込めて、「オタク性中二病」と名づけたい。
 たとえば以下のような症例が挙げられよう。好きな作品や好きなキャラクターの造形について欠陥を指摘されたときに、その指摘の正当性を問うことなしに感情的に反発する。「次回はこんな展開になったら面白いんじゃないの」という他人の発言を、自分の妄想と異なるという理由だけで全否定する。この作品でエロ同人誌をつくるのは許せない。このキャラとあのキャラのカップリングなんて間違っている。これがさらに暴走すると、自分の望んでいた展開と違うだけで、作者を攻撃したりするようになる。
 もちろん、魂をかけた妄想を論争でぶつけあい磨きあうのは悪いことではない。さらには、ファンの妄想に作者の創作行為が動かされることが、一概によくない結果を生むとも言えない。たとえば、「空き家の冒険」でホームズが復活できたいきさつなどを想起されたい。この意味で、自分の妄想を他者に主張すること、つまり、適度な「オタク性中二病」の要素はオタクに不可欠である。しかし、やはり行き過ぎはいけない。自分が特権的な物語の読み手であると錯覚するのは、明らかに痛々しいものなのである。
 繰り返そう。妄想が歪んでしまい自分の立場を見失うこと、これが「オタク性中二病」である。

オタク性高二病の症状

 オタクは作品を批評する。ここでの批評は、作品について語ることをすべて含めている。すなわち、感想も広義の批評とする。
 さて、作品についてなにかを語るということは、まずもってその作品についてなにか語りたいから語る、ということであるべきだろう。しかし、それがいつしか狂ってしまうことがある。批評そのものではなく、批評の結果、他人に自分を認めてもらうことが目的になってしまうのだ。これは高校二年生くらいに陥りやすい状態なので、「オタク性高二病」と呼ぶことにしたい。
 「オタク性高二病」の困ったところは、他人の目を引こうとするあまり、批評そのものの質が低下する点にある。思いつきだけで突飛な主張をしてみたり、むやみやたらに罵倒してみたり(「パクリだ」とか「作画崩壊だ」といった台詞を想起されたい)、業界人でもないのに商業的成功で作品を評価してみたり、ヒョーロンカ先生の戯言を鵜呑みにして珍妙な擬似学術用語を振りかざしてみたり。作品そのものにきちんと向かい合って、それについて愛をもって語る、という批評や感想の基本の「き」が忘れられてしまうのである。
 もちろん、批評や感想を公表するときに他人に読まれることを意識する、ということは、当然のことであり、義務ですらある。しかし、それは受けを狙って思考における誠実さを放棄してもよいということを意味しない。それはきわめて痛々しい態度だ。
 思うに、批評なり感想なりは、たとえ稚拙であってもそこに誠実さがあれば、そのものとしては痛さを生むことはない。その稚拙さの背後に薄っぺらい自己顕示欲が透けて見えたときに、はじめて我々は、痛いなあ、と思うのである。
 繰り返そう。批評が歪んでしまい作品そのものを見失うこと、これが「オタク性高二病」である。

オタク性大二病の症状

 オタクは犬が犬であるようにオタクであることはできない。オタクとはなにかをつねに自分に問いかけることなくして、オタクとして存在することはできない。すなわち、オタクにとっては反省的視点が不可欠である。
 しかし、このような反省的視点は、ある局面においておかしな事態を引き起こす。あくまで反省は自らの立ち位置を確認するための作業であったはずなのに、それが他者にのみ向かってしまうのである。つまり、根拠のない高みから、自分以外のオタクを見下すことに喜びを覚えるようになってしまう。このような態度を、別に意味はないが体系性を保つために大学二年生的であるとして、「オタク性大二病」と名づけておこう。
 「オタク性大二病」は、自分とは様式の異なるオタクにたいして陳腐なレッテル張りをする。自分が若くないので「若いオタクは結局これこれで駄目だ」と言う。自分が萌えがわからないので「萌えオタは結局これこれで駄目だ」と言う。自分が腐女子ではないので「腐女子は結局これこれで駄目だ」と言う。もはやそれが実態を反映しているかはどうでもいい。オタクを論じるという形式はみせかけにすぎない。実質は、他人を貶める快楽に酔っているだけなのである。
 他のオタクに目を向けることは不可欠であるが、あくまで自己反省に向かうための一契機のはずだ。それを忘れ、あたかも自分がより優れた存在であるかのように他人をどうこう言って悦に入る、という態度は、実のところ、きわめて下品で痛々しいものである。
 繰り返そう。反省が歪んでしまい他のオタクの顔を見失うこと、これが「オタク性大二病」である。

おわりに

 以上四種の痛い言動は、ただそれを目にするだけで我々を不愉快にする。(不愉快にならない、という場合には、どれかの「オタク性二年生病」に罹患している可能性が高いので注意されたい。)そしてそれは、既に述べたように、そのどれもがオタクの本質を歪んだ形で映し出す鏡になっているからだ。つまり、彼ら彼女らの痛さが我々自身にも刺さってくるがゆえに、我々はイラつくのである。
 さて、そうであるならば、我々はこれらの四つの疾患の概念を他人をあげつらうために使うべきではないだろう。それではまさしく「オタク性大二病」になってしまうだろうから。
 そうではない。我々がオタクであるかぎり、これらの病は必ず我々のどこかに巣くうものであり、完全に逃れることは不可能である。なぜならば、これらはすべてオタクの本質に基づくものなのだから。実際、思い返せば私にも「あのときはこれにかかっていたな」という瞬間がいろいろと思い浮かぶ。いやはや、すべてにかかったことがある。いくつかには今もかかっている。さらには、すべてにこれからかかる可能性がある。
 本稿での四つの「オタク性二年生病」の定式化は、我々がオタクとして生きるさいに、これらの慢性病と付き合っていくための手がかりを与えるものと読んでいただきたい。ヌルオタ論、痛いオタク論は、まずもって自らを律するための手がかりであるべきものなのだ。

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