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Home あゆみ( ) 自然と生活 文化財散歩( ) 付録

大田区文化財散歩(上)

 一 入新井地区
 二 大森地区
 三 羽田地区
 四 蒲田地区
 五 六郷地区


大森貝墟記念碑
日本考古学発祥の地でもある(山王1丁目)

        一 入新井地区 top

 国電大森駅西口(山王口)前の池上通りを北に約一〇〇メートル、電電公社の手前の門を入ると大森貝塚がある。
 大森貝塚(山王一〜三)は、今から一〇〇年前にあたる明治一〇年(一八七七)に、アメリカの動物学者E・S・モースによって発見された縄文式土器を出土する貝塚で、日本考古学発祥の地である。 モースは、横浜から東京に向かう車窓で、貝層の露出を発見し、ただちに発掘を行なった。
 当時、帝国大学(東京大学)で教鞭をとっていたモースは、同一二年に発掘の成果をまとめ、『大森介墟(かいきょ)古物編』を刊行、それによって、この貝塚のほぼ全容を知ることができる。 遺跡が、当区の山王一丁目から、品川区の大井にまたがる国電の線路際にあり、後に、両区に発掘記念碑が建てられたので、混同されやすい。

 大田区側のものは、モースのもとで発掘に従事した佐々木忠次郎ら著名な学者二一名によって、昭和五年に建てられたもので、正面に「大森貝墟(かいきょ)」と大書されている。
 出土した遺物は、縄文式後期の加曾利(かそり)B式に属するものが多く、そのほか土偶・土版・石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく)・石皿・骨角器など多様である。
 現在、東京大学理学部の人類学教室に保管されており、最近、国の重要文化財に指定された。
 なお、遺跡そのものは昭和三〇年に国の史跡となっている。
 国電大森駅西口前の池上通りの坂道を、八景坂とよび、駅の直前にある丘上に、石段を四八段上ると、天祖(てんそ)神社がある。

 天祖神社と八景坂(山王二−八−一)
 この付近は、古くから江戸近郊の景勝の地として有名であった。
 天祖神社には、八幡太郎義家が奥州征伐のおりに、戦勝を祈願したという伝説があり、境内にあった老松は、その時に義家が鎧を掛けた鎧掛松であるという。
 広重は、『絵本江戸土産』にこの松を描き、八景坂鎧懸松(一名震松(ゆるぎのまつ))として、広く世に紹介した。
 相当の古木であったらしいが、いまは枯れて、昭和初期までその根幹だけが残っていた。
 享保一八年(一七三三)に刊行された『江府名勝志』に、「震の松 品川より池上へ行道の山岸に在(あり)、是を動せば大木なれども自由に動」と記載されているから、震松と呼ばれた縁由がわかる。
 境内にある八景坂の勝景詩を刻した句碑は、もと、八景坂上の臼田作次郎氏の邸内にあったものであるが、後に、ここへ移された。


広重描く八景坂鎧懸松の図
(『絵本江戸土産』より)

 高さ一・五メートルほどの自然石の表面に、「鎌倉のより明るしのちの月 景山」、裏面には、この八景坂上の眺望をよんだ「笠島夜雨、餃洲(さめず)晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大藺(おおい)落雁、袖浦(そでのうら)秋月、池上晩鐘」の八景詩が刻されている。
 この碑の建立者と考えられる景山とは、弘化四年(一八四七)に八五歳で没した大井村の名主、大野五蔵で、彼は杜格斎(とかくさい)と号した著名な俳人でもある。
 八景坂を下って、池上通りを南に約五〇〇メートル行くと、バス停山王三丁目に至る。
 ここを右に折れると、右側に薬師堂がある。

 薬師堂と桃雲寺再興・記念碑(山王三−二九−八)
 薬師堂は、今は全く小さな堂域を残すのみとなったが、もとは、この地を領した旗本木原氏の菩提寺で、桃雲寺と号した曹洞宗の立派な寺院であった。
 明治一三年(一八八〇)に、木原氏の庇護を失って衰微したため、馬込の万福寺に合併され、薬師堂とこの記念碑・天保期の富士講碑だけが当所に取残された。
 記念碑は寛文四年(一六六四)に木原氏五代目の義永が村内の古寺を再興し、堂宇を建立した記念に建てたものである。
 碑文により木原氏五代までの幕府における業績、薬師信仰の姿、当時の大森や新井宿周辺の地誌的様相などがわかる。

 また旗本領支配の実態を知る好個の資料ともいえよう。
 木原氏の初代古次は、徳川家康が江戸に入府したときに、遠州から随行した家臣で、幕府の大工棟梁でもあった。
 江戸城修築や日光東照宮の造営に功績があり、新井宿村一円が知行地として与えられ、代々この地を領した。
 寺号の桃雲は、吉次の号で、この地と木原氏とのつながりは強い。
 碑文は林古斎(一六一八〜八〇)の撰、碑の高さ一・五メートルほど、江戸初期のこの種の記念碑は珍しい。
 池上通りに戻り、右(池上方向)に四〇〇メートルほど行くと、右側に義民六人衆顕彰の大看板がある。
 ここを右に折れると突きあたりが善慶寺(ぜんけいじ、山王三−二二−一六)

 新井宿義民六人衆
 善慶寺には、江戸時代に農民運動的な越訴(おつそ)事件を起こした義民六人衆の墓と、その越訴事件の経過を知る訴状を書きとめた、当時の控帳などがある。
 いずれも都の文化財に指定されており、貴重な存在といえよう。
 この事件の詳細は、すでに別章で詳述したので、ここでは省略するが、是非一度この寺を訪れて、これらの資料を一見することをおすすめしておこう。
 池上通りに出て、大森郵便局の左側の道を東に約六〇〇メートル行くと、鬼足袋通りにぶつかる。
 これを左に折れ、四〇〇メートルほどで八幡通りの交差点にでる。
 ここを右にまがり二〇〇メートル、右側にお七地蔵で有名な密厳院がある。


新井宿義民六人衆の墓
(山王3丁目、善慶寺)

 お七地蔵(大森北三−五−四)
 密厳院の境内にある石造地蔵菩薩立像で、像高は一六一センチメートル。
 天翔二年(一六八二)、恋ゆえに放火の罪に問われ、鈴が森の刑場で火あぶりの刑に処せられた八百屋お七の霊を供養するために造立された。台石に、
  干時頁享二年乙丑四月廿四日
  地蔵菩薩開眼者 不入斗村 密厳院院
        大僧都法印 栄音
   武州豊島郡小石川村 一百万遍
   念仏講中

と刻銘されている。
 これによって、お七の三周年の供養のために、お七が住んでいた小石川の念仏講の連中が、鈴が森に近いこの寺を選んで建立したことがわかり、注目される。
 なお、本像にまつわる一夜地蔵という伝説などもあり、石造美術としても優品といえよう。
 密厳院を出て右手(東)に約三〇〇メートル行くと、第一京浜国道に至る。
 これを左(北)に折れ、一〇〇メートルほどで、左側に磐井(いわい)神社(大森北二−二〇−八)がある。
 『延喜式』の神名帳に「荏原郡二座(並と小)磐井神社」とあり、『三代実録』の、貞観元年(八五九)一〇月七日の項に、「武蔵国従五位下磐井神列官社」と記されているのが本社で、古代からの由緒ある式内社だと伝わる。


八百屋お七を供養するお七地蔵
   (大森北3丁目、密厳院)

 社伝では敏達天皇二年八月に、はじめて造営あり、清和天皇の貞観年間(八五九〜八七七)に、日本六十余州において国ごとに八幡宮の惣社を選んだとき、当社を武蔵国の惣社に定めたという。
 永正年中(一五〇四〜二一)に兵火に罹(かか)り、天文年中(一五三二〜五四)に再び火災で焼亡した。
 天正一八年(一五九〇)に、徳川家康が関東入国の際に参詣し、元禄二年(一六八九)には、将軍綱吉が当社を幕府の祈願所とし、享保一〇年(一七二五)にも、八代将軍吉宗が参詣、代官伊奈半左衛門に命じて社殿を改修させた、と伝える。

 磐井の井戸
 磐井神社社前の歩道上にある。
 もとは、ここも当社の境内であったが、道路拡幅のため、かろうじてここに取残された。
 江戸期には東海道を行き交う人々の渇をいやし、名井の名が高かった。
 『武蔵野地名考』は、「或古記」の説を転載して、当社に祈願する者が妄願(もうがん)であれば、この井戸水は塩味となり、正しい願いであれば清水となる。
 病者に対する効験も著しいので、薬水といわれた、という里伝を伝えている。
 しかも、当社の社名はこの井戸の存在によるものであるというが、正否はさだかでない。


かって東海道を行き交う旅人ののどをうるおした磐井の井戸
 (大森北2丁目)

 鈴石
 磐井神社の社務所に展示されている。社伝によると、この石の由来は、神功(じんぐう)皇后が、長門国豊浦の砂上でみつけ、その後、筑前の香椎(かしい)宮に納められたが、後に、豊前国宇佐(うさ)宮に遷(うつ)され、神勅によって宇佐宮の神祇伯(じんぎのはく)石川年足(としたり)に授けられたという。
 ところが、年足の孫豊人(とよひと)が、延暦元年(七八二)に武蔵国の国司に任せられて、任地に下り、多摩川のほとりに住んだ。
 そして、この石を当社に奉納したと伝える。石の形は鶏卵のようで、大きさ二尺ほど、色は青赤色、打つと鈴の響のような音がするので、これが鈴が森の地名の元になったともいうが、やはり伝説の域をでない。
 明暦四年(一六五八)に、山崎闇斎(あんさい)が薯した『遠遊紀行』に、その頃、この石が盗み去られたことを伝えている。
 だとすると、現在の鈴石は二代目ということになる。

 (からす)
 社務所に、鈴石と共に展示されている。
 山型の自然石の上部に、烏のような模様があるのでこう名づけられたらしい。
 江戸中期に成立した『武蔵志料』によると、この石は、もと麻布古川橋辺にあって、鷹石(たかいし)と呼ばれていたが、松下烏石(うせき、葛辰)が、自分の名を世に広めようとする魂胆で買いとり、当社に奉納したという。
 石の側面には、服部南郭の撰文が刻みこまれ、小嗣を建ててまつられた。
 また、松下烏石はその奉納の由来を碑石に刻み、境内に建てたので、その後、江戸の文人たちも当社を訪れ、筆塚などをここに建立した。
 今もそれらの石碑群が境内にある。


磐井神社にある鳥石の図(『東海道名所図会』より)

     二 大森地区 top

 京浜急行電鉄の平和島駅で下車し、東側の第一京浜国道を渡り、さらに進むと、旧東海道の美原通りにぶつかる。

 これを右に折れて約二〇〇メートル、郵便局の角を左にまがると、突きあたりが大同特殊鋼(旧日本特殊鋼)、その正門に沿った小路を入ると、右手に海難供養塔(大森東一−二七)がある。
 この塔は東京湾内で水死した無縁仏をまつる石造の五輪供養塔で、安政二年(一八五五)に再建された。
 総高二三二センチメートルで、同種のもののうち、屈指の規模をもつ。
 台石に、本塔再建の時寄進した江戸市中はもちろん、神奈川におよぶ魚介業者・武士・町人などの名、約三〇〇名が刻まれており、注目される。
 美原通りに戻り、左手(南)に約四○○メートル行くと、第一京浜国道と産業道路が分岐する交差点にぶつかる。 その三角点の角に、もと大森町役場であった警察庁機動隊大森分駐所があり、その手前の空地に、山県有朋(ありとも)の書を刻した西南・日清両戦役の記念碑がある。
 ここから、産業道路を二〇〇メートルほど南に行き、左に入ると、ちょうど大森第一小学校の東側が厳正寺(ごんしょうじ、大森東三〜七−二七)である。


水止舞い――雨乞いではなく水止という習俗はめずらしい
(大森東3丁目、厳正寺)

 厳正寺の水止舞い
 同寺に古くから伝わる郷土芸能で、都の無形文化財に指定されている一種の獅子舞いである。
 寺伝によると、当山二世法密が元亨元年(一三二一)の旱魃の時、七日間断食して雨乞いをしたところ、たちまち効験があった。
 ところが、同三年には、逆に五〇日におよぷ長雨になやまされたので、法密は、竜頭三つをつくり、止雨の祈願をし、里人に水止の獅子舞いをさせたところ、これもまた、霊験を現したという。
 この伝承がもとになって、里人による水止(みずどめ)の舞いが継承され、毎年盂蘭盆会(うらぼんえ)の七月一四日に奉納されるようになった。
 獅子舞いとしても異風をもつ特殊な舞いであり、雨乞いではなく、水止という習俗をもつことも注目される。
 なお当寺には、安永元年(一七七二)に、品川の住人渡部亦市(またいち)によって鋳造された梵鐘もある。
 厳正寺から産業道路に戻り、左手(南)に約四〇〇メートル行くと、左側に弁天神社がある。
ここを右にはいり、また約四〇〇メートルほどで、右側に大林寺(だいりんじ)があり、境内入口左手に池上道の道標が保存されている。
 ここから梅屋敷駅に抜ける第一京浜国道一帯は、東海道のあいの宿大森宿の中心地で、江戸期には、名物麦藁細工・道中常備薬の和中散売薬所・梅屋敷・梅びしおや梅干の売店・名産海苔茶漬けの茶屋などがあり、広く知れわたっていた。
 また、海苔採取業者が、近年までこの付近で業を営んでいた。

 池上道の道標 大林寺(大森中二−七−一九)の境内にある。享保一四年(一七二九)に、大森村の甲子(きのえね)講の人々が建てたもので、もと、東海道から池上本門寺に至る大森中宿の分岐路の角にあった。
 旧東海道の道筋にあった道標の遺存例はきわめて少なく、しかも、高さ一・六メートルという大型のもので、交通資料としても貴重である。
 なお、この付近には大森海苔の江戸期における実態を知る根本史料で、都の文化財に指定されている正徳五年(一七一五)から天保期に至る、海苔場紛争関係の文書を伝存する野口博康家(大森中三−一一)や、三輪厳島神社から出土した多数の中世板碑を保管する密乗院(大森中二−一七−五)などもある。
 弁天神社まで戻り、森が崎行のバスを利用して森が崎下車。
 バス停の南側一帯がもとの森が崎鉱泉場の歓楽街で、右側にみえる寺院が森が崎鉱泉の源泉地でもあり、鉱泉碑のある大森寺である。


旧東海道の道筋にあった池上道の道標
(大森中2丁目、大林寺)


明治から昭和にかけて繁栄した
森が崎鉱泉の碑(大森南5丁目)

 森が崎鉱泉と鉱泉碑(大森南五−一付近)
 明治二七年(一八九四)の旱魃の時、地元の農民が灌概用と無縁塚(大森寺)の手洗水に利用するため、掘抜き井戸を掘ったところ、偶然鉱泉が湧き出した。
 二年後に、堂域で無料施湯が行なわれるようになり、同三〇年には、最初の鉱泉旅館である光遊館が開業、数年後には、歓楽街を形成するほどに発展をとげた。
 東京近郊の保養・歓楽を兼ねた行楽地として、しだいに広く知れわたり、芥川龍之介・田山花袋・徳田球一・堺利彦などの名士が訪れ、昭和初期には大いに繁栄した。
 しかし、第二次世界大戦を迎え、旅館や料亭が軍需工場の寮などに転用されるようになって衰微し、往時の姿を失っていった。
 戦後も復活せず、現在は昔日の面影を全く残さない。
 なお、明治三四年に朝鮮の人陸鍾允の書を刻した鉱泉碑は、いまも大森寺の境内に残されている。

       三 羽田地区 top

 京浜急行の京浜蒲川駅下車。
 第二京浜国道に出て、少し品川方向(左手)に戻ると、新呑川にかかる夫婦(みょうと)橋がある。
 橋を渡り、橋際から右へ川に沿った道を約一〇〇〇メートル行くと、北糀谷橋を過ぎたところに、左手に斜に入る道があり、ここを入ると、右手に廃寺円竜寺の墓地(北糀谷一−二二−一〇)がある。
 ここには、六郷用水開租の功績でこの地を知行した小泉次太夫の一族の者や、円竜寺の歴代住持の墓石など、二九基が残る。
 円竜寺(日蓮宗)は、小泉氏の菩提寺として栄えたが、寛文年間(一六六一〜七三)に、禁教不受不施(ふじゅふせ)派に属したため廃寺となった。

 その墓域のほんの一部が今も残り、これらの墓石が一箇所に寄せ集められた形で保存されている。
 小泉氏や円竜寺の研究上、きわめて注目すべき存在といえよう。
 この墓地の、東側一〇〇メートルのところに、子安八幡神社(北糀谷一−二二−一〇)がある。
 慶長年間(一五九六〜一六一五)に、六郷用水と稲毛・川崎二箇領用水を、徳川家康の命で開削した功労者小泉次太夫は、川崎の代官職にあること二〇年間、元和五年(一六一九)に役を辞し、四年後に没した。
 その功績で、この地、下袋村と麹屋村で三〇〇石余の地を拝領した。
 子孫は、下袋村字殿山に居を構え、明治初年まで二五〇年間ほどこの地を知行した。
 当社は、小泉氏の氏神であった関係から、小泉氏にかかわる二、三の資料を残している。
 境内にある石鳥居は、安永三年(一七七四)八月に、小泉氏六代目、藤三郎包教(かねのり)の武運長久を祈願して村民が奉納したもので、区内最古の石鳥居としても注目される。


小泉正修が江戸・鎌倉間の遠馬に参加した記念――遠馬の献額
(北糀谷1丁目、子安八幡神社)

 また、社殿にかかる遠馬の献額は、小泉氏一〇代、久太郎正修(まさなが)が、嘉永六年(一八五三)四月一八日に、幕命で江戸・鎌倉間の遠馬に参加し、その成功を記念して奉納した。
 出発点高輪から到着点鶴岡八幡宮までを、鳥瞰図風に着彩で細密に描いており、左下方には、この子安八幡社や六郷の渡しなどもみえる。
 社前の道を右手(南)に六〇〇メートルほど行くと、この地の旧家、石井竹蔵家(西糀谷三−一−二○)がある。


旛谷家薬法の再興者、石井宗運の肖像画
(西埖谷3丁目、石井家)

 石井家文書
 一般に公開されていないので、見学することはできないが、当家には、江戸初期に、家伝の名薬として知られた薬師(くすし)石井家の由緒を記す古文書約二〇点が保存されている。
 当家は寛文期(一六六一〜七三)に、宗運がでて家伝の梅谷家薬法を再興、その効験が著しいので、幕府が認めるところとなり、家伝の薬師如来像をまつるために、薬師堂地五〇間四方を下賜されたという。
 人参養血散・仏守養気散・十方散など、家伝薬の調剤法・を記した文書なども伝存し、在方の薬師の生活の一端を知る、貴重な史料として注目される。
 石井家の南西約五〇〇メートルのところに、京浜急行空港線の糀谷駅がある。
 ここから空港行きの電車に乗り、穴守稲荷駅下車。
 駅の東方約三〇〇メートルの所に、穴守稲荷神社(羽田五−二−七)がある。
 現在の東京国際空港の地は、要(かなめ)島と呼ばれた多摩川のデルタによる海岸出洲中の低湿地であったが、羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門が、羽田村名主石井四郎右衛門に折衝して譲りうけ、鈴木新田という名称で開発、文政二年(一八一九)頃に、ほぼ新田の体裁をととのえた。



海上安全の守護神、羽田弁財天社
(『江戸名所図会』より)

 ここに、堤防の守護神として祀られたのが、穴守稲荷であったが、明治一八年(一八八五)に、地元の有志が土地の振興策として公衆参拝の公許を得て、社殿を新築してからしだいに繁栄するようになった。
 しかも、同二七年には、社前に鉱泉が発掘され、海浜のリゾートと遊楽地の条件が合致し、東京近郊の行楽地化して海水浴・潮干狩り・社参と、多くの人々が集まるようになった。
 さらに、京浜電車が大正二年(一九二二)に社前まで乗入たことによって、いっそう発展に拍車がかかった。
 ところが、昭和二〇年、敗戦によって米軍に空港一帯の地が接収され、いったん羽田神社に合祀されたのち、現在地に移転、再建された。
 現在、空港内にある大きな石鳥居は、当社が空港内にあった時代の遺物である。
 穴守稲荷社の南、約五〇〇メートルのところに、旧羽田猟師町があり、多摩川べりの水神社の水神祭は、注目すべき行事である。
 羽田の水神祭は、毎年一・五・九月の一一日に挙行され、とくに正月は盛大である。
 この祭りは、氏子中の二四、五歳の若者が三〇人くらい出仕して、神官の祓(はらい)をうけたのち、羽田船謡(ふなうた)におくられて、いっせいに海中へ飛びこむ勇壮なもの。
 この時、旗や吹流しで美しく飾られた漁船が何艘も沖に出て、この船から海中に投げ込まれた角樽を、若者たちが水中で奪いあう。
 若者たちはこの神事に三年とか五年とかの年限を定めて願をかけて参加し、角樽を奪うと必ず心願成就すると信じた。
 奪いあいが終ると、各船は漁撈を一周し、神酒(みき)を海にそそいで大漁を祈願し、船謡を歌いながら帰港するという、古式豊かな行事である。
 なお、当社の境内に、もと空港内にあった玉川弁才天社の下宮が合祀されている。
 玉川弁才天は、旧別当寺である竜王院(羽田二−二六−一一)に上宮があり、下宮は、もと要島にあったから、風光明媚なことと、海上安全の守護神として、しだいに繁栄し、江戸近郊の名所として広重などの浮世絵の画材にもなった。
 江戸期の作と思われる前立の弁才天像が奉祀されている。
 伝説によると、武州の日原(にっぱら、西多摩郡奥多摩町)は、弘法大師の開いた霊山で、この山の、大日堂の付近にある霊水から、宝珠が湧き出して多摩川を流れ、羽田の岸について目夜霊光を放った。
 康治二年(一一四三)のことで、里人はこれを拾い、小祠を建てて奉安したのが、当社の始りだという。
 水神社から多摩川沿いの道を西に約一〇〇〇メートル行くと、大師橋下に出る。
 その角に、不動明王像を本尊とする了仲寺(りょうちゅうじ、本羽田三−一〇−八)がある。

 了仲寺の不動明王立像
 像高七〇センチメートル、寄木造り、彩色、玉眼の像。
 『新編武蔵風土記稿』に、宝徳二年(一四五○)と文禄四年(一五九五)に修復が加えられたと記されているから、これが事実だとすると、かなり古い仏像ということになる。
 像身は、みるからに古様(こよう)を呈するが、付属の二童子や光背(こうはい)は最近の補作である。 了仲寺の北隣りに、羽田神社(木羽田三−九−一二)がある。

 富士塚
 羽田神社の拝殿の裏にある。羽田富士と呼ばれ、近隣の富士講の講員が富士山に都合悪く登山できない時に、この人工の小山に登って、信仰の姿を示すためのもので、明治初年に築造された。
 今でも毎年七月一日の山開きには、講員がこの行事に参加しており、民俗学的にも注日される存在である。
 羽田神社の北隣りが自性院(じしょういん)
 牛頭(ごず)天王堂 自性院の境内にある。
 木造銅板葺(ふき)・唐破風(からはふ)造り、九・九平方メートルの小堂。
 昭和四年に、大森の弁天神社から移築されたものであるが、軒下の周囲に見事な彫刻が施され、江戸後期の優れた建造物として、高く評価される。
 自性院の前の産業道路を、北に約二五○メートル行くと、左側に、潮田文書を伝存する中山栄之助家(萩中三−二二−七)がある。
 潮田文書は、羽田浦の旧家、潮田家に伝存したが、後に羽田浦の戸長をつとめた中山家に移り、今に伝えられた。
 非公開。後北条氏の羽田浦水軍支配の動静を知る、貴重な中世文書七点を含むもので、その存在価値が高い。


不動明王立像(本羽田3丁目、了仲寺)

       四 蒲田地区 top

 京浜急行梅屋敷駅で下車し、第一京浜国道に出て、右(川崎方向)に約三〇〇メートル行くと、右側に梅屋敷公園(蒲田三−二五−六)がある。
 この公園については、すでに前述したので、ここでは説明をはぶくが、往時をしのぶ天保五年(一八三四)麦住亭梅久(山本久蔵)の句碑なども残っているので、是非立ち寄られたい。 公園の北側に沿った路を西に向かうと、三〇〇メートルほどで右側に円頓寺(えんどんじ、日蓮宗、蒲田二−一九−一五)がある。


日芸(右)と行方弾正(左)の供養塔
(蒲川2丁目、円頓寺)

 日芸と行方(なめかた)弾正直清の供養塔
 円頓寺境内の左側の墓域にある。
 日芸の供養塔は、総高二二五センチメートルの宝筐印塔(ほうとういんとう)で、寛永二〇年(一六四三)に没した当寺中興開山(実質的には開山である)日芸の供養のために、没後間もなく、弟子や檀徒たちの手で建立されたことが銘文でわかる。
 寺伝によると、当寺は後北条氏の有力家臣で、六郷領の代官的存在であった行方氏累代(るいだい)の館跡であったが、後北条氏の没落後、行方氏の当主弾正直清の弟で、出家して池上大坊本行寺の住持であった日芸が、ここに一寺を創建したと伝える。
 ちなみに、本塔の刻銘に「行方氏一門」の記銘や、一族の者と推定される法号が刻まれ、日芸が行方氏出自の僧であったことや、行方氏縁故の寺院であるという寺伝を裏付ける史料となる。
 直清の供養塔は、日芸の宝筐印塔と並んであり、古くは直清の墓と称されていた。
 正面に「性光院殿円安行頓日方居士」、右側面に「天正十八庚寅年三月十五日 相州小田原陣打死 俗名平姓行方弾正居屋舗六郷地頭境内永除地」、左側面には「北蒲田村性光山円頓寺中興開基本法院日芸聖人建立」とあり、背面の刻銘は故意に削除されたような形跡がある。
 形式的にみても、普通の墓標的石柱で、その成立年代はとうてい江戸初期に溯(さかのぼ)りうるものではなく、「日芸聖人建立」などの字句からも、日芸の時代に造立されたものとは考えにくい。
 おそらく江戸中期以降に、当寺の来歴を示すために建てられたものか、あるいは、日芸建立の旧碑が破損したため、再建したものではないかと推測される。

 円頓寺の西側に隣接して、稗田(ひえだ)神社(蒲田三−二−一四)がある。
 『延喜式』の神名帳に記載される、荏原郡の古社二座のうちの一社であるといわれる。
 『三代実録』の貞観六年(八六四)八月一四日の項に、「武蔵国従五位下 (蒲)田神を以て官社に列す」とあり、古くは、蒲田神社と呼ばれていたのかもしれない。
 蒲の古字は蒱を用いるところから、蒱の草書体が、芦の草書体に酷似しているので、後に、蒲田と読み違えられたのではなかろうかという説もある。
 当社の石鳥居は、花崗岩の明神型、高さ三一〇センチメートルという、比較的大きい立派なもので、寛政一二年(一八〇〇)に造立された。
 北側に隣接する栄林寺(蒲田三−一−一六)は、当社の別当で、境内に寛永三年(一六二六)に没した開山千如院日好の供養塔がある。


古く平安時代の記録にもその名がのこる稗田神社(蒲田3丁目)

 塔身が二石になっており、素朴で珍しい笠塔婆型の塔で様式的にも興味深い。
 また、付近の妙典寺(蒲田二上一丁一〇)は、中世にこの地を領した江戸氏一門の、蒲田道儀が開創した寺院で、その子孫である蒲田重蓮の墓碑(元禄一二年建立)などもあり、きわめて注目すべき存在であるが、戦災で焼失し、多くの資料が灰燼(かいじん)に帰したのが残念である。
 蒱田神社前の道を東に向かい、二つ目の角を右に折れて、約五〇〇メートル行くと、京浜急行の京浜蒲田駅前西側に妙安寺(日蓮宗、蒲田四−一八−一五)がある。

 妙安尼の供養塔
 妙安寺は、当地の地頭(じとう)行方修理亮(しゅりのすけ)義安が、永禄年間(一五五八〜七〇)に戦死した後、その室妙安尼が、兄である斎藤政賢(まさたか)の屋敷内に庵室を結び、妙安尼の死後、この庵室が寺院になったものと伝えられる。
 境内に、高さ一四二センチメートルの宝篋印塔があり、正面に「円光院殿妙安日行 天正十七己丑天七月三十日」、台石に「寛永二十□年九月十九日」と刻されている。
 これによって、この塔は、開票妙安尼を供養するために、寛永期に造立されたことや、妙安尼の没年・戒名などもわかり、貴重な存在である。

 日蓮聖人坐像
 妙安寺の祖師像で、高さ三六・七センチメートル、銘文により慶長一七年(一六一二)に、願主石井新右衛門尉の資助で造立されたことがわかる。
 区内でも古い部類に属するもので、おそらく、当寺の開創期に造立されたものであろう。
 願主石井氏については明らかでないが、石井姓は当寺の檀徒や、この周辺地域に多く存在しているので、あるいは、その石井姓と関係があるのかもしれない。
 妙安寺の南側の道を西(右手)に向かい、約七〇〇メートル行くと、国電蒲田駅に出る。
 蒲田駅の地下道をくぐり、西口に出て、東京急行の蓮沼駅に通ずる路を、さらに西へ三〇〇メートルほど、大城通りを右にまがると、左手に女塚(おなづか)神社(西蒲田六−二二−一)がある。
 社域に、この地の地名のもとになったという小さな塚がある。
 この小円墳については、諸説があり、当地の長者の女(むすめ)を葬った塚、旅の美婦人がこの地で没しこれを葬った塚、有名な矢口の渡しの新田義興伝説にまつわるもので、義興の愛人少将局(しょうしょうのつぼね)を葬った塚など、いずれも、女人を葬ったということから、女塚と称されたという。
 とくに、少将局とこの塚にかかわる伝説は、大町桂月や白石実三によって、広く世に紹介され、有名になった。
 女塚神社の西、約一〇〇メートルのところ、大田税務事務所前の道を右(北)に折れた左側に、月村雅一家(西蒲田六−三四−四)がある。


慶長17年造立の日蓮聖人坐像
(蒲田4丁目、妙安寺)

 三宝尊像
 月村家の内仏として安置されており、もちろん公開されていない。
 台座裏に銘文があり、それで、天正三年(一五七五)にこの地の土豪、月村宗観が自身の逆修(ぎゃくしゅう)供養(生前に自分の後世菩提を弔うこと)のために造立したことがわかる。
 この像の造立に際し、月村氏の菩提寺である池上照栄院の六世日説が開眼導師(どうじ)をつとめ。八世日濃も花押(かおう)を添えている。
 月村宗観に関する武勇の伝説は、この地に種々の形で伝わるが、『新編武蔵風土記稿』が伝える池上常仙院の伝説では、宗観の葬儀を督したのに、池上本門寺の九世日純だったという。
 しかし、日純は、天文一九年(一五五〇)に没しているので、年代的に二五年ほど開きがあり、この像の月村宗観と同名ながら、同一人とは考えにくい。
 あるいは常仙院伝説が、年代をとり違えているのか、それとも、月村宗観の名が累代の襲名なのか、現在にわかには決めがたい。


天正3年、土豪月村宗観が造立した三宝尊像
(西蒲田6丁目、月村家)

 月村家の北側、約二〇〇メートルのところに、蓮華寺(真言宗)がある。

 十一面観世音菩薩立像
 蓮華寺(西蒲田六−一三−一四)の本尊で、像高九〇センチメートル、一木造り、彫眼。台座は後補、俗に火除(ひよけ)観音と呼ばれる。
 銘文がないので成立年代を明らかにしえないが、様式的にみて、鎌倉期のものと考えらる。
 元禄一四年(一七〇一)に成立した『蓮華寺縁起』によると、当寺は、寛弘年中(一〇〇四〜一二)に恵心が開創、嘉禄〜康元頃(一二二五〜五七)に、蓮沼法師が中興した古刹であるという。
 蓮沼法師は、荏原郡の地頭で、名を荏原兵部有治(ひょうぶありはる)といい、出家して、後に鎌倉将軍宗尊(むねたか)親王から八町四方の地を賜り、七堂伽藍を建立した。
 天文年中(一五三二〜五五)に、近郷が兵火の災にあい、当寺にも火がついたので、観音像を近くの蓮沼に避難させると、たちどころに諸堂に火の手があがり、灰燼に帰した。
 この奇瑞を見た里人は、以来、この像を火除観音とあがめ、また、これ以後、村内に火災の患がなくなったと伝える。


十一面観世音菩薩立像
(西蒲田6丁目、蓮華寺)

   五 六郷地区 top

 京浜急行六郷土手駅下車。線路と並行して、駅の東側に第二京浜国道がはしる。
 国道に出て北(左手)に約六〇〇メートル行くと、右側に六郷神社がある。
 六郷神社に行く途中、駅から国道に出るとすぐ右手に、旧東海道がわずかに残る。
 この道の途中、右側に、徳川家康の家臣で、江戸入府の時この地を知行地として賜ったという旗本高木伊勢守守久(もりひさ)の陣屋跡で、後に日蓮宗の寺院となった観乗寺(東六郷三−一六−一)がある。
 また、国道沿いの西側には、六郷神社の旧別当寺で、江戸期には寺領一〇石、葵(あおい)定紋、長柄乗輿(ながえのりごし)を許され、享保一三年(一七二八)建造の木造瓦葺(かわらぶき)方形造りの本堂と庫裡を今に伝存する真言宗宝珠院(仲六郷四−三四−八)、そのすぐ裏手西側、京浜急行の線路沿い西側には、寛永一二年(一六三五)に造立された、厨子の扉に弘法大師の遺徳を鑽仰(さんぎょう)した細密か筆致の、大和絵風の絵画をもつ弘法大師像や、寛永一二年(一六三五)の釈迦如来立像、正保三年(一六四六)の観音菩薩立像などを安置する真言宗東陽院(仲六郷四−六−二)などもあるので、時間が許せば立寄ってみよう。


多くの伝説につつまれた六郷神社
(『江戸名所図会』より)


六郷神社の流鏑馬は子供の演ずる歩射様式
写真はその的

 六郷神社(東六郷三−一〇−一八)
 当社の開創にまつわる伝説が、いろいろあり、江戸期の地
誌類などで広く紹介されているので、以下におもなものを列記しておこう。
 @八幡太郎義家が奥州征伐(天喜五年、一〇五七)の時、武器を納めて塚とし、後に、八幡宮を祀ったので、塚を八幡塚、宮を八幡宮といった。なお、境内の小竹は、義家が鞭(むち)に使用したので、鞭竹という。
 A義家は、鎌倉より一〇里ごとに八幡宮を勧請した。その旧跡の一社で、ここから鎌倉までは
九里余ある。
 B源頼義・義家父子は、奥州征伐の際、当社の老杉に白旗をかけて勝利を祈った。凱旋の後、祈願成就の報賽(ほうさん)として、当社を建立した。
 C源頼朝は、石橋山合戦に敗れて、房総に落ちのびたが、再起して大軍を率い、この地に渡海して御幡をたて、根拠地とした。
 ついに鎌倉を手に入れ、勝利を収めたので、この故地に鶴岡八幡官を勧請し、梶原景時を普請奉行とし、社殿を造営した。
 境内にある塚は、頼朝が宝物神器を土中に埋めたものという。
 D『延喜式』の神名帳にある薭山神社が、当社である。
 E建治二年(一二七六)に、竹内某の祈願で建立された。
 これらの諸伝を、そのまま納得するわけにはいかないが、境内にある小円墳、八幡塚から、最近、中世のものと推定しうる、青色系の釉薬(うわぐすり)のかかった陶器の壷が出土し、当社に保管されている。
 いずれにせよ、相当の古社であることは疑いなかろう。
 後北条氏の時代になり、地官行方半右衛門、代官串部式部の時、享禄四年(一五三一)に、当社を造営したことを記す棟札が伝存したことを、『小田原編年録』(文化九年、一八一二成立)が伝えるが、いまは見当らない。
 徳川家康は、江戸入府と共に、当社に社領一八石を寄進した。
 また六郷橋竣工のおりに、当社にささげた祝詞も伝えられているので、この頃には、相当の規模をもつ東海道筋の名高い神社となったようである。

 手水石(ちょうずいし)
 社務所の前にある。この地で一〇〇〇石を領した旗本高木伊勢守守勝が、天翔三年(一六八三)に寄進したもの。
 高木氏は、代々徳川家に仕え、家康が江戸へ入府するとき随行してこの地を賜り、現在の観皇寺のところに館を構えたという。
 守勝は、天和二年(一六八二)一二月二七日に従五位下・伊勢守に叙任したから、それを記念して氏神である当社に、この手水石を寄進したのであろう。

 狛犬(一対)
 今は社務所の前庭に置かれているが、もとは社前に並置されていた。
 貞享二年(一六八五)に、六郷の中町の一七名の同行が願主となって、石屋三右衛門に造らせたもので、独特な風貌が、ユーモラスは雰囲気をただよわせる。

 流鏑馬(やぶさめ)
 毎年正月七目に、当社の境内で挙行される開運出世祈願の行事で、都の文化財に指定されている。
 氏子中を代表する男児が、射手・手綱取りほか八人、射手は、竹矢来の中で四対の眉目を描いた白布の的に、椿の弓で篠竹の矢を射込む。
 子供の演ずる歩射様式の流鏑馬として注目される。

 獅子舞い
 毎年六月三日の例大祭に奉納されていたが、舞い手が年少の学童であるため、現在では、六月上旬の日曜日に行なわれるようになった。
 獅子は、二一〜一五歳の男子、頸に獅子をかぶり、前に太鼓をつけた牡・牝・中の三人、同年代の女子が、花笠をかぶり、ササラの奏楽をする。
 これに大人の笛・囃子方と、中踊りなどの世話方がついて一組となる。町内を練り歩き、二日がかりで舞いつづけ、最後に境内で納め舞いをして終る。

 六郷神社から第一京浜図道に出て、国道を渡り、まっすぐ西北に向かう道を約七〇〇メートルほど行くと、宝幢院(ほうどういん、真言宗、西六郷二−五二−一)がある。
 寺伝によると、近郷の鵜之木村の古刹光明寺が、三世行観覚融(ぎょうかんかくゆう、正中二年、一三二五没)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。
 行観はこの改宗を気にかけ、後に、この地に真言宗の一宇を建立して光明寺の院号である宝瞳院をもって呼ぶようになったという。


区内最古の宝幢院梵鐘


宝幢院本尊の阿弥陀如来立像
(西六郷2丁目)

 もとは、境内一万五〇〇〇坪(四万九五〇〇平方メートル)を有し、僧侶の子弟を教育する檀林で、末寺五〇ヵ寺におよび、六郷本寺と称されたという。

 阿弥陀如来立像
 当寺の本尊で、像高六八・三センチメートル、寄木造り。近年修理の際、天文年間(一五三五〜五五)に、仏師鎌倉法橋賢養(ほっきょうけんよう)、助手道湛(どうたん)が、この像を修理したという銘文が発見されているから、かなり古い仏像であろう。

 宝憧院文書
 享禄五年(一五三二)に、北条氏康が寺領一一石を寄進した印判状をはじめ、四通の後北条氏文書と、一二通の徳川歴代将軍の朱印状が残されている。
 一括して都の文化財に指定されており、貴重な存在。一般には公開されていない。

 梵鐘(ぼんしょう)
 当寺の一八世弁栄が願主となり、近郷の末寺や檀家の寄進で、延宝四年(一六八一)に、鋳物師椎名伊予守良寛が多摩川の河原で鋳造した。
 総高一七九センチメートル。江戸初期の典型的な様式をもち、区内最古の梵鐘として注目される。
 宝旨院を左手に出て、二つ目の角をまた左に折れると、多摩川の堤防にぶつかる。
 堤防下右側に安養寺(真言宗、西六郷二−三三−一〇)がある。
 寺伝によると、行基が和銅三年(七一〇)に、当地にあった銀杏の霊木で、薬師・釈迦・弥陀の三尊をつくり、精舎を建て、これを安置して東光坊と号したという。
 その後、天平五年(七三三)に、光明皇后が皇子を誕生のおり、乳が出ないので、行基に祈祷を乞うたところ、当寺に銀杏の木を寄進すれば乳味を得るといわれた。
 さっそく寄進したところ、願いが成就したので、聖武天皇は、医王山世尊院安養寺の山号を下賜し、七堂伽藍を寄進建立したという。
 現在も、藤原仏と推定される三尊が伝存しているので、かなりの古刹であることは間違いない。
 江戸期には、近郊の名所として広く知れわたり、池上本門寺・新田神社と共に、この周辺の巡拝コースに組入れられ、周遊をかねた参詣者でにぎわった。

 薬師如来坐像・釈迦如来坐像・阿弥陀如来坐像
 境内右側の薬師堂に安置されている。
 薬師は高さ一六七センチメートル、釈迦は一五五センチメートル、弥陀は一五八・四センチメートルという大きな仏像。
 薬師と釈迦は。同一作と思われるほど酷似しているが、弥陀は、少し時代が下った別作のようである。
 三像とも藤原末期の作と推定され、造型的にも秀れた作品で、三体がそろって伝存した例も珍しい。
 各像の膝裏に、慶長一七年(一六一二)の修理時の銘文が墨書されているが、造立当時の銘文は発見されていない。
 都の文化財にも指定されている。

 仏像群
 本堂と薬師堂に、計三五躯というおびただしい数の仏像が安置されている。
 そのほとんどが、元禄期に当寺の中興五世栄弁が願主となって造立したものである。 このように、同時代の仏像が多数一寺に伝存する例も珍しい。


行基が建てたと伝わる東光坊の後身、安養寺
(西六郷2丁目)

 なお、門前右側に、もと東海道筋にあった延宝二年(一六七四)建立の古川薬師道の道標、境内には、古木乳銀杏の削取・折取を禁じた元禄三年(一六九〇)の禁制碑や灯籠、江戸末期の富士講碑などもある。

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