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Home 杉並区の歩み(前半 後半) 杉並の自然 杉並の生活 文化財散歩 付録

 第一部 杉並区のあゆみ(一章〜三章)    安藤幸吉/尾藤さき子

一章 大昔の杉並区域
 1 杉並のはじまり
 2 縄文時代
 3 弥生時代
 4 古墳時代
二章 古代の杉並
 1 武蔵の国府と杉並
 2 杉並の古代人
 3 乗潴の駅
三章 杉並の武士と村々
 1 鎌倉道と中世の遺跡
    杉並区を中心にした鎌倉道仮復元図
 2 江戸氏と豊嶋氏
 3 戦乱の時代と、あさかや
    あさかや殿 
 4 杉並の村々のはじまり

    一章  大昔の杉並区域 top

      1 杉並の始り


 ビルの屋上に立つと、西の方に立ち並ぶビルの群を通して、秩父連峰を中心に関東山地の山々が望める。
 さぞかし大昔は、ビルも家もなく大地にしっかりと足を置いて一望千里の雄大な山々を見ることができたことだろう。
 もちろん杉並区・練馬(ねりま)区というような区画はなかったわけである。
 はるかに見える山々の間には、森や林や野原が果てしなく続き、そちこちに清らかな泉が湧き出て、リスや兎のような小さな動物や小鳥たちが、わが世の春を謳歌していただろう。
 そして北東には、海に浮かぶ孤島のような筑波山の雄姿を、西南には多摩の丘陵が静かに横たわる、実にのどかな風景だったにちがいない。
 わが杉並は、秩父(ちちぶ)連峰の一つである雲取山や大菩薩(だいぼさつ)嶺など標高二〇〇〇メートル級の山々を頂点に、ゆるやかに東南へ傾斜しながら扇状に広がる台地の東寄りに位置するのである。
 これは、大昔、古富士や箱根の火山活動によって噴き出された火山灰が、偏西風により運ばれたり、西の山々から流れ出る多摩川や荒川や入間(いるま)川によって流されてきた火山灰が、長い間つみ重ねられてできた西方の青梅付近より東南方に大きく約五○キロメートルも広がる洪積台地で、武蔵野台地と呼ばれている。
 この台地は隆起扇状台地といわれ、地質学的には、武蔵野ローム層および立川ローム層と呼び、総じて関東ロームと呼ばれている。
 この武蔵野台地は、青梅(おうめ)で約一八〇メートル、立川で約八五メートル、吉祥寺(きちじょうじ)で約五〇メートルから六〇メートル、新宿で約四○メートル、東端の山ノ手では約二〇メートルと次々に低くなり、杉並では、標高五〇メートルから三五メートルとなり、大きな三本の低地が入り込み、神田川・善福寺川・井草(いぐさ)妙正寺川の三河川が流れる地形的な下地をつくっている。
 すなわち、この武蔵野台地の地下数メートルには、一面地下水があり、標高四五メートルから五〇メートルの窪地や崖から湧き水となって地表に流出しているのである。
 この湧き水が井の頭(いのがしら)池・善福寺(ぜんぷくじ)池・妙正寺(みょうしょうじ)池などの池や泉となり、前述の区内三河川の源流となっている。この河川は昨今の河川改修や下水道工事で見ると、地下五メートルくらいのところに濯木や根株のあるところから、もとはかなり深い谷間で、そこに清らかな水の流れがあったことが想像される。
 このような清流や泉を求めて広漠たる武蔵野の原野から人々が集まって、生活の足跡を残したのはいつ頃だろうか。
 神田川流域の高井戸(たかいど)東遺跡や善福寺川流域の川南遺跡・大宮和田堀遺跡などから出土した遺物から推定すると、古くは、今から約二万五〇〇〇年前の人々の生活を知ることができる。
 しかも土器のない旧石器人たちは、石器を唯一の道具にして、近くの森や林で動物を狩り、眼下の川で魚などをとり、あるいは木の実を採集して、飢えをしのいでいたと考えられる。


大宮八幡宮旧観

    2 繩文時代 top

 やがて人々は、生活用具の一つとして、火を使って近くの崖や川底の粘土で土器をつくることを覚える。

 すなわち土器文化(縄文文化)の始まりである。大宮和田堀遺跡では、方形周溝墓(しゅうこうぼ)の発掘調査に伴って“微隆起線文土器”という日本の土器編年上最古といわれる土器片が、正しい地層層序の中から出土している。
 そして上井草四丁目では、昭和一六年に東面した畑の斜面を調査発掘中の矢島詩作氏によって、当時でもっとも古いといわれた早期の土器が出土し、“井草式”と命名されて学界の注目するところとなり、今にその形式名を残している。
 そのほか荷稲台(いなりだい)・夏島(なつしま)・茅山(かややま)・大丸(おおまる)・田戸(たと)など早期各形式に鎬する土器の出土が認められる遺跡の存在が知られているが、区内三河川のうちで善福寺川には、もっとも古い土器文化の足跡を多く認めることができる。
 これは、この川が杉並区内では一番蛇行が大きく、舌状台地の多いことも原因しているといえよう。


井草遺跡より出土した「井草式土器」

発掘中の松の木遺跡(昭和51年5月)

 早期の土器には、底の尖ったものが多く、胴部の文様も単純な縄目や貝殻を使った比較的厚く粗製のものが多い。
 早期の住居跡は、全国的に少ないといわれているが、区内ではまだ知られていない。
 前期に入ると、土器の器形にも大きな変化が見られ、その文様も竹管をいろいろ使い分けたりして、やや複雑な文様や、口縁部(こうえんぶ)にも装飾を見せたりするようになる。
 そしてなにより土器の粘土中に、植物繊維を混ぜた繊維土器をつくるようになる。
 この縄文前期の時代は、関東地方においてもっとも海進が進んだ時期で、群馬県藤岡あたりまで貝塚の存在を確かめることができるが、杉並区内では、縄文各期を通じて貝塚の存在は現在、認められない。
 この頃の土器は平底が多く、成田西の尾崎熊野神社遺跡では、諸磯(もろいそ)式後半の遺物を出土し、炉を伴った方形の住居跡を善福寺川の北面舌状台地上に確認することができた。
 これは杉並にも人々が定住して生活文化が向上していったことを示すものである。
 中期に入ると、さらに器形・文様の変化に富み、機能的な土器が現われてくるのである。
 五領ヶ台(ごりょうだい)・下小野(しもおの)・阿玉台(おたまだい)・勝坂・加曾利(かそり)E式などである。
 これはけっして一気に中期の文化へ移ったのではなく、五領ヶ台のように、前期の様相をその土器面に残しながら長い年月をかげて、次々と胴部や口縁部や文様に豪華な変化を見せてくる。
 そして勝坂・阿玉台式の時期にもっとも優美ないきいきとして力強く芸術的な器形と文様と装飾がみられ、縄文文化の最高頂になるのである。
 これは、狩猟採集で暮らしを立てていた当時の人々にとって、自分たちの生活を支えてくれる環境の変化への恐怖に対する祈りか、自然のカヘのあこがれに似た表現であるとしか思われない。
 この頃、神田川流域では下高井戸塚山に、善福寺川流域では大ヶ谷戸(いと)・谷戸・松の木・方南峰などに代表的大集落ができ、多くの人たちがここで暮らしていたことがわかる。
 これらのほかにも多くの遺跡が各河川流域に認められる。
 中部山岳や利根川流域などの遠隔地である山と海の文化に影響された文化も、中期末の加曾利E式以後の各時期にはその文様的・装飾的退化のきざしを見せる一方で、単純ではあるがしかし実用的なものへと変化してゆく傾向がみられる。
 これら中期の土器を出土する住居跡は円形プランが多く、何軒もの家が丸く群をなしている。
 これを環状集落と呼んでいる。このことから人々は集団で暮らし、集落の中心は広場であったようである。
 人々はこの広場を中心に苦楽を共にし、祭りを催し、交換市も立つだのではなかろうかと想像できるのである。


ダニ痕のある土器(松の木遺跡出土)

塚山遺跡出土の土器

 後期になると、東京湾周辺の貝塚は、その数がもっとも多くなり、全国の二分の一に当るといわれる。貝塚の中からは貝殼にとどまらず、大小の海魚の骨が多くみられるようになる。
 これは、人々が狩猟採集の生活から漁撈の生活へと移っていったことを証明するものであろう。
 一方、杉並では後期の土器を伴出する住居跡や遺物は少なくなる。
 わずかに善福寺川流域の光明院(こうみょういん)遺跡と妙正寺川流域の向井町(むかいまち)遺跡から住居跡を認めることができ、土器を伴出する。
 出土土器については各流域とも数ヵ所を見るが、中期に比べて比較にならないほど少ない。
 これは海岸線のない杉並から、人々が暮らしやすい地方へ移動したとも考えられる。
 晩期に至っては、松の木台地と大宮和田堀台地に数個の土器片を確認するのみでまだ他に出土例を見ない。
 しかし、この頃東北の亀ヶ岡では緻密で精巧な、すばらしい土器に代表される亀ヶ岡繩文文化が盛行して関東地方にもその影響を与え、関東地方の晩期土器にその影をとどめている。
 この頃北九州では、アジア大陸の農耕文化の影響をつよく受けて縄文晩期末から農耕文化に移行し、金属器文化を伴って、いわゆる弥生文化が確立されてくることになる。

      3 弥生時代 top

 わが国の弥生文化は、日本の黎明期といわれているが、関東にその文化が入ってくるのは弥生時代中期前半といわれる。 杉並区においては、弥生式後期末に至って、ようやくそこに杉並弥生人たちの暮らしの跡を見ることができる。
 杉並区内については、川と流域低湿地帯の幅が広く、流れが比較的豊かな善福寺川流域にみられ、松の木・済美台(せいびだい)・方南峰遺跡にあたる。
 これら各台地上にある住居跡群や大宮和田堀の方形周溝墓と、そこから出土した土器・勾玉(まがたま)・ガラス玉などがそれを証明してくれる。
 人々は田を耕し稲を作り、機(はた)を織り、毎日をあわただしく暮らしたことだろう。
 一般的には、弥生時代は農耕によって蓄積が可能になった。
 ことにより、必然的に階級社会へ移行してゆくといわれる。
 確かに、集団的作業を必要とする水田耕作という文化の本質によって、統率者と被統率者が生まれたとみられる。
 杉並ではどうだったろうか。集落の存在から、杉並における水田地帯を松の木−済美台−方南峰台地周辺と考えた場合、その河川敷の面積は、埼玉県など他の方面のそれと比較にならないほど狭いことに気づくのである。
 大宮和田堀の方形周溝墓は、勾玉・ガラス玉・土器などを副葬品として埋葬した。
 その墓の主は、やはり、この辺で権勢を誇った人にちがいないだろう。しかし、前述のような耕作面積を他地域と比較してみると、どの程度の支配力を有していたのか、また単独でこの流域全体の支配を維持しえたのであろうか、いずれも不詳であり、今後の考古学的調査の発展に期待されるところである。

      4 古墳時代 top

 階級社会をうみだした弥生時代も三世紀末頃より古墳時代となる。
 杉並では今まで、確かな古墳の存在は知られていない。
 しかし、人々の暮らしの中にいつも生き、そして脈々と続いている生活用具としての土器は、多くの住居跡とあいまって出土している。
 古墳時代から作られる土器を土師器(はじき)といい(後半には須恵器(すえき)も作られる)、土師文化ともいわれる所似である。弥生文化の後期からがどのように古墳文化に移ったかは、一般的には土器の器面に文様や装飾がなくなることで区切りをつけることができる。 弥生式土器の文様が消え、実用的・合理的・多量生産的な土師器は、その社会的背景を無言のうちに語りかけてくれる。
 古墳時代でも、弥生時代のように農耕に適した河川に面する台地人が人々の暮らしに最適だったようで、善福寺川流域の成田西矢倉台・松の木・済美台・方南峰台地と神田川流域の高井戸東など代表的集落は、いずれも台地上に見ることができる。


高井戸東遺跡の土師器出土状況

 人々は穀類を蒸して食べるために、今のセイロのような“コシキ”などを作って食生活が行なわれたのであろう。
 土師器は、縄文式土器やある種の弥生式土器のように自由な情熱的な影を残してない。
 前述のような社会的背景から、画一的で個性のないものとなっている。これが土師器の特色から地域区分をたてるのをむずかしくしている。 杉並で住居跡から出土する土器は、鬼高(おにたか)期といわれる古墳中期末から後期にかけてのもので、この時代にも多くの家々のかまどから煙が上ったのであろう。
 しかし、いわゆる古墳文化は、杉並にその発達がきわめて弱いことが知られ、武蔵では、多摩川および埼玉地方に顕著である。 杉並に大河川が少なく、古墳をいとなむ大豪族が成長しなかったことに起因するものであろうか。
 なお古墳文化の下限は、七世紀前頭頃ともいわれている。

      二章 古代の杉並 top

      1 武蔵の国府と杉並


 六世紀初めに善福寺川の冲積原に沿った矢倉台・松の木・堀ノ内・済美・方南峰、また神田川の高井戸東など杉並の地域では台地のそれぞれ崖上に、「むら」の首長に率いられ、水田を営む集落が少しずつ永続して現われてくるころになると、畿内(きない)方面に中心を持った大和(やまと)国家の勢力がこの東国の各地にも入り込んでくるようになった。
 七世紀の大化改新(六四五年)を経て、奈良時代になると、この東国の一帯は、明確に大和国家の律令体制による行政区画に組みこまれた。
 武蔵国と国名ができ、国境が確定されて、国府が置かれ、先任の国造(くにのみやっこ)の代わりに国司が中央で任命され、地方官として派遣されてくるようになった。

 もとの国造系の者は、郡司などに任命され、国司のもとで国府の役人になり、そのまま留まった。
 武蔵国の国府は、すでに屯倉(みやけ、大和朝廷の直轄領)として支配下にあった多摩郡内の府中に置かれた。
 杉並から一〇キロメートル余のところである。
 府中にはやがて武蔵国一国を治める国庁が建ち、国司が歴代祀る武蔵国の惣社(そうしゃ)大国魂(おおくにたま)神社を奉祀し、新設来の仏教と先進文化の伝達の中心として、国府から二キロ奥に、首都奈良の東大寺の分身たる武蔵国分寺・国分尼寺を、武蔵国各地から資材をよせ、総力を集めて完成した。
 武蔵国府の所在については、大国魂神社の敷地内から最近、ヘラ書きや獏骨(もこつ)文字のついた文字瓦と共に、国庁の建物群の礎石が発掘されている(府中市教育委員会・同遺跡調告会『武蔵国府の調査1 』)
 国分寺跡から発掘の文字瓦の中にも、「玉」「多」など郡名を示すとみられる文字を刻んだものが出土しているから、瓦を献上した有力者と出府片営にがり出された住民の姿がうかがわれる。


大国魂神社敷地内にある武蔵国庁の中心建造物遺構
(昭和51年度調査)

      2 杉並の古代人 top

 九世紀前半頃(平安前期)の状況を記載している『和名類聚抄』によれば、多摩郡は一〇郷からなっているが、この中の「海田(あまだ)郷」に、今日の杉並区がほぼ包含されていたのではないか(『大日本地理志料』)といわれている。
 その郷名の遺名が旧和田村であるという(『杉並区史』二四一頁)
 すなわち、アマダからワダに転訛(てんか)したとする説である。
 和田村は鎌倉古道が村内を貫き、大宮八幡が鎮座するなど、史的背景に富むだけではなく、さかのぼっては原始時代、土師式集落のもっとも密集する地域であるから、「おそらく原始期の集落はそのまま古代に継承され、海田郷の基礎をなしたとすべきであろう」(『杉並区史』古代・大場磐雄氏)といわれている。
 この杉並開化の先駆地域の海田郷=旧和旧村あたりとすれば、先の考古学の資料等にみるように、善福寺川の中流(旧成宗(なりむね)村あたり)以東の、自然集落住居跡が密集しているこの台地群は、杉並の古代人の原生地ともいえよう。
 四世紀以降、古墳時代の集落として、一時期に矢倉台が五〇戸ばかり、松の木台が三〇戸、済美台が三〇戸ばかり、方南峰台地で二〇〇戸近い戸数が想定されている(『杉並区史』214頁)
 集落を環(めぐ)り、または区切って溝か掘られている場合(矢倉台・塚山−神川川−)もあって、人々は一区画ごとにまとまった生活集団であったことを示している。 一時、大宮台地の方形周溝墓に祀られるような小領主が支配していた時期もあったが、古墳時代に入ってからは、本区には高塚古墳を持つような豪族階層の首長が住んだ形跡はなく、この地域は、いわば当時の中流以下の庶民の集落地であった。
 発掘からみる一般庶民の住居は、褐色土とその下のローム層を掘りこんだ半地下式の弥生期以来伝統の茅葺竪穴住居である。 床に茅草類を敷き、屋内のかまどで炊事をした。平均は五・六メートルの一辺(おおよそ三〇平方ノートル)、方形で、七〜九人家族規模であろう。
 もっとも、大は一辺一〇メートルから小は二・四メートルまで差があり、溝に区切られた戸数も、区画ごとに多少がみられるから、集落の中にもおのずから身分階層の上下があり、「竈(かまど)には火気(けぶり)ふき立てず、甑(こしき)には蜘蛛の巣掻きて、飯炊ぐ事も忘れ」(『万葉集』巻五、山上憶良・貧窮問答歌)るほど飢えている人々の寝屋処(住居)にきて呼ぶ「楚(笞)取る里長」のいる生活もうかがわれよう。



善福寺川と台地(成宗3丁目)

 住居から見おろす崖下の河川敷が、住民の水稲耕作の場であった。


さん田の釜(泉)――神田川・善福寺川流域には
小さな湧水池がいたるところにあった(杉並区高井戸東1−16)

 方南峰からはすでにモミ圧痕(あつこん)のある弥生期の土器が出ているから、稲作の開始は、大和政府に接触する幾世代も前からであろう。
 耕作のほかに、男は川で網を使う漁撈を行ない、河川を離れればまったく原野の続く台地の奥へ出かけて弓矢やわなを使って狩りの獲物を持ち帰った。
 女たちは、耕地からあがっては、麻をつむぎ麻布を織った。
 食事の主食は米・麦・稗類を蒸した。食事祭祀に使う什器(じゅうき)は土師器である。
 時代が降るにつれ、須恵器が加わった。
 府中市内の最近の発掘においても、当時すでに役人や上流の豪族は、埴輪(はにわ)に見るような瓦葺の木造高床の建物に住んでいたが、その傍には、一般の庶民のものとみられる竪穴住居群が検出されている。
 杉並でも同様に庶民生活については、平安時代中期ごろまではあまり変化なかったことが推定されている。
 ただ善福寺川流域の住居跡には、伴出遺物(土器)をまったく欠く期間があって、たとえば、縄文晩期と弥生前期の遺物が今日まで出土しないことなどからみて、ひとたび川が氾濫すれば、一夜にして耕地が壊滅する危険が多いこの河川流域(今日すら浸水する)では、幾たびか住居の移動・放棄が繰返されたことが推定されている。
 武蔵国を動かす大きな勢力は、この杉並を離れた地方を中心に勃興していた。
 当区でもっとも古社とされている和山の大宮八幡宮の社伝によれば、この大宮八幡宮は、源 頼義が奥州発向の途中、この地で奇瑞(きずい)に遭い、神助を奉謝して社殿を創建したものであるという。
 さらに頼義の子義家は、後三年の役のおり同宮に参拝し、同じく戦勝の帰途、社殿を修造し、傍に別当宝仙寺を創立したと伝えている。
 大宮八幡宮の創立は不詳ではあるが、この平安末期(一一世紀末)頃まで創立をさかのぼることができるとすれば、この杉並の先進地域では、この頃には住民もほぼ安定した定住期に入っていたと考えられよう。

   3 乗瀦(あまぬま)の駅 top

 関東には、西の方から東海道と東山道の二本の官道が入っていたが、武蔵国は奈良時代頃まで東山道によって中央と連絡をとる国に定められていた。関東の北西部の山麓地域には、おそらくは原始のころから、碓氷峠を越え信濃国から上野(こうずけ、群馬)・下野(しもつけ、栃木)国を通り、奥州方面へ向かう道が開けていた。
 すでに杉並区の旧石器時代の発掘品の中に、関東には産出しない黒耀石(信濃方面の特産)の石鏃(せきぞく)などが出土しているように、古来、北方の道路を通して新しい文化に接触していたから、大和政府にも引き継がれたものであろう。
 東山道は武蔵府中を南下して、次は再び上野・下野・常陸(ひたち)国へと北上したから、武蔵国府から下総国府(市川市国府台)と連絡するために、府中から、別に乗瀦・豊島(江戸城付近)の二駅を経て下総国へ出る官道があった。
 この二駅は、武蔵国の官路に初めてみえる駅家で、ことに、一〇世紀初めの『延喜式』の駅路では消える乗瀦駅は、杉並の古代史と関係が深い。

 この武蔵国のうちに置かれた二つの駅のうち、「乗瀦」駅の所在について古来諸説があり、その決定をみていない。
 この問題のおこりとなったのは、神護景雲二年(七六八)三月、東海道巡察使の紀広名(きのひろな)の上奏文である(『続日本紀』巻廿九)
 上奏文には、「この二駅には東山道と東海道の両路が入るため、往来が頻繁であるから、駅に常備の馬は一〇頭にしていただきたい」とし、従来の「小路の駅」扱いを「中路の駅」扱いに格上げするよう申請し、許可になった。
 この乗瀦について、大宮市の天沼説と、「ノリヌマ」(練馬はノリヌマの訛という)と読んで、練馬区七戸地区付近とする説もあるが、「乗瀦」をアマヌマと読み、地形上から、杉並区内天沼付近とされた吉田東伍氏の説(『大日本地名辞典』)をうけた坂本太郎氏の説が有力とされている。
 二駅のうけた東山・東海道のうち、後者は図のように、八世紀中頃には相模国府から北上し、武蔵府中を経て下総・常陸へ向かう旧東海道で、官道は重複していた。
 豊島駅から西方の国府と結ぶ線上に、規定の三〇里(=五里)に一駅家を置くとすれば、当区内天沼が適当である。
 間もなくこの駅が『延喜式』に消えているのは、東海道の路線が改められ、相模国から南武蔵を経て下総国へ連なり、下総国−武蔵国府間の連絡に必要がなくなって廃止されたものであると述べられている(「西郊文化」第七輯)

 杉並区内清水三丁目三−二(地名清水も同地内の湧水池に由来する)にある妙正寺川の源泉、妙正寺池は、古くは湧水多く、付近は沼沢地でもった。
 池の北に、旧小名「神戸」(ごうと)、神戸坂の地名があり、南には「沓掛」(くつかけ)の小名、その東方の台地が「天沼」――江戸時代には一村の地名――がある。

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 「神戸」は「郡家」のコホトが転訛し、各地によくみるごとく「神戸」に後世当字されたものであるから、この地には、古代の郡司の所管する役所(郡家。ここでは単なる事務所程度かもしれないが)のあったことを示し、「沓掛」はいうまでもなく旅人や馬の「くつ」を取り換え、取換え用のそれを置く店、さらにはそれらを含め駅馬の継立をする駅舎を指す地名として全国に例が多い。
 乗瀦(あまぬま)駅の「瀦」は「沼」を意味し、湿地の意であるから、この妙正寺池の近辺は水草の「圜草」(いぐさ)の自生地である井草、荻(おぎ)の生える窪地の荻窪があるから、この一帯はその名称にふさわしい状況が認められよう。
 今日「乗瀦」の遺名とも考えられる「天沼」の地名は、妙正寺池の東南側の台地であるが、小名中谷戸(なかやと)には水神を守る弁天社があって、沼沢(しょうたく)との関連を持った集落のあったことを示している。


右=昭和12年秋の妙正寺公園
左=現在の妙正寺公園

 以上のように、その位置と駅名の示す地理的条件により、国府から豊島駅へ向かう官路にあった「乗瀦」の駅家は、この天沼付近に設けられたと考えてもよいようだ。
 乗瀦駅から国府へ向かう具体的な道筋は明らかでないが、これに関して、
 (1)当区の西隣りの武蔵野市内の古社八幡神社(吉祥寺東町――五日市街道に面す――)では、近くを通っていた古道跡の伝承と、本殿裏から蕨手太刀(奈良〜平安初期作。東北地方に特有の製品)が出土していることから、陸奥−(東山道)武蔵府中−吉祥寺の関連を注目して、乗瀦駅からの古道は、吉祥寺を経て国府へ通じていたのではないかといわれている(『武蔵野市史』八九頁)こと、
 (2)小名「沓掛」の地名に関して、青梅街道が開設(江戸初期)されない時代には、江戸と青梅方面を結ぶ道(江戸−高田馬場−井草−府中−青梅)が、井草村の長左衛門家(清水二丁目、小名沓掛の内)の前を通っていたという伝承のあることを付け加えておきたい。
 新東海道の設定と同時に、武蔵国に東海道所属の国となり、蝦夷征伐の進んだ陸奥へ、相模・武蔵・下総の諸国を経る最短コースが利用できるようになった。
 奈良から平安時代初めにかけて、南武蔵方面が著しく開化した結果といわれている。
 豊島駅(江戸)から国府へ向かうには、もはや乗瀦駅の必要のない官道「国府路」(こうじ)が利用され、やがてその国府路の出発地点(平川)あたりは「麹」町とよばれるようになった。
 大国武蔵国府から京へ到る海陸行程は、上り二九日、下り一五日の規定で(日数の差は、調(ちょう)・庸(よう)の輪送貢納品の有無によってできたもの)であった。
 「荒夷(あらえびす)の国」と、都の貴紳に怖れられながらも、東国は律令体制の中に組みこまれ、その諸策のもとに、帰化人を中心にして高麗(こま)(武蔵国)や新羅(しらぎ)(武蔵国)など新しい郡が作り出され、正丁(成人男子)の三分の一は軍団の兵士となり、官営の牧(官牧)が開かれ、毎年の貢馬が行なわれて、しだいに開発が進められていった。

     三章  杉並の武士と村々 top

      1 鎌倉道と中世の遺跡


 建久三年(一一九二)源頼朝は、武士による政府、鎌倉幕府を開いた。幕府を支持したのは関東の豪族武士たちである。
 「千葉」の千葉氏、「茨城」の佐竹氏、「栃木」の宇都宮氏・小山氏、「群馬」の新田氏、「埼玉」の足立氏・河越氏・畠山氏・比企(ひき)氏・「東京」の江戸氏・豊嶋氏・葛西氏、「神奈川・静岡」の三浦氏・北条氏・土肥氏などは『吾妻鏡』にみえるその主なものである。いずれもその一門の棟梁(とうりょう)であった。
 頼朝は、一ノ谷の合戦がすかと早々、平家の知行国であった武蔵国を申請して自分の知行国にした。
 頼朝のあとは、執権北条氏が得宗(とくそう)(北条氏惣領の所領)として滅亡まで握っていた。
 鎌倉に住む北条氏に代わって武蔵国の実際の国務は河越氏が受け持った。当時、武蔵府中には、一〇〇人前後の役人がいたであろう(『東京都の歴史』杉山博氏)と推定されている。
 府中(国府)はなお武蔵国第一の中心地であった。
 府中からは諸方へ道が通じていた。鎌倉街道・下総街道はその中心になるものであった。
 幕府を中心に、御家人たちは、鎌倉に屋敷をかまえ、領地の屋形と鎌倉の屋敷を往来して、幕府の職務をつとめていた。
 非番のおりは本領にいて、一郡、ときには一国にひろがる一門の武士団の采配をしていた。
 緊急の事態が発生すればすぐ指令で、関東の各地から鎌倉へその御家人たちは馳せ集まった。
 「いざ鎌倉」という言葉は、その御家人に非常招集のかかる事件発生を意味していた。
 鎌倉幕府ができて、関東各地から鎌倉へ御家人や、年貢・貢納品輸送の人夫・商人の往米が常時行なわれるようになって、武蔵野の原野にも、細いながら南北に踏みかためられた幹線道路ができていた。
 いま鎌倉街道といわれている道である。
 杉並区内には、高井戸・成宗(なりむね)・大宮八幡などに、鎌倉街道とよばれる古道の伝えが残されている。
 鎌倉街道という名称はこの道が使われた中世にはない。
 『太平記』や『梅松論』では、これに相当する古道を「上ノ道」「下ノ道」「中ノ道」とよんでいる。
 中世の武蔵野を通る三本の幹線道路で、もっとも西側、山寄りを通るものを上ノ道(上路)といい、武蔵府中を経て北上し上野・信濃国に至る。
 下ノ道(下路)は、相模国の海寄りに江戸に向かい、さらに下総・常陸へぬける。
 多摩丘陵を通り、関戸(せきど、多摩市)へ直行して府中に入る道を「中ノ道」と袮した。
 「上ノ道」は、鎌倉小袋(こぶくろ)坂を出る「武蔵大路」のことである。
 軍事上、東海道に次いで重要な道路で沿道に遺跡・遺物の多いのも特徴である。
 由比ヶ浜から常磐−梶原−藤沢−井出之沢(原町田)−小山田(町田市)−関戸から多摩川を渡り、府中に入る。
 さらに恋窪を経て川難−久米川波−河原(所沢)に至るもので、元弘三年(一三三三)新田義貞が元執権北条高時を攻め、鎌倉へ進撃したのもこの道である。
 道はなお北武蔵の比企−児玉を経て板鼻−松井田と上野国へ入る。
 杉並区内の鎌倉古道は、武蔵府中でこの「上ノ道」につらなるものである。
 武蔵府中には、多くの鎌倉道が集中していた。

 1a 「杉並区を中心にした鎌倉道仮復元図」 top

 O区内の鎌倉古道の伝承のある場所を中心に、湧水地・河川、・尠叫の集中地・古い寺社の所在が関連している。
 O道幅が共通して細く、南北に通る。
 以上を考慮し、調査をされている方々との成果を参照して復元図を作製した。
 @下総(しもうさ)街道(江戸道・人見街道)。武州大宮(埼玉県)への道を分岐するので大宮街道ともいう。
 府中六所明神社横大門−牟礼(むれ、三鷹市)−大宮八幡東鳥居−鞍懸(くらかけ)の松−阿佐ヶ谷世尊院(せそんいん)西側−鷺宮(さぎのみや)八幡宮−福蔵院−練馬城−豊島園−〔東西分岐〕(東)江古田−椎名町I高田−小日向−本郷菊坂−妻恋坂−鳥越−豊島−須田渡−下総国府。(西)徳丸−早瀬渡−足立郡大宮
 A〔下総街道から分岐〕大宮八幡宮東鳥居−宝篋印(ほうぎょういん)(大宮一−一四)−堀之内熊野神社(堀之内二‐六)−和田村・和泉村境を北上−中野追分(鍋屋横町)−江古田−沼袋古戦場(太田道灌と豊嶋泰経・泰明兄弟との合戦場)−和田山−江古田村の東側−雑司ヶ谷(ぞうしがや)−中山道
 B〔下総街道を高井戸西から分岐〕高井戸境大塚−矢倉(成田西四丁目)−左折(天沼一−三七)−天沼熊野神社東側で右折(天沼二丁目)−銀杏(いちょう)稲荷神社(下井草二丁目)北西へ向かう−禅定院(ぜんじょういん)(練馬区石神井五丁目)−〔分岐〕(北)橋戸村(埼玉県)(西)秩父往還
 C〔下総街道分岐〕牟礼(三鷹市牟礼七丁目)−井の頭公園御殿山西側−成蹊大学構内−慈雲堂病院(練馬区関町四丁目)−関長者橋(関町五丁目)−井頭(いがしら)池−妙福寺(南大泉町)
 D[Bより分岐]大谷戸(荻窪一丁目)−中道寺(荻窪二丁目)−忍川橋(荻窪五丁目)−光明院(上荻二丁目)−不詳
 E〔下総街道〕−医王寺−高井戸天神社(高井戸西一丁目)−八幡神社(下高井戸四丁目)−鎌倉橋(下高井戸四丁目)−〔分出〕(北)堀兼井−大宮八幡宮。(南)(世田谷区)
 以上、杉並区を中心とする鎌倉古道@ABCDEの六系路に考えられる。

 〈解説〉
 @の道は、五月五日府中大国魂神社の祭礼に、武蔵六社の一つである埼玉県大宮市の氷川神社(武蔵一宮)の神輿が集まる際、必ずこの道を通行の定めになっている。
 Eの下総街道南まわりの道の「堀兼井」は伝承。「鎌倉橋」の上の台地に祀る八幡社は長禄元年(一四五七)太田道灌の勧請といい、その際、橋の名をとって、八幡社鎮座の場所を小名鎌倉橋にしたという。橋の名は当初からのものではない。
 通説に従うが、Eについては若干疑問が多い。
 「大宮八幡宮」 貞和二年(一三四六)大宮僧願文(『米良文書』)・板碑(いたび)が延文(南北朝期)の記銘以下一一基敷地より出土。途中、松本で、弘安二年(一二七九)記銘の板碑が出土(区内最古)
南側に鎌倉古道の伝承かおる。
 「世尊院管理共同墓地」正和以降、延文・応永・永享・寛正・文明・明応(鎌倉末〜戦国期)の板碑二四基。
 「宝仙寺跡」永享元年(一四二九)中野に移転まで大宮八幡宮の別当寺。文保・元徳・宝徳の板碑五基。
 「阿佐谷」『米良文書』(熊野那智神社)応永二七年「江戸惣領の流書立」に「あさかや殿」と当地の豪族を記している。
 「福蔵院」多数の板碑を保存。年不詳。
 A「熊野神社」(堀之内二丁目)文永四年(一二六七)勧請と伝わる。
 「東円寺」(和田二丁目)康永・至徳(共に南北朝期)の板碑あり。
 「十貫坂」(本町五・六丁目)『新編武蔵風土記稿』掲載。「福寿院」(本町三丁目)文和(南北朝期)の板碑。
 「江古田村」文久二年(一八六二)村絵図に道標「旧かまくらみち」を記入している。
 B下総街道−高井戸東「松林寺」(高井戸東三丁目)文明(室町期)の板碑。「矢倉」鎌倉古道の伝承を残す。
 「尾崎神社宝昌寺」(成田西三丁目)正和(鎌倉期)以下二二基の板碑。
 「天沼熊野神社」(天沼二丁目)鎌倉期元弘三年創建の伝承がある。
 「妙正寺」(清水三丁目)弘安(鎌倉期)ほかの板碑。「道場寺」応安五年(一三五二)石神井城主豊嶋輝時建立。
 文応・永仁・正和(いずれも鎌倉期)の板碑。「三宝寺」応永元年(一三九四)創建の伝承。
 正和(鎌倉期)の板碑。「笠松墓地」正和の板碑。「観泉寺」(今川二−一六−一)延文(南北朝期)以下一三基の板碑。
 C「御殿山」(井の頭公園)鎌倉時代の板碑出土。「妙福寺」付近に弘安・元弘(鎌倉期)など七〇余基の板碑。
 「井草八幡宮」(善福寺一丁目)源頼明手植九松の伝承や古代住居跡を境内に持つ古社。
 「善福寺池」(善福寺四丁目)文保(鎌倉期)など四基の板碑。廃寺の伝承。
 D「光明院」文明の板仰・鎌倉古道の口伝を残す。

 鎌倉と坂東を政治・経済上の必要から結びつけた鎌倉道は、いつしか武蔵野の中の集落をつなぎ、文化の伝播の役割もしていた。
 井草・大宮の武士の尊崇する古社、熊野信仰の隆盛を印象づける熊野神社、加えるに中世の小土豪領主「あさがや殿」の阿佐ヶ谷を中心に、鎌倉道を考えることができる。
 BC系路を通して鎌倉期から室町期にかけて、観泉寺・妙福寺(練馬区)・三宝寺(練馬区)の板碑に、一結衆連名(日蓮宗)の碑銘があるのは、鎌倉道による信仰のつながりを示している(『間はず語り』・長嶋安男『道を軸とした歴史教材の研究』・斎藤慎一文化財シリーズ『杉並の板碑』同、前島茂・小口賢『杉並の仏像』T・U)

 『問はず語り』の尼僧二条は、信州を立ち碓氷(うすい)峠をこえ、上ノ道を武蔵国へ引きかえした。
 府中から浅草の観音堂に詣(もう)でるのであるから、下総街道を北に当区内をすぎて行ったであろう。
 時は鎌倉中期の正応三年(一二九○)、「八月もはじめつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍(はべ)りつれと思ひ(中略)野の中はるばるとかげ行くに、萩・女郎花(おみなえし)・荻・芒(すすき)よりほかは又まじるものもなく、これが高さは馬にのりたる男のみえぬ程なれば推し量(はか)るべし。
 三日にや、わけゆけども尽きもせず、ちと傍へ行く道にこそ宿などもあれ、はるばる一通りはこし方ゆく末野原なり」。
 三日行ってもぬけきらぬ武蔵野原、少し傍道(わきみち)へ入ると人里があったりはするが、旅行く道はただ丈(たけ)高い雑草の原の、それが鎌倉道の風景であった。

      2 江戸氏と豊嶋氏 top

 源頼朝の挙兵に応じて、幕下に参じた坂東の武士団のうち、杉並地域に関係の深いのは、江戸氏と豊嶋氏の二流である。 江戸氏は、一四世紀の南北朝ごろから、中野郷の中に含まれていた杉並の一角にその姿をみせはじめる。
 中野郷の成立したのは平安末期から鎌倉中期ごろといわれているが、文献に初めて見えてくるのは南北朝時代の貞治元年(一三六二)である。
 中野郷は「中野十二郷」(紀伊国熊野那智神社所蔵『米良文書』)といかれ、今日、中野・練馬・新宿・杉並区内に散在する一二村を含む地域と考えられているが、そのうちに、本区の阿佐ヶ谷・和田・堀之内・下荻窪(和泉村の南)・泉(和泉)村が明らかに含まれ、杉並区のほぼ東方半分はこの郷の内にあった(『上杉家文書』宝徳三年五月廿五日引付)。 この中野郷内阿佐ヶ谷に「あさかや殿」とよばれてその名をあらわす小豪族は、江戸氏の惣領のながれをくむ一族であった。
 杉並の西の方面については、江戸時代に幕府の編纂した『新編武蔵風土記稿』の上荻窪の項に
「天正の頃までは、江古田村より沼袋、田端、成宗の辺まで豊島郡の内に属せしこと、その頃の検地帳にみゆ。是に拠れば当村は豊嶋多摩の郡境にありしなるべし」(当区内村名)

とあるが、この田端・成宗村については、近世に創立したものであるが、両村内の金石物の土地銘がいずれも「多摩郡中野郷」あるいは「多東(たとう)郡中野郷」とあることからみて、いちおう除外し、上荻窪村についてみると、同村の旧家井川家所蔵の元文五年(一七四〇)の名寄帳に、なお「武州豊嶋郡上荻窪村」とみえているから、中世には、この上荻窪のあたりまで北部から豊嶋郡が入っていたと考えてよいであろう。
 従って上荻窪の北の上井草・天沼・下井草村も、豊嶋郡に属していたとすれば、鎌倉後期の弘安五年(一二八二)以来、下井草村の北、三宝寺池(石神井池)を中心に、石神井郷を領有し、この地に館(やかた)をかまえて君臨した豊嶋氏惣家の支配圏である。
 上井草・下井草村には、「石神井城の最後の城主豊嶋泰経が太田道灌の部下によって村内で落命した」との伝承(森泰樹氏『杉並風土記』上)をはじめとして、豊嶋氏を滅ぼした太田道灌に関係する地名「道灌山」「幕陣」「道灌橋(井草川に架る)」「道灌坂」「おこり塚(江古川原合戦・石神井城攻めの戦死者を葬る)」や、道程手植えという荻窪八幡社の「道灌槇(まき)」「石神井城攻略の太田道灌は上荻窪村の八幡社へ、源家の故事にならって戦勝祈願をした」との伝承などが残されている。


右=太田道灌画像(大慈寺蔵)
左=太田道灌手植えと伝わる道灌榎
(上荻4丁目、荻窪八幡社

 坂東八平氏(はちへいし)のうち秩父平氏の流れ江戸氏は、始祖秩父重継(しげつぐ)が荏原(えばら)郡の臨海の要地江戸(江戸城旧本丸の台地)を根拠として居館を設け、そこの地名、江戸氏を名乗ったのがはじまりという。
 平安末期、一二世紀初めの頃である。
 居館のあった平川河口には山王権現(日枝(ひえ)神社)を奉祀した。
 坂東で最古の寺院浅草観音のある台地の北東の石浜(牛浜)も、江戸氏の有力な拠点といわれている。
 いずれにせよ、荒川(隅田川)の河口の浅草から江戸城の本丸近くまで入っていた日比谷の入江にいたる沿海地域が、進出してきた秩父一門の分流江戸氏の根拠地であった。
 重継の子重長が、治承四年(一一八〇)一〇月五日、頼朝から「武蔵在庁職」(『吾妻鏡』)を得て、武蔵国の支配を許されて以来、江戸氏は源家と関係を深めた。
 頼朝の御家人として、その後の合戦や行事に加わっているが、重長以降は再び鎌倉幕府内での高い職務を命ぜられることはなかった。
 ただし、一門の河越氏が娘を義経に嫁して、頼朝・義経兄弟の確執にまきこまれて失脚し、畠山重忠父子が北条時政によって謀殺されたあとは、秩父平氏一門のうちで重要な一族となった。
 のちに書かれた『義経記』には「東国八ヶ国の大福長者」と形容される豊かな財力を蓄え、子孫は南武蔵に発展していった。
 ただ江戸氏の本流は重継から三代忠重で絶え、忠重は一門の棟梁であった畠山氏を継ぎ、畠山氏の出である重長(法名成仏、二代重長とは別人)が江戸氏を継いだ(『江戸氏の研究』杉山愽氏説)
 一門の展開は、それぞれ館をかまえた所領の地名を苗字とする諸流の系図に語らせよう(萩原龍夫編『江戸氏の研究』により略系図を作成)
 惣領の重盛は、代々の拠点江戸城辺、二男氏重・三男家重・四男冬重は多摩川流域の各所、五男重宗は平川河口の柴崎道場一帯、六男秀重は古川、七男元重は目黒川沿いにそれぞれ所領を分与されていた。
 当時の武士の所領の分割相続法のままに、一門は広がっていった。
 豊嶋氏は、荒川と石神井(しゃくじい)川との合流点西ヶ原台地(北区中里)の豊嶋(古社平塚神社はその居館跡という)に本拠を置き、地名を苗字として豊嶋氏を名乗ったという。


江戸氏の系図

 後三年の役(一〇八三〜八七)に、源義家が豊嶋の居館に宿ったと伝え、保元・平治の乱に参加した坂東武士の中にもその名がみえているから、豊嶋に入ったのは一一世紀末以前であろう。
 開拓した土地は、やがて後白河法皇の御願によって京都へ勧請した新熊野社へ奉納して、豊嶋荘=荘園とし、豊嶋氏はその下司(荘官)になって現地の実権を握っていた。
 一二世紀半ばには、豊嶋郡のほか足立・新座の各郡に進出していた。
 豊嶋氏の嫡流は入間川を上流に遡って、石神井川に入り、石神井川の源泉三宝寺池(練馬区)に到る地域に開拓を進め、平塚城(北区平塚神社)・練馬城(練馬区豊島園)・石神井城(練馬区)を築いて一帯を支配していた。
 杉並区の下井草村から二キロ余の石神井城近辺が開発されたのは一三世紀後半、鎌倉時代であった(杉山博氏編『豊嶋氏の研究』)


三宝寺池(対岸は石神井城址)

  3 戦乱の時代と、あさかや top

 鎌倉幕府の滅亡から南北朝動乱の時代を通じて、江戸氏・豊嶋氏は、他の坂東八平氏や武蔵七党と共に北朝方として活動していた。
 本区内で発見された青石板碑に刻まれている年号が、すべて北朝年号(南北朝以後年号の判読できる板碑七三基)であることから、当然ながら、足利幕府−そして幕府から関東の文配をまかされた鎌倉府の勢力圏にあったことを示している。
 とくに室町期になって、正長二年(一四二九)九月五日に「永享」と改元があったにもかかわらず、当時、室町幕府に敵意を抱いていた鎌倉公方(くぼう)足利持氏はこれに従わなかったが、本区内観泉寺蔵の「正長三年十一月十五日」の、もとの年号を使用する逆修(供養者の生前に造立する)と刻竹板碑は、この上井草辺に住んだ有力者が、当時の鎌倉府に属していた証(あか)しである(文化財シリーズ4『杉並の板碑』)
 これは、豊嶋氏の支配とも関係あろう。
 鎌倉にかわり、足利幕府は京都二条高倉に本拠を置いた。足利尊氏は、関東の情勢を考慮して、その子基氏を関東へ下し、鎌倉公方として鎌倉府に配置し、これを補佐する関東管領に上杉氏を任じた。
 基氏から氏満(うじみつ)・満兼(みつかね)・持氏へ続く鎌倉府支配下の関東は、中先代の乱・武蔵野合戦・平一揆・上杉禅秀の乱・永享の乱・享徳の乱と、争乱の絶えない時代であった。
 中先代の乱は、江戸氏にとって重要であった。新田義貞の次子義興が、足利方の分裂に乗じて南朝方の軍勢を興した戦である。
 当時、多摩川沿岸に居館を構えた江戸遠江守と甥の下野守は、義興主従一三人を矢口(やぐち)の渡で舟を沈め、謀殺した。その大功によって、江戸氏は鎌倉府の足利基氏から数ヵ所の恩賞地を与えられたという。
 江戸氏・豊嶋氏は、鎌倉府に属し、関東管領と武蔵守護職を一族の間で継承していた上杉氏に従っていた。
 この間、それぞれ秩父平氏の一門のうちである河越・高越(たかごえ)氏の庶流と一揆を結んで南武蔵に活躍していた。
 各家ともなお惣領家の統制は残っていたが、時代が降るにつれ、所領を分割相続してきた結果、一村を単位とするような小領主まで各地に割拠することになった。
 独立した庶家は、時々の状況によって、各自地縁で一揆を結んで支配を維持するようになった。
 阿佐谷氏が他の一八家と共に現われてくるのも、そのような一五世紀はじめの応永のころである。
 江戸氏の苗字の武士団が活躍するのは、前管領上杉氏憲(禅秀)を、援軍の足利勢と江戸・豊嶋氏の支持した公方持氏の連合軍が自滅させる応永二三年(一四一六)の上杉禅秀の乱のころまでで、次の永享の乱以後、その消息はあまり明らかではない。
 江戸氏が三世紀にわたる江戸の本貫の地を、いつ頃離れたのかいま知ることはできない。
 太田道灌は長禄元年(一四五七)この江戸氏の館跡に江戸城を完成した。道灌は扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の家宰(かさい)の家に生まれ、文武の卓越した人物とされている。
 江戸城を本拠として、道灌は河越・岩槻(いわつき、岩付)の三城をかため、両上杉(扇谷・山内)と対立している古河(こが)公方足利成(しげうじ)氏に備えていた。

 これに対して豊嶋氏の平塚・練馬・石神井三城は、太田道灌の防衛線のうちに対峙していた。
 文明五年(一四七三)山内上杉顕定(あきさだ)の家宰の家筋の長尾景春(伊玄)は嫡子の自分をさしおき、叔父忠景に家督を継がせた主君の措置を不満として、山内顕定・扇谷定正の両上杉氏に背いた。
 いわゆる長尾景春の乱である。
 このとき豊嶋泰経・泰明兄弟は長尾氏に組みした。泰経兄弟が景春方に走ったのは、扇谷家の家宰太田道灌の所領侵略が原因といわれている。
 文明九年(一四七七)四月一三日、太田道灌は、泰明の龍る平塚城の攻撃を開始した。
 やがてこれを聞いた練馬・石神井両城から泰経が軍勢を押し出し、江古田・沼袋原で大遭遇(そうぐう)戦となった。
 江古田原は、中野のすぐ北で、鎌倉古道が石神井街道(旧江戸道)と交る地点である。
 翌日、泰明以下一族一五〇名の戦死者を出して敗れた泰経は、辛うじてのがれ石神井城にたて籠って戦ったが利なく、四月二八日には外城を落され、城兵は夜にまぎれて四散し泰経も姿をくらましたという。
 平安末からこの豊嶋郡に繁栄した豊嶋氏の没落であった。当時の豊嶋氏の所領は、武蔵国豊嶋・足立・新座(にいざ)・多摩の四郡にわたる計二三〇〇余町歩であったという(平野実氏『竹島氏の研究』)
 この石神井城攻めの太田道灌の陣地が、井草村の小名道灌山幕陣(本陣)であると伝えられている。
 太田道灌はそのあと一〇年を経ないうちに、文明一八年、主人の上杉定正の手で謀殺された。
 井草・荻窪の杉並の西方の村々はほぼ、豊島攻めの前後から、道灌の主君、扇谷上杉定正の支配地であったが、その後、孫上杉朝興(ともおき)が北条氏綱(うじつな)に敗れて、一六世紀の初めには後北条氏の支配下に入った。
 これに対して、同じころ、東方の杉並地域は武蔵の守護であり、また関東管領であった山内上杉氏の支配下にあった。
 円覚寺宝亀庵井受勝軒領、越後国中治田保与(と)道悦知行、武蔵国中野郷内、堀内・下荻窪・泉村相伝旨被聞食訖、不可有相違之由所被仰下也、仍下知如件
  宝徳三(一三四一)年五月二十五日   沙弥在判(畠山徳本・持国)

 この室町幕府下知状(『上杉家文書』)の道悦は、関東管領山内上杉憲実の弟三郎重方の法名(『杉並区史』)であるから、鎌倉の円覚寺が越後の領地と交換で獲得した堀之内・下荻窪(和泉村宿)・泉村は、この山内上杉氏一族の所領であった。
 当時永く武蔵国守護をつとめた山内上杉氏には、その領国体制の中で江戸・豊嶋氏をはじめ、南武蔵の中・小武士団(南一揆という)をかなりよく掌握していた。
 武蔵守護代は山内上杉氏と関係の深い大石氏である。
 後北条治下の天正二年(一五七四)に、八王子の滝山城主大石信濃守が大宮八幡宮の旧(ふる)きをたずね、保護をはかった(『江戸名所図会』)とみえている。
 これが事実か否かは別にして山内上杉の時代から大宮八幡宮を含む中野郷の地域に縁故のあった故であろう。

 3a あさかや殿 top

 江戸氏や豊嶋氏の諸流が上杉禅秀の乱に参加して恩賞を得ていた頃、応永二七年(一四二〇)五月九日、熊野那智神社の御師(おし)廊之坊は武蔵国の大檀那(だいだんな、道者)の江戸氏一門の苗字を一紙に書きあげていた(『米良文書』)
 これによると、「武蔵国江戸の惣領の流」として「六郷殿(大田区)塩谷殿(渋谷区)丸子殿(大田区)中野殿(中野区)阿佐谷殿(杉並区)飯倉殿(港区)桜田殿(千代田区)石浜殿(台東区)牛島殿(墨田区)(おお)殿(世田谷区か)国府方(こうかた)殿(千代田区)芝崎殿(千代田区)(う)ノ木殿(大田区)けんとう殿(不明)金杉殿(港区)小日(こひなた)向殿(文京区)原殿一跡(大田区)蒲田(かまた)殿一跡(大田区)」とあって、「このほかそし(庶子)おおく御入候」と述べながら、書き出した江戸氏の惣領系の家筋だけでも一六氏と二流(跡を称する)あった。
 この中に、近くの中野殿と共に。はじめて「あさかや(阿佐谷)との」の名が現われてくる。


江戸氏書立(『米良文書』より)

 この杉並の歴史上に初めて具体名を現わす蒙族「あさかや殿」は、その在所を苗字にする他家と同じく、わが杉並の阿佐谷に館をかまえた名門江戸氏の庶流であった。
 阿佐谷の館の近くでは、東の中野(中野区)に中野氏、南の喜多見(世田谷区)に木多見氏(書立では「大殿」か)が住んでいた。
 阿佐谷氏の来住の時期は明らかでないが、区内でも板碑(青石塔婆・秩父産緑泥片岩の板石でつくる塔婆)が集中するこの阿佐谷の板碑群のなかで最古のものに鎌倉末期「正和」(一三一二〜一七)の年号があり、また記録ではさらにさかのぼる正応六年(一二九三)のものもあるから、当時、板碑で死者を供養するような身分の者として、このあさかや氏をあてることは妥当であろう。
 おそくとも鎌倉末期には阿佐谷に住んでいた阿佐谷氏の居館はどこであったかは明らかでない。
 すでに阿佐谷には、武蔵国府から大宮八幡宮の東側を通り、練馬城(豊嶋氏)方面へぬける鎌倉古道があって、大宮八幡宮の別当寺の真言宗宝仙寺が阿佐谷の小名小山に建っていた。
 戦国期の永禄二年(一五五九)につくられた後北条氏の『小田原衆所領役帳』では阿佐谷は八四貫文の役高で、当時の杉並の役高の中ではもっとも高い貫高を示し、戸数も三二から四〇軒(「堀江家文書」)ほどと推定できるから、阿佐谷殿の居館のあったころにも、居館の周辺には集落ができていたと考えられる。
 あさかや氏はこの阿佐谷を根拠に、居館の周辺に田畑を拓いて耕作しながら住みついている一族郎党を率い、南北朝以降、絶え間のなかった戦場へ出かけていった。
 その武蔵野のさ中の館の周辺の情景を、市情はほぼ同様とみられる二キロほど先の中野を訪れた旅行者尭恵(ぎょうえ)の紀行文『北国紀行』にみよう。

 むさしののうち中野といふ所に、平重俊といへるがもよほしによりて、眇々(びょうびょう)たる朝霧をわけ入て瞻望(せんぼう)するに、何(いずれ)の草葉のすゑにも唯自雲のかかれるをかぎりと思ひで、又、中やどりの里へかへり侍りて……漸(ようや)く日たかくさしのぼりて、よられたる草野原の、しのぎくる程、あつさしのぎがたく侍りしに、草の上にただ泡雪のたれるかとおぼゆる程に、ふじの雪うかびて侍り。

 中やどりの里を出ればすぐ広がる武蔵野、西のほう炎天下の原野の果てにかかる残雪の富士の情景は、また、あさかや殿の館のものでもあろう。
 平重俊は、あるいは中野殿の末裔かもしれない。戦国期の初め文明一七年(一四八五)のことである。
 阿佐谷を含むこの中野郷の中には、むさし野のそこここを拓いて室町時代頃から、少しずつ集落ができていた。
 あさかや殿の館の近くでも、大宮八幡宮の周辺をはじめとして、鎌倉円覚寺領の堀之内・泉(和泉)下荻窪(和泉の南)の集落の名前が板碑と共に登場してくる(前掲『上杉家文書』宝徳三年玉町幕府下知状写)
 この村々では、南北朝ごろから盛んになった熊野信仰が広まり、ことに戦乱に明けくれる武士たちに厚く信奉されていた。
 さきの熊野那智神社の書立にもみえるように、江戸氏一門の熊野信仰はあつく、当時、熊野の先達(せんだつ)は、豪族の館をはじめ、その近辺の村々をまわり、檀那(だんな)のために加持祈祷(かじきとう)を行ない、それでれの御師(おし)と特定の師檀関係を結ばせ、遠い諸国の情報や物品を伝えて、盛んに教線を広めていた。
 堀之内・泉にもそれぞれ鎌倉時代の創立と伝える熊野神社が鎮座する。
 阿佐谷の西、地続きの天沼には、中野にある十二社権現の別当の修験といわれる宝光坊が在住した。戦国期の伝承をもつこの有名な熊野の宝光坊の名は、今日まで小名の地名としてながく人々の記憶に残っている。
 熊野信仰が東国武士や寺社家に浸透するにつれて、仏と結縁を深めるため盛んに熊野詣が行なわれるようになったが、南北朝時代の貞治元年(一三六二)一二月一七日、武蔵国多生郡中野郷の大宮八幡宮の住僧四人は、豊嶋郡江戸郷の山王社の住僧の一団と共にはるばる紀伊那智神社に参詣して、師擅関係にある御師村松氏に願文を呈出した。

  武蔵国多東郡中野郷
     大宮住僧 初度丹波暁尊(花押)
    二度    初度式部良尊(花押)
     若狭阿闍梨
     頼尊(花押)初度伯耆頼尊(花押)
    貞治元年十二月十七日
     那智山御師
     村松盛挂大弐阿闍梨御坊
              (『熊野那智神社文書』第一)

 上の願文は、大宮八幡宮の実在を示す正確な史料の初見として有名であるが、遅くとも南北朝時代に大宮八幡を勧請したのは、江戸氏庶流などであろうか(奥野高広氏『杉並区史』二七一頁)と推定されている。
 その別当寺は阿佐谷にある宝仙寺であったという(『明王山聖無勁院宝仙寺縁起』ほか)から、宝仙寺の外護(げご)者でありこの一帯に君臨した、豪族阿佐谷氏の輪郭をほぼとらえることができよう。
 同日、願文を呈出した同行の住僧の江戸郷山王社は、また江戸氏発祥の地江戸に、惣領家の始祖が鎮守として勧請したといわれる新日枝(しんひえ)(山王)のことであるから、この二社の住僧たちの熊野詣は、熊野那智神社の御師廊之坊の大檀那江戸氏一門を背景に考える時、興味深い史実である。

 阿佐谷氏の衰退の時期を語るものはなにもない。ただ江戸時代の元禄一四年(一七〇一)に書かれた宝仙寺の縁起に、宝仙寺中興聖永により永享元年(一四二九)宝仙寺を「下阿佐谷、今号中野」へ遷し、大宮八幡宮の別当寺は末社大宮寺(だいぐうじ)を八幡宮に近く別に建てたとあることが事実とすれば、戦国時代を待たずして、他の庶流と同じく、宝仙寺の外護者阿佐谷氏もこの頃に本貫地(ほんかんち)阿佐谷から衰退していたのであろう。
 それから一二〇年を経た天文一七年(一五四八)、すでに後北条氏が江戸城の主になっていたが、「としま名字の書立」(『米良文書』)の中に、江戸氏の他の庶流の名字と共に、「阿佐谷二郎」の名を見るのが、阿佐谷氏の最後である。
 館の主の去った阿佐谷には、いつか阿佐谷の百姓の村ができていた。
 永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』には、「太田新六郎知行 八四貨文 中野内阿佐谷」と、後北条氏治下、江戸城の武将太旧新六郎の役高八四貫を負担する村として現われ、さらに天正四年(一五七六)三月、後北条氏の虎の朱印状で下付した江戸中城の屏修覆請負いに関する掟書の宛先は、「小代官(堀江氏)・阿佐ヶ谷百姓中」と書かれている。ここでは、阿佐谷村は戦国大名直接支配下の村として確かな姿を現わしている。

      4 杉並の村々の始り top

 相模の小田原城に拠る後北条氏が、太田道灌が築城した南武蔵の要地江戸城を太田資高から攻め取ったのは、二代北条氏綱の大永四年(一五二四)である。
 北条早雲を初代とし、氏綱・氏康(うじやす)・氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)の五代一〇〇年にわたる戦国大名の支配のもとで、南関東の村々は、新しく生まれかわることになった。
 すでに、『米良文書』や『上杉家文書』でこの杉並の地域にも南北朝時代以降、大宮・堀之内・和泉・下荻窪(和田村の南)・阿佐谷などの集落ができていたことをみてきたが、板碑が区内でもっとも集中して発見される下井草村や、万福寺・東柵寺の二寺があったと伝えられている善福寺池周辺にも村が成立していたことが確かめられる。
 永禄二年(一五五九)に編集された『小田原衆所領役帳』は、後北条氏が租税と軍役の賦課のために、家臣の知行地の役高と、所在を書き出させたものであるが、この中に、当区内の地名が出ているのは次のものである。
                   
 一 島津孫四郎 廿一貫文  永福寺 沼袋ニモ有之 成宗ニモ有之 目黒ニモ有之
 一 川村跡   七貫文   同泉(江戸)
 一 大橋    廿貫文   無連高井堂
 一 太田新六郎知行 八拾四貫文 中野内阿佐ヶ谷

 このうち、阿佐谷殿のあさがやが鎌倉末頃、宝徳年間に円覚寺領になっている泉(和泉)村が室町初期頃には、できていたことは明らかである。
 永福寺はその地名のもとになった曹洞宗永福寺が、大永二年の創立と伝えているから、戦国期はじめには、現われはじめていたものであろう。
 高井堂(戸)については、先述のごとく正和・暦応の板碑から見て、村の始りは鎌倉末期にさかのぼる。
 大宮八幡宮のある和田村もこの社と共に続いてきた古村であることは、板碑や鎌倉期の宝鏡印塔をまつまでもない。
 上の役帳は、軍役や普請役をかける所だけをあげているので、役のかからない寺社領や、後北条氏の自領については書き出してない。
 宝徳三年(一四五四)、室町期には円覚寺領になった堀之内・下荻窪は、後北条氏が「鎌倉中諸寺へ寄進分」(前掲役帳)の内に入ったため記載がない。
 また、小字に残る修験の宝光坊があり、応永年間帰長の伝承(『新編武蔵風土記稿』)を持つ朝倉姓の旧家のある天沼も見えていない。
 円覚寺領と同じ宝徳三年の板碑が、下井草村にある。
 この月待(つきまち)供養の板碑には「正尊、九郎三郎、左近太郎、平内四郎、平内五郎、弥平治」の名が刻まれている。
 付近の妙正寺には正和二年(一三一三)・宝徳三年の板碑があり、また同寺には文明一四年(一四八二)戦国期に村人らしい一五名の逆修の念仏供養碑があるから、妙正寺を中心とするあたりにもかなりの集落、すなわち下井草村ができていたことを想定できよう。
 この妙正寺川の流域の村に対して、善福寺池周辺には、文保二年(一三一八)・元応三年(一三二一)の鎌倉末期の板碑や、大昔は善福寺の墓地であったと口伝の「ラントウバ」=乱塔婆といわれた板碑の出る墓地の実在(森泰樹氏『杉並風土記』上)などからみて、上井草村(旧、遅野井(おそのい)村)の原型を推定できるようだ。
 荻窪の中道寺は、鎌倉時代には鎌倉街道に沿い、七堂伽藍を備えたと伝える名刹で、堂前(どうぜん)・四面(しめん)(道)の小字はその名残と伝えられている。
 最古の板碑は永仁二年(一二九四)で、嘉慶・応永・文明・明応と続いているから、上荻窪の善福寺川北岸の地域に、集落が鎌倉期からできていたことがうかがわれよう。
 ことに荻窪八幡の神職の家墓から、最古の板碑が出土していることは、荻窪村の発生について重要な証(あか)しである。
 田端村・成宗村は、小字矢倉共同墓地と小字尾崎から正和二年(一三一三)・康暦・永享・明応・延徳などの板碑や鎌倉古道の伝承などが残り、鎌倉末期には数ヵ所の集落として成立していた。
 久我山(くがやま)村については、小田原城落城による大熊修理亮(しゅりのすけ)なる相模の武将が、帰農して開いた村との口伝以外に不明であるが、永福寺と関連して、戦国期末までには開けていた村と考えられる。
 杉並の西、天沼・荻窪・上下井草村の地域は、後北条時代、江戸衆や小田原衆などでなく、八王寺(子)衆か、鉢形(はちがた)衆の支配領域で、現存の『役帳』に現われないが、天文一九年(一五五〇)頃には、後北条氏の治下に入っていた。

 これらの村がどんな村であったかはあまりよくわからない。
 ただ、天正一九年(一五九一)に豊臣秀吉の命によって行なわれた検地を記す「太閤検地帳」が和田村に一部分だが残っているので、後北条治下の最後のころの村を少しのぞくことができる。検地帳の記載は、「下壱反大八拾歩 田 和田前 兵部同人分庄右衛門作」の形式で書かれている。
 「兵部」(ひょうぶ)はいわゆる分付(ぶんつけ)主で、下田壱反大八〇歩の土地の所有者で、実際に耕作しているのは庄右衛門である。
 兵部という武士らしい名前の分付主はそのほかに自分の下人(げにん)や血縁者に経営させた。
 土地(主作)・名前を帳面にのせさせるほど一人前の百姓でない作人に預けて耕作させ、年貢は兵部が負担する土地(主抱)と、いろいろの持ち方で田畠を持っている。
 同様に、検地した土地全筆が持ち方の種類はあれ分付主だけで持っている。そのような村である。
 まだ、田一枚ごとに、実際に耕作している百姓名(本(ほん)百姓)だけが帳付けされる時期はきていなかった。


天正19年、太閤検地帳(松島勝之助氏蔵)

 永不作(永年不作地)の土地は、「郷中抱」(ごうちゅうかかえ)で、つまり村全体で貢租を負担したが、その郷(村)をつくっているのは、兵部のような分付主になるオトナ百姓であった。
 永禄六年(一五六三)に、和泉村へ反銭(たんせん)を賦課(ふか)した後北条氏が、納期におくれたら「牛馬を責め取る」と警告しているのも、反銭を納める泉衆中が、和田村と同様、牛馬を持つ層の百姓だったからであろう。
 まだ、近世の夜明けの村々であった。

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