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Home 一〜二章 三〜四章 五〜六章 七〜八章 九〜十章 付録

三章 藩政前期の金沢
1 前田氏の入城と金沢町
 前田氏と中山主計/神になった利家/新しい町、大手門諸町/金沢城の役割り
2 城下町金沢の都市計画
 慶長のプラン/防衛のための町づくり/元和のプラン/寛永のブラン/家臣団の再配置/寺院集中策の目的/三つの寺院群/城下町金沢の完成
3 金沢文化の開花
 寛水期の絵画・工芸/法華文化/金沢元禄/加賀の文運
4 町人の商工業活動
 請負的御用達商人/領内問屋の育成/市から店舗へ/職人と職人の町
四章 藩政後期の金沢
1 宝暦の大火と金沢町
 宝暦の大火/防火体制/復興した町
2 城下町金沢の構造
 本町と地子町/寺社門前地/相対請地とその住民/東のくるわ・西のくるわ
3 ひろがる町人活動
 金沢へ入る消費物資/消費都市を支えた商人/藩の経済政策と商人/株仲間の増加/新興商人の出現
4 金沢の外港都市
 宮腰と大野/大野船団の活躍/両港の争い/大野醤油/藩による保護

 三章 藩政前期の金沢 top

  1 前田氏の入城と金沢町

 前田氏と中山主計

 一五八三年(天正一一)、かの踐ヶ岳(しずがだけ)の戦いに前田利家と利勝(後の利長)は柴田勝家に与(くみ)していたが、戦意のなかった前田軍は早々に退却、羽柴秀吉に降伏した。
 この後、利家父子は羽柴軍の先鋒となり勝家のこもる越前北ノ荘(福井市)攻めに加わり、さらに加賀に進人する羽柴軍の先鋒として、四月二六日には石川郡宮腰海岸に到着した。
 当時、金沢城は勝家の甥、佐久間盛政が城主であったが、勝家を援けようとして西に向う途中、羽柴軍に捕えられ、城中は盛政の家臣によって守られていた。
 利家は二七日、宮腰町の地侍中山主計の先導により、動揺していた金沢城に無血入城した。
 翌二八日、秀吉は金沢城に入城し北陸統治の方針を定め、利家には能登の旧領を安堵(あんど)し、新らたに加賀の石川・河北二郡を与え、金沢城を居城とすることを許した。
 利家もまた、金沢城入城の論功行賞を家臣に行なったが、そのなかで宮腰港から金沢城への先導役をつとめた中山主計には、自らの肖像画と衣類、および永代扶持二〇石、その他の特権を与えた。


加賀藩の祖・前田利家画像(中山一俊氏藏)
青年時代は秀吉と仲が良かった

 中山主計については、くわしいことはわからないが、少なくとも中世の末には、石川郡・河北郡にまたがる海岸の港に出入りする船から入港税を徴収するなど、海港・海岸支配を行なっていたようであり、地域きっての土豪的存在であった。
 中山家の由緒帳によれば、柴田勝家が自殺したことを聞いた加賀国では一向宗門徒が一揆を起した。
 主計はただちにこのことを利家に報告すると、一揆は主計に報復の襲撃を行ない、主計は船で利家の所領であった能登に逃れた。
 このあと、利家が宮腰町に入り主計宅を本陣とし、・当主を能登から呼びよせ、一〇日余り滞在、この間に一揆の将石崎八太夫を成敗し、金沢城に入城したとある。
 史実との相違はあるが、主計が加賀の政情を逐一、前田氏に報告する立場にあったことが知られる。
 のちに前田氏が京都の伏見に屋敷を構え、あるいは朝鮮の役に参加した際には、兵粮・物資は中山家が中心となって請負い、さらに先に述べたように石川・河北両郡の海港に出入りする船舶から入港税をとり、港を支配する特権をも認められ、「二代主計以降は町年寄を世襲し、歴代藩主は在世中、利家画像を有する中山家に必らず詣で、町奉行も同家に対し遠慮すること多く、藩政の前半期には宮腰町に君臨したといってよかった。
 享保以降、藩士は中山家の権限を弱体化するために一時、扶持と町年寄ほか諸特権を剥奪した。
 その後、扶持・町年寄は回復されたが、かっての諸特権を失ない、明治維新後は広大な屋敷地を手放した。
 今日、その跡地としてわずかに標識をみるのみに至っている。

 神になった利家
 一五八〇年(天正八)、佐久間盛政は金沢御坊を陥して入場すると、金沢御堂の本尊阿弥陀如来に代ってここを居室としたというが、利家もまた、入城すると御堂を居室とした。
 本尊の阿弥陀如来は御坊落城の際、門徒たちが莚(こも)に包み御堂の天井裏にかくしておいたが、利家夫人芳春院(松子)により発見され、本願寺の末寺へ寄進されたという。
 このように、盛政・利家が、加越能の一向宗寺院・門徒が心から尊崇する阿弥陀如来に代って金沢御堂を居室としてたことは、何を意味するのであろうか。
 利家が金沢城に入城したとき、先導した中山主計に自らの肖像画を与え、これを祭ることを望んだ。
 主計はこの肖像画を邸内に安置し、利家没後は中山家歴代の当主は彼を神として祭り、命日には供物を捧げて供養した。


前田利家の墓
石柱の後の小高いところが方墳。金沢市野田山にある。

 藩末には藩より補助金を受けて屋敷内に洋々殿を建設して肖像を安置した。
 ここで注目したいのは、中山家が浦々出入りの船から澗役(入港税)取立権を認められたのは利家を祭る代償としてであり、中山家歴代当主の最も重要な役は利家を祭ることであった、ということである。
 すなわち、利家は生きながら神であることを家臣・領民に宣言したといってよい。
 一五九九年(慶長四)閏三月三日、利家は六二歳で大坂の邸で没した。
 遺骸は遺言どおり金沢へ送られることになり、四月三日、金沢に到着、八日、金沢宝円寺で葬儀が行なわれ、金沢城の巽(たつみ、東南)にあって、軍事上枢要な位置にある野田山の頂上近くに方墳を築き、神として祀られた。
 菩提寺はない。
 一六一四年(慶長一九)五月二〇日、五三歳で没した利長も野田山の利家の傍らに方墳を築き葬られた。
 三代利常のとき、越中高岡町に利長の菩提寺として瑞龍寺が建立された。
 さて、利常の代になると菅原道真を祭る社が急激に増加した。
 これらの社は一九一八年(大正七)の調査によると一三四社、このうち最も多いのは石川郡の四五社で、三三・六パーセン卜にあたる。
 石川郡が一向一揆の最も強盛だった地域であることと関係あるとみられるが、今後の調査をまちたい。

 新しい町、大手門諸町
 佐久間盛政時代の金沢城下町は、ほとんど寺内町(じないちょう)期の町々を中心としていた。
 しかし利家は、入城と同時に城郭の北側を城の正面、すなわち大手口として大手門(尾坂門)を築き、この門前を中心に尾張町・新町・中町・片町・米町・塩屋町・今町・十関町・鍵町・枯木町・博労町を立て、裏側には袋町・桶町・鍛冶町などの職人町や魚臭を発散する魚町などを置いた。
 尾張町は前田氏の本貫の地、尾張国から招いた商人の居住地であり、新町は町民の増加に伴って新らたにできた町である。
 また、米町は米商人、塩屋町は塩商人の町であり、博労町は運輸業務を扱う馬方の集住する町で、領主米・塩などの商品、公用の侍のほか、私用の侍・町人を運んだ。
 ことに米町や塩屋町のように、近世初頭、重要な経済物資であった米や塩を扱かう商人が住んでいたことは、この地域がただの町ではなかったことを示している。
 前田利家は一向宗寺院と門徒の力を去勢するためにあらゆる政策をとったが、この新らだな町々の立町もその政策のひとつであり、米町・塩屋町の持つ経済機能により、旧寺内町時代の町々の経済機能を停滞させ、ついには吸収してしまうことに目的があった。
 事実、この政策はみごとに成功し、尾坂門下の町々は急激に成長し、近くの橋場町付近は盛り場となり、末期には浅野川を渡った卯辰山麓付近に遊廓が出現したほどだった。
 他方、利家はこのような政策を実施するにあたり、寺内町系の町々との紛争を避けるため、この町々を本町と呼んで格づけたうえ税を免除し、一方、新しい尾坂門口の町々を地戸町とし税を徴収した。
 ちなみに片町は、城の石垣を背にした片側のみの町として発展した町名であるが、元和期に犀川川原町に移り今日に至っている。
 要するに尾坂門(大手門)付近にできた町々の役割は、旧寺内町系諸町の政治的・経済的な町勢を封殺するためのものであったといえよう。
 城下町として計画的に都市プランが施行されるのは、まだ先のことであり、この時期には、新旧の町々を核として、場当り的に藩士・町民の居住地が拡がっていった。

 金沢城の役割り
 金沢城は近世城郭のなかで、威厳にみちながらも最も美麗で品格ある姿をもっていた。
 (さ)びて白色がかった鉛瓦、華麗ななまこ塀、紅色・青色を交錯する戸室石の石垣の統一された美しさは、若葉の候から夏にかけ、緑を背景にした金沢城に格別の情趣を添え、計算しつくされた演出効果を感じさせる。
 鉛瓦は、木型に厚さ四・五から七・六ミリメートルの鉛板を覆ったものである。
 市民の一部は、非常の際に鉄砲の弾丸にするためといっているが、風化しやすい鉛を屋根瓦にするなどは愚の骨頂といえる。
 雪に強いからという説もあるが、伸縮か激しく、一〇年に一度は葺(ふ)きかえねばならぬほど耐久度が弱く、むしろ陶瓦を用いた方がよほど長持ちする。


鉛瓦
 金沢城城壁出窓の鉛瓦。

 一八八一年(明治一四)一月、金沢城が焼失した際、溶けた鉛瓦が、熱湯を流すように落ち、消火に手がつけられなかったといわれる。
 このような鉛瓦をなぜ用いたのか。これを解く鍵は戸室石となまこ塀に一体化した美的形成にあった。

 金沢城の石垣の多くは戸室石であり、他に能登・越前の石、また地元の法島村の石が用いられている。
 戸室石には紅色をした赤戸室、青色の青戸室がある。一五九二年(文禄元)、すでに城郭の石垣として用いられ“お留石”として庶民の使用を禁じた。
 八家(前田氏の八人の重臣、いずれも一万石以上)では長屋門および土塀の石垣にはすべて戸室石の組石が用いられ、人持組(ひともちぐみ、八家につぐ前田氏の上級家臣)の屋敷では、八家より石垣の高さを低くし戸室石の組石を用い、平士でも禄高や家格により長屋門の土台には戸室石、土塀には栗石(川石)を混入した。
 与力や徒(かち、歩)では戸室石の使用部分が小さく、わずかに土台の角に用いられるにとどまり、同心・足軽に至っては水成岩あるいは栗石(川石)のみとされた。
 この他、古格ある寺院、お目見を許される特権町人・家柄町人、十村(加越能三国において数十か村を支配する村役人)・山廻りなどには特別許可された。
 このように戸室石の使用は階級・身分を示す目印でもあった。


侍土塀と組石
 門の角にだけ戸室石が用いられ、他は栗石。
ただし、明治維新後の改造のため、規格どおりになっていない。 
450石、寺島蔵人の邸。(大手町、寺島啓氏宅)

 戸室石の石垣の上に立つのが、白壁の表面に方形の色板瓦を貼ってたなこ塀である。
 このような紅・青の交錯する石垣となまこ塀と白堊(はくあ)の殿舎・長屋、その下に鈍く光る鉛瓦の景観は、寛永期の感覚であり、利常の発想でもある。そしてそれは天神の裔たる領主の居城にふさわしい豪華さと品格をもつ城郭のたたずまいであった。
 一六二〇年(元和六)一一月、城内の長局(ながつぼね)から出火して本丸の居館を焼失、三一年(寛永八)四月一四日には城下法船寺町より出火して城郭を焼き、城下町の過半を焼失した。いわゆる“法船寺焼き”である。

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 このとき城内の侍たちを城外へ移し、城内に藩主の居館を中心とした行政施設を集中し、行政府の中枢としての整備を急いだ。

  2 城下町金沢の都市計画 top


金沢の総構堀と用水

 慶長のプラン
 一五九九年(慶長四)三月、前田利家が没すると、家康の圧迫により大坂から越中ヘ帰った利長は、居城を高岡城(富山県高岡市)から金沢城に移し、同時に家臣団の多数も金沢に帰った。
 金沢市の高岡町がこの家臣団の集住地である。


慶長期の金沢城内

 その後、家康による“加賀征伐”に際して、利長は和戦出様の構えて家臣を総動員し、高山右近の指揮下、二七日間で城の東側および南・西・北側をめぐる二条の幅〇一六メートルから一・八メートル、延長三キロにおよぶ水濠を掘り、濠の内側に高さ一・八メートル余の土堤を築いた。 これが東内総構堀・西内総構堀である。
 続いて一六一一年(慶長一六)、東西外総成堀が造成された。
 また東内総構堀に平行して八坂から材木町を抜け、小鳥屋橋から浅野川に出る幅一・八メートルから四・五メートル、長さ一・四キロの東外総構堀と、犀川から取入れた鞍月用水が香林坊を通り北国街道の西方を村井又兵衛邸と長(ちょう)甲斐守邸の間を抜ける直前、浅野川から瓢箪町・鍛冶片原町・桝形を通り、図書橋を過ぎ長邸にいたる間に空豪を掘り、ここへ鞍月用水を通して浅野川へ通ずる城を南・西・北から半円に椒巻く平均幅一・五メートル、長さ三キロメートル余の西外総構堀との二条が築造された。
 この東西総構堀内部には人持組をはじめとする歴々の侍が屋敷を置き、門閥的特権町人をはじめとする上層町人が居住した。
 『亀の尾の記』によれば、金沢城の最も弱点とするところは、小立野(おだつの)台からの攻撃であると述べているが、事実、金沢御坊の陥落もこの方向からの奇襲によった。
 五万石の本多邸、一万七〇〇〇石の奥村邸および五○○○石の大音主馬ら人持組・平士など中堅の侍の集住、あるいは大身の家臣の下屋敷(藩主からみれば陪臣の居任地)などを小立野立面に設置したのは、この方面に対する防衛措置であろう。
 また、日本海側すなわち宮腰港・大野港方面および内部の一向余寺院・門徒に対して外総隅堀の外側に三万三〇〇〇石の長氏、一万六〇〇〇石の村井氏を配置し、他に四五○○石の生駒氏、三〇〇〇石の青山氏などの人持組・平士の屋敷や大身の下屋敷を集中している。
 三万石の横山氏は浅野川と東外総構堀の間に屋敷を配し、小立野台や卯辰山、河北郡方面および内部の一向宗寺院・門徒に対ずる防衛を期している。

 防衛のための町づくり
 このように老臣の半数以上を総構堀の外側に配置して内外の防衛にあたらしめる例は他の城下にはあるまい。
 前田氏が入領国であるために、侍の石高や拝領地も大きく、八〇〇〇石から七〇〇〇石が一四〇〇坪、六〇〇〇石から五〇〇〇石が一二〇〇坪、四〇〇〇石から三〇〇〇石が九〇〇坪、一万石以上ともなると三○○○坪余の屋敷地を拝領するものもあり、しかも一万石以上が一二家、五〇〇〇石以上が一〇家、三〇〇〇石以上が二四家、一〇〇〇石以上が九〇冢とあっては、総構内に適地を求めることが困難であったことも理由の一つと考えられる。
 なお、こうした配置のさらに前線や浅野川・犀川の外側には、徒(かち)・足軽・同心らの下級の侍の居住地が一団の組地として集中している。
 こうして見ると、最初の都市計画ともいうべきこの慶長期のプランは、主として防衛的意図からのものであることが明らかであり、総構堀と家臣団配置と並んで同じく防衛的な目的から実施された寺院の移動も、この時期と、後述のように寛水期に多く、ついには総構の内部には寺院の姿はほとんど消失した。
 一方、以上のような侍屋敷と町人居住地の拡大によって、総構内側にあった村々は大きく変貌し、今市村・山崎村・石浦村・石坂村・木の新保村・安江村などは潰村して消滅し、小坂村・泉野村・田井村などは移動させられ、城を中心として住民の集住する町の景観が、ようやく現われてきたのも、この時期の特色である。

 元和のプラン
 元和期(一六一五〜二四)は金沢の城下町プランにおいて一つのエポックを画した時期でもある。
 この時期、利常の命により坂井寿安が犀川を改修して区画整理を行なった。
 当時の犀川は、後の川南町・片町の地を含み鞍月用水にまたがる広い河原を形成し、河原には幾つかの仮橋が架けられていた。
 寿安は淵を埋め、河原を拓き、川の流れを左岸寄りにまとめて一筋とし、また、右岸に鞍月用水を掘って周辺の水を集め城下へ通し、外堀として利用した。
 かくて、かっての犀川河原に片町・川南町・竪町などが町立てされた。
 いったいに、前川家の家臣団の膨張は他藩にくらべ目覚ましいものがあった。
 越前の府中時代の家臣はわずか三一人、一二〇石の大々名となった慶長期の『慶長之侍帳』では一〇〇石以上が五九〇人、府中時代の約二〇倍に膨張しており、『元和之侍帳』では一〇四〇人、『寛文元年侍帳』では一二〇八人と増加する。
 これに一〇〇石以下の家臣、陪臣および奉公人を加えるならば、優に一万人を突破するであろうし、その家族を加えるならば、寛文期にはすでに五万人を越したと推定される。
 郷土史家八田健一氏も、『嘉永武鑑』を分析し登録藩士一五〇五尸、与力三〇一戸、計一八〇六戸とし、これに歩・陪臣・足軽・仲間・小者を加えると一万五〇〇〇人を越えると計算している。
 他方、この百万石大名に軍需物資を補給し、膨大な家臣団に生活物資を供給する商工業者が、天正期から慶長期にかけて京都・伏見・大坂・府中、その他から招かれ、屋敷地を拝領して城郭近辺に居住した。
 また地元の有力商工業者も厚遇され、拝領地に住んだ。
 彼らはのちに家柄町人と尊称され町年寄・銀服役・計算用聞など、町役人の上座を占め、町政を独占した。
 家臣団の城内居住は『慶長間金金沢図』によれば、上に掲げた図のように五、六〇〇〇石から三万石の重臣であるが、この他の主な武将・重臣に城外へ出ていた。

 寛永のプラン
 一六三一年(寛永八)、三五年(嘉永一二)の大火は、近世的城下町建設のまたとない機会であった。
 プランはまた、城内にあった八家・人持衆を城郭周辺に配置することから始まった。
 このため、城郭周辺の町人たちを城下を横ぎる北田街道ルートの路線沿いに居住させた。
 すなわち現在の金沢市の片町〜香林坊〜武蔵が辻〜尾張町の線である。
 こうした町人の強制的移動に際し、門閥的特権町人には希望する最大の土地を代替地として無償で渡しており、町と人によってはなはだしい差異があった。
 こうして尾張町・中町・今町・新町・十間町などの尾坂門下の町々をはじめ、袋町・馬労町(博労町)・桶町・鍛冶町・近江町は内総締堀内に移され、西町・堤町は内総講堀と外総講堀の間に移された。
 その他の町は、一部の例外を除いて惣術堀の外へ屋敷替えを命じられ、このため金沢の町々は、外総講堀内の本来的古格ある町「水町」と、外側の「七か所」、より低位の「地子町」とに大別された。
 いうなれば「内町」「外町」の区別である。
 例外とされたのに、金沢御坊以来の緋屋町が東外総講堀の外に移って材木町を立て「本町」に、尾坂門下にあった塩屋町か西外総講堀の外に移って「本町」にされたほか、一五八四年(天正一二)、今町・中町・修理谷のあたりにあった大工町が犀川口・浅野川口に移り、前者は才川大工町・出大工町といい、後者は観音町に替地して「本町」となった。
 なお、石浦村の潰村によって造成された石浦町は、外総講堀内にありながら村地であるために「七か所」とされた。

 家臣団の再配置
 このように、内総講堀と外総講堀の間は、門閥的特権町人の居住する本町の転入によって、先住の侍屋敷のうち下級の屋敷はさらに外側へ移動し、比較的大身の家臣と親衛隊の馬廻組が多い西部地域、五○〇〇石人持組不破彦三麾下(きか)と馬廻組をもって充当する北部地域、小将組・馬廻組の親衛隊をもって充当した東部地域を川辺にめぐらし、城の防備に完璧を期した。
 小立野台では、城に接した出丸様の地(後の兼六園)に入持・平士の上層・中堅藩士を配置し、これらを取り囲んで天徳院・如来寺・経王与・大乗寺(一六九七年、現在の長坂町に移る)などの小立野寺院群、一万七〇〇〇石奥村伊予、二万一〇〇〇石前田対馬下屋敷、足軽組屋敷を配置して門徒および東からの脅威に備えた。
 また、このため人持組の任務である火災時の請取寺院制により奥村助右衛門は城内東照宮の消防を、前田左膳は神護寺、品川蔵人・奥村兵庫・奥村中務は天徳院の消防責任を請負わされた。
 他の主要寺院についても同様であり、戦時における寺院の城砦化の意図が表われている。
 このほか外総講堀の外側や犀川・浅野川の外には、各区域ごとに人持組大身の士を中心としてこれに寺院や足軽組地などを配して防備を固めた。
 この時の配置のうちの主なものとして、犀川の寺町寺院群とその間に混在する膨大な足軽組屋敷によってここに大城砦地帯を構成したこと、浅野川口では、浅野川大橋頭に「大橋の鎮」、浅野川と外総構堀の接点に「小橋の鎮」として入持組の上士を置いたことなどがあるが、三代藩主利常の病没により、一六五九年(万治二)一月から四月の間に金沢へ帰住した小松在住藩十七〇余人の屋敷が馬場の地に割りあてられた。
 なお城の東南に接する地(後の兼六園)には一六二○年(元和六)に屋敷地を得た一万七〇〇〇石の奥村伊予、三の丸から移動した三万石の横山左衛門らが居住し、廷宝期にも人持組の横山右近・横山隼人・奥村中務や横浜勘兵衛・後藤次郎兵衛が居住していたが、一六九五年(元禄九)、藩命により転出した。
 そのあとおよそ九六年間、藩有の空地として放置されたが、一七九一年(寛政三)、藩学校(文武)が創設された。

 寺院集中策の目的
 一般に近世の城下町では、寺院は大きな建物と広い敷地とをもつ軍事的意義のために、特別の役割りをもつ存在だった。
 すなわち、城郭にとって殼も危険を感ずる方面の防御線または防御拠点として、城下町内外の要所に、分散して、あるいは集中して配置されるのが例であった。
 金沢城下町における寺の配置もこの目的のように、寺町を形成して城郭の防護にあたったが、ただ、一向宗門徒王国の真っただ中に入部した前田氏は、他の諸大名の場合よりも、一向宗寺院・門徒に対する政策を重大に考える必要があった。
 さきにも述べたように、寛末期に至ってもなお、一向宗寺院・門徒への根深い猜疑と警戒心が解けず、一向一揆の生々しい恐怖が、なお生きていたこと示すものである。
 一向一揆の有力坊主吉藤専光寺が、利家の入城後間もない大正初期、金沢城下の後町に移り、一五九七年(慶長二)には河北郡英田村光済寺が金沢町に移った。
 また、本願寺七代存如(そんにょ)の末子遵光(じゅくこう)が建立し、越前超勝寺玄慶と蓮如の息女蓮周との間に生まれた順慶が相続した名刹善福寺は、一六○一年(慶長六)、石川郡大桑村から金沢材本町に移った。
 蓮如の弟子法教坊順誓が創立し、本願寺一一代顕如がここを通じて石川郡内の全信徒に諭示したという白川郡鳥川村にあった照円寺も、城下に寺地を与えられて移った。
 同じく一向一揆の強力な指導者として知られる河北郡木越光徳寺は河北郡二日市村に移り、さらに五一年(慶安四)金沢町に移るなど、かっての一向一揆の指導的寺院は次々に村落から、隔離されていった。
 このほか河北郡御所村の源兵衛は一向宗道場を保有する長(おさ)百姓であったが、○四年(慶長九)、前田氏より十村肝煎(とむらきもいり)を命ぜられたため全門徒を専光寺預けにしているように、群小寺院や道場においても同様の形で村落から隔離されるか、門徒を手離して藩行政の末端機構に組入れられていった。
 一向宗以外の寺院は、利家と共に越前から移ったもの、越中にあって利良と共に行動し、利長の金沢城人城に從い寺地を給されたもの、越前・越中・能登・加賀にあって前田氏の信望を得、招きによって寺地を与えられたものなど様々であるが、古くからこの地にあった寺院はない。

 三つの寺院群
 金沢には寺町と称する寺院集中地域や卯辰山麓寺院群、小立野寺院群がある。
 これらの寺院を『寺記』や『皇国地誌』などでみると、一六一五年(元和元)を中心に寺地を拝領し、城下内外からその地に移動してきている。
 一七一五年(正徳五)の『六用頂』による城下の寺院総数は二二六寺、その内訳は真宗(一向宗)寺院五八寺(西本願寺派六寺、東本願寺派五二)・全体の二五パーセントで最も多く、ついで法華宗各派四九寺・二一パーセント、曹洞宗四三寺(他に塔頭一〇)・一八パーセント、真言宗二九寺・一二パーセント、浄上宗二二寺(他に塔頭二)・九パーセント、天台宗一一寺・四・五パーセント、他に臨済宗九寺、天台律宗・法洞派各二寺(他に塔頭一)・時宗一寺となっている。
 このうち寺町台周辺に集合した寺院は、計五〇寺に達し、真宗寺院を除く城下寺院の二八パーセントが集中している。
 卯辰山麓寺院群には城下全寺院の二二パーセントが集中し、法華宗が圧倒的に多い。建立年代は、一六一五〜四四年(元和・寛永期)建立が一八寺となる。
 正保期(一六四四〜四八)以降、万治期(一六五八〜六一)にはわずか八寺が建立されたにすぎない。
 従来、寺町寺院群は一六一六年(元和二)に集中的に建立されたといわれてきたが、多くは卯辰山麓寺院群と同じく元和・寛永期に建立されている。
 なお寺町・卯辰山の両寺院群には、真宗(一向宗)寺院はほとんどみられない。
 小立野台寺院群には二三寺があり、曹洞宗が多く、真宗(東)寺院六寺もみられる。
 三代藩士利常は内政の根幹に「此三ヶ国は一揆国に而候」という意識が強烈で、「横着、手ごはり候者をば、首を刎(はね)、けりつけに申付、厳敷仕置(きびしくしおき)仕候に付而、次第に宜敷成」ったが、「油断は成不申(なりもうさず)候」というのが、利常の真宗寺院・門徒への姿勢であり、城下の寺院配置は、城下町とその周辺の真宗寺院・門徒に対する威嚇・監視のために包囲態勢をつくるごとにあった。

 城下町金沢の完成
 以上、見てきたように、前田氏入国から寛永期にかけての金沢城下は、主として内外からの防衛的見地から計画され、拡大の一途をたどってきた。
 しかし、計画的に配置された家臣団居住地・町人居住地・寺院群の周辺や末端では、一六六一年(寛文元)の相対請地勝手令によって、武士・町人で土地を必要とする者は、百姓との土地の賃借を公認されたこともあって、農地の市街化か無秩序に進んでいた。
 金沢市の旧市街地の輪郭は、ぽぼこの寛文期(一六六一〜七二)にできあがっており、城下町金沢はここに一応の完成を見たということができる。
 一六六四年(寛文四)には人口五万五一〇六、六七年(寛文七)には五万九一〇一に達していた。
 以後、都市施策としては、むしろ人口と市街地を抑制しようとする傾向に変ってゆく。
 城下町の放任的な拡大は当時、近世的な封建システムと貢租の徹底した収奪を実行するために利常が計画した改作仕法と大きく矛盾することとなり、一六六六年(寛文六)には相対請地禁止令が出されて相対の土地賃借に終止符がうたれた。
 しかし相対請地は、その禁止令以後も止むことかく、元禄期(一六八八〜一七〇二)に入ると人口は武士・町人あわせて二一万人にも達したという。
 ひとつの城下町の中に、一つの藩に匹敵する大名級の家臣の上屋敷・下屋敷がいくつも存在する例は、江戸以外には金沢をおいては無い。
 まさに有沢武貞がいうように(「加陽御城下細見之図井武士町等之弁」)、「広大ヲナスコ卜江戸ノ風ニ近」い城下町金沢は、地方都市としては異例の華やかな姿を見せるにいだったのである。

  3 金沢文化の開花 top

 寛永期の絵画・工芸

 金沢の文化は藩政前期と後期とにわけられる。
 前期の文化は、いわば大名文化であり、王朝文化への希求であった。
 三代利常が反幕府的であればあるほど、王朝文化が色濃く投影した。
 具体的には、反幕府的・反体制的立場にあった俵屋宗達の画房に育った俵屋宗雪・相説の登用がその一例である。
 宗雪は宗達ほど反体制的ではなかったが、反幕府的立場をとる前田氏の御用絵師として、王朝風の絵を描くことによって幕府の御用絵師である狩野派と対抗し、また俵屋工房を延命することができた。
 このことはまた、利常が王朝の文人であり、文の神菅原道貞の裔(えい=まつえい)であることを領民に周知させることでもあった。
 宗雪は一六四二年(寛永一九)、利常の四女富姫が八条宮智忠親王に嫁した際に八条殿内に新築した御内儀御殿内部の襖絵を描き、金沢においても「秋草図屏風」「萩兎図襖」「群鶴図屏風」など反幕府的な王朝美をたたえた作品を残している。
 宗雪亡きあと相説が藩の御用絵師となったが、利常の病没により前田氏の反幕姿勢は消滅し、むしろ徳川氏と政略結婚により親藩同様となるころには、俵屋もその身上とする町絵師的性格を失なっていたこととあいまって、加賀藩でも、幕府の御用絵師狩野派の全面的登場をみるにいたるのである。

 つぎに工芸を見よう。
 寛水期には京都・伏見から工芸職人が多く金沢に招かれた。
 金工では彫金(ちょうきん)の後藤顕乗(京都)が一五〇石、同覚乗(京都)が三〇人扶持、水野源六(京都)五人扶持、象嵌(ぞうがん)の種川次郎作(伏見、国村国水と改名)五〇俵、辻山城守(伏見)二五〇石、勝本氏家(伏見)五○俵、勝木氏重(伏見)二五人扶持、兵部宗吉(伏見)一〇〇石、種田定時(伏見)五〇俵などが招かれた。
 幕府が後藤氏をはじめとする京都の職人を江戸へ呼んだのに対し、前田氏は徳川氏に対抗して主として伏見系の鉄象嵌の職人を呼んだ。
 このため、金沢では伏見金工を主流に京都後藤金工を合流して加賀金工が成立し、優雅・繊細かつ堅牢な製品を生み、将軍・諸大名・朝廷への前田氏からの贈物として珍重された。
 また蒔絵では、初代五十嵐道甫(京都)が二〇〇石で招かれ、ついで二代道甫(京都)・井川善六(京都)・清水九兵衛(京都)が、他に甲胄師の春田勝光、刀工の藤島友重、大工の山上善右衛門らがいる。


秋野図螺鈿蒔絵硯箱
五十嵐道甫作。(谷村良治氏蔵)

 法華(ほっけ)文化
 林屋辰三郎氏は京都を中心とする寛永期の文化を法華文化と呼んでおられるが、寛永の金沢文化も法華文化であった。
 俵屋宗達が法華信者であったように、宗雪・相説も法華信者であったとみられるが、寛永期の工芸を背負った勝木氏家・水野源六・五十嵐道甫・山上善右衛門らはいずれも法華信者であった。
 加賀一向宗門徒の中にあって法華信者が異質の文化の成立を樹立したことは驚きであるが、これは領主によって移植、奨励された結果、開花したものであったからである。
 それは、一〇〇年間にわたって根づいた一向宗に対して打ちこまれた文化的楔であったことは当然であり、金沢寺内町に咲いたと想像される一向宗文化は、前田氏の文化政策によって根絶し、再び一向宗文化を見るのは藩政後期の後半に至ってからである。
 従って、信長や秀吉の求めた桃山風王朝文化は、けっして覇者の権力を飾る道具としてだけではなく、一向宗寺院・門徒との対決のなかで育成された側面もあることを、見逃してはなるまい。

 金沢元禄
 五代藩主前田綱紀は父光高が早く没したので祖父利常によって養育され、その治政は一六五八年(万治元)より一七二四年(享保九)の六六年間にわたる。
 とくに徳川光圀(みつくに)や保科正之の政治的・学問的指導と助言は、綱紀の人間的成長をおおいにうながしたといわれる。
 利常の治政期は国内では一向宗寺院・門徒組織の解体と体制的編成をとおして近世的な藩体制の完成、対外的には幕府対策に終始したが、綱紀の代には一向宗寺院は藩体制に完全に組みこまれ、門徒の農民・町人監視機関に堕した。
 また前田氏自身、徳川氏の一門に準じて待遇され、利常のきわめて目的的な文化政策は、綱紀にとっては百万石大名としての富裕を誇示するという意味をもつだけになってしまった。
 綱紀が蒐(あつ)めた図書は和・漢・洋書、それも古版・新版・古筆・新写、他に図書・絵巻物・令状・古書簡、儒学があれば本草学ありで、あらゆる分野におよんでいる。
 あるとき、平松中納言時方が綱紀に対して、「日本のために書籍保存の大事業をなさっていると聞いて心から喜んでおります」と書き送ると、綱紀は、「仰せのように古籍保存のためにやっているわけではありません。短い文では書き表わせませんので、いずれお会いしました折にゆっくりお話ししたいと思っております」と述べたといわれるが、百万石大名の文化事業としての自負はあってもきわめて無目的であったことがわかる。
 学者・工芸職人の招聘、工芸品・図書の蒐集や保存、ことに「東寺百合文書」の整備などにおいても同様であった。
 ともかく、百万石の富にまかせて江戸・京都を除く地方都市第一の文化をつくりあげたことは知られるとおりである。

 さて工芸では、金工の後藤程乗・勝木盛定・勝木盛光、鋳物の村山四郎兵衛、陶器の大鯒長左衛門、染色の茜屋理右衛門などが来沢した。
 このほか、地元の鋳物職人宮崎寒雉も活躍した。
 城内に細工所を設置し、蒔絵・漆・紙・金具・絵・針・具足・薫物・小刀・象嵌・刀鍛冶・研物・鞢(ゆがけ)・茜(あかね)染・輿・鉄砲金具・鞍・轡・竹・大工・升・御能作物など二三種にわたったが、なかでも紙・針細工・絵画・具足・象嵌についてはとくに力を入れた。
 また、当時の技術水準を示す各種の工芸品――金工・紙・織物・染色・打ち糸・漆器・蒔絵・木材・竹・革類など二〇種について膨大なサンプルを蒐集し分類した。
 これが世にいう「百工比照」で、元禄工芸の一大コレクションであり、近世美術工芸技術の宝庫ともいうべきもので、無目的事業とはいいながら、結果的には桃山工芸の伝承と技術保存という一大事業を推進したという功績は認められなければならない。
 現代の金沢でも、この伝統が脈々と生き続けているのだから。
 この頃、本阿弥光二・光磋・光甫・光伝・光山・光通らが招かれてしばしば来沢し、光磋三〇〇石、光山一五〇石、光通三〇〇石を給された。
 また、俵屋工房に代って江戸の画家狩野有益、子の伯円・即誉が来沢し、邸地を与えられ扶持を給されて定着した。
 この他、狩野探幽が綱紀の需(もと)めに応じて絵を描き、その門人の久隅守景も来沢し彩管をふるった。


百工比照 ふすまの引き手と釘隠し。

 加賀の文運
 学者・文人の来沢も多く、儒者の松永永三(尺五の次子)・木下順庵・五十嵐剛伯・室鳩巣など、本草学の稻生若水、国学の田中一閑・菅真静、有職故実の伊勢監物など、わが国近世史上に名を残した二〇人余が来沢している。
 また、数十万点にのぼる図書の蒐集もなされ、今日の尊経閣文庫をつくった。
 京都の「東寺百合文書」にみるように、借用閲覧した先の古文書や図書を藩の費用で補修整備し、箱をつくって返却した。
 さきに述べた寛永文化はすぐれて人名文化であり王朝文化であったが、綱紀治政下の文化はその集大成であり、寛永文化同様、大名文化の側面が強い。
 こうしたなかで、民間の文化も開花した。
 すなわち、堤町で書肆を経営する麩屋(ふや)五郎兵衛が俳諧集『加賀染』上下を刊行したのを手初めに、同町で米酒(酒商ともいう)を営む門閥的特権町人三箇屋九郎兵衛の養子となるや、その経済力を用いて積極的に出版業を始めた。
 一七一五年(正徳五)の蔵版目録によれば、『伊勢京大和廻り高野和歌浦須磨明石播州名所道図』『北陸道江戸道中図』『金沢より中仙道東海道図』『煙草記』『立山禅定之図』『百寿図』『百福図』『三用集』『六用集』『安見年代記』『年代一覧』『前後赤壁賦昌司』『連歌雨夜記』『岩桂詩集』『連歌式目和歌抄』『玉津島和歌物語』『茶之湯奥義鈔』『居家要言掛物』『当用御手本』『筆の海女手本』『紅葉賀御手本』『硯の海女手本』『卯辰集』(俳諧集)などの出版があり、名所案内記は一般町人を対象として元禄期町人社会の経済的な余裕を知ることができるが、他は武士・上層町人を対象とした高度の教養刊行物で、金沢文化の高さをうかがうことができる。

 このほか、一六九八年(元禄二)、芭蕉が金沢の地をおとずれたことにより、金沢では蕉風の俳諧がにわかに盛んとなり、士農工商の別を問わず多くの俳人が出て加賀蕉門を形成したが、いずれも上層身分に位置する人々であった。
 元禄以降は、堀麦水(蔵宿、池田長右衛門の二男)が出て、蕉門系譜に立つ俳論をもって数多い著書を出したが、元禄期にみるような溌溂さはなく、定式化・形式化した。
 他方、宮腰町の銭屋五兵衛のごとき豪商から、大野港醤油醸造商・小売商人の集まりである大野醤油連中の俳諧献額(金沢市金石の延命地蔵堂)にみるように、俳諧は謡・茶の湯の普及と同様に庶民化していったが、謡や茶とは異なり、あくまでも庶民の教養として独自性をもつものであった。 美術・工芸についても、元禄以降は前期の豪華さにくらべ、みるべきものがない。
 わずかに一二代藩主斉広が一八一七年(文政元)に着工し、五年がかりで完成した竹沢御殿と庭園の兼六園(けんろくえん)がある。
 竹沢御殿は斉広が大御所政治の場として設計したもので、門の数三五、部屋数三五〇室におよぶ広大なものであったが、二四年(文政七)七月、斉広の死と共に壊された。
 また、六三年(文久三)、斉広夫人の隠居所として竹沢御殿跡地に巽御殿が建てられた。 現、成巽閣(せいそんかく)である。
 藩による大規模建築工事の最後のものであり、藩御用大工をはじめ細工人、御用職人が動員された。


成巽閣
 謁見の間と呼ばれる対面所。

  4 町人の商工業活動 top

 請負的御用達商人
 初期の城下町商人は、領主や城下町の侍・町人に対し、生活必需品を領国内外から供給するまてには成長しておらず、領主自らが有力町人に必要品を指示して調達させていた。
 これが請負的御用達商人であり、後の門閥的特権商人であった。
 たとえば金沢の外港宮腰町(金沢市金石)の宿老中山主計をはじめ、前田氏の兵粮米などを越後から調達した武蔵庄兵衛(山城国伏見)、そのほか越前屋孫兵衛(越前府中に近い片岡村)・越前屋喜兵衛(同)・平野屋半助(河内平野村)・紙屋孫兵衛(京都)、領内在住の浅野屋次郎兵衛(河北郡浅野村)・浅野尾惣右衛門(同)・金屋彦四郎(石川郡)・亀甲屋与助(河北郡森下村)・喜多村屋彦右衛門(越中北村)・宮竹屋喜左衛門(能美郡宮竹村)・森下屋八左衛門(河北郡森下村)・本吉屋宗右衛門(能美郡本吉町)らもこうした目的のために金沢に招かれた町人たちであった。


藩主から特権商人への書状
 3代利常から門閥的特権町人の
平野屋半助・藤江屋九郎三郎・木屋平兵衛・中尾彦右衛門・
大豆屋加右衛門・夷屋三兵衛の6人に請負わせていた藩米が、
銀で支払われ、皆済したことを告げたもの。(大友奎堂氏蔵)

 しかし、全員が必らずしも前田氏の意図するような遠隔地との取引をする町へばかりではなく、なかには町頭として城下に居住する町民の世話をする立場に生きる者もあった。
 寛永期(一六二四〜四三)になると、二度の火災を契機に近世的な都市プランが実施され、軍事的・景観的な金沢町はほぼ完成したが、経済的にはなお領内全域にわたって活動する主体的な商人は成立しておらず、領国内を経済的に統一したいと考える領主にとって隔靴掻痒(かくかそうよう)の思いであった。
 このため、前田氏は主要な都市、金沢・小松(小松市)・宮腰(金沢市)・松任(松任市)・所口(七尾市)・高岡(富山県高岡市)・魚津(同魚津市)に町奉行を、今石動(いまいするぎ、同小矢部市)・城端(じょうはな、同東砺波郡)・氷見(ひみ、同氷見市)には町裁許を置き、藩権力によって米の在払い(地元へ売る)をはじめとする領内の特産物の育成・集散と金沢への集中を試み、一六三八年(寛永一五)には金沢へ送られてくる米のうち、一〇〇石を大坂へ送りヽ市場開拓を試みている。
 この頃、加賀・越中産の布(高岡布・八講布・五郎丸布)、絹(城端絹・小松絹、京都では加賀絹と総称された)が集散され、絹はそのほとんどが京都へ送られた。
 こうしたなかで、都市において常にコンスクントに供給されなければならない食料品については、問屋による大量の供給が必要であり、一五八六年(天正一四)七月一四日、早くも領主は能登所口の魚町に対して魚類の専売権を与えているが、金沢や小松でも同様であったと思われる。
 一五九九年(慶長四)、金沢の魚屋は前田氏の御用を勤めているとの理由で営業の保護を領主に願い、銀三〇貫目の貸与を受け、これに対し問屋側は毎年銀子(ぎんす)一〇〇枚を上納した。
 慶長期(一五九六〜一六一四)、前田氏は金沢居住の侍・町人への魚類の供給が円滑にいくよう店舗の数をふやしたが、価格については問屋できめるよう示指し、問屋の育成・保証につとめた。

 領内問屋の育成

 一七世紀に入ると、加賀藩では農政に関する一大政策が実施された。すなわち、改作法であった。
 改作法は加賀藩が政治的にも経済的にも中世的な遺制を払拭して、近世的な体制、別の言葉でいうならば幕藩体制を確立させる基本法となった。
 農村は完全に領主の直接支配下におかれ、年貢は徹底的に巧妙に収奪される仕組みとなり、侍は前田氏の完全サラリーマン化した。
 こうした改革に対応し、都市や町も大きく変化した。
 改作法の実施が定着し、農村と都市が一元的に領主によって支配されると、領国内の流通機構をより正確に把握し、前田氏の領主財政の支えになるような政策が行なわれるのは当然であった。
 このため、門閥的な特権町人をふくめて、折から城下町に育ってきた新興の商人を中心として各種の問屋を成立させ、彼らに領内の商品を一手に支配させ、これを通して領国経済の完全支配が行なわれた。
 ことに一六八三年(天和三)には、集中して問屋ができた。
 同年五月、上堤町の本屋惣兵衛・糸屋次兵衛が加越能三国の綿を集散する問屋に任命され、六月には南町の満谷屋太左衛門、今町の宮島屋彦左衛門、片町の絹屋与右衛門が領内の蝋の集散を一手に行なう問屋に、八月には河島町の糸屋又兵衛、野町の油屋彦兵衛も加えられた。
 七月には尾張町の津幡屋豊右衛門、河南町(金沢市片町)の美濃屋瀬兵衛、石浦町の中屋権兵衛・大津屋次郎兵衛、河原町の奈良屋武兵衛が領国内米仲買肝煎(きもいり)に、同月、河原町の糸屋市右衛門・綿屋五郎兵衛、竪町の大衆免屋円七郎が菜種問屋に、一一月には法船寺町の鍋岸七右衛門、新竪町の橘屋古兵衛、覚源寺町の松任屋人有衛門が魚油問屋に任じられた。
 この他、石引町の能登屋九郎兵衛・饑部屋又右衛門、尾張町の菱池屋半右衛門、十間町の清水谷屋伝右衛門が紙問尾に、新竪町の小倉扁平右衛門、森下町の道金屋長左衛門、田町の水口屋九兵衛が木炭問屋に任命された。
 この他、取り扱う商品の新鮮さが要求される魚問屋は金沢町・宮腰町・所口町・高岡町の四都市に置かれたが、金沢町では祗泉仁兵衛・藤屋三郎右衛門・角屋猪右衛門・野々市屋与三右衛門、宮腰町では菓子屋平右衛門、所口町では理右衛門・忠左衛門、高岡町では新保屋次郎右衛門がある。
 新保屋は金沢町人万金沢町の古い魚島市場である袋町市場を経営した同名の商人の末裔である。
 また、同年七月、門閥的特権町人香林坊兵助の一族香林坊源兵と高岡屋太郎有衛門が大聖寺藩御算用場より、茶問屋を命じられた。
 こうして、領内において、主要な商品を集散して都市住民の必需品を充足するための問屋機構は整備され、領内流通のルートが確立していった。


元禄期の片町・香林坊 右側が片町。
香林坊橋のかかる川は鞍月用水。(鶴来町、桜井家蔵)

元禄期の橋場 橋場町と浅野川大橋の南詰。
 (鶴来町、桜井家蔵)

 (いち)から店舗へ
 前田氏の入城したころの店舗の形は明らかでないが、その初期は、領主から市場札を受けた町が、定められた日に市を聞き、次の日には他の町へおくられていく定期市の形がとられていた。
 やがて一七世紀に入るころには、固定した場所に店を構える店舗商業に発達していった。
 寛文期(一六六一〜七二年)になると、店舗をもつ商人のほかに振(ふり)売り商人が多く現れた。
 とくに城下の侍・町人の毎日の生活に欠かすことのできない野菜・魚介類を市場や店に買いに行くより、家まで運び、品定めのできる振売りは人気があった。
 しかも振売り商人は資本が少なくとも商いができることから、寛文期には増加し、一六六六年(寛文六)には魚問屋が店舗商人の保護を藩に願うほどであった。
 このような振売り商人の増加は、改作法実施により農村から追い出された農民が、金沢に入って商い始めたものもあるであろう。
 領主は、このような振売り商人によって店舗商人の権利が犯されることをおそれ、振売り商人を規制した。
 すなわち、こさば・いわし・きじたら・つのじ・ふぐ・たちうお・このしろ・あかえい・たい・ぽうぽうなどは店舗商人のみに許された魚で、豊漁で店舗商人が買い残した場合も振売り商人には渡されず、塩物・干物用として四十物商人に売られた。
 振売り商人に渡されたのは、こあじ・こしい・こかます・こずくら・こがれい・ずわいがに・はまぐりのみとされたが、これも魚獲の多い日に限られた。
 さて、藩政前期の金沢町の景観を描いたちのに「元禄期金沢城下絵図」がある。内容は農耕図の一部分として描かれたものであるが、城下町南郊有松村(金沢市有松町)から北国街道沿いに犀川大橋を渡り、香林坊・武蔵ヶ辻をへて、金沢城下町の中心である尾張町・橋場町・森下町から春日町、そして城下町北郊の大樋(おおひ)村に至る両側の風景を描いたものである。上の図に描かれている情景から、当時の商店の姿を見てみよう。
 町なかでは、中二階のある建ちの低い二階屋の商店が多く、間口は三間(一間は約一・八メートル)から五間、屋根は板葺きで所々に“卯建”(うだつ)が見える。通りに面した一階は、店棚を間口いっぱいに拡げ、ノレンがさがっている。
 夜は蔀戸(しとみど)で閉ざし、昼は蔀戸をはずして店を開いた。
 店前の街路上には、侍や元禄期特有の髷や着物をつけた女性が往来し、いかにも元禄文化期らしい金沢城下町を彷彿させるが、商家では何を商っているのか図が精密でないためはっきりしない。犀川橋詰の商家では、魚類・野菜・果物が並び、香林坊橋付近の商家では青竹を並べた店が目立っている。
 尾張町付近とみられる商家では米問屋・茶を商う店・甲冑(かっちゅう)置いた武具商がみられる。
 また、森下町辺では米俵を積んだ店が並んでいる。また天秤棒で野菜などを担いた振売りの姿も多い。

 職人と職人の町
 城下町の成立期にあっては、職人は領主に奉仕するものとされ、領主のための武具をはじめ生活必需品・工芸品の製作や、城郭・殿舎・城下の侍屋敷・町家などの建築を行なう技術者集団だったから、全面的な保護をうけ、屋敷地を与えられ、一定の地に集住させられた。
 ことに大工は城郭と城下町建設にとって最も重要な職人であり、木挽き・壁職人・石工(いしく)・畳職人などを率いた。
 このため、一五八四年(天正一二)、作事所に登録された二〇〇人の棟梁大工には一人に前口一〇間、奥行一〇間の一〇〇坪の屋敷地を、これに準ずる大工には間口五間、奥行一〇間の五〇坪の居宅地、大鋸木引には間口四間、奥行一〇間の四〇坪の居宅地を与え、今町・中町・修理谷付近に住まわせた。
 一六三一年(寛永八)の大火後は、犀川河原を開拓して河原町にあった大工町と出大工町に替地を与えて他へ移し、さらに浅野川観音町の地に移した。
 元和年間(一六一五〜二三)には大工肝煎は役料として切米五〇俵を給された。
 一六五七年(明暦三)の江戸の大火には、藩にの江戸屋敷の普請に従事するため江戸に下り、三代藩主利常が小松城に隠隠居した際は三、四年という期限で妻子ともども小松町に移った者もあった。それでも一六八五年(貞享二)には三〇〇人の大工が金沢に居住していた。
 この他、城下町には刀鍛冶・甲胄師・具足師・鑓細工師・靱師・鐙師・蝶師・柄巻師・研師・紺屋などの武具職人、壁職人・畳職人・大鋸職人・石職人などの建築職人、工芸職人があり、これらの職人のなかでも畳屋九郎兵衛(畳職人)・釜屋寒雉(鋳物)・茜屋理右衛門(茜染)・館紺屋五郎(染色)・同孫十郎(同)・黒海屋太郎右衛門(同)・革屋左衛門五郎(皮革細工)・同左衛門次郎(同)などはよく知られ、領主より屋敷地を与えられ、扶持を給されるものもあった。
 一般町人のために製作する職人にも、白銀細工などの工芸職人、鍬・鎌・庖丁などをつくる鍛冶職人、桶職人、檜物職人などがいた。
 職人は同じ職ごとに同じ町に住むことを原則として、大工町・出大工町・大鋸に片町・吹栄町・針屋町・白銀町・象眼町・石伐町などいわゆる職人町の町名をつくった。
 金沢では、藩初の職人の数は商人の人口より多かったといわれる。

  四章 藩政後期の金沢 top

  1 宝暦の大火と金沢町

 宝暦の大火

 寛文期以来、城下の膨張を抑えてきた金沢は、足軽や侍奉公人の増加、町人の次三男、農村部からひそかに流れこんでくる貧しい農民などによって、地借り・二階借り・問借りがふえ、侍居住地と町人居住地が入り乱れ、また農民居住地と町人居住地も混乱し、町の行政に差しつかえを生じていた。一七五九年(宝暦九)、たまたま城下の九〇パーセントを焼くいわゆる“宝暦の大火”によって、これらの都市問題は一挙に解決した。金沢の門閥的特権町人、亀田伊右衛門の書き残した備忘録によれば、火は四月一五日の午後三時すぎ、泉野寺町の舜昌寺から出火し、野田寺町・十三間町へと飛び火した火災はさらに各方面に分散して、御城をはじめ城下の大半を焼きつくし、大衆免あたりまで燃えてようやく止んだ、という。
 この火災で城内の本丸・二の丸・三の丸・櫓(やぐら)・殿館など一〇二棟、土蔵一九棟を焼き、罹災した侍屋敷八八一軒、寺院一〇六軒にのぼった。町人居住地の罹災は六九町、焼失家屋は五五六八軒におよんだ。
 藩は急ぎ幕府より五万両を借用し、また越中長棟鉱山・尾小屋鉱山産出の鉛を二年にわたり売却するなど、城郭・殿館再建に手を尽し、家中の侍・町民に対して蔵米を放出し、建築用の松材を渡した。松材は三〇〇石につき一本として近くの山から渡されたが、とくに歩の侍は一五本、足軽は七本、小者は三本とされた。また大工その他の職人に対し、物価高を防ぐため 「竹木等直段高値に不仕、可成程下直に可致」きことを指示した。こうして、一、二年の後には、木の香も新しい金沢町が現れた。


加賀藩の火消奉行
 巌如春筆の『加賀藩年中行事図絵』に描
かれた。消火の指揮をとる火消奉行。(金沢大学教育学部藏)

 防火体制
 この大火を契機に、藩では城下町の防火・消防体制の必要性を痛感し、町を東西南北の大グループにわけ、その一グループを二つあてに分けて八組とした。八組の内部は三個から六個の小グループとした。
 各小グループは町の性格や家数によって一町単独のものから二〇余町を合わせたグループなど、家数からみても上近江町の五三軒から石引町ほか一二町の七三一軒など、大小様々であったが、各小グループには常備の水桶数が定められた。
 これを合計すると、全八組を四〇の小グループに分け、およそ七三八個となる。




水印 右から、三社町等・安江木町等・安江木町等・下堤町等・
御門前町・南町等・石浦町・法船寺町等・五枚町等・片町等。

 その一例として城の西部一帯の組の内訳を表で示すと右上の表のようになる。
 一七八六年(天明六)の「定」によると、組内で火事が発生すると組内で消火するよう組内の町々が火消器具を持参して駈けつけることが義務づけられ、また、組が異なっていても隣接のグループに火事が発生すれば消火に駈けつけることとされ、肝煎・組合頭は水印(右の写真)をもって駈けつけ、火事から遠い組では町会所へ詰め、横目肝煎の指図を待った。
 『金沢消防のあゆみ』(本書は金沢市役所の刊行したものであるが、藩政期の記述に誤まりが多い)によれば「町火消は纏(まとい)がなく、水の模様を染め抜いた幟を用い」とあるが、町々では水印を作製し、旗・幟・纏に用いた。
 都市の火災は藩初より領主の最大関心事であり、毎年のように侍・町人に対し「火之用心」と消火について厳重な示達を試みてきたが、とくに町人に対しては亭主番・夜番・自身番などを義務とし、十人組ごとに、はしご二丁・辻桶・鎌・熊手などを常備させた。

 復興した町
 こうして復興した金沢の町々と、整備された制度の上に築かれた生活や文化の繁栄のようすは、当時の人々の目にどう映ったであろうか。
 すでに、元禄期に、有沢武貞は、金沢の繁栄ぶりを、
 「越登賀三州ノ武士大中小身皆一府ニ集テ、広大ヲナスコ卜江戸ノ風ニ近キ也……城ヲ中ニシテ、八方へ町割ヲナス者、東都ノ外ニ「金府バカリナリ」といっていたが、さらに下って一七七二年(安永元)秋、磯一峰は
 「小松・松任などを過て金沢に着きぬ。国守のおはす所なればわきて賑へり。
 商家軒を比べて朝餐夕餉(ちょうさんゆうげ)の煙一、二里に立続くべし。
 犀川・浅ノ川などといふ橋は淀・伏見にも劣るまじ。人馬の足音絶ゆる間もなし」(『越路紀行』)と述べている。
 この後八年たった一七八〇年(安永九)、金沢の町を見た領外のある知識人は、金沢について、
 「五穀豊饒にして万民渡世に困らず、野菜・薪の便多く、海魚紅鱗また備り……」と自然の物産が豊富で生活物資の充実しているさまを語り(以下はいずれも『加陽忠孝実夢録』)、工商いらかを並べ……諸国の商人、漢・大和のの宝産、色々の衣服も、皆当国を心懸け商売の為に運送しければ、物として欠くる事なし」と経済活動の活発なことをほめ、そして金沢の町人も武士も、豊かな暮らしをし、レジャーを楽しんでいると、過大評価とも思われるほど、当時の金沢城下町の発展と繁栄ぶりを語っている。

  2 城下町金沢の構造 top

 本町と地子町
 金沢の城下は、おおかね領主の公有地(城郭・諸役所・演習地)と侍拝領地(上屋敷・下屋敷)と町人居住地に大別される。
 従って城下町というのは一般に町人居住地を指すことが多い。
 金沢城下町は本町・地子町・寺社門前地・相対請地に分けられる。
 これらのうち本町は前の章で述べたように寺内町系の町々と前田氏入国当時に立てられた町々とから成立っており、その初めは寺内町系の後町・西町・中町・堤町・近江町、これに準ずる松原町・金屋町・材木町と、以後に成立した安江町の九町である(よくいわれる“尾山八町”の名はあたらない)
 このほか、本町につぐ町として、尾坂口に近い袋町・博労町・今町と南町内に成立した石浦町、元和期までに成立した河原町や大工町などが「七か所」とされたが、これらの格付け基準は必らずしもはっきりしない。
 残りは地子町である。地子町からは地租にあたる地戸銀を徴収したが、本町では拝領地と同じく地子銀はなく、代りに家にかかる夫役と役銀を負担させられた。
 その後、尾張町・中町・十間町など前田氏系の町々と七か所・地戸町の経済的地位が上昇したので、本町の数も増加して三八町となり、しだいに本町の権威性を小さくしていった。

 しかし、あとにも述べるように、藩末になっても金沢町民の本町に対するあこがれは強く、生涯のうちに一度は本町・本通りに住みたいと念願するほど、実力はともかく、本町町人の格式は一段上と見られていた。
 藩末に刊行された『増補改正六用集』にのっている「市中町名寄」によると、本町・地子町の数は右の表の通りである。
 本町として格づけられた四〇町は、泉口では野町、犀川川上口では竪町・河原町・亀沢町、浅野川川上口では材木町、犬樋口では森下町、犀川川下口では片町・川南町・木倉町・大薮小路、中口では石川町・南町・上堤町・下堤町・横堤町・上安江町・下安江町・横安江町・元乗善寺町・上近江町・十間町・山崎町・博労町・袋町・桶町・堀片原町・元常福寺町・上今町・下今町・中町・新町・尾張町・橋場町・下博労町・橋爪町、木ノ新保では荒町・須田町・廐町・塩屋町・清水町となっていて、その大半が中口、すなわちいまの香林枋から武蔵が辻を経で尾張町・浅野川大橋に至る北国街道の両側に集中していることが知られる。

 寺社門前地
 寺社門前地は町人が寺社の門前地内に、寺社と契約して居住または商売している地域で、町人は地子を寺社に納め、寺社奉行の支配下にあった。
 一六四九年(慶安二)四月には御門前町・西御坊が、八〇年(延宝八)六月には、宝円寺門前が町奉行支配下に入り、いずれも地子町とされた。
 一八一九年(文政二)四月には、相対請地と同じく町奉行引請地として地子町の扱いとなり、犀川門前地(上門前地・下門前地)・浅野川門前地(上門前地・下門前地)に分けられる。
 六三年(文久三)九月四日の調査では、犀川上門前地三〇八軒、同下門前地二九〇軒、浅野川上門前地二二軒、同下門前地二七一軒、計九〇二軒であった。
 門前地としては、犀川門前地に宝円寺門前・祗陀寺門前・玉泉寺門前・国泰寺門前・雨宝院門前・神明社門前など四六か所、浅野川門前には天徳院門前・経王寺門前・法然与門前二観音院門前など三六か所を数えた。

 相対請地とその住民
 相対請地とは、農地をもつ農民と土地を必要とする町人とが相互に賃借契約を結んだ土地である。
 藩政時代は土地の売買が禁止されていたため、町人の農地購入は認められなかったので、このような方法で土地を入手して家建てを行なっていた。
 一六六六年(寛文六)、相対請地の禁止令を公布して、相対請地とその住民すべてを町人身分に移籍し、町奉行の支配下に入れて、城下町の無秩序な拡大に終止符を打とうとした。
 もっとも、こうした一片の法令によって、城下町へもぐりこみたいという農民の希望は抑えられるものではなく、加わえて、厳しい年貢の取り立てと凶作・不作による農村の困窮は、農民たちを大都会金沢へ引きよせる傾向にいっそう拍車をかけることとなった。
 そして一八二一年(文政四)、最後の大規模な相対請地対策が行なわれ、この時に有松村・大樋村・大衆免村など城下末端の村地が城下に編入され、新らしい町々が立てられた。
 町奉行支配下に入った相対請地の町々では、それまで相対の契約によって農民に支払っていた地子米代銀(地代)を、町民がそれぞれ町会所に納入することになり、町会所はこれをまとめて村方に渡し、村方では貸地分に応じてこれを受取ることになった。
 この相対請地には、下級の侍、仲間・小者などの侍奉公人、この他、日稼人・笠縫・苧(おかせ)・古手買・古金買・魚鳥商・小間物商・たばこ商・鍛冶屋・道具屋・綿売・打綿屋・紺屋・大工・糀屋などが住んでいた。
 このうち最も多い日稼人は“かせにん”と通称され、定職を持たず、侍や町人の必要に応じて屋根葺きの手伝いや人足・土方など日雇いとして生活していた。
 第二に多いのは下級藩士(主として足軽)侍奉公人であった。
 農村で農業に耐えることのできない農民が金沢に出る場合、最も手っとり早い生業が侍奉公であり、まじめに一所懸命働けば侍と見なされる足軽に登用されたことから、貪窮農民や貪窮町人にとっては、最も希望される職業であった。

 東のくるわ、西のくるわ
 一八二〇年(文政三)、城下町の各所にあった出合宿に働く女、湯女(ゆな)・茶汲み女などの売春婦を、北の浅野川口と南の犀川口に集中し、浅野川「茶屋町」(卯辰「茶屋町」)と「石坂新地」を設置した。
 その後、三一年(天保二)、藩命により廃止されたが、このとき、犀川口の石坂新地と合わせて戸数一六〇○軒余、遊女数二〇〇余人であった。
 廃止後は愛宕一、二番町、石坂町と改名されたが、出合宿が増加したので、六七年(慶応三)、再び遊廓として公認され、東新地・西新地と称した。
 四六年(弘化三)の 『東新地細見のれん鏡』には、東新地の戸数一一二軒、遊女一一九人、娼婦一六四人、このほか遠所芸妓四五人、ほかに雛妓がいたとある。
 一八七二年(明治五)、新政府の人身売買禁止令により、いったんは閉鎖されたが、翌年には貸座敷として営業が認められ、以後、一九五八年(昭和三二)の売春防止法施行まで


西新地の図

犀川の南、旧石坂町にあった遊廓。(金沢市立図書館蔵)

遊廓として存続、同年二月八日、新たに料亭営業を始めたものを除き、すべて廃業した。
 この遊廓の遺構をめぐって、近年、きわめて現代的なひとつの問題が起った。
 一九七六年(昭和五一)七月、文化庁は秋田県角館町の侍屋敷、長野県の妻龍、岐阜県の白川村荻町、京都市の産寧坂・祇園新橋を「伝統的建造物群保存地区」に選定し、ついで金沢市の“旧東のくるわ”の選定を金沢市に勧告した。
 「伝統的建造物保存」とは、かんたんにいへば“町並保存のことである。
 金沢市は文化庁の意向を受け、七七年(昭和こ二)秋までに選定を得るため、“旧東のくるわ”を指定地域に決定しようと急いだ。
 さて“旧東のくるわ”では、当時二三軒が料亭を経営していたが、次の世代の多くけ料亭をつぐ意志をもっていないといい、その他の住宅も多くはサラリーマン家庭である。
 町並みこそ“くるわ”風であるが、生活は一般市民のそれとさはどかけ離れていない。
 保存地区の指定をうけてしまうと、修理費などの住民負担が多いので、しわよせをかぶってしまうことになる。
 その上、四、六時中、観光公害に耐えなければならない。住民にとってプラスとなることは、きわめて少ない。
 さらには、指定によってこの地域の過去をいかに美化しようと、女性史にみる屈辱を払拭し、女性の地位向上にとっていささかの貢献もない。
 ことに文化財行政が、つねに観光行政のなかで資源化される今日において、きわめて非歴史的存在となることは火をみるより明らかとなるとして、住民のみならず、市民の間からの批判の声も多い。
 文化は指定についての行政のむずかしさを示す、ひとつの例である。

  3 ひろがる町人活動 top

 金沢へ入る消費物資

 加賀藩の流通経済は、すでに寛文期(一六六一〜七三)には大坂を中心とする全国的な流通機構に組みこまれていたが、ことに米は、毎年平均一〇万石、銀にして二五〇〇貫目(かんめ)余りが大坂に送られ、藩財政を支えていた。
 領内の北前船(きたまえぶね)も、北海道のにしん・数の子・昆布・鮭・魚油などを積んで大坂へ行き、大坂からは雑貨を積んで北陸・東北・北海道の各地へ運び、一獲千金を試みた。
 さて、元禄期(一六八八〜一七〇四)には、すでに一〇万余の人口を有していた金沢へ移入される商品の量は多く、天保年間(一八三〇〜四三)に金沢商人の扱った食料品だけをみても、きわめて多彩である。
 西日本にからは、大坂から菜種・紙・木くらげ・角てん・塩松茸・伊勢えび、阿波の藍玉・椎茸、土佐の鰹節、肥前の陶器、肥後の水仙寺海苔、肥州のみかん、豊前・豊後の生姜、奈良のこうじ、紀州の九年母・金柑・橙々、伏見の角天・三島海苔、敦賀の切昆布、東日本からは、松前のにしん・ぼう鱈・干いか・昆布、出羽の紅花、遠州の椎茸、飛騨のわさび粉・川茸・搗栗、尾張・美濃の千人根・切干大根、越後のいなだ、佐渡の干鱈・鱈の子、越後の大豆・小麦などがある。
 この他、領内産では輪島の熨斗むし貝、七尾のぶらこ(一個づつつないだ煎(いり)なまこ)・なまこ・五筒山の岩茸・平茸、能州の深見のり・海そうめん・そうめん・みかん・塩もそ(ず)く・天草、高岡の水仙寺菊切、福光の枝柿、能美郡のわさび、また支藩の大聖寺の折敷和布・塩芝茸・大豆、越中富山在の卵などがあった。
 これらのうち魚問屋の年間の扱い高が九万八七八三両二朱余、八百屋問屋扱い高が三二三九両一歩、一八三七年(天保八)と推定される年間の扱い量は、合わせて一〇万二〇二二両二朱一歩に達した。
 このほか、呉服物は京都、木材は東北地方から移入された。
 ちなみに金沢で使用される米は一人一日五合として、一日五〇〇石、吉凶にかかわらず年に一八万石を必要とし、地米六万石、石川郡から一万石、小松・本宮・寺井から三万石、越中の新川郡から二万石、他に三百石、計一九万石が町会所をとおして供給された。
 また、地まわりの野菜として近郊農村から、小坂村の蓮根・くわい、諸江村の芹(せり)・秋大根、赤土村のかぶら、大衆免(だいしゅめ)村のかぶら、示野(しめの)村・赤土村・観音堂村・懸森村・寺中村・二寺村・普正寺村の大根、笠舞村の夏大根、剣崎・徳川村・野々市村・矢作村の瓜、安田村の安田瓜、泉野村の泉野瓜、田中村の田中瓜、矢作村・野々市村の茄子、坊丸村のにんじん、伝灯寺村の芋、十二屋村の竹の子などは特産物として城下町に供給された。

 消費都市を支えた商人
 このような領内外からの多彩な移入品にみるように、このそれぞれに見合う商人が存在していた。
 一八一〇年(文化七)の金沢の家数は一万三七九二軒、人数五万六三五五人であったが、翌年には二八四七軒の商人が八五種の生業にたずさわっていた。
 食料・衣料関係を中心に、古着商・道具商・古手買・秕(へぎ、未熟米を扱う店)など農村相手の商人がきわめて多いが、他方、小間物商・呉服太物・銭屋など、上級の侍・上層商人を相手とする商人、米仲買・魚鳥商人・八百屋物商人も城下町らしく多数を占めている。
 これらのうち肝煎(きもいり)を置くもの三〇種余、棟取(とうどり)を置くもの六種、他に才(さい、裁)許人・吟味役を置くもの九種があり、藩がこれらの商売の仲間や組合をいかにして統制して運上を吸いあげようと努力していたかを示している。
 また商人のうち、北国街道沿いの本町に住む町人は、門閥的特権町人またはこれに準ずる格式をもつ町人、あるいは粒々辛苦のなかでのし上ってきた富裕町人であるが、ほとんどといっていいほど、領主および上級の侍と癒着した商人であった。
 彼らは領主のために献金し、品物を上納し、代わりに藩の用を一手に引受け、また、上級の侍の借銀を肩替りし、金銀を上納もしくは賃銀し、代わりに出入りを許され商品を納入した。
 このため、明治維新に際し賃銀を取立てできず多くは倒産した。
 金沢の商人は藩および侍の知行米・扶持米・給銀によって商業活動を行なう者が多く、金沢はこの意味で完全な消費都市であった。


町方絵図部分図
 その河原町の絵図。
現在の金沢市の片町1丁目6から10番地の地域にあたる。(金沢市立図書館蔵)

 藩の経済政策と商人
 藩初からの藩の自給自足政策は一貫して守られ、後期になっても変化せず、生産物の藩外移出禁止、または制限が行なわれた。
 品目は年代により多少の差があったが、金沢は完全な消費都市であったため特産品は少なく、わずかに亀田・中垣の混元丹・烏犀円・腎心丹が東北地方の諸港へ移出されていた程度だった。
 さて、天明期前後から、江州商人をはじめ奥州・越前の商人が領内に入りこみ、資本を役人して販路を蚕食するなど、領内の都市・在町商人に脅威を与えた。
 藩は自給自足体制を維持しようとすれば藩の財政収支を好転させることはむずかしいことを自覚し、ここに米を中心とした経済体制を守りながらも、新らたな産業政策を榠索した。


株札
 1867年(慶応3)8月に山ノ上の
津幡屋に与えられた、呉服太物商株札。

 一七七八年(安永七)、金沢で消貨する商品の自給とその安定物価を目的とした産物方の設置が行なわれた。
 しかし、八三年(天明三)の凶作もあって藩の期待するほどの成果があがらなかったため、二年後には廃止された。
 他方、領外資本の領内産業への支配は、文化期(一八〇四〜一七)になってもなお続き、領外物資の移入も益々増大し、貨幣の領外流失は大きかった。
 一六〇七年(文化四)、藩は金沢の有力町人とはかり、京都の絵師で陶工として有名な青木木米を金沢に招き、春日山で陶器を焼かせた。
 当時、金沢城下で使用する陶器のほとんどが有田や瀬戸産(戦前の金沢では陶器をカラツ・セトモンと呼んだほどである)であり、このため、多大の貨幣を流失したことから、その流失を自給自足により阻正しようとし、かつ物価の安定をはかったのである。
 しかし、木米の焼いたものは日常雑器ではなく美術的な作品で春日山焼と称されるものであったため、藩の意図と異なり、翌年、木米は京都へ帰された。
 しかし移入品に対する藩の自給自足政策、すなわち、金沢への商品の安定供給と安定物価は藩の方針として変りなく、一八一一年(文化八)には領内の産物調査を行ない、施策を進めた。
 同年、金沢でも領内の産物調査に対応して、町人一人一人の名前・生業・居町および役付の有無などを詳しく調査し、このうち、町人名を切絵図上に記載し、別に人別職業・役付を横帳に記載し、両者を照合することによって金沢町人の構成を一元的に把握できるようにし、また惣図も作製した。
 この切絵図が「町方絵図部分図」(前ぺージの図)であり、横帳が「町方絵図名帳」である。
 こうして全領国町民の生業を申告させ、その実態把握が行なわれた。

 株仲間の増加
 翌一八一二年(文化九)、都市・農村にかかわらず、商人の株仲間を設置し、冥加銀・運上銀・役銀(営業税)を徴収した。
 一三年(文化一〇)には産物方を再開し、領内の産業に資金を貸与し、また江戸への販路の開拓に努め、国産物の保護のため線香・陶器・綿打弦(づる)・紺屋刷毛などについては他国品の移入を禁じた。
 また同年、これまで無税にされていた営業も株仲間を組織させ、役銀をとった。
 金沢では味噌・醤油・酢の醗造、金物・組糸・干菓子・砂糖・鬢付(びんづけ)・みの・笠・雛人形・生菓子・漆などの株仲開かできた。
 なお、金沢城下の茶価格の安定をはかるため、博労町の円道藤右衛門・片町の堂後屋三郎右衛門・石浦町の錺屋藤五郎・石引町の柳橋屋伝兵衛らを問屋に命じた。
 これらの一連の政策は、さきにも述べたような金沢への安定供給と安定物価のためであるが、加えて町人の商売仲間を育成して上納銀を増徴しようとしたもので、藩の経済基盤を商業の上に移しかえようとするものではなかった。
 この産物方政策は、さほどの成果をもたらさなかったから、産物方は、一八一四年(文化一一)、再び廃止となった。
 しかし一八一八年(文政元)、再度の産物方が置かれ、産物銀の貸与による殖産興業が強く進められた。
 この推進役をつとめたのが、一丸甚六や酒屋宗右衛門を中心とする新興町人であった。
 一丸や酒屋は商業の活発化と株仲間の結成、運上銀の増徴につとめた。
 三七年(天保八)六月の資料によると、酒造・蔵宿・伝馬・両替などの仲間からはもとより、豆腐・蝋燭・たばこ・油から料理屋仲間からも、運上銀を召し上げている。

 新興商人の出現
 加賀藩において、商品経済が発達するにつれて、農地を手放して没落する農民が多く、彼らは農村奉公人となったり、あるいは金沢町へ出て侍奉公人や商家奉公人となり、または日傭いとなって多くは都市の下層民となった。
 彼らのうちには、本町への進出を願って営々と働き、町人層内部での上昇をねらうものも多く、住民の交替は激しかった。
 こうした中から、それまでの門閥的特権町人をおびやかす新興商人がしだいに抬頭した。
 一七七八年(安永七)には、安江本町の宮腰屋次右衛門・森下町の越前屋新右衛門・下堤町の木屋孫太郎・材木町の塩屋長右衛門・新町の茶屋三郎右衛門が、門閥的特権町人である片町の宮竹屋伊右衛門・下堤町の紙屋庄三郎と共に、藩に貨した銀六二〇貫余の返済を要求しているが、これら新興商人が安江木町・下材木町にも現われ、また古い格式をもつ町である森下町・片町・下堤町・新町などにまで進出していた。
 さらに下った一八一一年(文化八)には、北前船合積荷主たちの住吉講や上層町人の親睦団体である羅漢講(らかんこう)があった。
 また二二年(文政六)には、金沢の米問屋が藩権力を背景に加越能三国の米市場を独占した。
 これらの商人は天和・元禄期商人の系譜をもつものではなく、農村における在郷商人の活動と、全国的な規模での流通経済を背景に進出した新興の町人であり、なかでも宮腰屋甚六(一丸)や酒屋宗右衛門は代表的な城下町の新興商人であった。
 このような新興町人の出現により、藩初以来の門閥的特権町人はその社会的・経済的地位をおびやかされるに至った。


金沢の商家番付

1865年(元治2)の金沢での有名店の番付。

 とくに彼らの社会的地位を示す町年寄役・銀座役・散算用聞などの町役人の職を保持するため、一八一九年(文政二)、藩に対し家柄本列(家柄町人の制度化)の設置を願い、改めて 「家柄町人」に列せられた。
 天保期(一八三〇〜四四)以降、文久(一八六一〜六四)・慶応期(一八六五〜六八)に至ると、より多くの富裕町人が城下町の各地に現れた。
 前ページの写真は、一八六五年(元治二)に発行された金沢町の有名店の番付であるが、これを見ると、二〇〇店近い有名店が知られていたことがわかる。
 中には、薬種の中屋・福久屋、菓子の森八、料理の鍔甚、小間物の墨田、茶の林屋、針のめぼそ、楽焼の大樋など、現代まで続く有名店の名も見える。

  4 金沢の外港都市 top


北前船

金沢市粟崎町の八幡神社に奉納された絵馬に描かれたもの。

藩政末期の大野町 
現在の金沢市大野町の大野港橋のあたり。(金沢市、喜楽家蔵)

 宮腰と大野
 さきにも述べたように前田氏の金沢城入城と同時に、宮腰町は中山主計の功により港は金沢の外港となり、古くから宮腰港と競合してきた大野港は、宮腰が町として優遇されたのに対し、村として存置された。以後、宮腰港は藩末まで金沢の外港として多数の船が入港し、また、多数の船団を擁して日本海を航行した。
 一六六七年(寛文七)の宮腰町の櫂役高(船にかかる税)は二八六三匁で領国内の港では最高であり、大坂廻米船・奥羽木材船の出入りも最も多かった。
 宮腰港は金沢という大消費都市を背後にひかえた移入港で、米・大豆・胡麻・荏草・楮子・綿・苧・茶・鉄・煙草・小豆・小麦・蕎麦・大角豆・稗・酒・醤油・松前物(昆布・数の子・干鮭など)・俵物・四十物・諸材木・能登水竹・木呂(ころ)・そうめん・牧木・から粉・わらび・薪炭・干鰯・桐木・若和布・越前切石・唐津物・古着などが主な移入品であった。これらの品目を見ると、金沢での日常生活のかなりの部分を占めていることがわかる。
 宮腰港が全国的に知られるようになったのは、銭屋五兵衛の名によるところが大きい。
 しかし、銭屋五兵衛の名声に圧倒されて、宮腰港そのものの活動――主な海商・船頭・船問屋の実態、あるいはどのような船がどのように航行していたのか、ということについて詳しくわかっていない。
 他方、宮腰港に隣接する大野港に至っては、宮腰港の存在のため、地元発刊の『大野町史』(一九三五年刊)はもちろん、わが国海運史上から全く無視されてきた。
 最近、私は大野港の活動の実態を明らかにしようと努力してきたので、大野港と大野海商の活動をとおして、外港の一端をみることにしたい。
 金沢市大野町の日吉神社の拝殿近くに、一八一八年(文化一五)、丸屋伝右衛門・丸屋伝四郎が奉納した石造の御神燈・狛犬の対があり、この頃すでに丸屋一族が廻船をもって活動し、富を蓄積していたことがわかる。
 また、神社の境内の最初の鳥居の左右の柱に、あと数年すれば消えてしまうのではないかと思われる多数の人名が刻まれている。
 いずれも、嘉永期(一八四八〜五三)に活躍した大野船団の船主・船頭たちの名前である。右側の柱には、
 浅黄屋勘七 川端屋嘉左衛門 若狭屋小右衛門 木津屋忠三郎 囗坂屋吉平 銭屋吉幸 囗囗甚右衛門 白尾屋惣右衛門 同弥作 木津屋喜平 三津屋喜助 世話人川端屋嘉左衛門
 とあり、左側の柱には、
  川端屋与助 丸屋与三郎 丸屋伝三郎 浅黄屋政吉 丸屋吉右衛門 川端屋嘉左衛門 宮腰屋治右衛門 中屋武平 道尾富吉
 とあって、宮腰港で銭屋五兵衛が活躍していた時期に、鳥居を奉納するほどの繁栄をみせていた。
 また、弘前の瀧屋彦太郎の記録などには、藩末に活動していた三九人の船主・船頭の名が見える。

 大野船団の活躍
 これら大野船団の中心は丸屋伝右衛門を総本家とし、丸屋伝四郎を船主とする丸屋船団と、川端屋嘉左衛門を船主とする川端屋船団、これに続くのが浅黄屋(あさぎや)船団、その他であった。
 これらの大野港の北前船は、大野港・宮腰港を拠点にして北は北海道から西は下関を廻って大坂へと航路をのばしていた。 なかでも、津軽藩領の青森港を中心に野辺地(のへじ)港・平館港・今別港・三廐(みんまや)港・鰺が沢港・深浦港に寄港した。
 ことに青森港には、丸屋・川端屋ともに支配人を置いて物資の集荷・販売にあたらせ、米や材木・大豆・油粕を積みこんだ。この他、北海道の松前場所や箱館場所から、数の子・こんぶ・干鮭・しめ粕・魚油などを、秋田藩の秋田港や庄内藩の酒田港からは米申木材を積み、山形藩の山形米が最上川を下って酒田港から積みこまれた。
 越後では米や大豆を積み、大坂の相場によって売り払ったが、また相場によっては買いこんで、諸国に売りさばいた。ときには大野港から醤油や塩を積んだ。
 東北からの木材は藩用をはじめ、金沢での需要が多かったから、大野で宮腰・粟ヶ崎の商人は争って積んだ。
 木材を荷あげする場所は、はじめ宮腰港と定まっていたが、一八六六年(慶応二)になると大野港着岸も認められ、大野港の浜の囲い場に積まれ、金沢に送られた。
 津軽藩における大野海商の活躍は、一時期、銭屋五兵衛や粟ヶ崎村の木谷藤右衛門仁眉を並べるものがあった。
 津軽藩は藩末、財政窮乏をしのぐ便法として、藩領諸港の問屋と取引きする諸国の商人に対し、領内で生産する米売却金の先納を要請した際、その第一の対象となったのは大野・粟ヶ崎・宮腰の海商や大坂商人であった。
 一八六三年(文久三)一一月、青森港で苗字帯刀を許される廻船問屋瀧屋善五郎は、藩命により子の彦太郎を大野の丸屋伝四郎・川端屋嘉左衛門、粟ヶ崎の木谷藤有衛門・木谷治助、宮腰の輪島屋惣兵衛に遣わし、先納金を要請したが、このための滞在日数は四五日におよんだ。


廻船の航程
天保期における丸屋船の東廻り航程。

 このような瀧屋の努力により、木谷が二〇〇〇両、丸屋伝四郎が一〇〇〇両から二五〇〇両増の先納金を約束している。 北海道・大坂間の廻船のほかに、小型船による江戸行きもあった。
 丸屋伝六の直乗りの五○○石積松徳丸は、一八四三年(天保一四)五月下旬、大野・宮腰で荒物を積んで出帆、北海道の江差・松前でこれを売却すると、代わりに鮮・こんぶ・塩鮭を積み、東廻り航路を通り、一二月中旬、水戸藩の那珂湊に入港して塩鮭を売り、翌四五年(天保一五)四月、魚油・焼き酒粕・大豆を積んで出港、浦賀や江戸で売り払い、このあと空船で北上し、南部領の八戸で鰯粕を買って再び南下し、江戸でこれを売却する、というコースをとっている(右の図)

 両港の争い
 ところで、藩政初期、藩権力を背景にした宮腰港は大野港を従属下に置こうとして、大野港に荷上げできる品目を能登産の牧木だけとし、これも三分の二を宮腰港へ、残り三分の一を大野港に陸揚げできることとした。
 牧木は金沢城下での燃料で、その数量は莫大なものであった。
 この制限を認めることは大野港の港としての機能を放棄するに等しかったので、大野側は強く反発した。
 宮腰側は大野川の入口に監視小屋を設け、出入り船、牧本船をチェックし、力で抑えようとした。
 この争いは一七一七年(享保二)になっても終らず、翌年両者は町奉行・郡奉行を代人として藩の算用場に訴え出た。
 算川場は一六七〇年(寛文一〇)の「村御印」の記載に「外海船櫂役六〇五匁五分」「間(澗)役三三匁四分」とあることから、「宮腰側に非分あり」という判定で、宮腰町馬肝煎・組合頭八人・町肝煎五人を禁牢、町年寄二人に対しては扶持・役職・特権のすべてを剥奪し、同時に大野村に対しては木材を除く全商品の入港を許すことを確認した。
 外海船櫂役とは廻船に対する税であり、澗役とは入港する船にかかる税である。
 その後、一七九二年(寛政四)、宮腰町は大野港への牧本船入港の規制を願い出た。
 しかし、この時も藩は「村御印」の記載を証拠に宮腰町の提訴をしりぞけた。
 文化期(一八〇四〜一七)に入ると、大野村・粟ヶ崎村の商人は木材を大野港に陸あげしたことから、木材をめぐる紛争は一八六六年(慶応二)まで続いた。
 また、享保・寛政期の紛争以来、大野町より大野川上流に位置し、大野港を利用する粟ヶ崎村(木谷藤右衛門らが居住)が、大野港に荷上げせず粟ヶ崎村に荷上したことから、粟ヶ崎村が行なう船問屋に類する営業は大野村の船問屋営業権をおかすものであるとして両者間に紛争が起った。
 粟ヶ崎村は、同じ郡奉行支配の大野村にだけ船問屋営業権犬認めるのはおかしいとして大野村の抗議を無視して、粟ヶ崎船団は粟ヶ崎村地内に貨物を陸あげを強行した。
 このため、大野村は町格を得たうえで権利を主張しようとし、一八五六年(安政三)、藩に対し、船主・船問屋が連名して町への昇格を願った。
 同年一一月、嘆願が採用され、大野村は大野町となり、長年争ってきた宮腰町奉行支配となった。
 この間、大野と宮腰との紛争は休止していたが、大野町が成立すると再び木材の荷上げをめぐって激烈な争いが開始された。
 藩は両町の紛争に終止符を打つため、一八六六年(慶応二)、両町の合併を命じ、町名についても『交情堅曰金石交(交情の堅いことを金石の交わりという)』と有之候間、カナインと御改可然哉。石見国の唱も有之候間、カナイシと唱候方宜様ニ御座候」と「金石」と命名された。以後宮腰町はしに金石、大野町は下金石と称したが、一八九八年(明治三〇)、下金石が大野町の名を復旧したことて、宮腰町は金石町として今日に至っている。

 大野醤油
 石川郡大野町(金沢市大野町)に産する醤油を大野醤油と呼んでいる。
 大野醤油の始まりについては明らかでないが、地元では元和年中(一六一五〜二四)に大野村の町人、直江屋伊兵衛が始めたと伝承している。
 醤油の使用は主として金沢城下の侍・町人であったことから、金沢城下町が本格的な町づくりを行なった元和・寛永期に、湯浅を中心とする関西醤油が移入され、続いて醸造技術が導入されたとみられる。元禄期に入ると、金沢の人口はようやく二一万人に達し、海内第四位を誇る百万石都市を形成する。
 この頃、大野村の浅黄屋津兵衛が藩の醤油御用を命じられている。
 一八一一年(文化八)、金沢城下町の醤油業者は四八軒に達しているが、一三年(文化一○)七月、株仲間かつくられ、銀二〇枚の上納を命じられた。
 この頃、金沢には三〇軒、大野には二〇軒余の業者があった。
 この文化年間(一八〇四〜一八)、大野戸油は廻船により能登・越中に進出していたが、二八年(文政一一)一二月、藩が能登・越中の在郷醸造を制限し、在郷商人の抑圧をはかったことから、この地域へ大野醤油はおびただしく進出した。
 一八三七年(天保八)、藩は物価の値上りを抑えようとして産物方役所を廃止し、算用場内に物価方役所を設置し、株立運上銀・冥加銀の上納を停止したが、この中に醤油があった。
 株仲間の廃止に伴い大野村における醤油製造業者は増加し、弘化・嘉永(一八四四〜五四)頃には六〇余軒、生産高は三万〇六〇〇石余に達した。
 このような醸造高にもかかわらず、金沢での需要に対しては大きく値上げが続いた。
 このため、五二年(嘉永五)四月、藩は一升について一二五文と定め、値段の安い鶴来醤油の使用を金沢町民に奨めた。
 大野村の業者のうちには、価格の値上げができないとわかると品質を低下させるものが現れ、このため大野醤油の評価が悪くなり、五八年(安政五)には鶴来産の醤油が大量に金沢に進出した。
 このような大野醤油の不評判を返上し、品質の向上をはかるため、大野村から大野町となった一八五七年(安政四)五月、大野屋助三らの五九人は、宮腰町奉行に対し、再び株仲間と同様の方法をもって業者の保護を願い、許可があれば醤油仲間から二〇両ずつ上納したいと申し出、上納金は町の貯用銀に加えるよう願った。
 このため、藩は浅黄屋重左衛門を醤油肝煎、油屋伊兵衛・浅黄屋津右衛門を醤油吟味人とし、価格と品質の安定をはかった。
 この時期の醤油業者は先の五九人のように北前船の船主・船頭が多い。
 これは難船などによる損害・被害を補填するために営んだものであろう。
 幕末には仲間数の増員を求める申請もあったが、欠員を除き販路が拡張されない限り認められなかった。

 藩による保護
 また一八五六年(安政三)正月、大野醤油の保護のために、江戸藩邸で大野産を使用することとし、諸味(もろみ)で海路江戸へ送り、藩邸内で精製した。
 四二年(天保一三)ころの江戸では、関西醤油が一升一九〇文、関東醤油が二八八文であったが、藩邸で精製した分は費用を合わせた原価が三二〇文となった。
 一八四二年から五六年までおよそ一四年問、物価の値上があったとしても、二三〇文は大変な高価格であった。
 藩が大野醤油を保護しようとした努力を十分に理解できる。
 一八六一年(文久元)の加賀藩産物番付によれば、加賀・能登の名産物示あげられているが、加賀菅笠(すげかさ)・輪島塗物・小松羽二重・金沢三味薬(紫雪・烏犀円・芦婆万病円)・高岡苧柏(おかせ)・金沢大樋(おおひ)楽焼・小松畳表・城端蝋漆・高岡赤物の次に「大野醤油」の名があり「大野醤油」の名は名産として領国内に定着していた。
 一八六六年(慶応二)、大野町が宮腰町と合併して金石町ができたとき、大野側から新らたに町役に命じられた町人が一六人もいる。
 そのうち勘定方兼醤油算用役に甚右衛門、地方肝煎兼横目醤油算用役に善六、醤油横目肝煎に津右衛門、醤油算用役に四郎右衛門、醤油算用役兼吟味人に宗吉、醤油算用役兼水主(かこ)調理役に伊兵衛、算用役見習に善左衛門、醤油吟味人に伊兵衛がそれぞれ選任されており、ここにも藩の大野醤油に対する強い関心をみることができる。
 このような藩の関心は大野醤油をもって金沢城下の需要をみたすことと、醤油価格の安定を維持することにあった。
 さて一八六六年(慶応二)一一月、醤油仲間は米麦などの諸物価の値上りに伴って醤油価格の値上げを藩に願い出た。
 藩が値上げを無視した場合、品質の劣る醤油の出廻ることが十分予想されたため、一升五匁七分六厘と値上げを認めた。
 五六年(安政三)の金沢町売りが一升三匁二厘であったから、実に五二・四パーセントの値上げであった。
 大野町の醤油業者の金沢への醤油輸送は、雇用人を使って二升樽に詰めた醤油を天秤棒に下げ、桂町釈迦堂付近から寺中北側を通り、宮腰往還に出、藤江村あたりで休憩、金沢に入った。
 現在、桂町地蔵堂には直江屋伊兵衛が奉納した一八四一年(天保一二)の献額や醤油仲間の献額がある。
 また、大野川を舟で河北潟に入り、浅野川をやや遡って大河端村に出、ここから天秤棒で金沢へ入る者もあった。
 河北部・越中方面の輸送は船便(テント船)で大野川から河北潟に入り、津幡川を遡って川尻の荷揚揚で陸楊げし、ここから陸上輸送されたが、帰り船には米・薪・炭などを槓んだ。
 この他、大野港から能登・越中方面へと出荷された。

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