練習日誌(1999年)

作成日:1999-01-26
最終更新日:

1999年、自分が歌ったり弾いたりしたときの練習の記録です。最近は練習をさぼっているので 練習以外の単に聞いた記録もここに入れることにしました。現在から過去に向かっています。 1998年の練習日誌2000年の練習日誌もあります。


カラオケ

12/29は高校の知人達で忘年会をした。 二次会はカラオケへいったのだが、 私の同期の奴らの元気さといったらどうだろう。全くもってびっくりしてしまった。 まあ、元気なのは我慢するとして、 我慢ならないのは歌詞を見るために顔をずっとテレビ画面に向けっぱなしにしていることだった。 これでは芸と言えない。 カラオケ道なるものは、今から十年以上前ある方から教わった。機会があれば記す。

付記:2000年の日記に、 カラオケ道について説明していた。


コンサート

昨日のジャズとはうってかわって今日はクラシック。 フォーレのヴァイオリンソナタ第2番がお目当ての千々岩英一さんのコンサートである。 この日もつれあいと行動をともにした。

少し早めに会場について、主催者の甲斐さんに挨拶した。 甲斐さんの了解をとって、河合先生のリサイタルのチラシを曲目紹介に挟み込んだ。 これは千々岩さんの御厚意によるものである。有り難いことだ。 そのあと、開場まで少し時間があったので、近辺をぶらついた。つれあいは雑貨屋に行きたいという。 しかしここはお茶の水、楽器屋とスキー屋と本屋しかない、というとむこうはしょげていた。 それでもすずらん通りまでいけば何かがあるかもしれない、とそちらに足を向けたら、文具堂という文房具、 画材の店に雑貨のコーナーが少しあった。天の配剤に感謝しつつ、わずか十分程度であったが楽しませてもらった。

さて会場に戻ってみると、結構な人がいた。適当な席をさがして腰を休めると、 なんと、一番前の向かって右には、師匠筋の T さんと T さんの御友人の I さんがいるではないか。ははあ、と挨拶だけする。 さらに、零の会の会員で今や評論家として大活躍中の S さんもいる。恐れ入りました。 もっとも知り合いは以上である。
予定より少し遅れてお二人が出てきた。千々岩さんはどういう方かと思って期待をしていました。 こう、実直そうな方とお見受けした。久山さんは切れる感じのする方であった。

まず、シューマンのソナタから始まった。シューマンはあまり好きではない作曲家である。しかし、 千々岩さんの要望によれば、事前に聞いて曲の全貌を掴んでおくといいだろうとのことだったので、 私は廉価版を一枚買って、5回ほど聞いた。ちょっともごもごした印象があったが、これなら聞ける。 実演は、もっとはるかに元気のいい、いきいきと音楽であり、驚いてしまった。 ある方がいうには、ヴァイオリニスト泣かせの曲だというが、私にはとてもそのようには聴こえなかった。 すっかり千々岩さんと久山さんは自分の手の内に入れていると、手なづけているようだった。

次にお目当てのフォーレである。千々岩さんもこの第2番をメインと考えていたようだ。 まず第1楽章の導入部で驚いた。私が聴いてきた演奏では、 ドラムロールののちいきなり襖を蹴破って主人公が登場する、 まるでマンガのような絵と動きを思わせる録音がほとんどだった。 ところがこの演奏はどうだろう、 主人公が礼儀正しく三つ指付いて深く頭を下げながらしずしずと襖を空けるかのようではないか。 録音ばかり聴いてきたからかもしれないが、和声の移り変わりがこれほど明確に聞こえてくるとは思わなかった。

第2楽章は息の長さをどのように保てるかが勝負となる。 残念なことに、私でさえあれ?とわかる個所で楽譜通りでないところがあり (もちろん曲を知らない人にはわからないようにフォローをきちんとしていた)、 その後数小節の緊張感が欠けたようだった(私の緊張感が失せただけなのかもしれない)。 しかしこんな小さな瑕疵を云々するのは愚かなことだ。 ヴァイオリンをのびのびと歌わせることとフォーレ晩年固有のなんだかわからないたわごとを表現することを見事に両立させていた。 千々岩さんもそのあたり、なみなみならぬ苦心があったようだ。

第3楽章は前2楽章にくらべれば見通しを立てやすい。ややこしい転調だらけだが流れはいい。 小石のたくさんある清流を思い浮かべればいいだろう。千々岩さんの演奏も、考えた結果を感じさせない、快調な音楽だった。 半分を過ぎてピアノ左手が3連符で割り込む個所もきつすぎず、ゆるすぎずで見事に計算されていた。 そしてあの第1楽章第2主題が回想される個所で、ため息を思わずついてしまった。

こうして書いてみて、すばらしい演奏であったことは事実である。しかし、相変わらず割り切れない個所もあれば、 さらにいい解釈を期待する個所もある。

千々岩さんには個人的にこう伝えた。「目からウロコ、耳からウロコというところがたくさんあった。しかし 本当にこれでいいのか、とひっかかるところもありました。」このとき言い忘れたのは、 演奏のせいではなくて曲そのもののもつ謎めいた作りにその源がある、ということだった。

後半はリストとブゾーニだった。この曲でのリストは通常知られている彼のイメージとは異なり、 単純な音符を並べることに徹した。そしてリストのこの手の曲はわれわれが思っている以上にある。 これを一つの音楽として仕上げるのは至難の技であろう。 私はピアノの譜面を前日にあわてて買って予習はしておいたのだが、それだけではこの曲の真価はわからない。 千々岩さんの解釈はいい線をいっていたと思う。しかし、単純であるがゆえに、ささいなミスがわかってしまうのがなんとも恐ろしい。 ほとんどの音符がG線上にあったように見えたのだが、 これは、ある有名な題名で知られている例の曲のイメージがあったからなのだろう。

ブゾーニは立派だった。時間の長さを全く感じなかった。第3楽章、千々岩さんがこの曲だったか、 自分の演奏態度だったかを評して「自動的に出てくる」ということばを使っていた。 豊かな流れに身を任せるだけでよかった。途中、ピアノの響きがどこかで聴いたような気がしてきたところがあった。 思い出すのに5秒ほど時間がかかったが、何のことはない、ブゾーニ編曲の「シャコンヌ」であった。

アンコールは最初に「牧神の午後への前奏曲」。 この曲が有名になったのはドビュッシーの題名の付け方が抜群にうまかったからではないかと邪推している。 曲自体は私はそれほど好きでもなかったのだが、 今回のこの編曲と演奏には唸らされた。 わたしはてっきりあの官能はフルートでしか表現できなかったのではと思い込んでいたが、 なるほどヴァイオリンで演奏する方が身をよじるような音の徘徊が見事に表現できるようだ。 次の曲は残念ながら名前はわからず。まあアンコールピースとして肩の凝らない小品であり、 締めには相応しい曲だった。

懇親会では、甲斐さん、甲斐さんと親しくされている S さん、千々岩さん、千々岩さんの御父君とお話をした。 千々岩さんにはいろいろフォーレのことで痛いことを突かれた。それはまた後日書くことにしよう。

後記:もう10 年以上たつので痛いところは忘れてしまった(2014-03-29)。


ライヴ

その Y さんのライヴにつれあいと行ってきた。場所は六本木のネロ・ビアンコというレストランであった。 Y さんや私の仲間では、永年のつきあいのある M さん、F さん、H さんが来ていた。 M さんは相変わらず盛んである。元気な話をいろいろ聞かせてくれた。最近はなんでもラスプーチンじゃない、 作曲家(カプースチン)の作品に凝っているということだった。 F さんからは、ことばの廃人達のおもしろい事業を聞くことができた。 H さんの話は相変わらず面白い。自身が CT スキャンを受けた時の話をしてくれた。

で演奏はどうだったかというと相変わらずの Y さんの節回しだった。ノリのよさも磨きがかかってきた感じだ。 この日披露してくれた曲はほとんどすべてスタンダードだったのだが、情けないことに曲名が全く思い出せない。 そんなことを悲しがっていると、M さんは「そんなの思い出さんでいい」と言ってくれた。 それをいいことに残りも題名なんかまるで忘れて目の前のジャズを楽しんだのだった。 あ、一つ思い出したのがあって、トランペットのアドリブであの「サッポロ、サッポロ」という節がちらりと出た。 ちなみに、Y さんをはじめとするメンバーの一部は「ラーメン」というバンド名でこの「サッポロ、サッポロ」 をやったということを聞いている。

連れ合いがいたこともあり、私は午後11時で退散せざるを得なかった。みんな楽しんだのだろうな。

後記:ネロ・ビアンコはその後閉店した。しかし、ここの名物歌手の某さんの歌は最近でも聴いている(2014-03-29)。


ライヴ

私のピアノの師匠の Y さんから連絡がある。CD発売記念ライヴをやるというのだ。 つれあいと出かけることにする。


CD

私のピアノの師匠の Y さんからCDが送られてきた。 何かと思ったら、Y さん率いるピアノトリオのジャズCDだった。 何でもアメリカで録音してきたのだそうだ。気合いが入っているなあ。

なお、私のピアノの師匠は二人いる。一人が Y さんで、もう一人が今度リサイタルを開く河合さんである。
作曲の師匠も二人いる。一人がふるさん、もう一人が T 教の T 氏である。


9月18日(コンサート立ち会い)

私が所属している川鉄東京合唱団(当時)のソロコンサート。私は照明・録音係。 つれあいと二人でスピーカー越しの歌を聴いていた。 最後に私はドジをした。アンコールが終わり、ステージ上の演奏者が引いたあと、 徐々にステージ上の照明を落とさないといけないところ、うっかり客席の照明を落としてしまった。 スライダーが逆であることに気がつき、慌てて客席の照明を明るくし、ステージ上の照明を落としたが その切り替えが急で皆さんを慌てさせてしまったに違いない。

一次会、二次会で皆様のいろいろな面白い話を聞かせてもらった。 二次会では、今回かなりの伴奏をして下さったピアニストのTさんの話を伺った。 Tさんはなんでも2年間、アメリカでピアノの修行をしてきたのだという。

私「どういったジャンルを勉強されたのですか」
Tさん「バロック、古典派、ロマン派、近代、現代、この5分野はすべてやりました。」
(学の無い私はここで近代と現代をわけないといけないことに気がつき、不明を恥じた)
私「具体的に、どんな作曲家の曲をさらったのですか」
Tさん「バロックはバッハほか、古典派はハイドン、モーツァルト、ベートーベン、ロマン派はショパン、ブラームス、 近代はドビュッシー、ラベル、現代はええと、いろいろ、矢代秋雄、武満徹、ヒナステラ、 それからフランスでヒナステラと同じ世代の人は...」
私「メシアンですか」
Tさん「メシアンはもちろんだけれど、あと...」
私「デュティーユですか」
Tさん「そうそう、デュティーユ、あと隣の人がロシアだったから、チャイコフスキー、ラフマニノフ、 プロコフィエフの三大作曲家はよくやった」
私「スクリャービンとかは」
Tさん「もっちろん」
私「ショスタコーヴィチは」
Tさん「うーん、あんまり、やっぱりショパンの流れのスクリャービンとかだったから。」
私「ええと、そのなかでお得意のジャンルは」
Tさん「モーツァルトは得意。それからショパンはもちろん、ドビュッシー、ラヴェル、それから...」
それからたくさん挙げて下さったのだが、忘れてしまった。

私としては、アメリカでどんな修行をしてきたのかもう少し知りたかったが、これでよしとした。 私は高校を卒業するまで、スクリャービンさえ知らなかった。 そんな私を、スクリャービンはもちろん、ショスタコーヴィチ、武満、ヒナステラ、メシアン、 デュティーユと知らせてくれた同僚がいた。みなさん、この上なく偉かった。

なお、この日は三次会もあったのだが、こちらは出席しなかった。つれあいが「あまり飲み過ぎないように」 とうるさく言っていたからである。いざ帰ってみると「もっと遅いのかと思った」。 今度からまた飲み過ぎてやるか。


八重洲室内アンサンブルの演奏会本番 --- 8月29日

八重洲室内アンサンブル第 12 回演奏会の当日がやってきた。 なんとわたし(とつれあい)は寝坊してしまった。 あわてて朝飯を食べるが、到着したのは10:40。集合時刻に遅れること40分である。原因は私の不摂生である。

練習を一通り行なう。私にとっての鬼門はブランデンブルク協奏曲である。 第1楽章のカデンツもまるで自信がないし、第2楽章のテンポのゆれやタッチの不明確さについては、 フルートの H さんから手厳しい指摘を受けるし、 第3楽章のソロから展開部にかけての緩みない部分ではいつ落ちるかと心配である。

結局、第1楽章のカデンツはそんなに速く弾く必要なし、 との指揮者の I さんのひとことで肩の荷が降りた。私が弾ける速さで弾くことにした。 第2楽章は H さんからの指摘に素直に従うことにした。 だいたい最近まるで自分のピアノに対する指摘を受けていなかったので天狗になっていた。 第3楽章は運を天に任せた。

開場は13:30。高校の同級生や後輩、合唱団の仲間が来てくださった。 ここで感謝いたします。

まずはモーツァルト。自分で楽しんで聴けるように心掛けた。 もくろみは十分ではないだろうが、まあ安心できた。

次は気になるブランデンブルク協奏曲。落ちたらその時と覚悟を決めていた。 第1楽章はいろいろ気が抜けないところがあったできごとがあったものの、 何とか切り抜けることができた。カデンツはかなりテンポを揺らしてしまったため、 自分の演奏に対する態度からすればはなはだ不本意だった。 しかしむりやり速くして爆裂するよりはいいだろうと内心自分を慰めながら弾いていた。 打ち上げの席で I さん曰く、 「ソロなのだから自分の時間は長く取っていいんです」。 I さんはそういえば何度もソロは遅くていいのだ、と力説していたな。

第2楽章は頼るべき楽器がフルート、ヴァイオリンのソロだけだから、 第1楽章よりさらに気を遣うべき部分が多い。というより気を遣うべき部分だらけである。 こちらとしてはテンポを一定に、 特に遅くならないよう保つこと、 フルートの息継ぎ部分以外は抜かないことに留意したつもりだった。 結果は団員やお客さんの判断に任せておこう。

第3楽章は練習よりだいぶ速く、うろたえた。しかし、なるようにしかならないのだ。 自分が楽しめばいいだろうと腹をくくり進めていったところ、 案に相違して大事故は起きなかった。とはいうものの、 最後気の抜けたところで多少落ちてしまった。これは御愛敬にしてほしい。

休憩でいろいろな方とお話することができた。

後半は H さんのソロ、フラウト・トラヴェルソによるテレマンの無伴奏フルート曲である。 ギターもそうだけれど、フルートは室内が楽器そのものみたいなものだから、 いろいろなところで聴きたいものだという感を強くした。

最後にホルストの「セントポール組曲」。第3楽章の最後は チェロのみのピチカートで終わるのだが、そこで私がお間抜けな音を出してしまった。 同じプルトのTさんは自分が出したと言うのだが、、、。 とくに問題はなく全部終わった。

アンコールはバッハの「アリア」。いわゆるG線上のアリアである。 実はこれが一番悔いの残る演奏だった。


8月24日(練習)

バッハのブランデンブルグ協奏曲の練習。 「練習をテープにとったので、解析することにしよう」てなことは全然していなかった。 もう一度やり直し。せめて独奏部分はうまくいくように。


7月24日(練習)

バッハのブランデンブルグ協奏曲の練習。練習するたびにうまくなるような気がしているのだが、 気だけのようだ。練習をテープにとったので、解析することにしよう。


7月21日(練習)

川鉄合唱団。 バッハの小ミサ曲。私はベースから追い出され、テナーを歌っている。
いつもの打ち上げでは、アメリカ生活から帰って来たTさんを迎えて話が咲く。


7月14日(練習)

川鉄合唱団。いつもの団内の指揮者、副指揮者が二人とも休みのため、私が代わりに振る。 なんとかいう作曲者の「ヒーリング」音楽である。 どうもわたしは指揮棒でリズムをたたくのが嫌いなようだ。 リズムは体でとるもので、音でとるものでないと思っているからだろうな。
先生が来た後は、バッハの小ミサ曲。 後の飲み会で先生から今歌っている「ヒーリング」音楽のCDの宣伝ホームページがあることを教えてもらった。


7月3日(聴衆)

学生時代所属していた同好会の集まりに行く。フォーレの師であるTさん、Sさんほか、 多くの方や野郎に会うことができた。飲み会に先立ってちょっとした演奏会が開かれた。 その演奏を聞くたび、「俺はこんなに弾けない」と失望していた。なまじ弾きたかった時期があるから始末に終えない。 翌日、その演奏された曲のなかで、手許に楽譜があった曲を弾いてみた。やっぱり弾けない。 会誌を当日受け取った。あとで眺めたところ、私達の活動がみごとに後輩によって揶揄されていた。 笑うしかない。


6月26日(練習)

八重洲室内アンサンブル。「セントポール組曲」と「ディヴェルティメントK.138」の練習。 チェロが響かない。梅雨のせいにしておこう。


6月23日(練習)

バッハの小ミサト短調。


6月20日(聴衆)

ウィリアム・マテウッツィのリサイタル。高いFまで出るという驚異のテナーである。
私は、ふつうのトスティや「アマリリ麗し」にも十分満足したが、 吃驚したのはブリテンだった。こんなにも不安感が伝わるのかと思ったのだ。


6月12日(本番)

義妹の披露宴に出席し、頼まれた曲を弾いた。ディズニーから「星に願いを」「いつか王子様が」「美女と野獣」。 例のごとく酔っぱらっていたから、あまりたいしたことはできなかった。義妹には失礼をしてしまった。 でも、「ピアノを弾きますから、アルコールは遠慮いたします」とはいえないのが、意志が弱いところだ。 ともあれ、いいんだよね、ディズニーは。 "Hi-ho"なんて、替え歌で「たいちょー、たいちょー」と歌っていた。 隊長とあだなのついた若い衆がむかしの職場にいたからだ。 そうして、昔懐かしのデイヴ・ブルーベックの"Dave Digs Disney"を思い出した。 そういえばT教のTさんももっているといっていたな。


6月6日(聴衆)

チェリストKさんの御招待により、つれあいともども東京アマデウスオーケストラを聴きに行く。 曲目は無敵の「交響曲39,40,41番」。ゆったりした気持ちで楽しむことができた。 ただ、もう少しスリルが欲しかった。無い物ねだりなのだろうな。

6月2日(合唱)

バッハのミサ曲ト短調。


5月29日(雑談)

ふるさんの披露宴に行く。他の知り合いは、ふるさんと同期のNさん、Mさん、Yさん、 私の同期のUさん、Tさん (T教の主)、Kさん、2年あとのSさん。
Mさんはさる方面で有名な方であり、ホロヴィッツ命の方である。Mさんがいうには、 ホロヴィッツはバッハの曲は編曲もの以外録音を残していない、例外は トッカータハ短調で、かっこいいのだがあまり広まらないのかな、と嘆いていた。 私も同感である。
そのあと、ホロヴィッツから離れて、バッハのトッカータは人気がないといいあった。 ト短調のフーガは音頭みたいでこれまた面白いのだけれどとか。

なお、Mさんは、着メロができる携帯だったらヒナステラのピアノソナタ1番の2楽章を入れるのにとぼやいていた。 これには歩くヒナステラを自称するTさんも驚いていた。

遅れたが、この日の披露宴では、Yさんが"Over the Rainbow"を、 Kさんがベルガマスク組曲から「前奏曲」を披露して喝采を浴びていた。 なお、ふるさん御夫妻は「ピーターと狼」の出だしで御入場された。

5月12日(コンサート)

Oさんの誘いで室内楽を聞きに行く。「大公」と「アルページョーネ」(ヴィオラ)。チェロの方が 一番良かった。

5月8日(合奏)

バッハのブランデンブルク協奏曲第5番。私が連れてきたフルートの H さんはなかなか厳しい。 日頃さぼりがちだった練習に身が入る。練習が終わってHさん曰く、
「バッハはあと打ちが多いですね。らたたららたたた(無伴奏フルート組曲の出だしに聞こえた)とか、 らたたらーーーたたたーーーー(今思い出せないが、ひょっとしたら管弦楽組曲の2番かもしれない)とか、 あれは難しい」確かにそうだ。わたしも「うん、この第5番も独奏でウッタラララララのウッという <ため>とタラという<出だし>がなかなか思う通りいかなくて何回やっても気に入らないんだ」 と心情を吐露した。そして考えてさらに「そうだ、だいたいインベンションの最初からしてそうだ、 あれをガキにやらすのは可哀想だよなあ」と正直なところをいった。Hさんは「そうですね。インベンション は難しいですね。」といいながらひとしきりバッハの話をした。

練習後の飲み会でも H さんはいろいろ面白い話をしてくれた。H さんの知り合いで、 趣味チェンバロ作りが高じて脱サラした方がいると聞き、私たちは驚いた。

後記:H さんは高校の後輩。当時は高校のメーリングリストが活発で、そこで知り合ったので呼び寄せたのだった(2016-03-19)。

4月24日(合奏)

バッハのブランデンブルク協奏曲第5番。なかなか難しい。
この日も腰を落ち着けて飲むことはできず、招待券をいただいた世田谷区民オケの演奏会を聞きに行く。 フォーレの「ペレアスとメリザンド」があるのだ。いい気分できけました。「魔弾の射手」は昔 親が買ってきたオーケストラ名曲集であった。「悲愴」はいつ聞いてもプロ作曲家チャイコフスキーの 腕の確かさを感じる。この曲の第三楽章、第四楽章を学生時代M君との連弾でやった。あのときは、 本番の一週間前選択していた体育の時間(バレーボール)で突き指をしてしまい、右の親指が ほとんど使えなかった。これを聞いた先輩から、「本番の前は注意しないといけない」とさとされた。

5月1日(CD)

ふと思い付いて昔よく聞いたオスカー・ペティフォードのアルバム"In Hi-Fi"がないかどうか、 CD屋で探してみた。一枚だけあった。タイトルは違うが"Perdido"など見覚えのある曲は入っている。 帰って聞いてみた。やはり"In Hi-Fi"の曲がすべて入っている。懐かしい。やはり、いいなあ。

4月4日(合唱)

バッハのト短調ミサ曲。疲れる。

4月3日(合奏)

バッハのブランデンブルク協奏曲第5番のピアノのところ。フルートのHさんを初めて迎える。 速かったので疲れる。 少し飲んでから合唱の合宿場所へ。

2月27日(合奏)

バッハのブランデンブルク協奏曲第5番のピアノのところ。疲れる。
このあと合唱団の飲み会。むちゃくちゃ飲み過ぎてつれあいに叱られる。

2月24日(合唱)

「みぞれ」とバッハのモテット第6番ハ長調。疲れる。

1月22日(合唱)

バッハのモテット第6番ハ長調。疲れる。器楽の節だ。

1月6日(合唱)

この日は「みぞれ」という歌の練習。それとバッハのモテット第6番ハ長調。

まりんきょ学問所まりんきょと音楽 > 練習日誌 (1999年 )


MARUYAMA Satosi