世界文学全集 1 ホメーロス ギリシャ劇 集

作成日:2019-11-24
最終更新日:

内容

以下の作家の以下の作品を収める。

オデュッセイア

あらすじ

ギリシャの町、イタケーの王であるオデュッセウスは、王妃ペーネロペイアと息子テーレマコスを残したまま、 トロイエーの戦に出かけたきり帰ってこない。夫のいないペーネロペイアには求婚者たちが寄り集まっている。 テーレマコスはオデュセウスを探しにイタケーを出発する。 オデュッセウスは見つかるのか。ぺーネロペイアの運命やいかに。

感想

なぜこの年になってオデュッセイアを読もうとしたのか。 一つは、この年になって多少時間ができたこと、また、モラヴィアの 「侮蔑(軽蔑)」を読んで、 主人公のシナリオライターが翻案しようとしている劇がオデュッセイアであること、 そして何よりフォーレのオペラに 「ペネロペ」(ペーネロペイアのこと)があること、 などなどである。 付け加えれば、「オデュッセイア― 伝説と叙事詩」 という本を買っておきながら、 肝心の原作を読んでいないことが恥ずかしかったこともある。

名前

ギリシャ神話には、いろいろな神様が出てくる。誰がどんな神様なのだか、わからない。 そして、神々にまじって、一般人間も出てくる。誰が神様で誰が人間だかわからない。 その神々の名前も、また人間の名前も、長音が多いためかどこか悠長である。曰く、 ヒュペリーオーン、曰く、ポセイドーン、などなど。神話と下々人間との交流を描く作品は、 時間に追われずに、悠々と読みたいものだ。

さて、神話に出てくる神々や土地の名前は、現代の世の中にも出てくる。出てくる方法は、 劇やドラマの名前として出てくることもあれば、 特定の会社の特定の商品やサービスの名前として出てくることもある。 さて、気になるのはその名前の長音がたいてい省略されていることだ。 たとえば、輝く目の女神アテーネーが出てくるが、これは日本の本屋の名前になるとアシーネになる。

固有名詞だけではなく、謎の物体もある。たとえば、p.38 で混酒器という道具が出てくる。以下引用する。

するとゼウスの姫ヘレネ―は別のことを考えつき、すぐに飲んでいる酒の中に苦しみと憤りと、 すべての悲しみを忘れさせる薬を投じた。混酒器で混ぜられた後で、 それを飲み下した者は、たとえ父母が死に、見ている目の前で兄弟や愛する子供が刀で殺されても、 その日一日は頬から涙を落さない。それほど効き目のある薬をゼウスの姫はもっていた。

こんな薬があれば、重篤なうつ病の人にとってはさぞかし朗報だろう。それはさておき、混酒器とはなんだろうか。 調べると、混酒器とは、葡萄酒と水を混ぜるのに使われたという道具である。 今、葡萄酒を水で薄めることはしないが、なぜ古代ギリシャの人たちは葡萄酒を水で薄めたのだろう。 よくわからないことが多いものだ。

第五巻 神々の会議。カリュプソ―の島。オデュッセウスのいかだ

ここでは貴い女神、カリュプソーが登場する。いかだで海を渡ろうとしているオデュッセウスは、 カリュプソーに、自分を無事に渡してやろうという考えはあるまい、と文句をいう。すると、 カリュプソーはこう答えた。pp.55-56 を引用する。

「悪いお方、そんなことを考えておっしゃるとは、ほんとにお気のよくまわること!  これを大智も頭上に拡がるみ空、幸多い神々の最大のもっとも恐れる誓いの証人、 流れくあるステュクスの川の水もご笑覧あれ、わたしはあなたの身に新しい悪企みはけっしてしまい。 (後略)」

このステュクスとは、冥府の川、という注釈がある。そういえば、後藤明生は 「壁の中」で、 主人公と永井荷風を、このスチュクスの川をはさんで対談させていたのだった。

第六巻 ナウシカアー

このナウシカアーという名前は私のような無知な人間でも知っている。そして 「風の谷のナウシカの、あのナウシカの元の名前か?」と勘ぐってしまう。実際、そのようなのだが、 大体私は、「風の谷のナウシカ」がどんなあらすじの作品なのか(私はアニメーションかと思っていたら、 最初は漫画でその後アニメーションになったようだ)、全然知らない。今はまず、オデュッセイアの読破が先なのだ。

それにしれも、ナウシカアーがナウシカに変わるというのは、長音が短縮されるというさっきの気づきの通りだ。 それで思い出したが、日本語を母語とする話者はオカヤマ(例:岡山)とオオカヤマ、オオオカヤマ(例:大岡山)、 オオオオカヤマ、などの区別ができるが、 日本語を母語としない話者は、たとえどんなに日本語に堪能であってもこれらの区別ができない、 という研究があったというのには笑った。

第八巻 オデュッセウス、パイエークス人たちにで会う

第八巻では、海での苦難に打ち勝ったオデュッセイアが、パイエークス人たちの歓待を受ける場面が描かれる。 p.78 で、歌人が出てくる。

かれをとりわけ 歌の女神 ( ムーサ ) は愛したが、幸いと禍いの両方を与えた。その目は奪ったが楽しい歌を与えた。

わたしはつい、バッハやヘンデル、ロドリーゴなどの作曲家を思い出した。

さて、歌を聴いたオデュッセウスはどうしたか。

しかし、オデュッセウスは紫の大マントを逞しい手でつかんで頭から被り、 端麗な顔をかくした。涙を流しているのをパイエークス人に見られるのを恥じたのだ。

男は泣いてはいけない、泣いた姿を人に見せてはいけない、という規範は、このころからあったのだろうか。

その後、パイエークス人たちは、自分たちの運動能力がすぐれていることを客人が他の人たちに語れるように、 意図をもってスポーツの技を競い、楽しんだ。その後、パイエークス人であるエウリュアロスは、 オデュッセウスに競技への参加を勧めるが、 オデュッセウスは自分の心にあるのはスポーツどころか悲しみだ、といって辞退する。 その答を受けてエウリュアロスは、あなたを競技の達人とは思わない、それどころか、 船の積荷にばかり気を取られる強奪に近い利益の看視者だ、と侮辱する。 これを受けてオデュッセウスは反論する。

よその人、その言葉は間違っている。馬鹿者の言葉だ。 (中略)きみはまことに美男子で、神としてもこれ以上には作れまい。 だが心はからっぽだ。けしからぬことをしゃべって、わたしを怒らせた。 (中略)いまは、不幸と苦難に苦しめられている。 わたしは戦さと海のひどい波に苦しんだからだ。 だが、それでも数々の不幸にあいはしたが、よろしい、やろう。 きみの言葉はわたしの心を嚙み、わたしを奮い立たしめた」

こういうと、オデュッセウスはマントを脱がずに、 さきの競技でパイエークス人たちが投げた円盤よりはるかに重い円盤をとり、投げた。 円盤の着地点は、その競技の最遠点を超えていた。

そのあとにもオデュッセウスの思慮深いことばが続くのだが省略する。 当時の競技会の雰囲気にも現在のオリンピックのような殺伐さがあったのだろうか。

第二十一巻 弓

いきなり巻は飛ぶ。求婚者たちの力を試すために、オデュッセイアがかつて持っていた大弓に矢をかけ、 12ある斧をすべて射貫いた人についていく、とペーネロペイアが言い出したのだ。 これを聞いて、求婚者たちが一人ずつ、弓を手に取ってみるが弓が曲がらない。 このくだりを見て驚いたのは、まず最初に弓を手をとったのはオデュッセイアとペーネロペイアの子供、 テーレマコスであったことだ。まさか、母と結婚するわけではあるまいに。 ちなみに、テーレマコスも弓が曲がらなかった。 そして、求婚者たちのトップ、アンティノオスは、他の求婚者たちが弓を手に取っては失敗するのを見て、 自分では弓を持たず「さ、今日は弓の神の祭りの日だ。弓なんか置いて、酒だ!」 とごまかしていた。 なんというずるい野郎だろう。そしてこの後、乞食に扮したオデュッセウスが弓をとって、 12の斧をすべて射貫くのだった。

第二十二巻 求婚者の殺戮

ということで、ずるいアンティノオスは求婚者のうちで真っ先に殺された。それは、オデュッセウスに、 あの大弓から放たれた矢によってだ。以降も殺戮シーンが続く、その描写はなかなか生々しい。 北斗の拳でいえば、「ひでぶ」とか「あべし」とかが飛び交う場面だろうか。 ちょっとこれは18禁かもしれません。

オイディプス王

あらすじ

ギリシャの町、テーバイの王であるオイディプスは、町が滅びつつあるのを憂い、 町を救うために、神のお告げに従うことにした。その神のお告げとは何だったか。 そしてオイディプスは神のお告げの事実関係を調べた結果、真相を知り愕然とした。その真相とは。

感想

学生時代、岩波文庫を買って読み感動した覚えがあったが、手元にその文庫もなくなっていた。 今改めて読み直したが、どうにも筋を追うことができず難儀した。 筋だけなら他の WEB ページを見るのがよい。原典(の訳)を読むといいことは、 その筋に関係するエピソードが出てくる緩急を味わうことにある。 こういうとかっこいいが、原典を読むかっこわるい理由というのもあって、 これは個別の訳への興味である。たとえば、p.382 の下段を引用する。

使者 ここにおわすお人こそ、なあ、おい、あの時の赤児なのだ。
召使 なんという大それたことを! 黙りおろう。
オイディプス えい、じじい、この男を責めるな。この者よりは、お前の言葉こそ責めるべきなのだ。
召使 それはまた、いとも貴い殿さま、どうしてやつがれが悪いのでございます。
オイディプス この者が尋ねる赤児のことを申さぬからだ。

この部分は、オイディプスが自分の出自について知る場面の一部なのだが、このあたりで混乱する。 まず使者は、オイディプス王の出自について知っている。オイディプス王は、 テーバイの前王であったライオスと王妃イオカステの実子であるが、赤児のときに捨てられる。 そのことを使者は第1行で言っている。「ここにおわす」というのは時代劇のようだ。 それを受けて召使は「黙りおろう。」と使者を叱る。 この「黙りおろう。」という言葉遣いもまた、時代劇のようだ。 そしてオイディプスは、「えい、じじい、」である。このじじいは、召使のことである。 召使といっても、実態は羊飼いの老人である。この少し前にもオイディプスは老人を「じじい」と呼んでいる。 王なのだから老人をじじいと呼んでもいいのだろうが、気になる。 王はこの男を責めるな、という。この男は使者を指している。 召使(=老人)は、どうしてやつがれが悪いのでございます。といっているが、これは疑問形であろう。 そしてやつがれとは、自分(一人称)のことをいう、と辞書にあった。これは初めて見た。

そうそう、これを読んだもう一つのきっかけは、 斎藤 忍随+後藤 明生:「対話」はいつ,どこででも という本での後藤明生での発言だった。 その本で後藤は、 後藤明生が、 「オイディプス王」であっても、書き方によっては、喜劇になるかもしれない、 と語っていたのだった。 読み終わって、私には悲劇そのものにしかとらえられなかったが、非凡な作家は考えることが違う。 確かに、ゴーゴリの「外套」は喜劇だけれど。

書誌情報

書 名世界文学全集 1 ホメーロス ギリシャ劇 集
著 者
発行日
発行元筑摩書房
定 価
サイズ
その他草加市立図書館で借りて読む
ISBN

まりんきょ学問所読んだ本の記録 > 世界文学全集 1 ホメーロス ギリシャ劇 集


MARUYAMA Satosi