以下の作家の以下の作品を収める。
外科医トマーシュはチェコで将来を期待されていたが、ある投稿文が物議をかもしたため国外に逃げることになった。 再度チェコに戻ると医師をやめ、職を転々とする。
なぜこの小説を読むことになったかというと、この表題のせいだ。あまりにもミステリアスではないか。
ひょっとして流行語になったかもしれないような、そんな人の心をひきつける力がある。
私はこの小説の原題 Nesnesitelná lehkost bytí
がどのような意味だかわからないので何とも言えない。
この全集で使われている活字に疑問が残る。「高」という字だ。
p.615 上段は、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、
とあり、
p.620 下段は、もし高価なプレゼントを持っていったなら、
とある。
ここまでの漢字「高」は普通だ。
ところが、p.783 上段では、
というのものその川に沿って髙さ一・五メートルの長い壁がのび、
とはしご高になっている。そして、
p.786 下段でも、母親と十八歳まで一緒に住み、髙校を卒業した後
となっている。このはしご高を使用した意図は何だろう?
この章では、軽さと重さの、どちらが肯定的かという哲学的な問いが投げられている。
この問いに対して、この小説の語り手は哲学者のパルメニデースにこのように答えさせている:
軽さが肯定的で、重さが否定的だ
そして語り手は、この対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、
もっとも多義的だ
といっている。
驚いたのは、ときどきベートーヴェンの弦楽四重奏曲が引用されることだった。p.635 に実際その楽譜がある。 小説中には明確に書いていない(実は第 V 部で明確にベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲と明示される)が 第 16 番ヘ長調 Op.135である。あの、 Muss es Sein? Es muss sein! がある箇所だ。
この楽譜は、ベートーヴェンの楽譜からとったものである。この小説で引用している楽譜と異なるのは、 小説で引用している Es muss sein! に相当する楽譜は 𝄴 (4/4) であるのに対し、 ここで掲示した楽譜は 𝄵 (2/2) であることだ。まあ、そんなことはどうでもいいのだけれど。
この冒頭の句Der schwer gefasste Entschluss
は訳者によって「苦しい決断の末」
と訳されている。注意すべきはこの schwer という形容詞は「重い」という意味があることだ。
そして、16 節で語り手はパルメニデースとは違ってベートーベンにとって重さは何か肯定的なものであった
と書いている。私は、ここを読んでいて、私(評者)がベートーヴェンを受け付けない理由がわかったような気がした。
この小説は、表題から連想される通り、軽く書かれているような気がする。 どこということができないが、たとえば、第 4 節でテレザ―後のトマーシュの妻―の9人の求婚者がいたことが語られる。 この9人の求婚者の描写がいい。もちろん、求婚者ということばは、 ギリシャの叙事詩、オデュッセイアを想起させるのだが、 それはともかくとしてこの求婚者9人の性格をいちいち挙げるというのが、おかしいのだ。
この部では、主人公のトマーシュの愛人のサビナと、 サビナの愛人のフランツとを中心に話が展開する。 第 3 節では、理解されなかったことばの小辞典、というタイトルがつけられている。 その中の音楽の項を引用する。
フランツにとって、音楽とは陶酔の意味で理解されるディオニュソスの美にもっとも近いものである。 人間は小説や絵画では十分に陶酔の境地には入れないが、 ベートーベンの第九交響曲、 バルトークの二台のピアノのためのソナタ、 そして打楽器やビートルズの歌でなら酔いしれることができる。 (中略)彼はロックもモーツァルトと同じように愛しているのである。
以上は千野栄一の訳による。おそらくここでの訳は、 「バルトークの二台のピアノと打楽器のためのソナタ、そしてビートルズの歌でなら、 酔いしれることができる」が正しいと思う。私にはチェコ語がわからないのだが、 音楽の作品としてはそうでなければならない。 河出書房新社が世界文学全集を出版していて、 やはりこの「存在の耐えられない軽さ」が西永良成による訳で収められている。 これを参照すると、打楽器はソナタにかかるように訳されている。 それはともかく、ここでバルトークが出てきたことに驚いた。 確かに、このバルトークのソナタは評者も陶酔できるのだ。
冒頭は、トマーシュの妻、テレザが深夜帰宅し、トマーシュの脇に寝たところ場面から始まる。 テレサの行動はこうだ:
トマーシュは眠っていた。顔の上かに身をかがめて、 顔にキスしようとしたとき、トマーシュの髪から変わった臭いを感じた。
この気づきは、後の部に引き継がれる。
このように第 I 部から第 V 部の表題を見ると、対称形になっている。 これはバルトークが一部の作品で採用した構成だった。だからといって、この小説とバルトークの作品とは、 何の関係もないのだった。
とはいえ、ここでは第 I 部の構成が繰り返されている。ベートーヴェンについての話もそうだし、 主人公トマーシュが冒頭で医師として働く場面もそうだ。もちろんその後の展開は異なる。
第 21 節で、トマーシュは妻テレザにこう言われる:
「あなたの髪はもう何カ月もひどい臭いがするの。(後略)」
少し後、地の文でこう引き取られる:
トマーシュは絶望的になった。 あんなに洗っているのに! かすかな臭いすら残らないようにと、 身体、手、顔とあんなに注意深くごしごしこすっているのに。(中略) でも髪のことは忘れていた。そう、髪のことは考えてもみなかった!
評者は主人公トマーシュとまったく違う男であるが、つれあいから「髪の毛がくさい」といわれることだけは共通している。
この部では「キーチ」ということばを軸に筋が進んでいる。キーチとは、 今の日本でキッチュと呼ばれている意味だろう。ここでは「俗悪なもの」「俗悪なるもの」に、 ルビで「キーチ」がふられている。
フランツはカンボジアへの大行進に参加する。第 15 節では、 世界から集まった人たちによる広間での会議の場面から始まる。
フランツと一緒に入ったフランスの知識人たちは押しのけられ、 恥をかかされたように感じた。 カンボジア行進は彼らが考え出したものなのに、 その場にいたのはアメリカ人だった。 彼らは会議の進行を自明の理のようにすすめているばかりか、そのうえ英語を話して、 フランス人なりデンマーク人の誰かが英語を理解しないなんてまったく思いもしなかった。 (中略)フランス人だけが抗議をした。彼らは(中略)英語で抗議することを拒否し、 壇上のアメリカ人に向かって母語で話しかけた。 アメリカ人たちは彼らのことばに友好的で同意を示すような微笑で答えたが、 これはフランス語が一語も分からないからであった。 結局フランス人たちは自分らの抗議を英語でいってみせるより道がなかった。
このあと、アメリカ人が英語だけで会議をすることにフランス人が抗議すること、 アメリカ人がこの反対理由に驚いたが、演説を訳すことに同意すること、 その結果会議が長くなったことにまで話が展開していく。
そういえば、今、評者が見聞きするニュースで、大学入試で英語をどうこうするという話があるが、 もしアメリカ人が今でもこんなことを思っているとすると、大学入試うんぬんの話をすることさえ、 うっとうしくなるのだった。
その後、第 18 節で、実際の大行進に関するエピソードが紹介される。 あるアメリカ人の女優は行進の最後尾にいたが、それを不名誉と感じ、列を追い抜いて先頭まで走っていく。 これを見たフランスの言語学者が女優をたしなめ、女優の手首を押さえた。女優と言語学者の対話を引用する。
彼女は(素晴らしい英語で)いった。 「あんたなんかに用はないわ! 私はもうこんな行進には何百回も行ったのよ! どこだってスターが顔を出さないとだめなの! これはわたしたちの仕事よ! わたしたちの道徳的義務だわ!」
「くそったれ」と、女性言語学者は(素晴らしいフランス語で)いった。
アメリカの女優はその意味が分かって、泣き出した。
アメリカ人はフランス語を解さない、というネタ振りがあったからこそ、 このエピソードが生きている。私はアメリカ人ではないが、フランス語を解さない。 ただ、この罵倒に使われただろうことばはフランス語でわかるつもりだ。 米原万里氏の著書で、どんな言語でも罵倒の言葉は糞を使う、と書いてあり、 その例にフランス語を挙げていたからだ。
この部では、カレーニンという、トマーシュとテレザが飼っていた犬の死について描写されている。 カレーニンは安楽死だった。トマーシュとテレザが安楽死を選んだのだった。 さてわたしはこの場面をどう受け止めればよいのだろうか。愛玩動物には興味がないのでなんともわからない。 ただ、少し前、後藤明生の「夢」という短編を読んだのだった。そこでは、 猫の死について書かれていたのだった。こちらを何回か読んでみることにしよう。
主人公リッカルドはシナリオライターである。妻エミリアとの結婚後二年を経ち、 エミリアとの関係が気まずくなった。 リッカルドは、映画プロデューサーであるバッティスタから今後の映画の脚本を頼まれるが、 リッカルドは、エミリアがバッティスタと浮気をしているのではないかと疑う。
この小説は、もとの会社にいた同僚 K さんから「ぜひとも丸山さんには読んでほしい本です」と言われたものだ。 もうあれから 30 年以上も経っているのに、まだ覚えている私はいったい何者なのだろう。 そんなこんなでずっと気にしていた本だった。実際に読んでみると、難しいことばで書かれている本ではなく、 登場人物も4,5 人と少ないこともあって、さらさら読めた。しかし、内容は難しいものだった。 なぜ、主人公のリッカルドが、妻のエミリアから、これほど軽蔑されなければならないのか。通読してもわからなかった。 だから、私が鈍いのだろうか。K さんは、私の鈍さに気づいてほしいために、読んでみてくださいと勧めたのだろうか。
別の人がブログでこの作品の一部を引用していた。その部分に該当する箇所を探してみたが、やめた。 その代わりに、別の部分を引用することにした。以下は、p.948 の下段からである。彼女とはエミリアのことである。
彼女は、ことばの意味を説明しようとしない。 だが恐らく、説明ができないのではないか、と思う。 恐らく妻の軽蔑には動機があるのだろう。 だが、その理由を的確に指摘できるほど、はっきりしたものではないのだ。 だから彼女は、その動機が、生まれつき私の持っているもの、 つまり理由のない、直しようのないもの、 嫌な性格に原因を求めようとするのだ。
その後リッカルドとエミリアの喧嘩があり、また地の文に戻る。 p.955 の上段はこうある。
ではなぜエミリアは愛するのをやめたのか? なぜ軽蔑するのか? とりわけ、なぜ私を蔑まなければならないのか? その時、とつぜん彼女の「だって、あなたは男らしくない」のひと言が記憶に甦った。 彼女がこのことばを口にしたとき、 その真剣な口ぶりとは対照的に、 それがひどく月並みだったのに、驚かされた。もしや、このひと言に、 妻の私への態度を解く鍵がかくされてはいないか?
この「とつぜん」を見たとき、 私は後藤明生を思い出したのだが、まあそれはご愛敬だろう。 それはともかく、K さんは、もしかすると、私に「男らしくなれ」ということを暗に言ったのだろうか? 私は昔から男らしくなく、今も男らしくない。K さんはいわゆるムキムキマッチョというからではなかったが、 割合男と女というものを分けて考えていた立場だった。確か、私より結婚は早かったはずだ。 今、K さんはどうしているだろうか。落ちぶれた私を見るのは K さんもつらいだろう。
それから、この小説の邦題は「侮蔑」になっている。この邦題は訳者である池田廉による。一方、 すでにこの小説は「軽蔑」という邦題で別の訳者によって出版されている。 ではなぜ、「軽蔑」ではなく「侮蔑」なのか。本文では「軽蔑」ということばは頻出するが、 「侮蔑」ということばは出ていない。日本語の感じからいえば「軽蔑」は普通に使う、人を軽く扱いばかにする意味である。 一方、「侮蔑」は話し言葉ではそれほど使わない。バ行の音が連続して出てきて言いにくいこと、 「侮辱」を連想させ「軽蔑」より重い印象を持つこと、この二つが話し言葉では使わない理由と考えられる。 この本で私は、複数の軽蔑が積み重なって一つの侮蔑に至る、そんな過程を想像した。
それから、この小説ではホメロスのオデュッセイアが重要な役割を果たすのだったが、 私はこのオデュッセイアを読んでいないことに今更気づいた。
楽譜には abcjs を用いている。
書 名 | 集英社ギャラリー[世界の文学]12 ドイツIII・中欧・東欧・イタリア |
著 者 | |
発行日 | 1989 年 12 月 20 日第一刷発効 |
発行元 | 集英社 |
定 価 | 円 |
サイズ | |
その他 | 草加市立図書館で借りて読む |
ISBN | 4-08-129012-1 |
まりんきょ学問所 > 読んだ本の記録 > 集英社ギャラリー[世界の文学]12 ドイツIII・中欧・東欧・イタリア