ハルプライヒ論文-序論

作成日 : 2011-05-03
最終更新日 :

「フォーレの音楽においては,対立的なものが矛盾なく存在している。 それは自然であるとともに稀有のものであり,洗練されていると同時に素朴であり, 魅力と力強さを同時にもち,官能的な細部とともにいきいきとした統一をもってはいないだろうか。 こうしたもろもろの平衡関係に古典主義的な性質を認めることができよう。 そしてほんとうに古典的なものの特質が,本質的なものの表現を優先させることにあるとすれば, フォーレほどその名に値する音楽家はまれである。」  ルイ・アゲタン

フォーレのための弁護

信じられないことであり, 驚くべきことである。 だがこれが事実なのだ。 1970年の今日, フォーレはその母国においてすら, なお弁護されなければならないのだ。 いったいどうしてこんなことになったのだろう。

数年前にフォーレの歌曲を集めたレコードのために書いた次のような文章は, 残念なことに今日なお妥当性を失っていない。

「現在の音楽生活においてガブリエル・フォーレがおかれている位置は, 一連の誤解のもたらした悲しむべき結果であるが, その誤解もフォーレの音楽をあまりにも部分的かつ一方的にのみ理解するところから生じたものなのだ。 ほとんどの判断はわずかばかりの青年期の作品に基づいて行われているが, それらの作品は, 魅惑的でいくぶん表面的なイメージを作り上げてしまった。 やや古めかしい彼の魅力は, 前世紀末の脂粉の香に満ちたサロンにこそふさわしいものなのだ……。 こうした<美わしき聴き手のためのフォーレ>は, たしかに今日の人びとに訴えるべきものをはとんどもたない-もっとも, その場合でも書法の優雅さや洗練, 表現の微細な感受性を過小に評価するのは大きな誤りだろう。 このようなフォーレの礼賛者たちは, いまや帰らぬ過去への追憶に浸り切り, 年老いてしまったが, 彼らこそがフォーレを殺してしまったのだ-かつてドビュッシー愛好家たちが, 彼らの曖昧な理解によってドビュッシーを殺した以上に確実に……。 三世代にわたって, 上品な芸術の愛好者たちは, こうして〈魅惑的な作曲者〉という伝説を作り上げるのに成功して来たが, その微妙な香気などというものは, フォーレを無気力な人びとのサロン的な集まりから連れ出したら, 霧散してしまうだろう。そのうえ, 彼らはフォーレについて,輸出不可能の音楽家という伝説をも作り上げたのだ。 そのためにフォーレはフランス以外ではいまなお知られていない。 」

 「フォーレの偉大さは威圧的なものではない。慎ましさ, 恥らい, 優しさ, そしてそれらから滲み出る魅力が, そのほんとうの大きさを包みかくしてしまっているのだ。 同様の事態はモーツァルトにも見られる。 彼は聴き手を唆すこともしないし, まして力づくで押えつけようともせず, 愛する心で彼に近づく人にだけ身を委ねるのだ。 フォーレの語法の新しさは, なによりも和声の面にみられるが, 革新的な衝撃的効果をもたらすものではなく、愛情をもって聞きこんで行くうちに, 次第にそれに親しんでしまうようなものなのである。 粗野な性質をもつ人は, フォーレのなかに, 自分の仰々しいものへの好みを満足させるに足るものを見出すことはないだろうが, 激しい情熱の愛好家はそれ以上に不満を覚えるだろう。 音楽を<現実を超越して可能なかぎりの高みに達する>ための手段と考えていたフォーレは, 人間の卑小さや愚かさを下に見て飛翔しているのである。 ユジェーヌ・イザイは, 〈ピアノ五重奏曲第1番〉のなかに<善意の精華>を見ている。 <優しき歌>の作曲者に向けられた無理解の原因は次にあげるようなオスカー・ ワイルドの言葉によってもっともよく明らかにされるだろう, 『フォーレに対する憎しみは, 鏡のなかに自分の像(かたち)を見出すことの出来なかったキャリバン(訳注, シェイクスピアの<テンペスト>のなかの人物)への怒りと同じものなのだ。』……」

フランスにおいては, フォーレの傑作に捧げられた公的な讃辞もたしかに少なくはない。しかしそれらの作品は, しかるべき高い地位をこの国の音楽生活のなかで占めるにはなお至っていない。そのうえ, 時代おくれな演奏の伝統がフォーレの音楽の内容をあじけないものにし, あるいは甘ったるいものにして, 柔弱で, サロン的で, 「幸せなフォーレ」という歪んだイメージを作り上げてしまい, おまけに無分別なフォーレ信者がそのイメージをすっかり広げてしまったのである。  ほんとうに優れたフォーレの演奏者は, 数少ないし, 今後もそれは変らないだろう。これはモーツァルトの演奏者についてもいえることだし, その原因も同じようなものなのである。 だからこそこのようなレコードの出現は大きな重要性をもつのである。このレコードは, <ペーネロペイア>(ペネロープ)の作曲者の全室内楽を, 初めて, しかも可能なかぎり忠実で正統的な演奏によって録音したものである。 いうまでもなくここにおさめられた10曲は, これまでにもレコード化されているが, その演奏は, ときには疑問のあるものだったし, ときには時代おくれの解釈によるものだった。 全曲をおさめたものは, これまでにはなかった。

フォーレの室内楽には, 彼の最高傑作が含まれており, 傑作の名に値しない曲は 1 曲もない。このように高度の質がつねに保たれていることは, もっとも偉大なものの特徴ではないだろうか。

 約半世紀にわたって作曲されたこれらの10曲を, どう位置づけるべきだろう。 フランス室内音楽のなかで高い地位を占めることは議論の余地がない。 ドビュッシー, ラヴェル, ルーセルなどはこれほど多くの, そして多領域にわたる室内楽を書いていないし, サン=サーンスやダンディはその作品数の点ではフォーレに優るが, フォーレの書法や精神の質には遠くおよばない。

 フォーレは「フランスのシューマン」であるとしばしばいわれる。 しかしこれは皮相な判断であり, この二人の作曲者の個性や特質についての全面的な誤解を意味するものでしかない。 フォーレの青年期の作品にはきわめてシューマン的な特徴をもった情熱の激動がみられるにせよ, この影響はやがて消え去る。 澄み切った穏さと均衡を特質とするフォーレの芸術は, シューマンの抒情のあの激しい動きや熱狂的な痙攣となんの共通点ももたない。 シューマンは急激に飛翔しては落下する本能の人なのだ。 起伏の多いシューマンの特質とフォーレの静かでゆったりとした発想ほど異質のものはない。 フォーレの強い持続力は, むしろヨハン・ゼバスティアン・バッハを思い起させる。

 フォーレはまたドイツにおける彼の偉大なライヴァル, ブラームスと比較され, 二人の個性の対立し, あるいは相互に補い合う点が強調されることがある。 ブラームスの領域にフォーレは入れないし, その逆も真実である……。 少なくともイギリス人は, この性急な判断を否定して来た。 音楽狂のなかでももっとも島国根性の少ないイギリス人が, ベルリオーズにも熱狂的であることは事実である。 しかしこのパラドックスは表面的なものにすぎない。 シェイクスピアやバイロンの同国人は, 〈幻想交響曲〉の作者の天才的で異常な感情のなかに自らを見出すのだろうが, 他方<ペーネロペイア>の作者の貴族的な慎ましさに彼らの「内輪にいう」(understate)趣味を満足させているのである。

 ブラームスに話を戻そう。 彼はフォーレと同様に内的な生の大家であり, 室内楽をとくに好むのも, そのためであろう。 しかし音楽語法(旋律, リズム, 和声)はフォーレのそれとの間に共通点をもたない。 とくにその瞑想の対象が異なっている。 ブラームスは自問し自省するが, フォーレは超越を, 神をあこがれ, 高みにと逃れる。 彼の最後の作品のいくつかが私たちに示す, あの驚くべき精神的な営みは, 後期のソナタや弦楽四重奏曲のベートーヴェンの高みにまで達している。 二つの五重奏曲, ヴァイオリン・ソナタ第2番弦楽四重奏曲は, 音楽的思考の最高の結実のなかに数えられ, ひとつの文明を規定し, 最終的に人間を信ぜしめるに足る仕事として考えられることは, あまりにも明らかである。 サロンや眉目美しき聴き手などとは, およそ縁遠いものである。 晩年のフォーレが, 青年期の作品の直接的な魅力のためにかえりみられていないということは, 非常に意味深いことである。 いま問題となっている室内楽に限っていえば, ヴァイオリン・ソナタ第1番ピアノ四重奏曲第1番だけが, つねに演奏され, 録音されているのである。 それはベートーヴェンの弦楽四重奏曲を作品18だけで知ろうとするようなものなのだ。 それが馬鹿気たことであることは, 改めて述べるまでもあるまい。

まりんきょ学問所フォーレの部屋ハルプライヒ論文>序文


MARUYAMA Satosi