上 原 貞 治 0.はじめに ●ロシア人ゴロヴニンの『日本幽囚記』(1815)によると、幕府天文方関係者は、1813年の時点で天王星について知っていた。 ●1824年に足立信順が、1826年に間重新が天王星を観測した。これらの観測者は、事前にある程度正確な天王星の位置予報を得ていた。 ●上記の観測の前後には、天王星について日本でもその位置予報(天体暦)を編纂したいという計画があった。しかし、結局それは江戸時代の間には実現しなかった。 ●上記の天王星観測と位置予報計算の実行計画を推進したのは、2人の観測者のほか、渋川景佑、足立信頭、高橋景保であった。 本論では、1820年代以前の日本において得られていた天王星の情報について、筆者の最近の探索の成果を報告する。断片的な内容であるが途中経過的なものとしてご容赦いただきたい。また、過去の論考と一致しない記述内容については、今回のものが訂正あるいは改訂である。なお、新たな試みとして、付録に関連年表を付けた。
実は、『1795年用英国航海暦』[5]には、1790年に発行された初版と1794年に発行された第2版があり、内容の構成が若干異なっている。第2版には1795年の天王星(Georgian)の天体暦が他の5惑星とともに同じ毎月の惑星の暦のページに載っているが、初版では、天王星だけは別扱いで、毎月の惑星の暦のページには記載が無く、その代わりに終わりのほうのページに独立して扱われている。従って、もし、高橋至時が見たのが初版であり、かつ、彼が分析した5月の暦の部分しか見ていなかったならば、天王星の記載のあるページは見ていなかったことになるのである。 おそらく、至時は、初版の5月の辺りの写しのみを見、天王星についてはこの時点では情報を得ることが出来なかった可能性が高いであろう(間重富の手紙[6]、および、下の3.で述べる雑記によってそう推定される)。したがって、筆者の上の「英語原本には天王星の暦(位置推算表)が出ていた」の部分は事実であるが、「これが新惑星らしき天体の位置データであることに気づかぬはずはない」の部分は、事情が場合によって異なるので撤回する。
しかし、佐藤氏の予測は、氏も書かれているように、オランダ語版『家事百科事典』の後の版が日本に輸入されていて、その中に天王星の記述があるだろうということである。それについて、筆者はこれまで具体的な記述の情報を得ていなかったので、このたび、天王星発見以降に出版されたオランダ語版で、日本人が1813年頃までに見た可能性があるもののなかに天王星の記述を捜した。そして、1箇所だけそれが存在することを見つけた。それは、『家事百科事典』オランダ語版「続編」とされる"Vervolg op M. Noel Chomel, Algemeen huishoudelyk-, natuur-, zedekundig- en konst- woordenboek,... "の第5巻[8]のHoroscoop の項である。ここに、Uranusが新惑星として紹介されている。なお、ホロスコープ(horoscope)は占星術に使う惑星の位置の計算盤のようなものである。占星術の項にのみ新惑星の紹介があり、同じ事典続編の天文学や惑星のところにそれが見当たらないのは不思議であり、かつ皮肉である。 当時の日本で見ることができたオランダ語その他西洋の百科事典は、もちろん『家事百科事典』の他にもあり具体的な特定をすることはただちにはできないが、別の事典類で天王星の記述を見つけた可能性も十分にある。
このたび、間重富が天王星についての知識を初めて得たという蘭書を特定する決定的な先行研究を見つけた。それは吉田忠氏の1972年の論文[9]である。そこでは、「間重富雑録拾遺」[10]の中に収められている重富の雑記を引用され、重富が文化4年(1807)7月に蘭書に天王星の記載を見つけたことを指摘されている。重富の記述はかなり詳細なもので、論文のその部分の大意を以下に紹介する。 間重富は、文化4年7月、江戸で、訪問して来た長崎通詞の馬場為八郎から、西暦1800年出版の蘭書「スコールブーク」を借りて読み、そこに新惑星Uranus(天王星)の記載があるのを見付け、「今初テ視ルノ新説」としてこれに注目した。そして、この書にある天王星および他の惑星のデータ数値をすべて抜き書きしている。吉田氏は、この「スコールブーク」がヨハネス・ボイスの科学教科書[11]であることを蘭書の内容を見た上で推定した。この推定の間違いないことは、現在、重富の抜き書きと原書の内容の照合から客観的かつ断定的に結論できる。 この蘭書の内容は、幕府天文方が1813年の時点でUranusとその衛星の存在について知っていたが小惑星については知らなかったというゴロヴニン著『日本幽囚記』の記録とも完全に符合する。さらに、重富が少し後(文化7年あるいはその少し前)に「ボイス」の理学書の翻訳を弟子の橋本宗吉に指示し、宗吉がその後静電気の研究を行ったことが知られているが[12]、これも同じ1800年出版の蘭書であったと推定して矛盾はない。 吉田氏は、これをもって文化4年に幕府天文方が天王星について初めて知ったことを「断定するには少し証拠不十分」と述べているが、これに矛盾する事実は見つかっていないこと、1790〜1800年代に麻田剛立一門および幕府天文方グループで得られた蘭学情報の元締めをしていたのは、事実上、間重富なので、この時点で重富が知らない新惑星情報を他の関係者が知っていたということは考えづらい。従って、幕府天文方が天王星について初めて知ったのは、文化4年7月に間重富が読んだボイスの科学教科書[11]に因る、とほぼ断定したい。
足立信順著『ユラヌス表』(1825頃?)にある天王星の軌道要素の数値[4]について、その出典の探索を継続しているが、まだ多くを得ていない。軌道半長径と離心率(本文では両心差で表現) は当時の多くの文献に現れている値であり、これらは、もともとはラプラス(Pierre-Simon Laplace) の計算した軌道要素の値のようである[13]。このラプラスの軌道は、初期(1796年より前)に計算された軌道のうちのもっとも正確なものの一つだったようで、西洋で広く流布し、多くの西洋文献で紹介されたことであろう。 問題は、『ユラヌス表』の公転周期(本文では平均日々運動で表現)と軌道傾斜の値が、このラプラスの計算値と異なっていることである。筆者は、公転周期については、幕府天文方の何らかの信念によって、軌道半長径にケプラーの第3法則を適用し、何らかの補正を加えたのではないかと推測する。また、軌道傾斜については、1787年以前に発表されたより古いラプラスの軌道に、『ユラヌス表』と同じ46’16”の数値を見つけた[14]。 『ユラヌス表』で軌道傾斜についてのみ古い軌道要素が使われたとしたら、その理由として、1790年代のラプラスの軌道の角度データは「グラード」という1820年代以前の日本人には見慣れない単位(直角を100度とし、10進小数を使うフランス革命時代のフランスで制定されたメートル法に基づく角度の単位)で記載されたことと関係があったかもしれない。 なお、軌道傾斜の値は当時の異なる西洋文献で、少しずつばらついているので、信順がいくつかの文献の数値の平均を取るという操作をした可能性もある。
吉田氏の論文[9]では、日本初の天王星の観測(1824年)の少し前に行われた天文方とオランダ人との対話(文政5年(1822))が中心的に取り上げられている。渋川景佑の「暦学聞見録」によると、そこで、天文方の山路諧孝がオランダ人に「ユラニスは、今年、何宮にあるか」という質問をしている。この「宮」は、黄道付近の天球位置を黄経で30度刻みに分けた領域を指す。また、記録者(渋川景佑?)が西洋の「遠鏡子午線儀」の構造について尋ねている。これらの質問を天王星の位置観測の実施をにらんだものと考えれば、彼らは、おそらくすでに天王星の一般的な知識は得ていて、次の段階として、他の惑星と同様に位置観測をして、あわよくば軌道改良と編暦の事業に乗せたいと考えていたのであろう。実際は、ほどなく事実はその方向で進んだのである。 渋川景佑は、文政7年(1824)初春、偶然に「諳厄利亜航海暦」(=英国航海暦)に天王星の位置予報を見付け、そのデータを間重新に渡して天王星の観測を指示した。実際には、足立信順が同年5月(グレゴリオ暦)に日本初の天王星の観測を行った。いっぽう、間重新が天王星の観測を行ったのは1826年のことである[3,4,15]。この時、景佑が見た英国航海暦は何年用のものだったのだろうか。この頃の英国では、現象の3年前にその予報である英国航海暦が出版されていた。英国から江戸まで本が届くのに要する時間を考えると(ゆうに1年以上かかったであろう)、この英国航海暦は1822年以前の出版、つまり1825年用あるいはそれ以前用のものであったはずと考えられる。だから、1826年の重新の観測にこの時の英国航海暦が用いられたと単純に考えてはならないのである。 いっぽう、1824年の信順の観測は、上記の指示からわずか3カ月で、しかも天王星の南中観測のシーズン初めに達成されており(1824年頃はグレゴリオ暦の5月〜9月にしか暗夜に南中しなかった)、この間に観測用星図や機器の準備も行われたことを考えると、位置計算やその改良に時間を費やす暇はなく、従って景佑が持っていたのはそのまま使える1824年用であった可能性が高いと推定できる。しかし、その前後年用の予報でも補正をして使えると考えれば、断定できるものではない。なお、間家に由来すると考えられる「因諳厄里亜航海暦算定之一百一星赤道経緯度 文政八年冬至之数」という稿本があるとの由である(『大阪歴史博物館蔵 羽間文庫古典籍・古文書目録』。筆者は内容未見)が、これは1825年用英国航海暦記載の予報ではなく、下に述べる1828年用記載の1825年1月1日の100個の恒星位置(実測にもとづく)を参照したものと推定する。よって、これをもって彼らが1825年用の英国航海暦を入手していた証拠とすることはできない。 景佑和訳の『諳厄利亜航海暦』(1827)によると、彼は幕府へ申請して文政10年(1827)に1828年用英国航海暦を入手した。彼らが1824〜27年に得た英国航海暦が以上の2冊のみであったと仮定すると、間重新の1826年の観測は、その年用の英国航海暦なしに達成されたことになる。重新の記録に予報が江戸から送られたとある。以上より、渋川景佑は、1824年に、1824年用(あるいはその前後年用?)の英国航海暦を得、そのデータを足立信順と間重新の双方に渡し、信順はすぐに試験観測に成功したが、重新は何らかの準備不足でシーズン内の観測には間に合わなかった、しかし、重新は翌々年に江戸で計算された予報を得てほぼフルシーズンの観測に成功した、という可能性が高い。この足立信順の2年間に渡る優位は、観測技術の点で重新に劣勢があったとは考えられないので、観測用星図および予報計算の整備がもっぱら信順サイドで行われたためと考える[4,15]。その具体的な経緯と技術的詳細の検証は今後の課題である。
広瀬周伯著(広瀬周度図)『三才窺管』上巻(1808) に、西洋書から写したと見られる太陽系の図[16]があり、そこに7個の惑星らしきものが描かれていることについて、Webブログ『天文古玩』の著者、玉青氏と筆者がそのWebのコメント欄で議論したことがある[17]。 筆者は、ここで『三才窺管』の太陽系図の元絵の候補が西洋書にないかを問い合わせたのであるが、玉青氏は、この図に7個の惑星らしきものが描かれていることを指摘するとともに、ジョージ・アダムズ(George Adams)著” Astronomical & Geographical Essays”のフィラデルフィア版第4版(1800)の図[18]を紹介し、そのオリジナルがロンドン版にあったというコメントをされた。そして、筆者は、このたび、これと類似した図でさらに古いと見られるものを、ロンドンで1790年に出版された科学百科事典の中に見つけた。 それは、William Henry Hall著の"The New Royal Encyclopedia, Or, Complete Modern Universal Dictionary of Arts and Sciences..." (1789-91。3巻本)第1巻[19]という文献である。ただし、ネット上にあるこの文献の電子画像においては図版のページが複写されていないようで、図そのものは確認できていない。筆者がこの図版を見つけたのは、コピーを1枚物の美術品として販売している業者のWebページからである[20]。C.Cookeが描いたという当該図は、アダムズの図と極めて似ているものの同じではなく、惑星がずっと明瞭に描かれている。さらに、天王星が“Georgium Sidus”として図中と図版タイトルに明記されているので、この図が新惑星の発見を強調する状況で描かれたものであることがわかる。 『三才窺管』の太陽系図は、ホールの科学百科事典の図を直接真似たものでないにしても、その影響を受けた類似の図を参考にした可能性が高い。周伯とその息子周度は西洋天文学を詳細に研究していた人ではなく、彼らの太陽系図も粗雑なものなので、太陽系の惑星の個数を正確に写したかどうか甚だ心許ないが、最外惑星のみが太陽からの強い光が届く範囲を示す放射状の線より外に描かれていることは、太陽からの光量が不足しているところに新惑星が存在するというもっとも重要なところで西洋の図の精神を汲み取っているように見える。「三才窺管」の図の最外惑星が天王星に対応している可能性は十分にあるのではないか。 周伯の「三才窺管」は、蘭学の天文知識がそれほど明瞭に盛り込まれていないことを差し引いても、比較的早期に地動説を一般に紹介したという点で高く評価されている。さらに、著者に認識が欠けていたとしても、その中の図に天王星が描かれていたとしたら、さらに価値ある面白いことといえるだろう。 謝辞 天王星に関わる文献について情報を提供し議論して下さった佐藤明達氏と角田玉青氏に深く感謝します。また、羽間文庫関連史料についてご紹介下さった木土博成氏、幕府天文方に蘭書が渡る経緯についてご教示下さった松田清氏にも深く感謝します。なお、年表においては荻原哲夫氏の研究によるところを大とすることを申し添えます。
[2] 上原貞治「帆足万里『窮理通』にある天王星とその衛星についての記述」 日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ
(2010). [3] 上原貞治「日本初の天王星観測はいかにしてなされたか」 日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ(2011). [4] 上原貞治「足立信順の『ユラヌス表』と日本初の天王星観測」 日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ(2011). [5] “The Nautical Almanac and
Astronomical Ephemeris, for the Year 1795”
Commissioners of Longitude, London (初版1790,第2版1794). グーグルブックス [6] 間重富 書簡(高橋至時宛)年月日不明(筆者推定1801)(杉田伯元の条)『星学手簡』 国立天文台蔵. [7] 佐藤明達「上原貞治氏の 「『日本におけるハーシェル』初出の探索」を読んで」日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ(2009). [8] J.A. de Chalmot 増訂 “Vervolg op M. Noël Chomel
Algemeen huishoudelyk-, natuur-, zedekundig- en konst-woordenboek ..."第5巻, Amsteldam (1790). グーグルブックス [9] 吉田忠「天文方の蘭人対話」比較文化研究 12, 167-212 (1972), 東京大学教養学部. [10] 「間重富雑録拾遺」羽間文庫資料, 大阪歴史博物館蔵. [11] J. Buijs “Natuurkundig
Schoolboek”, du Mortier父子刊、Leiden
(1800). グーグルブックス [12] 渡辺敏夫『間重富とその一家』pp 384-386, 山口書店 (1943). [13] Pierre Simon Laplace “Exposition du systême du monde”, Paris (1798). グーグルブックス, [14] S. Vince編 “A Complete System of Astronomy“
第1巻, p174, Cambridge, (1797). グーグルブックス, [15] 荻原哲夫「『もうひとつの伊能図』はすぐ役立っていた」伊能忠敬研究51,
52-59 (2008), 伊能忠敬研究会. [16]広瀬周伯著、広瀬周度図『三才窺管』上巻(1799序、1808),(「遠鏡図説・三才窺管・写真鏡図説」江戸科学古典叢書38、恒和出版 (1983) 所収),
[17]玉青「天文古玩」2009.7.21 「夜の帽子…日食によせて」のコメント. [18] George Adams “Astronomical and Geographical
Essays” 第4版 Philadelphire (1800)(初版 London 1975). [19] William Henry Hall “The New Royal Encyclopaedia; or,
Complete Modern Universal Dictionary of Arts & Sciences, on a New and
Improved Plan” 第1巻, London (1788). グーグルブックス [20] 図版 "Elements of Astronomy
including the Solar System with the new discovered Planet the Georgium
Sidus" ([13]の一部), 図C.Cooke.
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