キングが影響を受けた作家、作品
ポストモダンなホラー作家と言われるだけあって、キングの作品は様々な作品からの引用や言及に満ちあふれています。キングのルーツを知れば今まで以上にキングの作品世界を楽しめるでしょう。
このテーマについてさらにくわしく知りたい方は『死の舞踏』を読むことをお薦めします。
H・P・ラヴクラフト
レイ・ブラッドベリ 
風間賢二氏はこう語っている。「SF&ファンタジー・ファンにとって、ブラッドベリは麻疹のようなものである。一度は誰もが体験する軽い病なのだ。」(1)と。また『IT』の評の中では「これを読んで、キングの本質が郷愁と甘さを抜いたブラッドベリであることに気づいた。」(2)とも。
そしてキングは「ブラッドベリの名は、読書通の間ではファンタジーというジャンルの代名詞として浸透してきた。だが、私にいわせると、ブラッドベリは彼独自の領域でのみ作品を生み出しているのであり、因習打破を目指すその非凡なスタイルは、とても常人にはまねできないという気がする。」(3)と評している。
キングが初めて本物のホラーの洗礼を受けたのは、ブラッドベリの作品を翻案したラジオドラマだったそうだ。
ルイ・アームストロングのように有名(4)で、洗練された文体と繊細な詩的感受性(5)で「グロテスクとアラベスク」(6)の小説を多数生み出した。
(ここまで、ちょっと楽をして全て引用でまとめてみた。)
キングとブラッドベリは共に、子供を描かせたら抜群の冴えを見せるが、あくまでもイノセントなブラッドベリに対し、その世界にあこがれながらも、子供といえどもタフさを要求される現代的な姿を描かざるを得ないキングとでは、立脚点にかなりの開きがありそうだ。ブラッドベリはロマンチストで、キングはペシミストということだろうか。
キングは『何かが道をやってくる』(創元推理文庫)を一番のお気に入りとしてあげている。私が特に好きなのは『たんぽぽのお酒』(晶文社)、「いつ果てるとも知れぬ春の日」(7)、「すばらしき白服」(8)あたり。

ブラッドベリについてもっと知りたい方は「Japan Ray Bradbury Fun Club」をご覧下さい。

(1)(2)どちらも『活字中毒養成ギプス』(角川文庫)より。
(3)『死の舞踏』(福武書店)より。
(4)『何かが道をやってくる』のあとがきより。
(5)『とうに夜半を過ぎて』(集英社文庫)の作者プロフィールより。
(6)クリストファー・イシャウッドの評より。
(7)短編。『とうに夜半を過ぎて』に収録。
(8)短編。『万華鏡』(サンリオSF文庫)に収録。
吸血鬼ドラキュラ
ブラム・ストーカー 平井呈一 訳 創元推理文庫 1971年発行
誰もが知っている古典中の古典でありながら、本書を実際に読んだことのある人はそう多くはないのではないか。私もこのサイトで紹介するという目的がなければ、おそらく手にとることはなかったと思う。
以前にホラー小説好きのたしなみとして、ポーぐらいは読んでおくべきだと思ったが、古臭くって全く楽しめず、途中で投げ出した経験がある。本書も同様ではないかと危惧しながら読み始めたが、これが面白い!一般的に『吸血鬼ドラキュラ』といえば、「吸血鬼ものの元祖」として認知されていると思うが、これが違うのだ。レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』(創元推理文庫)等、過去の吸血鬼小説や伝承を研究した上で書かれた「吸血鬼物語の集大成=決定版」とも言える、実にポストモダンな作品であったのだ。全てが日記や手紙などの書簡によって構成されており、多重視点で物語が進行する様子は今読んでも斬新さを感じさせる。そしてなによりストーリーが良く、娯楽小説としてのレベルも高い。これはストーカーが演劇の世界に身を置いていた経験が生きているのだろう。
現代でも充分に通用する魅力を持った作品だが、今日のホラー作品と決定的に違う点がひとつある。それは登場人物たちの信仰心の厚さだ。ドラキュラが十字架や聖水に弱いという設定は、神の力を信じているからこそ生まれたのだろう。信仰無き時代に生きる我々は、いったい何を武器に戦えばよいのだろう?
地球最後の男
リチャード・マシスン 田中小実昌 訳 早川文庫NV 1977年発行
本書はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』と、キングの『呪われた町』の間の空白を埋める、ミッシング・リンクのような作品と考えてもらえばよいと思う。そしてどちらかといえば、キングよりジョージ・A・ロメロの方がこの作品から強く影響を受けているようだ。
この作品をモダンホラーとするには少し抵抗があるが、旧来のものとは違った斬新な視点や感覚を持っており、後のモダンホラーの礎になった作品と言えるのでは。
正常と異常、狩る者と狩られる者の鮮やかな逆転が本書のキモ。
おそらくこの頃を境に、恐怖の対象はドラキュラや狼男などの怪物から、内に何を秘めているのか判らない人間へと変っていったのだろう。(そして恐怖の対象としての吸血鬼は、キングがセイラムズ・ロットに蘇らせるまで永い眠りについたのだ。)

この作品は『オメガマン』のタイトルで、チャールトン・へストン主演で映画化されており、最近もリドリー・スコット監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演でリメイクする企画があったらしいが、資金難から流れてしまったらしい。
私なら主演はマッチョなヒーロータイプではなく、もっと弱そうな普通のオッサン風(例えばジェフ・ブリッジスあたり)が良いと思うのだが。
わが町
ソーントン・ワイルダー 額田やえ子 訳 劇書房 1990年発行
キングがまだ高校教師だった頃、自分のクラスでは『吸血鬼ドラキュラ』を、他のクラスでは『わが町』をテキストに使っていたらしい。そしてこの二つの作品をミックスしてモダンにしたら=この発想を元にして『呪われた町』は生まれたそうだ。
私は演劇にはあまり興味がないので知らなかったが、『わが町』はアメリカの戯曲の古典的名作で映画化もされているらしい。
ワイルダーは小さな町の人々の暮らしを通じて、平凡な日常の中のささやかな出来事にこそ価値があるのではないかと問いかけている。
なにかに追い立てられるようにあわただしく、余裕なく過ごしている我々現代人はたまにこのような作品を読んで自分の生活ぶりを見直すべきかも知れない。
山荘奇綺談
シャーリイ・ジャクスン 小倉多加志 訳 早川文庫NV 1972年発行
盗まれた街 
ジャック・フィニイ 福島正実 訳 早川文庫SF 1979年発行
キングは本書やマシスンの『地球最後の男』をモダンホラーの原点だと考えている。これらの作品がホラーの舞台を、ヨーロッパの古城から我々が生活している街角へと移動させたからだ。
アメリカ西海岸沿いの小都市サンタ・マイラの住人たちが、徐々に変身能力のある宇宙生命体に侵略されてゆくというストーリーは、共産主義の台頭とそれに伴う赤狩りの脅威に対する不安を描いていると評されることが多い。しかし作者であるフィニィはそのような意図はなく、本作は「ただのお話し、純粋なエンターテインメント」だと語っている。たとえ作者が意図していなくとも、その時代の世相や不安を映し出してしまうのも優れたホラーの特質ではないかと思う。まぁこれは、読者や評者がそのような視点から作品を読み解いてしまうからだとも言えるが。さしずめ現代の日本だったら「IT(イットじゃないよ)革命に乗り遅れまいとあせる中年サラリーマンの心情を描いた作品」とでも評されるかも知れない。
ただ現代のホラーを読みなれている読者にとっては、本書はやや牧歌的に感じられるだろう。
個人的にはフィニィといえばやはり『ふりだしに戻る』(角川文庫)や、短編集『ゲイルズバーグの春を愛す』(早川文庫FT)のようなノスタルジックな作品の方が、彼の持ち味がよく出ていて魅力的だと思う。
蝿の王
ウイリアム・ゴールディング 平井正穂 訳 新潮文庫 1975年発行
猿の手
W・W・ジェイコブズ 平井呈一 訳 『怪奇小説傑作集1』に収録 創元推理文庫 1969年発行
三匹の山羊のがらがらどん 
北欧民話 せた ていじ 訳 福音館書店 1979年発行
キングが『IT』のアイデアを思いついた時のエピソードについては、ご存知の方も多いと思うが、キングは絵本や児童文学にかなりの影響を受けているのではないだろうか。
3人の子供を持ち、フルタイムの勤め人と違って家に居る時間も多く、大の本好きであるキングなら、どれだけたくさんの本を子供たちと共に読んだことだろう。大人の小説よりも、神話的な世界とダイレクトにつながっている子供の本の世界に、キングがはまらなかったわけがないと思う。
例えば『ロ−ズ・マダ−』における「現実世界」と「絵の中の世界」の敷居の低さは、そのひとつのあらわれと言えるのではないか。

それにしても、本書の最後の「チョキン、パチン、ストン。」っていったい何?何か怖いぞ。
ふしぎな五百のぼうし
ドクター・スース 前田三恵子 訳 学習研究社 1978年発行
キングの幼少の頃の愛読書らしい。
これを読んで思い出したのは、ビル・デンブロウの「物語は単に物語であってはいけないんでしょうか?」という言葉だ。
私も小さい娘がいるので絵本はよく読むが、わりと「説教くさい」と感じるものが多い。幼い頃のキングもきっと、おしつけがましくテーマが前面に出てくるような本は嫌いだったのではないだろうか。
その点本書は主人公の少年が、取っても取っても頭にのっかっている帽子のせいで王様に死刑にされそうになるが、帽子がしだいに変化して・・・といったストーリーで、帽子が次から次に出て来ることに対する説明も全くなく、ナンセンスだが楽しい本である。
本書に対しては「絵がマンガチック」とか「意味がない」等の批判もあるようだが、親が子供のためを想って与えようとする「意味のある本」(やれ横断歩道をちゃんと渡りましょうだの、歯を磨きましょうだの、人を見かけで判断してはいけませんだの)と、子供が喜ぶ「ただ単純に面白い本」との間にはそうとうの隔たりがあるように思える。「ただ単純に面白いだけの本」がどれほど慰めや癒しを与え、心を豊かにしてくれるかを多くの大人は失念しているのではないか。
親や教師から「意味のある本」を与えられ続けて、すっかり洗脳されてしまった子供たちが大人になったらきっとこんな言葉を吐くのだろう。「小説や映画は面白いだけではダメ ダメ ダメ。しっかりしたテーマがないとね。」やれやれ。
千の顔を持つ英雄
ジョゼフ・キャンベル 平田武靖/浅輪幸夫 監訳 人文書院 1984年発行
キングとストラウブは『タリスマン』を執筆するにあたって「"ヒーロー"に関する本、すなわち、叙事詩に出てくる英雄、英雄の意味、英雄の成長段階、キリストの人物像とその神格化について書かれた本を読みふけった」(『必携スティーヴン・キング読本 恐怖の旅路』より)そうだ。その中心的な役割を果たした一冊が本書であることは間違いないと思われる。ルーカスも「スター・ウォーズ」のストーリー作りの際に、本書を大いに参考にしたそうだ。

英雄神話の諸相を豊富な例を挙げて解説した本書は、キャンベルの数多い著作の中でも代表作と目されていて、物語を紡ぐ者だけではなく、それを愛する人々にとっても必読の書である。キャンベルの著作を通じて、物語の背景にある神話的原型を知ることによって、さまざまな物語をより深く楽しむことができるし、人生における神話の意味(生きるよすがとしての神話)を自覚することによって、より豊な人生を送ることができるかもしれない。こう書くと大げさな感じもするが、実際に信仰に代わるものとして物語を心の支えにして生きている人は、結構多いのではないだろうか。
この時の勉強の成果は『タリスマン』以外にも、『ダーク・ハーフ』『ローズマダー』『不眠症』などの作品に表れている。「サイコポンプ」なんて言葉は、絶対キャンベルの作品から仕入れたはずだ。

本書は買って損のない名著であるが、上下2巻の大作であり、「いきなりこれはキツイ」と思われる方には、ビル・モイヤーズとのインタビューをまとめた『神話の力』か、講演集の『時を越える神話』が読み易くておすすめ。

千の顔をもつ英雄〈上〉
千の顔をもつ英雄〈下〉

神話の力

を超える神話キャンベル選集 (1)

指輪物語 
J・R・R・トールキン 瀬田貞二/田中明子 訳 評論社 1992年発行 (三部作・文庫全9巻)
本書はほとんど神話の域に達した、全ての物語作家が夢に見るような作品、また影響を受けずにはおられないような作品である。
普通ファンタジー小説にはどこかふわふわした感じを受けることが多いものだが、本書の場合は言語や地理、それぞれの種族の生活習慣などが堅牢に構築されていて、読者はまるで自分の足をしっかりと地につけて中つ国を歩いているような気分にさせられる。

著者あとがきでトールキンは、本書の執筆の動機について「本当に長い話で腕試しをしたいという物語作家の欲求である。読者の注意をひきつけ、おもしろがらせ、喜ばせ、時にははらはらさせ、あるいは深く感動させるような長い話を書いてみたいと思ったのである。」と語っている。これはおそらくキングが『暗黒の塔』シリーズを書こうとした動機と同じなのではないか。物語作家の性みたいなものを感じてしまうが、実際にその欲求に従うものはそう多くないだろうし、成功するものは稀だろう。(キングの『暗黒の塔』シリーズはどうなるのか?早く続きが読みたいものである。)

ビルボとゴクリのなぞなぞ合戦は、ローランド達とブレインとのそれを思わせるし、(1)『IT』の蜘蛛は本書のシェロブの影響かもしれない。キングはきっとこのシェロブの出てくる場面をドキドキしながら読んだのだろう。

文庫で全9巻と大長編ではあるが、キングの作品の中でもファンタジー系のものが好きな方、また『スター・ウォーズ』が好きな方には絶対にお薦めです。なんせ「危篤状態にある登山家が、その枕元で友人が全編をノッストップでぶっつづけに読んでやったところ、昏睡状態から蘇った。」(2)ほどの面白さなのだから。

(1)というか、モロですな。ちなみにこのパートは『指輪物語』ではなく、その前編ともいえる『ホビットの冒険』より。『ホビットの冒険』と『指輪物語』はそれぞれ独立した作品だが、できれば続けて読むことをオススメする。
(2)『ミザリー』より。
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