2000.2.12 更新

ことばは私たちの意思の疎通をはかると共に、思考にも必要とされる大切な 道具です。その使い方・使われ方には時として疑問を感じることは誰にでも あることでしょう。また、ことばは変わるものだとか揺れがあるものだとか 言われます。このことは一方でしばしば押しや影響力の強さを持った人達や メディア等により都合よく使われ押し付けられたりする言い訳にもされてい ます。そういう危険性や現実についても考えます。

読まれた方の忌憚のないご意見ご感想また誤謬の指摘等大歓迎です。た だし、理由なき一方的非難・個人的中傷などは固くお断りします。


「御」の誤用 「日本」の発音 「全然」変わる違う道

電波にのって降ることば

放送メディア (マスメディア=大量伝達媒体 の中でも特に影響が大きく即時性の 高い伝達媒体) によることばの流布は伝達のされ方、対象の広さ、受け取られ方などで多くの問題と利点 を同時に持っているところに注目すべきである。

誰もが感じているように、その一方性 (一方的伝達、しかも「上意下達」的) 故にそのことばは強い力を 持つ (この「ことばの力」は別途論じることになる) 。否応なく、選択できず、ただ受け取るのみでその 場での指摘や批判修正などが効かないことも、飛んでくることばによっては耐えがたい思いをすることに つながり、ことばにとって極めて危険な存在なのである。

いうまでもなく、視聴者を選ばず、受信した時点でそういったことばを聞き取ってしまう。これはそれが あたかも社会的に認容されてしまっているかのような誤解や錯覚を生み、考える時間や習慣がもし聞く側 になければ、現在において標準的な、あるいは自然に広がって受け入れられたことばとして受容してしま うことになる。しかも、ことばそのものさえ選ばない。汚いことば、酷いいいかた、タブーとされてきた ことども、脅迫的ないい様や繰り返し、決めつけ、正当化、など言い出したらきりのないほどなんでも通 ってしまう。言語により意思の疎通を図り物事を考え行う社会においてこれは恐ろしく不幸な現実である 。

話している人たちもまた私達と同様の環境にあり、話すときに自分たちのことばの影響についてはほとん ど省みないのが普通である。日本中に伝えられるかもしれないことばを言い放つとき、彼らは言語社会の 支配者になりうるのである。彼らもまた、そういう上位に立って自分たち自身を錯誤に陥れてしまってい る。実際のところ、彼らも直接知る実世界はごく身近に限られているにもかかわらず。

ここでは (表題リンク) 私なりに中でも特に気になったことばの使 い方を再考してみたものである。


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