「御」の誤用

初稿1997.7.30, 改稿1999.3.11

自分自身の動作を言い表す場合の敬意表現として、「ご」が名詞化された動詞の接 頭語として使われるのは誤りである。「御(ご)」だが、御用意、ご紹介、ご案内、 ご指導等はいずれも相手に対する尊敬を表すものである。また、ご飯とかは丁寧な 言い回しの例である。1990年代前半までの各種の多くの国語辞典類にはこの「御」 については尊敬と丁寧の意しか記述されていない。最近の広辞苑には謙譲があるが 、これはおかしい。また、広辞苑は日本の言葉の元締めでも定義付けをするもので もない。
これはもとより、相手に対し同じ姿勢で同じ言葉によって尊敬と謙譲を言い表すこ とはできないことからきている。二つを併せ持つことばは私の知る限りない。尊敬 表現は主語が相手もしくは第三者である場合でないと文法上(いわゆる学校文法ー 橋本文法ーも含めて)おかしい。謙譲表現の主語は話す人そのひとだから。これら は互いに相反する言い回しになる。古語に「たまふ」というのがあるが、尊敬の意 ではこれは他動詞(四段活用)であり、謙譲表現は他の動詞について使われる場合、 つまり、助動詞(下二段活用)だ。一見、同じ言葉で別の意味で使われる例になると 誤解されがちなことばの例だが、これも、表現される場合もことばの組み立ても異 なるということを示す好例といえるだろう。ほかにも、「たまわる」とか、「たて まつる」、「ます」「まいる」「もうす」等も昔から上記の例に従う使い方をされ る例だ。
第一人称が主語で「ご」をつけるのはその文の間接目的語の対象についての尊敬を 示してはいない。続く述語の主語に関する尊敬を表すことになってしまう。本来、 第一義的には、「ご」は第二・第三人称の人に対する尊敬の接頭語である。もし相 手あるいは第三者に対する尊敬を表したければ述語を変えればよい。丁寧な言い回 しをすることで間接的に尊敬を表すこともできる。たとえば、...します、を. ..いたします、などのようにである。謙譲表現でも可能である。...させてい ただきます、の類である。が、この言い方は多用されるといやな印象や奇妙さ、し つこさを与えることもあるのでなるべく直接的な表現によるのが望ましい。
「御」の誤用のように、その言語主体(つまり話し手)が同じで受容者(聞き手)も 同じ、話される時・所も同じである上にその敬意の対象まで同じであるのに尊敬と 謙譲を同一に表現しうるのだというのは無理である。それでは話し手の傲慢という ことになる。当然ながら、聞き手に対し失礼であるから、敬意とは受け取られず、 愚弄しているとさえ思われることもあるだろう(ちょっと極端だが)。

例えば、

1. 「販売しています」、「販売いたしております」では「ご」はつけない。
2. 「ご紹介します」、「ご提供しています」という誤用で、上の述部の一致から接頭 語を知ることはできない。
3. また、「ご案内申し上げます」、「ご説明申し上げます」、「ご連絡いたします」 の「申し上げます」とか「いたします」は謙譲表現である。

このことからも、この二例にある「ご」は不要で、誤りである。余計なことをいう ならば、「説明」で言うことがわかっているので、「申す」は重複し、「案内」は 「申す」ものではない。

だいたいにおいて、尊敬と謙譲を併せ持つ敬語や敬意表現が違和感なく存在し得る であろうか。あるとすると極めて奇妙である。尊敬表現は主語が相手もしくは第三 者であある場合でないとおかしい。謙譲表現の主語は話す人その人である。これら は互いに反する言い回しになる。

文法的な説明・理由付けをしたが、なにより、ことばあるいは話し方に対する感覚 が大切で、またそれがおそらく優先すると思う。おかしい、と感じること、それが 普通の感覚である。他でいっているから、とか、放送媒体から流れてくるから、と かで決めてはいけない。変だ、不自然だ、という直感により決定すべきなのだ。耳 に馴らされることをよしとしてはいけない。そこかしこでことばや表現が食い違う ことを認識できたなら、それを直すこと、それは場合や状況により勇気もいること だが恐れるべきではない。

ことばの合理的使用は言語感覚との一致に導かれるものだからである。
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