電波にのって降ることば

2000.3.22

重複の妙(Xb)
1997.7.31: "… 一目のは …" (あるFM放送にて)

1997.8.2 11:05 "... 新たな家を 築するという ..." (某民放のニュース)

1999.4.20 19:25 "... お湯の流れが逆 する ..." (日本テレビ「伊東家の食卓」)

1999.7.10 8:31 "... はまたたくまに 燃え広がりました ..." (NHK総合「新日本探訪」 よみがえれ故郷の村(徳島県一宇村))

2001.3.21 16:23 "... 好天に恵まれ ..." (NHK BS1 日本列島ふるさと発・名古屋から)

2001.3.21 16:40 "... 花粉をつけて受粉させる作業を ..." (NHK BS1 日本列島ふるさと発・松山から)

2001.4.5 16:10 "... 読経をあげて ..." (NHK BS1 日本列島ふるさと発・松山から)

2001.4.5 16:14 "... 専門店が出店します ..." (NHK BS1 日本列島ふるさと発・広島から)

変なの〜
2000.10.30 18:45 "... をアピールしていました ..." ( NHK 福井 仲野純一アナウンサー)

英語で "appeal" は控訴の意味も持つ。懇願の意味が転じている。 人々に 訴える のだ、と無理に解釈しても、このカタカナ語はど うであろうか。これをアナウンサー、あるいは天下の NHK 様の意図した意味で とる人たちはどういった階層や世代であろうか。中学生以上でそう "理解" する のは限定的だとみてもはずれではないだろう。英語を知っている人たちでもその 意味で英語ならわかっても、"日本語化" されているとしてそうとるのは少々苦 しいように思われる。
どだい、限定的な意味での英語の"無理矢理日本語化"をしすぎる。"event" という 語もそうである。出来事、発生したこと、事件といった第一義的な意味を通り超 え、催し事の意味で無理矢理広めようとしている。これも最近、天下の NHK で まかり通ることばである。日本語にしても、一つのことばはいくつもの意味を もっていることはだれもが承知している。音だけでは区別しにくいことばや単語 も数多い。それでも間違いが少ないのは、私たちが母国語として日本語を自分た ちのことばとして持ち使えるからである (怪しい連中もいるが......) 。 こうい った外来語として英語を主に無理矢理取り入れ使うのは東京を中心としてある 大量伝達媒体 (マスメディア(^^;) である。使いすぎだとしてこれもまたその 媒体を通じて指摘されると、使用する (むりやり広める) 者達は実際に使われ ているから、といういいわけをする。これは嘘である。彼らの知る範囲は限られ 経験も限定的である。日本中を毎日毎時間駆け回っていられるはずがない。そう、 不可能である。
私たちは限られた時間空間を生きている。その中で自然に身につけ感覚的に受容 できたことを表現するのみである。それを超えていくのはアナウンサーでも国語 学者でも裁判官でもない。私たち自身の思考と創造によるのである。マスメディア の意図的な使用はそれを否定する愚かな行為であり、犯罪的である。そう、強要 である。ニュースで使われてよいのは自然にあることばなのである。それを創り 使えるのはマスメディアの者達ではない。電波を受けている側の人間なのである。 本末転倒をしないで欲しい。
1999.9: "... ロングヒットの予感をさせる ..." (DJ氏、FM滋賀/e-radio/77MHz)
予感とは自然に浮かぶもの、感じるものであり、続けると したら、自動詞になる。させるものでもさせられるものでもない。強い印象を あえて言いたかったことは容易にわかるのだが、ことばとしてはやはり避けた ほうがよいと思う。これに限らず、最近とみに強調する意味で、日本語の基本 的な規則や言い回しとか自然さをひどく逸脱した言い方が目立つ。そういった 言い方は他者(あるいは受け手)にかえっていやな感じ(押し付け)を抱かせるの である。送り手、話し手が一方的に主張して言い切って自分だけの感覚でもの ごとを決め付けてしまう、そんな傲慢さ以上に身勝手で自己中心的な姿勢や、 子供っぽいとさえ言えるような態度とか心性とかが現れてしまっているようで 悲しい。自分の印象はそれとしてそれこそ素直に表現しさえすれば充分である はず。ことばのやりとりこそが会話であり、一方通行的な放送媒体といえども 聞き手に共感を求めるならばなおさら、互いに認め合える、受け入れやすいこ とばで伝えたいものである。強大な電波を使う人たちは心してマイクに向かっ て欲しい。若い人達が多い視聴者ゆえに、ことばを受け継ぎ残していくことに も心を配ってもらいたいものである。
1999.4.8 16:11 "... 広島市内は花冷えに包まれて ..." (衛星第一ふるさと発)
寒気に包まれて・覆われて、といった言い方はするけど。状態に あることはそのまま言えばよいのだ。なんでやの?
奇妙な呼応
2000.2.12 19:55 "... (グリコ森永事件の時効を13日零時に迎えるこの日の ニュースで)
刑事捜査に大きな疑問を残しました ..." (NHK教育手話ニュース夜、のナレーション)
”残した”あるいは”残された”のは課題や問題点であり、”疑 問”は”感じる”か”感じられる”ものである。そうして”考える”のである。 また、”抱く”こともしばしばある。そのように”抱かせる”のは、奇妙な、 これでいえばまさにこの言い回しのように、点 (もの)、であり、「疑問」 そ のものはそういう 「結果」 や 「現実の問題」 をもたらすのである。それは ”浮かぶ”ものであり、抽象的であれ、”残す”のはその実体を指し示しうる ものでなければ文意はまさに”疑問”をなげかけることになるのである。
このナレーションの例ではそれが独立して表現された。それでははじめから ” 疑問” (というもの) がくっついてあるかのような印象を与える。知ったこと がら、認識した事柄を後からみてどうか、が問題なのである。あとから 考えて、疑問を感じさせる結果だ、という意味を述べるべきな のである。また、「のこす」ではその事柄が主格となったかのような表現とな る。抱くのも感じるのもさしはさむのも人である。その表現をする前に明示的 に表現され言及された疑問点に続いての何らかの対応なりなんなりの後に、そ れでもまだなお続いて疑いは消えない、という意味でなら、 「まだ」 とか、 「それでも」 とか、 「なお」 といったことばを付加した上で 「疑問がのこ る」 ということは可能である。しかし、本来的に、このニュースの表現ははじ めから 「疑問」 なのである。単独で使われたがために、他動詞を使ったがた めにおかしな感じ (印象) を与えてしまったのである。
一見、それでいいように思えたりするが、そういった 「点」 に 『疑問』 を 感じる感覚こそがその 「問題」 を解決に向かわせるきっかけとなり、出発点 となりうるのである。
2000.2.8 18:40 "... 若い人からの反響が寄せられて いる ..." (FNN[フジ系列]-FTVでの女性アナウンサー)
下記の例と同様だが、この例そのものからもわかるとおり、 ”寄せる”のは”人”である。”寄せられる”のはことばを記した記録媒体 とくに紙、なのだ。そう、反響、あるいは、響き、はあるかないかであり、 それは大きいかどうかの程度を表わすのみである。「反響」か「寄せられて いる」かどちらかに主眼を置かねばならない。そうして言い方を変えなけれ ばならない。それがことばの使い方であり、言語としての形である。それは それゆえに自然なのである。
2000.1.15 20:35 "... たくさんの反響をよびました ..." (NHK教育での男性アナウンサー)
「反響」を数えることはそのされ方に依存し、それ自体はい うまでもなく、大きいとか小さいとかいう。また、それは意図的なもので も、強制的なものでもない。ゆえに、「よぶ」のでもない。ただ、「ある」 かどうかに過ぎない。それを「反響をよぶ」といえなくない、という見方 をする人もいるが、やはり、不自然である。ことばとしてそういっている という主張は一見よさそうに思えるが、やはり、「ある」かどうかを基本 に据えれば、「反響」は「生じる」もので「現れる」ものだからである。 「...をよぶ」という自動詞的な言い回しは不適当だと考える。「よば れる」のはその関心としての反応であるから、この例はすべて不適当であ る。
1999.12: "... うねりが高まるでしょう . .." (NHK総合夜7時のニュースでの記者の報告から)
一般に「波」の大小をいうのに高い、低い、といった言い方 はおかしくない。振幅の大きさを見た目の高低でいうのである。うねりは どうか。三省堂の広辞林(第5版)では、”海の波で波長が長く波の山が丸 いもの”、という語義(説明?)がある。これは示唆的である。同様のこと ばに「うなり」がある。これはまさに波動としてみる物理学的な 言い方をすれば、振動数(周波数)の異なる同じ振幅の波の重なり、という ことになる。その結果は”ぶーん”という音で聞かれるように波長の長い 波動である。その大きさはまさにその音の大きさによって違ってくる。つ まり、重なりは丸みを帯び、ほぼ同じ振幅の周期の異なる波の重なりで起 こる「波」は「うなり」と同様の振る舞いをするのである。これを表現す るのに、高い、低いは不適当である。大きい、とか、小さい、とかいった 形容が自然である。英語でも、rolling、swelling、という。うなりは英語 では、beats、というが、その形容も naturally には big、small、が適当 であり、high、low、は不自然である。
1997.7: "... 夕方に夕立が降るでしょう ..." (あるFM放送の天気予報)
夕方でなくとも夕立はあるようで、そんなに珍しくない。 問題は「夕立が降る」である。夕立はそれ自体ふること、ふっていること を表現することばである。明らかに意味が重なっているが、やはり、夕立 がある、夕立になる、というべきであった。つい口がすべった類だろうが、 よく出てしまうもので、気をつけていないと危うい。現在ふっているなら ば、夕立である、といったところか。夕立とにわか雨は似ているようで 少し違う。実態としてはどちらも急に降り出す雨だろうが、雨量は夕立 の方が多いのではなかろうか。夕立は急にまとまった量ふり、やはり夕方 にきて、ある程度はくるな、と予想される雨のふりかただと思われる。 気象予報上も見込めるから、夕立があるでしょう、とか、夕立になるで しょう、といった予報が「ある」ことがあるのである。
1997.8.2 10:07 "... 供述を一転して翻し .. ." (関西テレビのアナウンサー)

2001.3.19 19:32 " ... 一転して起訴 ..." (NHK 総合「クローズアップ現代・7年目の起訴」でのナレーション(語り))

2001.3.30 18:21 "大津地検が... 一転して起訴 しました..." (朝日放送NEWSゆうのアナウンサー)

ここでは、たとえば、一転させ...とか、供述を翻し...で 必要かつ充分なところである。これは重複した言い方であると共に二重の意を も示し得る表現であり―つまりいったん変えたことを更に転換させる、という 意味にとることができる―誤用を含んでいる。単なるいい間違いとはいえず、 充分な顧慮と訂正が求められる場面である。もう一言付け加えるとすれば、「 一転して」という場合、「一転して惨劇と化した」というような自動詞の修飾 に使われるのであり、この点でも明らかに誤りである。アナウンサーとして失 格である。
本質的な誤り
2000.3.22 18:58 "... 荒れた天気となる見込みです ..." (NHK福井女性キャスター)
2000.2.8 17:50 "... 大雪になる見込みです ..." (FBC女性アナウンサー)
「見込みがある」 、 「見込まれる」 とは、期待、増大の可能性 を言うのである。”大雪” は確かに雪の多量さを言い表すのであるが、これは いうまでもなく、私達にとって負の意味を持つ。期待したくないことだからで ある。悪い予想である、そういう恐れがあることをいうのであるから、”大雪 になる恐れがあります” とでもいうべきなのである。
数量や程度を明示的に表わした場合は上記の表意はキャンセルされる。+/− 相殺されるのだ。否定する場合、”見込みは薄い” とか ”見込みは低い” と か ”見込みはあまりない” などと言う。否定はその意味を明確に表わさなけ ればならない。
ことばは符号ではない。あてはめでもおきかえでもないのである。
1997.11.1 21:12 "... (地球上で)もっとも多様性が豊 かな熱帯 ..." (NHK教育)
これは表現としても、生物学上もおかしい。ものごとの性質や性状 、一般的傾向について指し示したり呼んだりすることばはそれが名詞であっても その大小や軽重、多少などを形容したり述語的に述べたりするのは明らかに誤り である。単に不適切だからとかそぐわないといったところではない。ことばの感 覚からも極めて奇異に思われる。
多様性とは主として生物の分化の結果としての種の多さや広範さをいうもので、 さらに一つの種の個体の種々雑多な差異(場所なども)を含めてもいう。つまり、 それ自体”豊か”なのである。多様であることの程度は限定されていないが多種 多様であることを内包したことばであり、一種一個体の差のみの存在に対して多 くの種の雑多な種類が存在することを総称しもすることばである。
したがって、「非常に多様性のある」とか「最も広範で豊かに生物が存在する」 といった言い方に改めるべきであろう。

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