金光教教団史覚書

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金光教管長と諭告

(かんちょうとゆこく)

 管長制度のもとに於いて、金光教管長に就任したのは、次ぎの3名である。初代管長金光大陣・二代管長金光家邦・三代管長金光攝胤であって、それらの管長が発した「諭告」は、その時代の教団事情や問題に対する教団統括の態度や方針及び信仰教義を示していると思われるので、その重要な諭告について、その背景となった状況説明を加え、以下に掲げることとする。


【A】初代管長金光大陣の諭告・諭達・教書

〔T〕明治33年(1900)7月10日の訓示

達第四号                  部下教師一般

曩に本教の教規教則を頒つに方りて、別派独立の由来と共に将来の規箴をも示した

りしが、又特に諸氏に注意する處あらむとす。

今つらつら思ふに、今回此の光栄面目を得たると共に、将来本教が国家社会に対し、

其品位を保つ上において其の責務を過るなからむこと、蓋し容易の事にあらざるべ

し。然れば此の際一時の栄達を喜ぶがまゝに事を軽々しく談じ、若し他を顧るの念

慮にとぼしからむか、今日の此の光栄面目は却て本教前途の為に憂となるならむ。

謹みても謹むべき事等なり。故に教師たる者は、日常に直接教義に従事せる者とせ

ざる者とを問はず、深く此辺に意を留め、教徒信徒に至るまでよく諭しよく戒め、

愈々今後本教が国家社会に対して一大責務のある事を日夜忘れざる様常に教導に勉

むべきなり。如此なすは、寔に以て上は教祖の神訓に副ひ奉り下は教徒信徒に慈愛

の誠意を篤くする所以にして、本教を奉ずる教師たる者の本務と心得べし。

右 訓 示 す

明治三十三年七月十日

                 金光教管長 金 光 大 陣

 (編者註)金光教の一教独立によつて、神道金光教会長であった金光大陣が教則第一号管長選任規則の付則第十一条により、初代管長に就任した最初の諭達である達第壱号に続くもので、殊に教師の自覚と責務について「訓示」として諭達した。

〔U〕明治35年(1902)10月11日の諭告

 掛巻も畏き我教祖、去嘉永五年顕幽感通の妙理を得させられ、本教を立て給ひ。

明治十六年神界へ昇り給ひしまで、年を経る三十有余。其間天地の真理を明かし

人世の大道を講じ、以て宇内の明教を宣伝せられし神訓神話は、今数ふるに遑あ

らず。其信訓中神誡十二ヶ条は疾に刊行し、其正伝さへ既に頒布せしが、道教の

大綱・信心の心得等の神訓に至りては、信徒間に伝写口授し、以て世に伝はりし

かば、随て誤伝謬写の廉も尠からず。為に先年部下に命じて、之が取調をなした

る事ありき。今にしてこれが補正の道を講ぜざらば、其弊や計るべからざらむ。

かくては、上は教祖に対し奉り下は社会に対し、恐懼に堪ずと、茲に本年教祖二

十年の紀念大祭を卜し、該神訓二巻を板刻して本日頒布の典を挙ぐ。部下教師た

るもの克く此意を体し、自今愈篤く遵奉して、益天地の神理宇内の大教を講明し、

以て世道人心を教化し、神皇の大恩に奉答せんことを期せよ。

 明治三十五年十月十一日     金光教管長 金 光 大 陣

(編者註)独立時の『金光教教規』の第三条に教義の所依の典籍として、神誡正伝と共に定めた「信心の心得」と「道教の大綱」は、未だ定本がなかつたので、教祖二十年大祭の記念出版となつた。その内容は、教祖在世中に金光萩雄(大陣と改名)と佐藤範雄が筆録した教祖の教語集である。

    

 〔V〕明治37年(1904)2月14日及び18日の諭達

番外達第壱号                  部 下 一 般

 本月十日露国に対して戦を宣せられたり。其御趣旨に於ては宣戦の御詔勅に

 明なり。思ふに、今回の事変たる其関する処極めて大にして、其結果は遠く

 我邦家の将来に及ぶべし。此を以て常に教導の任に在るものは、能く吾教祖

 の神訓の旨を体して、日夕余念なく教導に身を投じ、以て本教信徒たるの面

 目を保たしむることを期し、軍国に対する一面に忠良の国民たると共に、信

 念厚き信徒たることを体認せしむべし。

 之を要するに、陸海の軍人が死を決して国家に報ゆるの精神を移して、以て

 教導の任に従事する吾教師の精神となさむことは、即ち吾教祖立教の真髄な

 り。されば身教導の任に在る者は、宜しく斯る時は愈平素の熱誠を発揚し、

 其任を全くすべし。是れ実に世道人心の先導者たるものゝ本務にして、又

 国家に報する所以の道も亦之に外ならさるなり。

 右諭達す。

 明治三十七年二月十四日      金光教管長大教主 金 光 大 陣

番外達第参号

 日露開戦に付ては、各出征軍人に対し内顧の憂なからしむるは、大に士気発

 揚上に関する義に有之候得ば、此際本教教師たるものは、及ぶ限り其遺族を

 訪問し、困窮者ある時は、教会所或は団体若くは教信徒個人の名義等各自適

 宜の方法を以て精々救助方に留意すべし。右等に対しては、予て本教は、教

 祖の神訓を奉体し、決して表行に流れざる様注意すべく此の旨諭達候也。

 明治三十七年二月十八日      金光教管長大教主 金 光 大 陣

(編者註)「番外達第壱号」と同時に「番外達第弐号」をもつて、国威宣揚祈願祭の執行を達示している。

    

 〔W〕大正4年(1915)1月15日第二十回定期議会開会式に於ける諭告

    

        諭 告

 茲ニ第二十回定期議会開会ノ式ヲ挙ケ親シク議員諸氏ニ告ク。    

 惟フニ昨年起レル欧州ノ大乱ハ惹テ日独開戦ヲ余儀ナクセシメタリ。本教ハ信

 忠一本ノ教義ニ則リ各地ニ戦時講演ヲ開催セシメ、部下亦奮テ誠忠ノ実ヲ現シ

 ツゝアリ。本年ハ今上陛下即位ノ大典ヲ挙ケ給ハントスル千載一遇ノ時機ニ際

 会ス。須ク上下一致以テ赤誠ヲ表現セサルヘカラス。此時ニ方リ、本教ハ教祖

 立教ノ神意ヲ発揮スヘキ施設ヲ要スルモノ亦尠少ナラサルヘシ。今理事者ニ命

 シテ大正四年度ノ予算案ヲ提出セシム。各員宜ク和衷審議以テ協賛ノ任務ヲ尽

 サンコトヲ望ム。

(編者註)1914年(大正3)8月の第一次世界大戦参戦に因り、議会開会式の場で諭告が達せられた。

 〔X〕大正5年(1916)3月1日の教書

       教 書

 恭シク惟ルニ

 天皇陛下昨秋京都ニ行幸シ即位ノ大典ヲ行ハセ給フ。寔ニ宇内無比ノ盛儀ニ

 シテ、同胞臣子ノ幸慶何ソ之ニ加ヘン。

 謹ンテ按スルニ、我カ教祖天地ノ神意ヲ奉シ神人一致ノ大道ヲ開創シ、信忠一

 本信孝一致ノ信念ヲ啓示セラル。己大陣、教跡ヲ襲キ夙夜兢々神意ノ見ハレサ

 ランコトヲ之レ恐ル。思フニ一ニ神業ニ奉仕スル者ハ、益々信心ヲ抽ンテ教祖

 ノ手代リタル天職ヲ全ウスヘク、普ク道ヲ求ムル者ハ弥々死生信頼ノ道念ヲ厚

 クシ、以テ惟神ノ皇道ヲ遵奉シ、相率ヰテ質実業ニ励ミ祖先ノ祭祀ヲ重ンシ、

 家ニ不孝疎懶ノ徒無カラシムヘシ。斯クノ如キハ教祖立教ノ大旨ニ合ヒ、明治

 天皇ノ聖訓ニ副ヒ奉ル所以ニシテ、今上陛下ノ忠良ナル臣民ト謂ツヘシ。冀ク

 ハ己大陣相共ニ奮励努力大道教化ノ実現ニ尽力スル所アラン。

 茲ニ宣教師ヲ派シテ広ク此旨ヲ伝フ。

  大正五年三月一日

                   金光教管長大教主 金 光 大 陣

(編者註)自由民権運動の台頭に対して、国体思想(天皇神聖論)の普及をめざし、教祖三十五年記念巡回説教を実施することになった。この巡教は大正7年(1918)まで行なわれ、宣教師は八木栄太郎・高橋茂久平の両名、講題は「生命の宗教」である。また教監佐藤範雄は「敬神崇祖・憲政自治の精神」と題して、幻灯器に依る講演を行なう。   

 〔Y〕大正7年(1918)9月17日の諭達

 七達第十号

                      部  下  一  般

 輓近露国ノ崩解ハ其ノ餘殃極東ノ危胎ヲ醸生シ、終ニ我国ハ聨合列強及與国ト

 共ニ満蒙西比利亜ノ曠野ニ協同作戦ノ巳ムナキニ至ル。況ヤ世界ノ大勢ニ於テ

 ヲヤ。洵ニ一日モ偸安ヲ容サゝルノ秋ナリ。曩ニ部下一般ニ特別布教ヲ命シタ

 ルハ大ニ国民ノ自覚ヲ喚起シ、益々本教信仰ノ本義ヲ諦得セシメ、愈々尽忠報

 國ノ大義ヲ明確ナラシメンガ為ナリシカ。今ヤ当ニ終局ヲ告ケ其ノ報告ヲ聴キ

 テ私ニ効果ノ験ヲ喜ブ。

 惟フニ欧州ノ戦乱ハ、我国ノ有形無形各方面ニ亘リテ非常ノ影響ヲ及シ、其ノ

 化学工芸ノ発展通商富力ノ増進ハ誠ニ喜ブベシト雖モ、経済界ノ膨張ハ却テ精

 神的廃頽ノ機運ヲ誘致シ、射利僥倖浮華驕奢ノ悪風ハ底止スル所ヲ知ラサルガ

 如シ。殊ニ最近全国各所ニ勃発シタル騒擾ハ、大正ノ昭代痛恨最モ堪ヘサル所

 ナリ。恐クモ 聖上陛下深ク軫念アラセラレ御内帑金ヲ下シテ救済ノ資ニ充テ

 シメ給ヒ、細民窮乏ノ状ヲ聞食テハ外米ヲ供御ニ上サセ給フト拝聞ス。聖徳皇

 恩誰カ恐懼感泣セサランヤ。

 苟モ本教信奉者タルモノ、爾今一層教祖立教ノ真髄ヲ了覚シ、聖徳覆天ノ大恩

 ヲ感体シ、克ク現下社会ノ弊竇ヲ察シ、人心ノ荒廃ヲ誡メ、勤倹質実各家職ニ

 黽勉シ、大ニ隣保互助ノ徳性ヲ現シ、特ニ出征勇士ノ家族遺族ヲ敬愛相憐シテ

 後顧ノ憂アラシメス、日夕皇運ノ隆昌ト国光ノ宣揚トヲ祈願シ、謹テ神皇ノ二

 恩ニ奉答シ、以テ本教信奉者タルノ面目ヲ発揮スベシ。

  右 諭 達 ス

   大正七年九月十七日   

               金光教管長大教主 金 光 大 陣

(編者註)第1次世界大戦の末期において、国内の成金景気と米価高騰とに依る所謂米騒動の世相に対して、信奉者の態度を説諭したのである。

【B】二代管長金光家邦の諭告

〔T〕大正9年(1920)4月7日の諭告

          諭  告

我が教祖「氏子ありての神神ありての氏子あいよ掛けよで立ち行く」との神宣を奉

じ、「今天地の開ける音を聞いて目を覚せ」と宣らして、神人一致の妙諦を教へ給

ひしより救世護国の神業茲に発り。先考第一世管長其の跡を承け、叔父四神の君及

び教祖直信の人たちと身を致して、大に教義を宣布し盛に神徳を顕揚して一教を成

立し、遂に今日の興隆を見るに至る。本教者たるもの誰か其の恩賚を拝戴報謝せざ

るべき。惟ふに今や世運大に革り時局混沌として寔に容易ならざるものあり。而も

世人は、思索の選択に迷ひて真正の信仰を得ず。摯実の風日に衰へて報恩の念月に

薄らぎ、浮華習を成して驕奢俗を乱り、生活亦随つて安定を得ず。かくては教化の

任に在る者、何を以てか神人に答ふることを得ん。此の秋に方り、家邦菲徳菲才の

身を以て管長襲職の運に会ひ、其の負荷に堪へざるを虞れ進退挙を知らずと雖も、

誓つて立教の神宣を奉体して教祖の芳躅を履み、教師諸子輔導扶翼に依りて夙夜職

に効しなば、神明何とて感孚し給はざらん。

予は茲に襲職の初に際し、親愛なる我が教師諸子のこの衷情を諒とし、愈々各自の

責務を全うし、教信徒諸氏亦苟にも信心の道を過つことなく、予と共に勇猛精進以

て救世護国の神業を成就せんことを、祈誓して巳まざるなり。

 大正九年四月七日

                 金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)二代管長金光家邦の襲職については、金光家親族や本部職員の一部には、異議を抱く者もあったが、教則第三十七号「管長襲職規則」に依って文部大臣中橋徳五郎の認可を得た。なお金光家邦の金光本家家督相続権の無効等の身分確定訴訟が、昭和10年(1935)4月に起こされ、同13年(1938)7月に大審院の判決があり、金光家邦の異母弟・金光正家に相続権が移った。

                           

〔U〕大正12年(1923)10月4・7・10日の諭告   

          諭  告

茲ニ第四十九回教会所證章授与ノ式ヲ行フニ方リ一言ヲ叙シテ諸子ニ告ク。

抑々教勢漸伸ノ績ヲ教会所ノ新設又ハ昇等ノ上ニ徴スルコトヲ得ルハ、聊カ意ヲ安

スル所ナリ。而モ顧レハ、教祖ノ神業未タ其一半ヲ現ハセルニ過キス、負荷日ニ重

ヲ加フ。是レ転機ヲ本大祭ニ求メ、講師ヲ全国ニ派シテ立教ノ神意ヲ明カニシ、以

テ神人ノ栄ヲ仰カンコトヲ努メタル所以ナリ。

此秋ニ際シ、帝都ヲ中心トシテ天殃忽チ下リ地妖頻ニ動キ前古未曽有ノ惨害ヲ醸シ、

挙朝震駭内外戦慄実ニ容易ナラサル国難ト称スヘシ。乃チ上ハ内帑ヲ開キテ恤民愛

生ノ寵ヲ垂レ、大詔ヲ下シテ復興善後ノ策ヲ誨ヘ、国民ノ協力一致ヲ促シ給フ。本

教者タルモノ平素ノ信念ヲ実スル今ヲ措テ亦何レノ機ヲカ期セン。宜シくク全教一

致更ニ信心ヲ新ニシ、愈々教義ノ発揚ニ努メ、以テ報教護国ヲ旨トセル本教祈願ノ

貫徹ヲ期スベシ。

 大正十二年十月(四日七日十日)

               金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)教祖四十年大祭において布告された。この大祭は、前年より教祖四十年祭奉賽会を組織して教祖奥城改修・信奉者霊廟建立等の記念事業を実施する計画がすすめられていたが、金之神社問題で中止となった事情を抱えていた。恰もその直前の9月1日に関東大震災が起った。

〔V〕大正13年(1924)3月5日の第三十五回定期議会開会式における諭告(抜粋)

輓近、物質偏重の結果は、精神生活上大欠陥を生じ、軽佻、詭激なる思想・言動、

一部の人心を動揺せんとするに至れるは、皇国の為憂慮に堪えず。されば曩に、畏

くも国民精神作興に関する大詔を下し給ひ。今や上下を挙げて之が聖旨貫徹・思想

善導に焦慮す。

此秋に方り、常に信忠孝一本の教義を奉戴せる本教者たるもの、須く心身を尽して、

教祖立教の神意に応へざるべからず。

 大正十三年三月五日

               金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)この諭告の抜粋は、編集の拡張に依って毎月2回発行されることとなつた最初の「教報」第123号の巻頭(表紙)に掲載されたものである。これに因って、全教の教師に通達されることになった。その内容は「国民精神作興ノ詔」を承けたものである。

〔W〕大正14年(1925)5月5日大教会所復興祈願祭における諭告

復旧の事固より忽諸にすへからさるも、単に殿舍の建設に急にして戒愼の誠意なく

んは、何を以てか罪を神明に謝せん。輪奐の美結構の莊は余か願に非ず。各自其職

に在るもの、宜しく我執を去り驕怠を戒め、一心匡合大に我教風を揚げ、克く報教

護国の任を竭さは、一宇の草屋も以て立教の神意に契はん。

(編者註)同年4月14日に一夜にして焼燼した大教会所神殿の跡地に祭壇を設け、5月5日管長の齋主のもとに復興祈願祭が執行された。この祭典に於いて、管長の諭告についての畑教監の衍義があった。

〔X〕昭和2年(1927)7月22日の大教会所復興に関する諭告

          諭  告 

我が教祖神、神宣を奉じてこれの霊地に教跡を垂れ、世を教へ人を助け給ひしより

神徳日に新に教義月に明かに、今やその霊光に浴するもの海の内外におよべり。

抑々我が大神の神徳は、元より無辺に充ち渡らせ給ふと雖も、教祖の出顕なくは如

何てよく今日の神徳を蒙り奉らん。されは夙くも元治元年に其の神殿を造営すべく

神宣を下し給へり。是れ即ち大教会所の淵源にして、氏子が祈願礼賛の聖庭、教祖

御取次祈念の霊場たり。是を以て先考第一世管長、神意を奉じ氏子の願を容れ、曩

に大教会所並に附属神舎の造営を起され、己家邦の代に及びて其の工略成りしが、

一朝にして烏有に帰す。洵に恐懼に堪へさるなり。当時直に再興の議ありしも一時

仮神殿を急造し奉りて、委に既往を懐ひ深く将来を揣りて今日に迄れり。

然るに教内篤信の輩は頻に復興を冀ひて止ます。その至情忍ひ難し。如之(しかのみ

ならす) 本教教学上の施設又急を要するものあるをや。茲に斎戒して先考の霊に告け、

負気なくも愈再興を発願す。仰き冀くは教祖の神霊余か微◯を矜みて、 一世の願を光

助し、之が成就を守り給はんことを。その企劃経営に至りては、百歳の方図を稽へ時

の宜しきに循ひて事の序を裁り、清浄を心として質実を体とし、偏に我が教風の発揚

を期せん。教内一般宜しくこの衷情を諒し、戮力協心各自か精を輸して工を輔け、胥

共にその竣成の速かならんことを祈り、以て無量の神恩に奉賽し、忝なくも救世済民

の神宣に奉答せんことを努めよ。

 昭和二年七月二十二日

                  金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)この復興に関する諭告は、前掲の復興祈願祭において発布された諭告から2年を経て、大教会所復興事業に着手されることになり、7月22日月次祭典において神前に奏上されたが、更に7月27日に諭告発布式が挙行された。それと同時に本部内に復興造営部が設置された。

 なお復興造営事業の第1期工事は、教義講究所の移転のため、鍛冶屋谷(現金光教学院の所在地)の開拓作業から始められた。

〔Y〕昭和6年(1931)12月17日の諭告

          諭  告

茲ニ本日金光教維持財団證章交付規定第二条ニ依リ第一回證章授与ノ式ヲ挙ク抑々

本教ハ教祖立教ノ神意ニ基キ、奉教者ノ赤誠ヨリ神恩報謝ノ為献納シタル浄財ヲ以

テ宣教ノ用ニ供シ、一切ノ施設ハ悉クコレ神ノ御物ト信念シ来リタリシカ、之カ所

有及管理ノ形式ニ至リテハ未タ其精神ニ副ハサルモノアリ。第一世管長深ク之ヲ遺

憾トシ、明治四十五年四月十日ヲ以テ金光教維持財団ヲ創設セラル。コレカ趣旨ヲ

体シ献納ノ手続ヲ了シ、教基養達漸クソノ見ルヘキモノアラントス。然レトモ教祖

立教ノ神旨ニ鑑ミ、本教依立ノ精神ヨリ之ヲ観レハ未タ其一班ヲ成スニ止リ前途尚

遼遠ノ感ナクンハアラス。宜シク教内一心相率ヰテ財団設立ノ趣旨貫徹ニ努メ、布

教ノ充実ト教化ノ振興トにニ資シ、以テ教祖ノ霊鑒ニ奉答センコトヲ期スヘシ。

  昭和六年十二月十七日

                 金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)金光教維持財団の設立は、大教会所の造営が着工されることになったので、教団の所有物件として法人格をもつた共有財にすることであった。もちろん全国の各教会所も大教会所に追随して、維持財団へ寄付するように勧奨された。然るに新築された神殿や祖霊殿等は寄付献納されたが、境内地は依然管長の個人名義のままであった。大教会所の炎焼に因って、1928年(昭和3)から復興造営事業が始まり、類焼を免れた教義講究所や楽殿等の移築も了り、愈々神殿其の他の中心的建物の建造に取りかかる時点で、この諭告が発せられて、財団設立以来の寄付献納された一般教会所108ヵ所に体して、第1回の表彰が行なわれた。なお大教会所の境内地(立教聖場付近および金乃神社境内を除く)が寄付されたのは、昭和九・十年事件の後である。

〔Z〕昭和8年(1933)10月教祖五十年大祭における諭告

          諭  告

茲ニ教祖五十年大祭ヲ迎ヘ奉リ、忝クモ其第一、二、三、四、五日ノ祭儀ヲ了ヘタ

ルハ、諸子ト共ニ感激措ク能ハサル所ナリ。

惟フニ我が教祖、「氏子アリテノ神神アリテノ氏子相世掛世テ立行ク」トノ神宣ノ

儘ニ神人一致ノ大理ヲ教ヘ給ヒテ、「最早此方世ニ在ラストモ斯ノ道ハ失ハレサル

ヘシ」ト、明治十六年十月十日終ニ神上リ給フ。茲ニ神徳ハ日ニ輝キ比礼ハ月ニ顕

レ、霊鑒ノ下教義年ニ挙リ、教化正ニ五十年、国家社会ノ為ニ聊カ奉公ノ誠ヲ捧げ

得タルハ倶ニ欣幸トスル所ナリ。然レトモ余ノ菲徳、未タ克ク立教ノ神意ヲ明徴ニ

シ教旨ヲ顕揚スルコトヲ得サルハ、洵ニ恐懼ニ堪ヘサルナリ。

今ヤ皇国ハ未曽有ノ非常時局ニ際会セリ。之レカ匡救ノ途ハ一ニ不抜ナル信仰ト強

固ナル道念トニ俟タサル可ラス。仍チ我カ教ヲ奉スルモノ愈々信心ノ興隆ニ努メ、

至誠以テ神徳ノ顕現ヲ祷リ眞心以テ教運ノ進展ヲ期シ、相率ヰテ救世護國ノ実ヲ挙

クヘシ。是レ我カ教祖ノ神業ヲ翼賛シ奉ル道ニシテ亦無量神恩ニ奉賽スル所以ナリ。

教内一般夫レ克ク此ノ旨ヲ体セヨ。

 昭和八年十月四、七、十、十三、十六日

                   金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)教祖五十年大祭は、10月4日・7日・10日・13日・16日の五回に分け、それぞれ祭典が執行された。御神殿造営の未完成の時であったので、仮齋殿を造り大教会長金光家邦の齋主のもとに行なわれた。この諭告は、各日の祭典の中で管長(大教会長)から布告された。

〔[〕昭和10年(1935)4月7日の大祭時における諭告

         諭  告

今ヤ本教ハ未曽有ノ難局ニ逢着ス。立教ノ神意那辺ニアリシカヲ疑ハレ、教義ノ実

空弦ニ過キサリシカヲ危マルゝニ至ル。

教治ヲ妨ケ統制ヲ害ヒ、尚之レヲ信者ニ及シ、一教依立ノ根基ヲ覆ニ非スンハ底止

セサルカノ観アラシム。今ニシテ大ニ粛正ノ方途ヲ講セスンハ其ノ趨ク所竟ニ拯ヒ

難キニ至ランコトヲ懼ル。

偶々此ノ渦中ニ立チテ年次教績ヲ奉告スヘキ恒例大祭ヲ迎フ。何ノ面目アリテ教祖

ノ神霊ニ対面センカト恐懼慚愧極マリナキモノアリシモ、本ヲ執テ道ヲ開ク者ノ責

任ヲ自覚セシメラルゝト共ニ深夜神裁ヲ仰キテ奮然決意スル所アリシナリ。

然リト雖モ平和円満全教一家ハ教祖以来矜持スル所ノ教風ナリ。今モ尚反省自重ヲ

望ミ正道ノ復軌ヲ祈リテ止マサルモノナルカ、改ムルヲ知ラス帰ルヲ忘レテ背馳ヲ

継続スルニ於テハ、教規ノ命シ教則ノ定ムル所ニ従ヒテ暫ク処断スルノ外ニ途ナカ

ラン。

如何ニ奉教至誠ノ激発スル結果ナリト雖モ事自ラ分アリ度アリ、為ニスル所アラン

トスルモノハ別トシ、真ニ教祖立教ノ神意ニ奉答ヲ期シ道ノ将来ヲ憂ヒテ止マル者

ハ、本教者タル平素ノ信念ヲ喚起シ、確信以テ道ニ処シ至誠以テ教ヲ奉シ、同信相

激マシ率先範ヲ示シ神皇ノ大恩ニ奉答スルト共ニ、百年ノ教基建立ニ邁進センコト

ヲ期セヨ。

   昭和十年四月七日        金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)同年1月に金光家邦管長の辞職退任を要求して、教師・教会長・機関職員等に依る有志盟約が組織され、同年3月には青年会連合本部や信徒団体が盟約運動に参加した。ここに全教の90%の信奉者が管長弾劾の運動を展開することになり、4月の大教会所本部大祭への不参拝を決定して各地方毎に集会を開催した。したがってこの諭告は、殆どの信奉者が不参のなかで行なわれた異例の祭典の場で布告された。しかも諭告の趣旨に対して抗議反発の声が起り、いよいよ運動は熾烈となった。

       

【C】管長代務者金光国開の諭告

                           諭  告

我ガ教祖夙ニ神伝ヲ奉ジテ信忠一本ノ教義ヲ樹テ、業即行ノ教風ヲ興シテ取次救済

ノ事ニ従ヒ給フヤ、霊徳自ラ現レ信徒漸ク加ル。明治十八年六月始メテ教会ヲ組織

シ、鋭意教化ニ努メ、教績亦見ルベキモノアリテ、後更ニ教派ノ公認ヲ得タリ。爾

来教勢逐次発展シテ今日ニ逮ビタリシガ、其ノ間一教ノ規模往々ニシテ未ダ必ズシ

モ立教ノ本旨ニ即セザルモノアリ。挙教其ノ更張ヲ翹望スルコト爰ニ年アリ。

曩ニ恰モ宗教団体法実施セラレ、教派ニ命ズルニ教規教制ノ事ヲ以テス。乃チ其ノ

条章ニ基キ、或ハ立教ノ本義ニ鑑ミ或ハ伝承ノ事実ニ徴シ或ハ時勢ノ趨向ニ察シ、

其ノ正シキヲ断ジ其ノ宜シキヲ制シテ金光教教規ヲ定メ、所定ノ手続ヲ経テ茲ニ之

ヲ普告ス。

将来教本ヲ護持シテ祖風ヲ顕揚シ教義ヲ弘宣シ、以テ無極ノ皇恩ニ奉答セントスル

モノ、常ニ斯ノ規定ニ率循シテ敢ヘテ違フ所アルベカラズ。然リトイヘドモ法ハ畢

竟其ノ規準スル所ヲ畫スルニ過ギズシテ之ヲシテ眞ニ生命アラシムル所以ノモノハ、

一ニ之ヲ奉ズル者ノ純一ニシテ熾烈ナル信念ト公正ニシテ真摯ナル行為トニ在リ。

教内一般宜シク意ヲ此ニ致シ、旧態ヲ去リテ愈々教学ヲ興隆シ、故実ヲ脱シテ益々

布教ヲ恢弘シ、現下重大時局ニ処シテ全教一和負担ノ責務ヲ完ウシ、以テ粛ミテ教

祖受託ノ神意ヲ対揚センコトヲ期スベシ。

右諭告ス。

  昭和十六年三月三十一日

                金光教管長代務者  金 光 国 開

(編者註)1941年(昭和16)3月31日付けで、宗教団体法に依る金光教教規が新定公布され、即日施行された。この教規に依る管長選挙の結果、正式に管長が就任するまでは、管長代務者が置かれた。同年8月1日金光攝胤が三代金光教管長に就任すると同時に、代務者金光國開は自然退任になった。この諭告は、管長代務者の名で布告された唯一のものである。

【D】三代金光教管長金光攝胤の諭告(告辞・おことば)

〔T〕昭和16年(1941)10月4日・7日・10日の教祖大祭における諭告

       諭  告

余弱齡ニシテ推サレテ我ガ本部教会ノ神前ニ奉仕シ、爾来四十有九年。教祖ノ垂範ニ

則リ先考ノ遺訓ニ順ヒ慎ミテ違フトコロナカラムコトヲ畏レ、日夜兢兢タリ。曩ニ金

光教教規新ニ制定セラレ管長選挙ノ事行ハルルヤ、図ラザルニ余ノ菲徳ヲ以テ其ノ選

ニ当ル。乃チ正規ノ手続ヲ経テ其ノ職ニ就キ、爰ニ本日ヲ以テ之ガ告示ノ式ヲ挙グ。

惟フニ上ハ 寳祚ノ隆昌ヲ祈リ奉リ下ハ天下総氏子ヲシテ迷妄ヲ脱却シ苦艱ヲ超克シ、

死生ヲ天地ニ安託シテ臣道ヲ職域ニ履践シ、以テ皇運ヲ無窮ニ扶翼シ奉ルトコロアラ

シムルハ教祖立教ノ本旨ナリ。今ヤ聖戦五年国際ノ風雲愈々急ヲ告ゲ挙國臨戦ノ態勢

ヲ執ルノ時、本教恰モ一新ノ教運ニ際会ス。余ハ将ニ立教ノ神意ヲ奉ジ教規ノ条章ニ

遵ヒ、一教ヲ率ヰテ内ハ則チ信心ヲ砥礪シ教風ヲ振作シ、外ハ則チ教義ヲ宣布シ神徳

ヲ発揚シ、微力ヲ興亜ノ大業ニ尽シテ無極ノ皇恩ニ奉答シ、以テ教祖ノ霊鑒ニ対フル

トコロアラムトス。教内一般、余ガ衷情ヲ諒トシ全教結束粉骨砕身各自ノ本務ニ精励

シ、以テ余ガ負荷ノ大任ヲ協賛スルトコロアラムコトヲ冀フ。

         四

  昭和十六年十月七日

         十

                   金光教管長  金 光 攝 胤

(編者註)新教規の規定に依り、三代目の管長に就任した金光攝胤管長の最初の諭告であって、1941年(昭和16)10月の教祖大祭興亜祈願祭並管長就任奉告祭において布告されたものである。因みに同年12月8日に太平洋戦争が勃発している。

                        

〔U〕昭和16年(1941)12月8日の「宣戦布告の詔」を承けての諭告

           諭  告

今十二月八日米英両国ニ対シ畏クモ宣戦ノ大詔ヲ渙発アラセラル。聖慮寔ニ恐懼

感激ニ堪ヘズ。

謹ミテ惟ミルニ、東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界平和ニ寄与セムガタメ、久シキニ

亘リ忍ビ難キヲ忍ビ為シ難キヲ為シテ百方妥結ノ道ヲ講ゼシメラレタルニ拘ラズ、

米英両国及ソノ與国ハ敢テ帝国ノ存立ヲ危クセムトスルノ術策ヲコレ事トス。茲

ニ於テ帝国自衛ノタメ断乎聖戦ヲ宣布セラルルニ至レリ。

我等生ヲ皇国ニ享クル者、光輝アル三千年ノ歴史ヲ念ヒテ、必勝ノ信念ヲ堅持シ、

今コソ一億一心未曽有ノ国難ヲ克服シテ、叡慮ヲ安ンジ奉ルベキ秋ナリ。況ンヤ

予テ信忠一本ノ教旨ヲ奉ズル本教者一同、愈々熱祷ヲ捧ゲテ天地ノ神徳帝国正義

ノ上ニ光被セムコトヲ祈願シ奉ルト共に、各々其ノ職域ニ於テ心身ノ全力ヲ尽シ

臣道ヲ履践シテ、以テ無窮ノ皇恩ニ奉答セムコトヲ期スベシ。

右諭告ス

   昭和十六年十二月八日                   

                    金光教管長 金 光 攝 胤

(編者註)同日付けで文部大臣橋田邦彦の名を以て、神仏各教宗派管長・基督教教団統理者に対し、以下のごとき文部省訓令が出された。この諭告はそれを承けてのものである。

 「本日米国並ニ英国ニ対シテ戦ヲ宣セラル辱クモ大詔ヲ渙発シテ国民ノ嚮フベキ

所ヲ昭示シ給フ洵ニ恐懼感激ニ堪ヘズ惟フニ今次征戦ハ皇国ノ隆替東亜ノ興廃ノ懸

ル所全国民ハ愈々忠誠ノ精神ヲ励マシ総力ヲ挙ゲテ奉公ノ悃ヲ效シテ危局突破ニ邁

進スベキノ秋ナリ宗教ノ事ニ従フ者宜シク国体ノ本義ニ徹シテ率先垂範教徒及檀信

徒ヲ教導シ相率ヰテ聖旨ニ応ヘ奉ランコトヲ期スベシ

     昭和十六年十二月八日」 

   

〔V〕昭和17年(1942)11月29日の諭告    

        諭  告

本月二十六日畏クモ 聖上陛下ニハ各教宗派管長並に教団統理者ヲ宮中ニ召サセ給

ヒテ拝謁ヲ賜ハリ。余亦此ノ破格ノ光栄ニ浴ス。是一ニ戦時下宗教ノ上ニ垂レサセ

給ヘル 聖慮ニ因ルコトト拝察セラレ、眞ニ恐懼感激ノ至ニ堪ヘザルナリ。

我ガ教祖夙ニ信忠一本ノ教義ヲ樹立シ「我身ハ我身ナラズ」トテ滅私奉公ノ大義ヲ

宣布シ給フ。乃チ信ヲ本教ニ奉ズル者斯ノ祖訓ヲ体シテ戻ル所ナカランコトヲ期シ。

曩ニ支那事変ノ発ルヤ一教ノ機構ヲ粛正整備シ全教一和以テ内ニ意ヲ民心ノ指導軍

事ノ援護ニ效スト共ニ外ニ微力ヲ対支文化施設宣撫工作ニ尽ス所アリ。更ニ大東亜

戦争勃発ト共ニ大詔ヲ奉ジ国策ニ応ジ戦時態勢ヲ確立シ、一教ヲ率ヰテ国民精神ノ

昂揚ト信心生活ノ錬成トニ邁進セリ。然リト雖モ戦局ノ推移ヲ察スルノ時、尚其ノ

足ラザルヲ惧レ其ノ到ラザルヲ憂ヒ日夜兢兢トシテ安ンズルコト能ハザルモノアリ。

惟フニ時局ハ既ニ緒戦ノ域ヲ脱シテ愈々本格的段階ニ入レルノ観アリ、即チ敵国ノ

戦意漸ク強烈ノ度ヲ加ヘ我ヲシテ屈服セシメズンバ止マザルノ概アリ、今ニシテ断

乎タル決意ヲ以テ之ニ臨マザランカ遂ニ不測ノ禍ヲ貽スコトナカランモ未ダ知ルベ

カラズ。我等布教ノ任ニアルモノ須ラク信ヲ天下ニ布キ必勝ノ信念ノ下国内即戦場

気魄ニ溢レ、勇躍国難ニ殉ズルノ風ヲ作興セズンバアルベカラズ。

今回ノ光栄タル啻ニ余ガ一身ニ止ラズ遍ク本教徒ノ相倶ニ荷フベキ所ノモノタルト

共ニ各自ノ責務ニ更ニ其ノ重キヲ加ヘタルヲ痛感スルヤ切ナリ。宜シク教師ノ職ニ

在ル者粉骨砕身率先垂範以テ匪躬ノ節ヲ竭シ、教徒信徒亦実践躬行信心報國ノ実ヲ

挙ゲ、相率ヰテ以テ上ハ畏ミテ聖旨ニ答ヘ奉リ下ハ烈烈タル皇軍ノ忠誠ニ応フル所

アランコトヲ期スベシ。

 昭和十七年十一月二十九日

                  金光教管長  金 光 攝 胤

(編者註)同年11月26日午前10時、宮中西溜ノ間にて、教宗派管長及び教団統理者等と共に、天皇陛下(昭和天皇)の列立拝謁を許された。その後、午前11時より文部大臣官邸において協議会が開催された。このことに因って、11月29日午後5時20分より本部教庁会議室において、諭告布達式が行なわれた。更にこの諭告を承けて翌年1月25・26日には、聖旨奉戴金光教全国大会を開催し、引き続き聖旨奉戴必勝生活確立運動を実施して100萬円の軍費を献納した。この頃の戦况は、前年6月のミッドウエ―海戦を転期にガダル島争奪戦が危機に陥る戦局のもとにあった。             

   

〔W〕昭和17年(1942)10月13日の手続関係ニ関スル管長教諭

         教  諭

謹ミテ按ズルニ取次ハ教祖立教ノ眞義ニシテ氏子救済ノ神意之ニ依リテ成就セラル。

取次グ者至誠神意ヲ体シテ神徳ヲ顕現シ取次ガルル者一念之ニ帰向随順シ、互ニ克

ク親子ノ至情ヲ尽シテ取次ノ霊能始メテ全キヲ得、此ノ両者相感応スル所ノモノ之ヲ

手続関係ト謂フ。教祖神伝ヲ奉ジテ取次ノ基本ヲ此ノ地ニ奠メ、其ノ取次ニ依リテ神

徳ニ浴シ、出デテ地方ニ取次ニ任ジ、以テ教祖受託ノ神業ヲ輔翼スル者相踵ギ教勢漸

ク発展シ、手続ノ分脈亦漸ク多岐ナリ。

 明治三十三年本教独立シテ一教ノ規模頓ニ見ルベキモノアリタリト雖モ本教信仰ノ

命脈タル此ノ手続ノコトニ関シテハ何等規定スル所ナくク、一ニ在来ノ風習ニ委セタ

リ。然ルニ教祖立教以後歳月漸ク加ハリ、地方教会ノ事情亦自ラ推移ス。斯ノ如クニ

シテ此ノ儘経過センカ或ハ本末ノ関係ニ疎通ヲ欠キ或ハ親子ノ情義ニ具ハラザルモノ

ヲ生ジ、為ニ教勢ノ不振ヲ来シ布教ノ活力ヲ失フモノアルニ至ランコトヲ虞ル。会々

宗教団体法制定セラレ本教教規亦改制セラルルアリ。乃チ立教神伝ヲ其ノ中心ト立テ、

新ニ取次手続ニ関スル規定ヲ設ケ、一ハ以テ旧来ノ闕遺ヲ補ヒ一ハ以テ将来ノ振張ヲ

期スル所アラントス。教制ノ体様茲ニ全ク備ハレルモノト謂フベシ。

 余ノ乏シキヲ以テ曩ニ教規ノ定ムル所ニ従ヒテ管長ノ職ニ就キ我ガ本部教会ヲ主管

ス。夫レ本部教会ハ一教教義ノ源泉信仰ノ中心ニシテ亦実ニ手続関係ノ総結タリ。サ

レバ全教ノ手続関係ヲシテ脈々タル生気ト穆々タル和親トヲ保タシメ、教風ヲ発揚シ

教勢ヲ振作シ、以テ大東亜戦下、上ハ畏ミテ八紘為宇ノ天業ヲ翼賛シ奉リ下ハ敬ミテ

教祖立教ノ本旨ニ応フル所アルベキハ、余ガ一身ノ責務タルヲ痛感ス。乃チ爰ニ本部

教会直接ノ関係ニ在ル諸子ヲ会同シ、当局者ニ命ジテ先ヅ以テ本部教会ト諸子ノ奉仕

スル教会トノ間ノ道義ノ如何ニ在ルベキカヲ懇談熟議セシム。諸子宜シク余ガ衷情ヲ

諒シ相率ヰテ全教信念ノ溌剌タル昂揚ニ努ムル所アランコトヲ期セヨ。               

(編者註)1941年(昭和16)3月31日付けで制定された新教規の第二百三十九条に「一般教会ハ齊シク本部教会ヲ教義伝統ノ本源ト仰ギ之ニ帰一スルト共ニ其ノ成立ノ由緒ニ基キ一教会ト其ノ分脈タル教会トノ間ニ本末ノ関係ヲ有シ前者ヲ親教会トシ後者ヲ子教会トス」と規定され、又第二百四十一条に「手続関係ニ付疑義ヲ生ジタルトキハ当該教会主管者ニ於テ管長ノ裁定ヲ請フベシ」とも定められている。この規定に依って同年6月5日付けで「手続関係ニ付調査ノ件(教発第二四号)」が各教務所長・布教管理所長宛てに通達され、事実調査に着手したが、各教会間の疑義が表出した。そこで改めてこの主旨について、翌1942年(昭和17)10月13日付けの管長教諭が布告された。

   

〔X〕昭和18年(1943)10月の教祖六十年大祭及戦勝祈願祭の諭告

         諭  告

我ガ教祖農畝ニ人トナリ、敬虔ノ資純一ノ性克ク信神ノ妙域ニ達シ、尊皇ノ大義ニ

徹シ信忠一本ノ教義ヲ樹テ、神伝ヲ奉ジテ、教ヲ門ヲ出デズシテ遠近ニ布キ、化ヲ

為ス無クシテ内外ニ及ボシ、永世ヲ誓ヒテ身ヲ幽ニシ給ヒシヨリ今茲六十年ヲ経タ

リ。今ヤ時局重大ヲ極メ、教祖ノ教義ヲ実ニスル今日ヲ措キテ他ナキノ時、全教相

会シテ粛ミテ其ノ禮典ヲ修ム。感慨眞ニ禁ゼザルモノアリ。大東亜ノ戦局日ニ展マ

リ興亜ノ聖業亦着々トシテ其ノ巨歩ヲ前メツツアル、何レカ赫赫タル皇威ノ致スト

コロナラザラムヤ。然リト雖モ其ノ物力ノ強大ヲ恃メル敵ノ反攻漸ク苛烈ヲ極メ、

其ノ勢亦侮ルベカラザルモノアリト聞ク。言語ニ絶スル皇軍ノ労苦ハ、我等銃後ノ

寤寐感謝ニ堪ヘザルトコロ、宜シク正大ノ気宇必勝ノ信念ヲ堅持シテ敵ヲシテ謀略

ヲ弄スルノ余地ナカラシムルト共ニ、決戦ノ体制ニ承順シ機宜ノ政令ニ遵由シ、一

億一心戦力ノ充実増強ニ尽シ、以テ前線ノ労苦ニ応フルトコロナカルベカラズ。

今日ノ時局ニ対処スベキ本教徒ノ要義ニ関シテハ、機ニ臨ミテ数々諭告スルトコロ

アリ。今復何ヲカ言ハムヤ。教祖六十年大祭ヲ迎ヘタル本教ハ、恰モ再生ノ機運ニ

際ス。全教一新須ラク教祖ノ遺範ニ則リ先蹤ヲ践ミ、一死奮ツテ国難ニ赴キ、上ハ

以テ畏ミテ宗教ノ上ニ垂レサセ給ヘル大御心ヲ安ンジ奉リ、下ハ以テ謹ミテ殉国英

魂ノ忠烈ニ酬ウルトコロアルベキナリ。

本日、爰ニ教祖六十年大祭ヲ迎ヘ本大会ヲ開クニ当リ、素懐ヲ述ベテ諭告トナス。

 昭和十八年十月四・七・十日

                  金光教管長  金 光 攝 胤

(編者註)10月4日の第一日の祭典後、本部教会齋場において全教信奉者から陸軍に献納された愛国金光号(軽爆撃機3機・新型戦闘機6機)の命名式が行なわれ、陸軍大臣より感謝状が金光教管長に贈られた。なお海軍に献納された報國金光号(9機)の命名式は、12月20日に本部教会齋場で同様に行なわれた。

                   

〔Y〕昭和20年(1945)10月1日の諭告

         諭  告

昭和二十年八月十四日畏くも 天皇陛下には具に世界の大勢をと国家の現状とを察

し給ひ、戦禍の残虐なる無辜の惨害極りなく遂には日本民族の滅亡に帰そむことを

憂慮あらせられ、大東亜戦争終結の大詔を渙発し給へり。 陛下の至仁至愛なる深

憂を蒼生の将来に致し、其の嚮ふべきところを懇諭し給ふ、洵に恐懼感激の至に勝

へず。余乏しきを以て本教管長の重任に推され、爾来一教を率ゐて一意君国に報ぜ

むことを念とし、昭和十八年一月全教を代表して私かに誓ひ奉るところありしに、

事遂に茲に到る。自ら省みて痛憤慚愧措くところを知らざるなり。

然りと雖も 聖断は既に下れり。吾等臣子たる者の進むべき道は、自ら明かにして

今更に惑ふところなく躊ふところなし。曩に大詔の渙発せらるるや、則ち聖旨を奉

戴し祈念を新たにすべき旨を通牒せしめたりしが、九月十九日管長・教団統理者協

議会主務省に開催せられ、総理大臣宮殿下には親しく今後の国際親善と国民道義の

昂揚とに関して我が国宗教の使命の極めて重大なるを懇示し給へり。洵に負荷の責

務の容易ならざるを痛感せずむばあらざるなり。

惟ふに国民の今後に処すべき方途は一にして足らずと雖も、神州不滅を信じて如何

なる苦難をも克服せむとする不退の信念を確立すべきは根本の要義たり。而して内

に生産を奨励して国力を培養し、思想を純正にして道義を厚くし、学芸を振興して

文化を高め、外に信義を世界に布き、親和を国際に弘め、以て国体の精華を発揚し

て世界永遠の平和に貢献せざるべからず。

抑々我が教祖は、農穡の家に人となり。醇厚の資敬虔の性克く苦難に堪へて家を興

し、信心を篤実なる生活の裡に進めて遂に自ら国体の真義に通じ、天地の神髄に触

れ、以て無礙の大道を開顕し給へり。其の一生の芳躅は以て吾等今後の実践に其の

指針を示し給へるものと謂ふべし。

教内今や戦災に因りて都市の布教機関壊滅に瀕せり。之が復興に関しては、本より

政府の計劃と其の布教の任に在るものの奮起と相待つて能く之を就し得べく、其の

機宜の措置に関しては教務当局をして着々之が対策を講ぜしめつつあり。若し夫れ

罹災の教師・教信徒の痛苦欠乏を想ひては転た同情禁ぜざるものあり。幸に神護の

下奮然再起全教相携へ、教祖立教の眞義を貫徹し、無辺の皇恩に奉答せむことを期

せよ。

  昭和二十年十月一日

                   金光教管長  金 光 攝 胤

(編者註)1945年(昭和20)8月15日に昭和天皇の終戦の詔勅がラジオ放送に依って公表された。この諭告に先だって、9月11日付けで白神新一郎内局が総辞職し、和泉乙三内局が成立した。この諭告は、10月10日の大詔奉戴祈誓祭及教祖大祭において、参拝者約1000名を前にして伝達公布された。

 因みに、同年12月28日に宗教団体法が廃止され、ここに1884年(明治17)8月11日の太政官布達第十九号に依る管長制度が廃止になつた。したがって翌1946年(昭和21)4月1日付けで『金光教教規』を改正して、教団統理者を「教主」と称することになったので、金光教管長としての諭告は、これが最後のものである。

     

【追補】初代管長金光大陣の1900年(明治33)6月30日の諭達

          諭   達

達第壱号      

本教は、吾金光教祖が神宣を奉じて、天保十二年に開創せられたるものにして、爾

来幾多の千難万苦を排除し、常に慨世憂国の志念を以て一意世道人心の教化に力め

られたりしが、後明治十八年神道本局に属して金光教会を組織せしより、一層旺盛

に趣きて弥一教独立の基礎を固むるに到り、且教義に於ても亦別派すべき理由の存

するに因り、昨春来神道本局に交渉の上、中教正佐藤範雄を本教別派独立請願全権

委員として内務省に出願せしめしが、本月十六日内務大臣之れが許可を与へられ、

茲に積年の宿望たる金光教の成立を見るに至りしものなり。是れ偏に教祖神霊の祐

助と請願委員等が鞠躬鞅掌せし結果なりと雖亦諸氏が多年能く吾本部の命に服膺し

て、専心教務に勉めたる効に外ならず。本教の光栄面目之れに過ぐるものなし。然

りと雖諸氏は、此の光栄面目を荷ふと共に、国家社会に対し一層責務の重且つ大な

る事を覚悟せざるべからざるなり。今や社会は日に進歩し人智は月に啓発し、外教

は年に浸漸し各教互に教義を競ふの秋に際し、愈本教の真理を闡明して蕩々たる人

世の安心を得しめ、巍然として社会の木鐸たるべき一教たらむ事、蓋容易の事にあ

らざるべし。

 抑も国家の元気は首として高潔なる国民の志想に起り、高潔なる国民の志想は清

操なる教法の力に依らざるべからず。而して一教独立の基礎は、部下団体の一致協

力するにあり。一教の隆盛なるは、部下教師の奮励宣教するにあり。然れば之が職

を奉ずるものの其責務の重大なる知るべきなり。諸氏宜しく此意を体し弘毅黽勉夙

夜倦むなく、分体一心本教の規律を確守し、教祖の遺訓を遵奉して愈本教の隆盛を

図り、各其天職を全うし、上は以て天恩の万一に奉答し、下は以て教祖の教恩に報

謝せむ事を期すべきなり。今本教の教規教則を頒つにあたりて将来の規箴を示して

茲に諭達す。       

明治三十三年六月三十日

               金光教管長 金 光 大 陣

(編者註)この「諭達」は、金光教独立に因って初代管長に就任した金光大陣が発した最初のもので、公認宗教としての使命と社会的責任を表明したのである。


 参照事項独立関係文書  教規・教則  教務と神務

         教団自覚運動  戦時教団活動