金光教辞典

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金光大神の生涯 4(こんこうだいじんのしようがい)

金光大神の生涯1 生い立ちから安政6年まで
金光大神の生涯2 安政6年から明治維新まで
金光大神の生涯3 明治維新期から明治6年まで
金光大神の生涯4

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明治6年から帰幽(死亡)まで
  1. 平人なりとも「ひれい」
  2. 金神社の再建運動と金光大神の態度
  3. 大阪布教と布教公認問題
  4. 金光大神、永世の祈り

1 平人なりとも「ひれい」

 1873年(明治6)閏6月10日〈新暦8月2日〉に、神から「金光大神は(無官の)平人なりとも‘ひれい’(神の威徳が現われて)、天地金乃神の「ひれい」(も輝く)。それは今年より先のことである。五年ぶりに混迷の世の中が治まる」とのお知らせがあつた。この年の1月に徴兵令が布告されて、徴兵反対の暴動が、岡山県北条郡からはじまり、各地で一揆が起こった。さらに12月18日〈新暦1874年(明治7)2月4日〉には江藤新平らの佐賀の乱、こえて1876年(明治9)旧暦3月3日〈新暦3月28日〉に廃刀令が布告されたが、それを不満として、10月には熊本の神風連の乱(秋月の乱)萩の乱がおこり、つづいて12月17日〈新暦1877年(明治10)1月30日〉から西南戦争がはじまり、8月18日〈新暦9月24日〉に西郷隆盛の自刄で終る。正に五年ぶりに内乱が終った。

 この間における宗教事情も、目まぐるしく変動して、明治5年(1872)3月に神祗省を廃し教部省が設置され、4月25日に教導職制度による国民教化政策がはじまつた。すなわち「三条の教則」を国民に普及し、その思想・信条の統一を図るために、神官・僧侶を教導職に選任して、神仏合同の布教を行なはしめた。そして教導職の研修所として、芝増上寺に大教院を設け、地方の社寺に中・小教院を置いた。その後、民衆と接する場の多い演芸者をも教導職に加えることになつた。ところが1875年(明治8)正月(新暦2月)に浄土真宗諸派が、信教の自由を理由に大教院から離脱し、仏教各宗派もこれに続いたので、3月には神道関係の教導職を統管する神道事務局が設置され、4月に大教院を廃止して仏教系教導職は各宗派に所属させ、神仏合同布教が廃止された。この年10月30日〈新暦11月27日〉に、政府は「信教の自由についての口達」を達示した。かくして12月6日〈新暦1877年(明治10)1月19日〉に、教部省を廃止して、宗教行政を内務省社寺局に移管した。このような政治状況や宗教事情、とりわけ神社の国家管理を目指す国家神道への政治的な動きの中で、金光大神の広前もすこぶる厳しい状況のもとにあつた。『お知らせ事覚帳』に依れば、戸長の内諾で取次ぎが行なわれることになつたとはいえ、1874年(明治7)9月9日〈新暦10月18日〉の金光大神祭りは、提灯一張りもともさず、身内親類の内輪のみで行ない、9月21日〈新暦10月30日〉の天地金乃神祭りは、普段の日のままで、燭台を賽銭櫃の両側立てて灯をともし、提灯二張りともし、幟は一本も立てず、世話人も来ない有様であつた。1875年(明治8)9月21日〈新暦10月19日〉の神祭りも普段の日のとおりで、大蝋燭一本を賽銭櫃の傍へ立てただけであつた。このように年々に祭りが簡素になつて、参る人も少ない有様が記されている。1876年(明治9)6月24日〈新暦8月13日〉には神は、

 金大神よ、人が小便ひりかけても堪えておれ。神が洗うてやる。人が

 なんと言うても堪えておれ。天地の道が潰れている。道を開き、た難

 渋な氏子が助かることを教えよ。日天四・月天四・金神をどうなりと

 もしてみい、と申しておれ。

と仰せになつた。このお知らせの背景にあ事柄を推察すれば、天地金乃神(日天四・月天四・金乃神)への信仰を公けに表明することを憚る周囲の者らに対し、金光大神の不満を示すと同時に、憚らざるを得ない政治的・社会的状況があったからであろう。『お知らせ事覚帳』には、次のような記述が見える。    

 8月29日〈新暦10月16日〉鴨方(分署の)邏卒と申し、手棒つ

 いて2人見え、神のことを訊ねられ、人を助けることはよし。提灯・

 品物・賽銭櫃をみな取り上げ。9月7日〈新暦10月25日〉(別の

 邏卒)2人見え、同じく(神のこと)訊ねられ。……神を拝む者が白

 き物(白の衣装を着け)とは何事かと言われ、医師のこと言いたて、神

 のこと厳しゅう言われ。9月12日〈新暦10月28日〉また2人見

 え。供え物・初穂(を受け)取るな。取らずに拝んでやれ。取れば、

 縄かけて連れていぬると申され…。10月21日〈新暦11月6日〉

(御縁日には)氏子の供え物はお広前に奉納し、金銭・初穂は受け取

 らなかった。      

とあるが、年明けて1877年(明治10)正月3日鱒V暦2月15日翌ノ、鴨方・玉島の両警察署から警察官が、入れ替わり立ち変り来て「拝むことならぬ。今日は屯所(警察署)へ連れのうて行く、支度をせよ」と申したので、昨年の新暦10月26日付けの岡山県の指令書を見せたところ、「この書付けを戸長から説明して貰へ」と言うて帰つた。

 ところで、金光大神の広前に対する一連の司法の取締りは、禁厭・祈祷によつて医薬を妨害する行為を取締るとともに、続発する内乱騒擾の世相を監視するところからのことと思われる。そのことは、岡山県の指令書及び稟議書にも窺える。すなわち1876年(明治9)9月3日鱒V暦10月19日〉付けで、金光大神の戸籍名である金光大陣の名義で、岡山県令にあてて提出した「敬神教育之儀ニ付御願」に対して「書面願之趣、訪人ニ対シ、己レ一箇信仰崇敬之旨意相語リ候迄ノ義ハ聞キ置届候ヘ共、信心教育施行、教導職ニ紛敷所業ハ不相成候事」との指令を受けた。またその稟議書には「穿考候得バ、到底医薬之防(妨ヵ)ヲ為、且、教導職ニ紛敷所業ニ立至ラントモ難見切候得共、願文上ニ由レバ、斯迄見認候程不正之所業ニモ無之……一先左案之通御指令相成置、若シ教導職ニ紛敷所業、或ハ愚民ヲ惑乱致ス等、不正之挙動有之節ハ直ニ御差留之御沙汰相成可然…」とある。      

この岡山県令への御願書は、8月以来の警察官の来訪に不安を抱いた戸長や家族・世話人等の対策から為されたことで、金光大神の発意ではなかつた。『お知らせ事覚帳』の明治9年9月12日(新暦10月28日)の条に「岡山(県への)願い書付下がり。同じく十二日(に)氏子はよいと思い、神の喜ばんこと、と仰せられ。(天照皇)大神宮祀ると申して願い、(御指令が)下がり」と記述されている。また翌年1月18日〈新暦3月2日〉に、警官の指示通りに、「金光萩雄(を)玉島の会議所・警察場・巡査所(へ)出(向わせ)、ご指令の届け(を)いたし。(其処で)人(の願い事)を拝む(祈祷する)ことすな、説諭(するだけ)でよしと申された」と記され、翌日から説諭だけをすることとなつた。なを、金神ということが廃止されたので、「天地金乃神書付」を氏子信者に出せんと、金光萩雄が申したので、書付を書いて貯め置くことを中止された。                                        

2 金神社の再建運動と金光大神の態度   

 以上述べたように、金光大神の広前は、官憲の取締や監視の厳しいなかにも、岡山県の指令に沿つて、御理解を主とした取次の業がつづけられた。しかし各地の出社では、官憲による取締や他宗教からの妨害をうけて、他宗派に属するものもあつたが、金光大神は「他の組下に付くと神のひれいが立たぬ。おかげの話をして人を助けよ」と戒めた。そのためには、天地金乃神の信仰が、宗教として公認されねばならないのである。その方策として考えられたのが、かつての金神社を存置する運動であつた。1876年(明治9)新暦12月15日付けの教部省通達第三六号・第三七号・第三八号を、その法的な依りどころとして、人民共有祭祀の無格社という名目で存置を願い出ることとした。しかしこの金神社存置の動きの背後には、村民達の様々な思惑が絡んでいたので、金光大神にとっては、到底、納得しがたいことであつた。

 『お知らせ事覚帳』の1877年(明治10)旧暦9月29日〈新暦11月4日〉の条に、この件に関して次のように記されている。

 川手(與次郎)保長、(金光)萩雄へ申し付けられ。お上へ(大谷

 村村社の担当神官)神田豊の手続きで願えばらく≠ニ言われ。(そこ

 で神は)人様のご厄介にならず、今のとおりに説諭できればよし。お

 上より説諭も出来んと申されれば、金光大神(は)、仰のけざま取り

 て休みおれ。とお知らせ(になつた)。ばん刻(昼過ぎの意)に川手

 直蔵様(が)此方(お広前)へおいで(になつて)、私(金光大神)

 に理解(説得の意)あり。大谷村の金神社と申して氏子中(が)願

 い。(村社の)祠掌神田豊に取次ぎ(お上への手続きを)願い。なん

 でも神(に関係のこと)とあれば(神田)豊の構い(担当である)。

 また、村方氏子(村民)が帰依すれば(役所の採決は)どうでもなる

 こと、まあ任しておかれ≠ニ申され(た)。

 私(は)、(この出願については)どこへも(表面立って)でません

 から、といぶり(不承知)を申し(たので、このように言われた)。

 (そこで私は)左様なことでござりますれば、お任せ申し、よろしゅ

 うお願い申し上げ(た)(直蔵様)若い衆へ任しておかれ≠ニあとで

 神様のお知らせに、氏子は大谷村の金神社と申し(ているが)、天

 地金乃神・生神金光大神(は)日本(中に道を)開き、唐・天竺(迄

 も)おいおい開き。右のとおり(の神の道であることを、氏子等)に

 説諭いたし’とあつた。(次いで)‘村中の氏子が、(先般)此方の

 宮(として)の拵えた(も)の(を使うて)建てると言えば、石まで

 も呉れと言えば、遣れ≠ニお知らせ(になつた)。

とある。ここには、宮の存置や再建に対する川手与次郎等の思惑とは、全く異なる金光大神の広大なる神願とその信仰的態度が窺える。

 1878年(明治11)新暦6月に、村民の推挙によつて金光萩雄は大谷村の村社・賀茂神社の祠掌となり、同神社付属社として金神社の存置を願出でたが、金神という名称が認められず、新暦8月31日付けで素盞鳴神を祭神とする素盞鳴神社という社号で存置が認められた。ところが、無格社として存置する条件のなかに、神社の社地・社殿等の一定の体裁を備える社でなければならなかつた。そこで忽ちおこつてきたのは、社地の決定と社殿の建築であつた。社地については、神は終始一貫して、金光大神の広前の現在地を定められていたが、川手與次郎ら村民の多くは、木綿崎山上の辻の畑を主張していた。この両者の相違は、神が金光大神の宮として、元の多郎左衛門屋敷を天地金乃神・生神金光大神のおかげの発祥地であり、根源の働きを示す霊地であると願うていることに対し、川手ら村民は単なる氏神社の一部として、認可が得られる地であればよいのであつた。そこで山上に宮を建てることが、世俗一般の通念であり、殊に木綿崎山の辻の畑は、川手與次郎の所有地でもあつたからである。社殿の普請については、辻の畑に建てるとすれば寄付金を募る必要があつた。そこで寄進札を立て、祈祷札を下げるなど、一般の社寺で行なわれる方法がとられ。しかし金光大神は、神より「木札、守り(札を)出すな。小のこまい氏子が助からん(ことになるから)」と仰せつけられ、また旧暦の大晦日に、神は「宮殿楼閣七堂伽藍、甍を並べて建て続けさせる。金子のこと何千何万(要ろうと、心配)思うな」と申された。こえて1881年(明治14)旧暦5月に至って、社地の購入費や建築費を借金する話しが起こり、神は「金を借りてはす(る)な。神より(お断りになつたと申し、)普請は断り申して延べおけ。宮は出来んでもかまわん。氏子が助かるがよし。(神が)助けてやる。」と仰せになつた。専ら神の仰せどおりに従つて、時節の来るのを待つ態度を貫いたので、金光大神の在世中には、社地については決まつたものの、社殿は遂に実現しなかつた。 

 今一つの問題は、素盞鳴神を祭神とする素盞鳴神社という社号が、金光大神の信仰する天地金乃神と異なり、且つ今までの金神社とも無関係である点であつた。殊に氏神(村社)賀茂神社の付属社ということは、金光大神にとつて耐え難い矛盾であつたので、この動きには関心をもたなかった。1878年(明治11)9月の内務省達乙五七「社寺取扱概則」と1880年(明治13)6月の内務省達乙二八「社寺取扱概則増補」とに依って、社殿の創建と社号の改称が可能となつたので、1883年(明治16)6月29日に「社号改称願」を岡山県令に出願した。その願いとするところは、「もともと金神社と称えてきたが、存置を願いでた際に素盞鳴神社と指示されて拝畏して来た。ところが氏子等が依然として旧称を唱えるので、氏子一同が協議の上、金之神社と改称したいからご採用して頂きたい」ということであつた。しかし県庁では、祭神に相応しくない社号であるとの理由で却下された。社号改称の件については、金光大神の思いに添うために、1881年(明治14)3月にも「社号改称願」が出されたが、これも不認可になつていた。その理由は明かではないが、おそらく素の金神社に復帰しようと試みたからではなかろうか。そして祭神については、すでに前年の1880年(明治13)旧暦の『8月27日夜に金光萩、うかがい申し上げ。すさ王ノ神大日めノ神・たけはやしすさ王ノ神・おもい兼ノ神・金山彦ノ神、四柱御上。 社号かへ、なんでもよし、お知らせ』との金光大神の書付け(紙片)がある。要するに、政府の神社政策は、教部省の廃止後、内務省の管轄のもとに、庶民に密着してきた山野の小祠まで網羅して、国家神道の傘下に置こうとした。そのような政策に巻き込まれて、金神社存置運動は混迷していつた。本質的に金光大神とは無縁な神を奉齋する神社であるから、社号を変え神名を増加するなどは、天地金乃神にとつては、正に「なんでもよい」ことであつた。因みに「金之神社」と改称が認められたのは、1884年(明治17)5月14日のことであり、社殿が建立されたのは1890年(明治23)暮れのことで、いずれも金光大神の卒後である。                

3 大阪布教と布教公認問題

 いままで金光大神の周辺で進められてきた、一つの布教公認運動であった金之神社成立への動きに焦点を当てて述べてきたが、明治維新の急激な変動のなかで、岡山以東の備前地方の出社信徒群の布教活動が盛んになるにつれて、官憲の取締りや既成宗教からの圧迫が加わった。また笠岡出社の布教停止後は、その流れを汲む信徒群のなかには、直接、金光大神の広前に取次ぎを願い出る者が少なくなかった。そして彼らに依って、明治10年前後には福山・尾道・三原などの港町から瀬戸内海を渡って愛媛や周防地方に、信仰が伝えられて行ったが、これらの地域においても、官憲や他宗派からの圧力や妨害を受けるようになつた。しかしこれらの布教者は、それぞれを取り巻く状況や事情が異なるので、金光大神の教示を心得ながらも、個別的に対処してきた。

 ところが明治10〜12年(1877〜1879)のコレラの大流行を機として、初代白神新一郎の大阪における布教伝道の教績が著るしく挙がり、その傘下から多くの布教伝道者が輩出した。金光大神の在世中に、大阪市内で取次ぎに専従していた人達は福嶋儀兵衛(南区高津)・白神新一郎(東区安堂寺のち西区肥後橋のち西区立売堀)・萩キミ(北区中之島)・高橋喜平(南区三休橋)・吉田綾(西区堀江)・小倉新助(西成郡岩崎村)・近藤与三郎(西成郡難波村)・寺田ジウ(西成郡高津村梅ヶ辻)・檜皮安兵衛(北区中之島五丁)・二代白神新一郎(西区立売堀)等の名が挙げられる。そしてこの人達の中には、白神新一郎が大阪に定着する以前に、すでに大阪市内で取次ぎをしていた者もあつたが、それは、瀬戸内海の船便を利用して笠岡から大阪へと信仰が伝えられ、生業の傍ら人助けをする信者達が居たからである。しかし彼ら信者達の信仰の実態は、必ずしも一様ではなかった。1873年(明治6)1月24日の大阪新聞の記事に、「備中の淫祠邪教」と題して、「小田郡大谷村にて金光大明神と号し、怪しき祈祷者あり。又所々に分派ありて、多くの人民を惑はし、許多の財貨を貪り、頗る富をいたすといふ。…」とあるが、ここで、金光大神を指して金光大明神と呼んでいることから推察すると、修験者が布教の妨害を繰り返していた、文久年代の風評を知っている者から得た瓦判的記事であろう。したがって、金光大神の実状を述べたものではなく、むしろ1873年(明治6)当時の大阪における祈祷者紛いの金神信仰者らの動静を、批評したものといえる。かかる信仰の真偽も定かならぬ雑然とした大阪の地に、『御道案内』を著した初代白神新一郎が、その弟子達とともに金光大神の真実の信心を伝え、天地金乃神のおかげの道を拓いたのである。

 大阪における教勢が盛んになるにつれて、白神新一郎の広前への官憲の取締りが厳しくなり、その対策として、明治13年(1880)7月に神道中教院に所属する八重垣講社に入り、「天地の大神」と神名を称えて奉齋し、取次をおこなつた。つまり「天地金乃神」と公称することが出来なかつた。やがて奉齋神名の問題は、取次に従う個々の布教者の共通の認識となり、大阪布教の課題となつた。1882年(明治15)4月24日に初代白神新一郎は、布教公認と東京布教への願望を弟子達に託して、65才をもつて世を去った。

4 金光大神、永世の祈り

 金光大神は、初代白神の死去について、旧暦3月8日(新暦4月25)に神から「白神(の事について)沙汰があろう。15日には」と神からのお知らせをうけた。次いで「旧(暦3月)11日に白神信吉より手紙よこし、内(去る)7日に病死仕り候≠ニ。新(暦)4月24日に当り。(旧暦3月)14日に(白神の弟子の)吉田お綾参り。白神信吉(が)、この度神主を頼み神祭り(神葬祭)し、(諡名は)弥広真道別命(である)。白神(の霊)を祀りましょうか=iと申した)」と記述している。また1880年(明治13)旧暦10月12日に、すでに「大阪にて白神新一郎寅年こと、金光白神神社と申すように辛抱いたし。先で神になり」とのお知らせがあつた。金光大神にとつて、初代白神新一郎の死去は痛惜の極みであつたが、その教績を受け継ぐ大阪布教への願いも切なるものがあつた。『お知らせ事覚帳』の1882年(明治15)旧暦10月4日〈新暦11月14日〉の条に「大阪白神信次郎(信吉のこと、二代白神新一郎と改名)礼まいり。下葉(信者)の和田安兵衛を連れてまいり。6日早々、両人へ、父の新一郎が神に用いられ(たのだから)、白神(シラカミ)と称えること、倅信次郎が教跡を継ぐこと、白神・和田の両人でも人を助けて神になること、ご理解あり」また旧暦10月10日の条に「(氏子等は上の畑に宮の地形をはじめているが、天地金乃神の)宮の構想は、天照皇大神宮の宮もこの境内へ建てさせ。金光家の先祖の宮も、大阪白神の宮も、そのほかの氏子で神になつたものの宮も、同様にこの境内に建てさせる。」と記し、旧暦10月14日〈新暦11月24日〉の条には「おどろきありても、信心する者には心配なし。……天地の間のおかげ知った者なし。おいおい三千世界、日天四の照らす下、万国まで残りなく金光大神でき、おかげ知らせいたしてやる」と、神の悠大な願いが記述されている。天地金乃神の信仰が、未だ社会的な公認への展望が開けぬ現状のなかで、初代白神の死に遭うて混迷する弟子等にたいし、更らにやがて訪れるであろう金光大神の亡き後の信者等の動揺にたいし、彼等のとるべき態度と進むべき方向とを、神の大願として示された。それは又、金光大神にたいする神の励ましと期待でもあつた。一方、この年の夏から佐藤範雄が、教派を組織して布教の公認を得る目的で、金光大神の許しを受けて、金光萩雄とともに神の教えの筆録を進めていた。そして、このような昼夜を問わぬ地道な営為が、後に『神誡・神訓』として金光教団の教義の所依となつた。

 しかしながら、独立の教派を設立することは、至難の事業であつて、1882年(明治15)5月15日の神道各教派のそれも、神官教導職分離という国の神社政策から派生した特例の措置であつた。況んや天地金乃神を主神とする教派の設立は、認められるべくもなかつた。佐藤範雄の『信仰回顧六十五年』に依れば、1883年(明治16)新暦6月9日に二代白神新一郎と近藤藤守の両人が、佐藤の広前(広島県安那郡上御領村)を訪ねて、大阪神道事務分局から金光大神に面会を申し入れてきた件について相談にきた。その夜3人は、分局員の主張する国幣中社南宮神社の祭神・金山彦命を勧請すれば神社として公認が受けられるという意見への対応策を打ち合せ、さらに「将来、御上にこの道を貫き独立の一教派として、生神様(金光大神のこと)へ御礼申上ぐる事の大方針を協議した。…かくて両氏は、余と面会の次第を、大谷にて教組生神に申上げて大阪へ帰り、余は12日参詣して、又事の由を申上げた。教組は上下揃うた≠ニて甚く御悦び遊ばされ、萩雄ノ君よりも、教組が御悦びである事を承った」とある。それから1ヵ月後、大阪神道事務局員が金光大神の広前を訪れたが、このことについて『お知らせ事覚帳』には次のように記されている。              

 七月十二日、旧(暦)六月八日。一つ、白神新一郎(二代)未年まい

 り。権 大講義吉本清逸、中講義亀田加受美、午生まれ六十二歳と申

 し。神徳と申さ れ金乃神と申し立て、得心いたされ、安心して帰ら

 れ。十三日早々ひきとり 岡山まで車で送り。入用二円二十銭。した

 (藤井家)を頼み泊め。   

また当日の模様について、佐藤範雄は「吉本・亀田両氏を御広前に案内した。先ず亀田氏より、教組の御前にて、美濃国南宮神社の御分霊の事を申上げたが、更に御受けなく。教組は何かの事は御領の氏子から聞いて下され≠ニ仰せらるるので、皆々宿(後の吉備乃家)に帰った。余は一人広前に居残つて、尚教組の御神意を伺い奉りしに、此方のは違う≠ニ宣ひて、亀田・吉本両氏の申出はお用ひでない。仍て余も宿に帰り、更めて両氏に教組には南宮神社の御分霊御勧請の事はお用ひがありませぬ。大阪の所は宜しくお引立てを願ふ≠ニ、その要領だけを答えた。亀田・吉本両氏は議論の外ぢや。大神徳ぢや≠ニ敬服の様子であつた」と記述している。佐藤はこの日を新暦7月9日から10日のことと記しているが、旧暦との混同による思い違いであろうか。ともあれ、分局員の申し出た案は、素盞鳴神社の社号改称の動きと軌を一にするものであつたから、金光大神としては、到底、受け入れられることではなかつた。

 この事の前後から、金光大神の体調が思わしくなく、食欲も衰え、一時は回復の兆しも見えた旧暦8月20日〈新暦9月20日〉には「夕飯よりおとめになり、水食べて休み」21日には「今明日、飯、茶も食べず。菓子、水だけ」という状態であつた。そして、この日の早朝に「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」とのお知らせがあつた。『お知らせ事覚帳』はここで擱筆されている。

 教祖伝『金光大神』に依れば、旧暦8月27日〈新暦9月27日〉の夕刻の祈念のとき、「金光大神、ながながと道を説きたり。萩雄、手代わりつとめよ」とのお知らせがあつて、金光大神は、這ひながら控えの間に退き、再び広前に出ることがなかった。それからは、誰の手も要せず、しずかに横たわつてやすみながら、おりおり神と語り合つている様子であつたが、旧暦9月10日〈新暦10月10日〉未明、妻とせと次女くらに見守られて、安らかに70歳の生涯を終えた。この日は、かねて信者に語つた新旧暦の連れ添う日であり、毎年行なつてきた金光大神の祭り日でもあつた。13日の午後三時に教え子・信者達により神葬祭をもつて奉仕された。金光大神人力威命と諡り名された。                                


【参照事項】⇒ 三条の教則(三条の教憲)

        岡山県庁文書(敬神教育ノ義・素盞鳴神社号改称願)        

        教祖伝『金光大神』 金光大神の葬儀

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