金光教辞典

ホームページへ

目次へもどる


金光大神の生涯2 (こんこうだいじんのしょうがい)

金光大神の生涯1 生い立ちから安政6年まで
金光大神の生涯2

このページの下方へ進む

安政6年から明治維新まで
  1. 家業をやめて広前に奉仕する
  2. 布教への妨害
  3. 金神社の建立
  4. 金光大権現の「ひれい」
  5. 金神社の普請とその結末
金光大神の生涯3 明治維新期から明治6年まで
金光大神の生涯4 明治6年から帰幽(死亡)まで

1 家業をやめて広前に奉仕する

 1859年(安政6)旧暦10月21日になって、金子大明神は、麦播きが済んだことを申し上げると、「(神も)安心した。色紙5枚買うてこい」と仰せられ、その色紙を「5枚重ねて七五三の縮みのついた幣を切って、曲尺で2尺5寸の幣串にその幣を付けて、神前に供えよ」と申された。そこでお指図どおりに出来次第、神の検分を願うと、神は「金子大明神よ、この幣を切ったのを境に、農業を止めて(取次の業をさせるから)そのように承知してくれ」とお頼みになつた。その理由は、神への取次ぎを願うて来る氏子が多くなり、その都度、広前と田畑を行きつ戻りつしていては、取次も農業も両方ともが差支えるからである。(分けても生計を立てて行く農業を止めてくれと言うのは)其方の42才の病気の時には、神仏のおかげで全快したのである。「その時に死んだと思うて、(こんどは)欲を放して神を助けてくれ」と申され、また妻“とせ”にたいしても「後家になつたと思い、子供連れでぼとぼと農業をして居ってくれ」とお頼みになつた。

 更らに『金光大神御覚書』には、神は「世間には沢山の難儀な氏子が居るから、金子大明神のように実意丁寧神信心している氏子が、これらの氏子を取次いで助けてくれれば、神も助かり氏子も立ち行くことになる。何とならば、氏子あっての神・神あっての氏子≠ナあるから、神と人があいよかけよで≠ニもに末々繁盛して行くことになるためである」と、神が金子大明神の取次へ懸ける願いを述べられている。それは取次の業が目指す宗教的世界でもある。現在の金光教に於いては、「立教神伝」と称して教義の根源とされている。

2 布教への妨害

 金子大明神は、神の仰せ通りに、農業を止めて広前での取次ぎに、専念することとなつた。次いで12月28日には、上の間の床の間に二段の棚を調え、散銭櫃が置かれた。翌1860年(安政7・万延1)の旧暦正月には、信者になつた氏子に柏手を打つことが許され、同時にその信者名簿(神門帳)を作れと命ぜられた。さらに5月1日の神命によつて『願主歳書覚帳』を調えた。その覚帳には、万延1年(安政7)から慶応2年(1866)までの7年間に475人の名が記され、その内、神号・一乃弟子を受けた者は40人を数える。またその間を地区別に見ると、備前が34人・備中が419人・備後が16人・その他が6人である。そして備中地区が圧倒的に多いのは地元であるからと言えるが、その中でも淺口郡・玉島・笠岡が殆どを占めている。しかも金子大明神が広前の取次に専念するようになった2乃至3年間、すなわち万延1・文久1年には、淺口郡と玉島で191人の名が記され、文久2年には32人が殖え、さらに笠岡地区の51人が急増している。またこの年には備前岡山の9人と備後福山の6人の名が見える。要するに、文久年代に入ると願主(信者)が殖え、教化の及ぶ地域も広がつた。この頃、麻疹の大流行があり、わけても妊婦で罹患すると一命にかかわると怖れられた。その妊娠麻疹でおかげを受ける者が多かったので、大谷の金神さま御発光≠ニいわれた。殊に1861年(文久1)旧暦の9月に笠岡の斎藤重右衛門が取次を行なうようになり、続いて六条院西村(西六)の高橋富枝が取次に専念して、2ヵ所の出社(でやしろ)が出来て、教勢が著しく伸展することになった。そして11月23日に金子大明神から金光大明神へと神号が替わつた。

 このように金光大明神の広前はもとより、笠岡・西六の出社の広前では、取次を願う参詣者が昼夜もつづく状況を呈したので、一般世人の注目を集めるとともに、他宗教とりわけ修験者から不穏な行為として見られるようになつた。庄屋『小野四右衛門日記』には、しばしば修験者と金光大明神(文治)との経緯が記されている。それに依れば、1862年(文久2)旧暦3月24日の条に「小坂の蓮行院外弐人が文治が金神を信心いたし候を、差し止めてくれ≠ニ申し出た。夜に倅(小野慎一郎)が文治を呼んで、聞き糾したところ、山伏の申し出通りに相違なかつたので、(文治を)厳しく差し止めおいた」とあって、翌日の条には「25日晩、蓮行院外弐人来たり、(文治の)神前の壇廻りの神具類を受取りたい旨を申し出。実は庄屋で預かつて下さるならば、それでもよいが、文治の所に置いておくことは相成らぬ≠ニいう申し出であつたそこで川手弥十郎を付き添わせて遣わした処、文治も速やかに渡すように申したので、(庄屋へ)預かつて帰つたとのこと」と記している。越えて5月19日の条には「蓮行院と本学院が申すことには、以前、文治より預かつてある幕・のぼり・鏡・金幣・提灯・金灯籠等を持って行き、掟通り焼き払いたいが、如何ですか≠ニ相談があつたので、その趣旨は承知したが、何分、神具のことで異常なことだから、上役所へ届ける必要がある。其方からも届け出てからにせよ≠ニ答えて置いた」とある。さらに7月21日には「矢掛の智教院の代理として、新見の重林院と智教院執事の石川齋次右衛門の二人が参り、申し出たことは文治が狸を遣うて笠岡付近の者を苦しめているので、狸を引き取るよう掛合うたが引き取らぬので、文治と直接掛け合うためにきた≠ニ申した……そこで先般の蓮行院等の一件を言い、再度掛け合いに来た理由を問いただすとそれは偽物であるから、以後其の事の無いように措置を請け合う≠ニ申し。何分今度は、狸を引き取らせるため、文治を連れて行く旨の交渉をする≠ニ申し出たので、庄屋としては、文治は(狸を遣う云々)という様なことを執り計る者ではないが、穏当に談合するなれば止めはせぬ。しかし文治を引き連れて行く考えならば、差し止める旨≠申し聞かせた処、両人は平和に交渉するが、そのうち、平和に話が治まらなければ、正式に御届する≠ニ申したので、左様な場合になれば、此方からも必ず正式の回答をするが、只今のところは、内分のつアとにして置く≠ニ申した」とある。

 以上のような日記の記述から察すると、金光大明神の布教・伝道に少なからず脅威を感じた修験者等は、最初は蓮行院の一件に見られる神具類や供物を持ち去るなどの強行的手段を執ったが、その効果も無いままに有耶無耶になっていた。そこで次に狸を遣う%凾フ中傷に依る宣伝効果を狙ったが、金光大明神の徳望と庄屋をはじめ役場の冷静な対応には、その期待が破られた。ことに智教院の件について、『金光大神御覚書』には

 矢掛智教院おじ齋次右衛門と申し、出(て参り)、ぐずり(強請)申

 し」と書かれ、さらに「山伏の儀つき、笠岡出社へお差し向け。私、

 同じく(7月)21日暮れ6つ立ちにいたして行き……早速矢掛へ人

 (を)遣り、明け22日ばん(午後)に人もどり、智教院、断り申

 し上げ≠ニ申し。

と記述されている。推して言えば、これら修験者の一連の行為は、金光大明神の取次が自然に展開して、そこに宗教的集団の様態を現わして来たので、その中心の金光大明神が無資格・無許可での布教行為である点をとりあげ、その宗教活動を抑制しようとしたのである。そこで信者の中には、金光大明神のために山伏の許状や吉田神祗長上家の許状を受領してくる者もあつた。

 ところが翌1863年(文久3)旧暦1月11日、笠岡出社・斎藤重右衛門が、金光大明神の広前への参拝の帰り途で、笠岡代官所の役人に捕えられ、入牢百日の刑を受けた。その理由は百姓の身分で祈祷を行ない、民衆を惑わし、金品を貪つた≠ニいう罪であつた。この事件は、笠岡出社の信者の急激な増加と民衆への救恤活動が、官憲の目には、封建秩序を乱す不穏分子と映ったのである。そして、この事は笠岡に限らず、金光大明神やその出社の取次・布教の全体に係わる衝撃的な問題でもあつた。つまり百姓の身分のままで教説を流布し、祈祷を行なうことが不法行為であった。その問題を解決するためには、金光大明神が百姓の身分から解かれ、宗教行為が許される身分になることである。

3 金神社の建立

 1864年(文久4・元治1)旧暦1月1日に金光大明神は、次ぎのような神お知らせをうけた。

 天地金乃神には、日本に宮・社なし。(氏子の)参り場所もなし。二 間四面の宮を建ててくれい。氏子(の身上)安全を守りてやる。(神 は天地の神であるから)神にはお上もなし。金光大明神その方にはお 上がある(から)世話人(を)頼んで、お上に願いあげよ。世話人は 川手保平・森田八右衛門。大工は(川崎)元右衛門・その弟子の(遠 藤)国太郎。手斧はじめは、来る四日、吉日(であるぞ)。こしらえ て、お上がかなわねば、何処へでも、宮の要るという所へ遣るからに かまわん。こしらえいたせい。お上がかのうて(宮が)建てば、其方 の宮(であるぞ)。天地乃神が宮に入りておつては、この世が闇にな り。正真、氏子の願い礼場所。其方(の)取次で、神も立ち行き氏子 も立ち。氏子あっての神神あつての氏子、子供のことは親が頼み、親 のことは子が頼み、天地のごとし。あいよかけよで頼み合いいたし。とある。

 この“天地金乃神のお知らせ”の真意は、当面の問題を円満に解決して、金光大明神の取次が進められてゆくためには、藩主の承認のもとに神社を建て、神主の資格を得る以外に方途はない。しかしこれは、当時としては至難の事業であつたから、神も氏子も共に願いを一っにして取り組まねばならぬ。その結果、その筋の公認が得られ、宮が建つたならば、それは、いわゆる世間一般の宮とは異なり、金光大明神が取次を行なう場所であつて、昔から宮・社を「氏子の願い礼場所」というが、これこそが正真(真実)の宮である。

 1864年(元治1)旧暦4月9日に金光大明神は、浅口郡大谷村百姓・文次の名義で白川神祗伯家に入門し、神拝式許状を受けた。同日、浅口郡六条院西村大工川崎元右衛門も入門して、宮大工の資格である上棟式許状を受けている。続いて1865年(元治2・慶応1)旧暦1月24日に小田郡笠岡村・齋藤重右衛門と浅口郡六条院西村巫女・高橋富枝の二人が、入門して神拝式許状を受けた。翌1866年(慶応2)旧暦10月2日には、金光文治の名義で「自宅において神拝の節に、冠・布齋服・浅黄差貫の着用」を許され、“河内”の称を授けられた。またこの日に、大谷村金子駒次郎・占見新田村金子坂介・六条院中村金子秀蔵・西浜村金子多蔵・玉島村金子房太郎・同金子左京・同金子清蔵らが神拝式許状を受けている。これらの信者は、金乃神の氏子という意味で“金子”の姓を付けたものと思われる。

 以上のことは『白川家文書』にモ記載されているが、『金光大神御覚書』に依れば、1864年(文久4)旧暦1月10日に村役場に伺いを立て、庄屋小野慎一郎の承諾を受け、村民とも相談のうえ、白川神祗伯家に願い出ている。その願い出について、金光大明神の代理人として川崎元右衛門と橋本卯平を遣わした。また、その結果について「お聞きずみに相成り候。私(金光大明神のこと)に居宅祈念の許し、許状くだされ候。宮の儀は、屋敷内(に)建て(ること)苦しゅうなし。甲子四月九日」と書かれている。そして同年の10月24日、金光大明神は金光大権現≠ニの神号を、妻“とせ”には一子明神≠フ神号をゆるされた。このようにして、慶応2年には金光大権現を中心とする信徒集団の萌しが現われ、すでに毎年9月22日には祭礼が行なわれるまでになつた。『白川家文書』にも「金神を相祭り居り候よし」と記して、その事情を知っていた。

 そこで先ず金光大権現(金光文治)が金神社の神主に補任され、次いで金神社の修復という名目で、宮の建設をすることになつた。その手続きについて、庄屋の記録に依れば、1866年(慶応2)旧暦11月には、神主職補任のための添書の願を、願主金光文治・親類代表古川八百蔵・証人川手安(保)平・同森田八右衛門の連名で、村役人を経て浅尾藩代官に提出した。それと同時に「金百両 御国恩の余恵を以てかなりの渡世を致して居るので、冥加のため献上仕りたく存じ候」と伺い書を11月10日付けで差し出しお聞き済みになつた。また『永代御用記』には、同年12月に「私の持ち山の鎮守として金神宮があるが、社人・社僧・修験等もないので、俗人の身分では怖れ多いから、私が白河殿より金神社の祠官職として神主号の許状を拝受したいと存じます。付きましては、藩庁の添え状を願い上げる」旨の願書を、文治を願主とし、判頭・藤井春太郎と村役人の保証を以て差し出し、明くる1867年(慶応3)旧暦2月10日になつて郡奉行から添え状を渡され、上京して白河(川)殿の許状を受けたことを記載している。         

 この神主補任の件について、『金光大神御覚書』には、次のように記されてる。

「お上(淺尾藩庁)より、京都(白川神祗伯家)が官位を出すように、ご添簡くだされ、丁卯(慶応3・1867)2月10日。」とあり、次いで金光大権現の代理人として石之亟・棟梁川崎元右衛門・橋本右近の3人を「上京仕り候につき、この度は、地頭(藩主)より添簡をくだされたので、官位の儀よろしゅう御願い申し上げよ。しかし金神広前では京都の御法通りのことは出来ませんと申してくれよ。また金神の有り難いおかげのことを話して置きなさいと、神様から仰せ付けられました。2月13日に、右の3人が行きました」と書かれ、更に白川家においての交渉の模様について「拝む儀礼は、六根の祓と般若心経を唱えていることを承認くださり、神前の飾り物の決まりはないので、氏子の奉納物はなんなりともよし、紋章は丸に金の字で差支えなし。地頭への願いどおりの補任状を許しましょう」ということになつた。つまり備中浅口郡太谷村、金神社神主金光河内として、2月22日付けで白川神祗伯家より藩庁役人宛に通告された旨が記されている。しかし『白川伯家文書』には2月21日付けになつている。次に同年4月、願主金光河内の名義で金神社の社殿再建を藩庁に願い出た。『永代御用記』の慶応3年の部に「私所持山金神社、数年来破壊罷り在り、神慮に対し恐入り存じ奉り候に付き、今般再建仕り度く存じ奉り候。尢も、是迄の社地場狹きにつき相改め度く、追而村方故障御座無き候場所へ取り極め申し度く存じ奉り候。且つ、入用方義は、他方信仰之輩より初穂並に寄進等、神納仕り候分相足し、建立仕り度く存じ奉り候。願上げ奉り候。何卒この段御聞済み仰付けられ為し下され候はば、有り難き仕合せに存じ奉り候。以上とある。

 ここにおいて、1864年(文久4・元治1)旧暦1月1日の御神意が、公的に金神社という形態を以て現われることになつた。

4 金光大権現の「ひれい」

 ところで金神を祀る宮として金神社と称えられたが、それは世俗に知られてきた神名を用いられたからで、金光大権現の信仰の対象としての神名は、1867年(慶応2)旧暦11月24日には鬼門金乃神大明神と唱えられ、信者氏子に下付せられた書付けにも「日天四・月天四・丑寅・きもん金乃神大明神」と記されている。しかもその神名と併記して「金光大権現・のこらつ金神」とある。このことは、ここに建立した宮の宗教的な実体は、取次者金光大権現その人であることを意味しているのである。それを明確に表明されたのが、翌1868年(慶応3)旧暦11月24日の神のお知らせである。『お知らせ事覚帳』並びに『金光大神覚書』に次ぎのように記述されている。

 一、日天四の下に住み(む)人間は神の氏子。身上に痛(み)病気が

 あつては、家業できがたなし。身上安全の願い、家業出精、五穀成就

 牛馬にいたるまで、氏子身上のこと、何なりとも実意をもって願い。

 一、月天四のひれい、子供子育てかたのこと、親の心。月の延びたの

 すこと(堕胎すること)、末の難あり。心、実意をもつて神を願い難

 なく安心のこと。

 一、日天四・月天四・鬼門金乃神、取次・金光大権現のひれい≠

 もって、神の助かり、氏子の難なし。安心の道(を)教え(て)、い

 よいよ当年までで‘神の頼み始め’から11ヵ年に相成り候。金光大

 権現(を)これより神に用いる。三神(即ち)天地神のひれいが見え

 だした。忝く(思うぞ)。金光(大権現よ)、神が一礼申す。以後の

 ため。

とある。

 ここで‘神の頼み始め’とあるのは、過ぐる1857年(安政4)旧暦10月13日の亀山村・香取繁右衛門の口を通して「金神の宮」の普請を頼まれたことを指すものと思われる。今や、金神社が成立したことを、金光大権現のひれい≠ニ神が称賛された。

5 金神社の普請とその結末

 1867年(慶応3)旧暦4月6日に普請小屋が建ち、金神社の本格的な造営がはじまったが、8月25日には早くも「棟梁(川崎元右衛門)の心得が神の思慮と違うので、宮社の普請は成就せん」とのお知らせがあつた。さらに明くる1868年(慶応4)旧暦4月3日に神は「棟梁、神の恩知らずゆえ、神から暇を出し、役所に対しては普請の延期を申し、一先ず打ち切れ」とお命じになり、去る3月以来宿に退きこもつていた棟梁に、4月10日には「所帯道具類を持つて帰らせよ」と仰せ付けられた。その数日後、棟梁は世話人(川手保平・森田八右衛門)を介して詫びを入れたが、神は「金神気障り。金光が願うても、神は許さぬ」と申された。

 同年9月8日に明治と年号が改まり、その9月24日に金光大権現の神号を生神金光大神と変えられた。このことは新政府の神仏分離令に係わってなされたものと思われる。

 1869年(明治2)旧暦7月になつて、笠岡出社・斎藤重右衛門(金光大神)と玉島出社・小谷清蔵(金光大明神)が、延期になつているご普請を願いでたので、笠岡金光大神が采配を取ることになり、約1年半ぶりに、9月10日に着工されることになつた。棟梁・川崎元右衛門に添えて、笠岡の棟梁・谷五郎が客分となつて進められた。ところが1871年(明治4)旧暦5月24日に再び「棟梁、はらわたが腐り、普請成就せず」とのお知らせがあり、さらに越えて12月11日には、次のような神からの内示があつた。「棟梁のはらわた腐りたとは、橋本(卯平も)同様、人に催促うけ、うそ申し。棟梁様と人に言われて、夫婦とも実意がなし、神のひれいがなし。金光(を)煮出しにいたし、氏子騙し、何百両の金子借り、金光大神はじめ神をたばかり。神は氏子かわいさゆえ、神も立ち行きと思うて、ひれいを持たせ(ているのに)。わが力と思うて、仔細らしゅう方々歩き。金光大神社の恩を知らず。はや一年経ち、一礼もいたさず……」とある。ここで言われている事柄について、西六出社・高橋富枝の伝えによれば、棟梁元右衛門と橋本卯平が各地の信者から普請の寄付金を集め、それを資金に酒造りをして、普請の費用を殖やそうと目論んだが、その酒が腐つて失敗し、寄付金はもとより借りた金までも失い、窮地に落ちたというのである。その結末についての伝えはないが、上記のお知らせから推測すれば、金光大神の手もとでも幾何かの配慮をされたことであろう。『お知らせ事覚帳』の1872年(明治5)旧暦2月14日の条には「棟梁、普請棟上げすることなし。この方の普請でなし、正真、まぎらかしにさせ。…お上がご変革に相成り候」と記され、9月12日に棟梁との関係について「神様も、切りとおおせられ」と述べられて、ここに1864年(元治1)旧暦1月以来の金神社の建立に係わる棟梁川崎元右衛門との関係も成就しないまま、明治維新の神社政策のもとで、金神社の存在も消えることとなつた。しかし、そこから金光大神独自の宗教的世界が創生されてくることになるのである。


      

【参照事項】⇒ 立教神伝     金光大神御覚書

        願主歳書覚帳   お知らせ事覚帳

        白川神祗伯家   吉田神祗長上家

このページの先頭へ