金光教辞典

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金光大神の生涯3(こんこうだいじんのしょうがい)

金光大神の生涯1 生い立ちから安政6年まで
金光大神の生涯2 安政6年から明治維新まで
金光大神の生涯3

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明治維新期から明治6年まで
  1. 明治維新と生神金光大神
  2. 金光大神と神社制度の変革
  3. 天地書附と天地金乃神の神観
  4. 金光大神とその家族
金光大神の生涯4 明治6年から帰幽(死亡)まで

1 明治維新と生神金光大神

 1868年(明治1)旧暦9月24日に、神は、金光大権現の神号を「生神金光大神」と変えるように命じ、同時に神名も「日天四・月天四・丑寅未申・鬼門金乃神・大しょうぐん不残金神」と改められた。また「天下太平諸国成就祈念、総氏子身上安全」と書き染めた幟を立て、日々祈念するようにと、仰せ付けられた。この年1月から戊辰戦争が起こり、諸国の藩は倒幕派と佐幕派に分かれて、内乱が続いていたからである。

 ところで大権現という神号は、江戸幕府時代では、神仏に対する最高の称号であつたが、3月28日付けの太政官達示によつて、権現・牛頭天王その他佛語を以て神号を称えること、仏像を神体とし佛具を社前に用いることが禁止されることになつた。いわゆる神仏判然令または神仏分離令といわれ、王政復古・祭政一致の政策の一環として、このことがすすめられたが、一千年来民衆の生活に日常化していた神佛習合の信仰を、根底から揺さ振る変革であつた。

 金乃神は、すでにこの前年の11月24日に「金光大権現、これよりに用いる」と宣言されていたので、ここに改めて生神金光大神の神号に変えられたものといえる。つまり生神金光大神という神号は、文治大明神からはじまり金光大権現に至る神号とは、その性格が、以下の2点において異なると言える。その第1点は、それらの神号は取次ぎに依る救済の活動が、質的にも機能的にも充実拡大していくなかで、神から許し授けられた。その意味では、多分に段階的性格をもつていたと考えられる。ところが「生神金光大神」のそれは、最高の神号である金光大権現の名称を、金光大神に変更されたのである。それは、前述の神仏判然令の影響に依るものであろう。次にその第2点としては、金光大神に‘生神’という表現が冠せられ、特別の意味が加えられた事である。元来、日本人の神に関する観念には、死者の霊魂への敬愛または畏怖から、これを神として祀祭してきた。自然物や自然現象さえもが祖先神や怨霊神としてきたのである。したがつて、現実に生きている人を神として祀ることは、異例のことである。それゆえ初代白神新一郎は『御道案内』のなかで「生神金光大神様とは……農民より出で給い、大神の御位、生きながら神とならせ給うことは前代未聞のことならずや」と述べている。つまり修行という信仰の修練によつて、超人的霊能者になるというような、人から神へ或いは人が神になるという意味での生神信仰が一般に言われている。ところが金光大神は、徳永健次に「生神ということは、ここに神が生まれるということであります。私がおかげの受けはじめであります。あなた方もそのとおりに、おかげが受けられます」と教えているが、ここでいう生神とは、人としての営みのなかに神自体の働きが現われてくる、つまり人間関係のなかに神が生まれるという意味である。ここに金光大神独自の生神信仰が成立している。

 このような金光大神の生神信仰と似て非なるいま一つの現人神(あらとかみ)の信仰が、王政復古・祭政一致の政策の理念である復古神道に見られる。いわゆる惟神ノ道の思想、つまり天照皇大神の神孫である天皇は現身(肉体)を備えた神であり、その現人神に依って日本国は統治されるべし、とする思想である。そして明治維新は、この思想を国家体制のうえに実現した。ところが現人神の信仰は、神が人になつて絶対主義の神権政治を行なうという古代の政治思想が生み出した身分的・階級的なものである。したがつて明治維新以後は、支配者である天皇以外には、現人神の存在を認めないことは勿論のこと、天皇以外の者を生神と称えてもならないのである。金光大神の生神信仰は、明治政府の発足とともに、その国体理念と相容れぬ異質性を孕んでいたので、後にも述べる「天地書付」を公表することも出来なかった。しかし金光大神の教えを信奉する人等は、生神金光大神と唱えて取次ぎの救いに帰依し、天地金乃神のおかげの世界を伝承し普及していつた。

2 金光大神社と神社制度の変革

 1869年(明治2)旧暦6月27日に、函館五りょう郭が開城して戊 辰戦争が終ったが、新政府の国家秩序の建設は、朝令暮改で混沌たるものであつた。そうしたなかで、民衆の生活不安は募り、生きる支えを求めて金光大神の広前に参詣してくる者が激増し、月に二千人を数えたといわれる。金光大神は、早朝より参詣の氏子等にご理解をされるので、朝の総氏子の祈念を妻や倅達がするように命じられた。1870年(明治3)旧暦10月26日には神から

 日天四・月天四・丑寅未申鬼門金乃神社、生神金光大神社、当年で十

 三年に相成り。辛抱いたし、心徳をもつて天地のしんと同根なり。‥

 ‥金光大神社の口で天地乃神が御礼申し。このうえもなし。

とお知らせになつた。

 このお知らせでは、神名と神号の何れも「社」という語が末尾に付けられ、金光大神名にも付けられている。このような名称は、1872年(明治5)の12月末まで用いられている。それは金神社と公称されていた期間に当つている。そこで考えられることは、淺尾藩庁から公認された金神社は、前述のごとく普請が中止されて、本格的な社殿のないままであつた。しかしこの宮の実質は生神金光大神という取次の働きであり、その主体は金光大神その人である。したがつて、「旧来の陋習」である暦神の金神が宮の主体でもなければ奉齋神でもないことを表明し、改めて金光大神が信仰する真実の神である「日天四・月天四・丑寅未申鬼門金乃神」即ち「天地乃神」を主神とし、その救済の働きである「生神金光大神」を相殿神とする神社として、その実在を表示された。しかも金光大神社とは、金光大神自身がこの宮・社の実体であることを意味する。そしてこのような内容と実績を持つことになった宮は、1858年(安政5)旧暦9月に金乃神の一乃弟子に貰い受けて以来、今年で通算13年になる。この間、辛抱して「神も助かり氏子も立ち行く」道を拓き、その信心の徳は「天地のしんと同根」である。金光大神の信心によつて、天地乃神としての真実のすがたが、世の中に現われることになった。まことに有り難い極みであると、天地乃神がお礼を申されるほどの教勢をみるにいたった。

 ところが明くる1871年(明治4)旧暦1月早々、天地乃神は「広前の六角畳を取り片付けよ」とおおせられ、2月3日には、このことに関連して「そもそもの始め、1859年(安政6)旧暦10月に、農業を差し止めて取次の業をすることになつて以来、今年は13年の年廻りになる。今までたびたび不時・難を受けたが、これからも亦どのような不時があつても、世間の評判を苦に止むな」と申された。その年4月になって、金光大神が出社・信者等と組んで強盗にいったなどの悪い評判が立っていることを知らされた。参詣人も少なくなる有様であつた。これらの事態の背景には、すでに明治政府が進めようとしていた神社や神職の制度改革の噂が流れて、神職の間に様々な憶測や中傷がなされていた。広前の六角畳も金神社神主職を意味するものと思われる。

 同年5月14日付けの太政官布告第二百三十五をもつて官社以下定額及び神官職員規則等が公布され、制度改革の趣旨について

 神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ、一人一家ノ私有スベキニ非サル勿論ノ事

 ニ候処、中古以来、大道ノ陵夷ニ随ヒ、神官ノ輩中ニハ、神世相伝由

 緒ノ向モ有之候得共、……村邑小祠ノ社家等ニ至ル迄総テ世襲ト相成

 リ、社入ヲ以テ家禄ト為シ、一己ノ私有ト相心得候様、天下一般ノ積

 習ニテ、……祭政一致ノ御政体ニ相悖リ、其弊害不少候ニ付、御改正

 被為在、伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始、天下大小ノ神官社家ニ至ル迄精撰

 補任可致。

と達せられた。つまり神社は国家の祭祀を行なう場所であるとして、全国の神社を官社・府県社・郷社に分かち、社の格式を与えて整理統合して、従来の神主・神職を廃し、新たに神官を任命することとした。さらに7月4日には郷社定則を公布し、戸籍一大区のなかで最も由緒のある一社を郷社とし、その他を村社と定めた。いわゆる一郷一社・一村一社として、その他の祠宇をそれらの神社に統合することとした。しかしこの政策は、現実の具体的問題で混迷し、幾多の例外を認めざるを得なかった。ともあれ金光大神の金神社は、10月15日に浅尾県庁より「神職ヲ廃セラレ候。但シ神勤ノ儀ハコレマデノ通リタルベシ」と達せられた。

 ところで明治政府の神社制度改革の意図は、神社を国家管理のもとに置くことによって、天皇の現人神信仰≠民衆に徹底し、国家権力の強化と国民思想の統一に役立てる点にあつた。全国津々浦々に存在し、民衆の敬虔なる祖霊信仰の場所となってきた神社こそ、最もそのことに相応しい方法であつた。この前年の1870年(明治3)旧暦1月3日に大教宣布の詔が発布されて、その普及の宣教使運動が神祗官僚の手で行なわれたが、各地で真宗門徒等の抵抗を受けて、翌1871年(明治4)には失敗におわつた。そこで神社を政府の大教宣布の拠点とし、1872年(明治5)旧暦3月神仏諸宗教を包括する教導職制を布いて、その統括機関として神祗省を廃し教部省を設置した。このような政策の推移のなかで、金神社は廃され、金光大神の神主職も自然解任されることになった。この年7月28日に、神は、金光大神に対して「天地乃神の道を教える生神金光大神社(を)立てぬき、と信者氏子に申しつけ。金光大神社(を)頼め、一心に。」と仰せられて、いわゆる惟神ノ道を説くのではなく、金光大神独自の信仰を立てぬくことを示された。したがつて、これからは

 (神官のように)拝むと言うな。願いをお届けしてあげましょう、と

 申すがよろしい。また、願う氏子の心で神を頼みなさい、と云って聞

 かせなさい。わが心に神のおかげあるのだから…

とお諭しになつた。折しもこの前日の7月27日に、笠岡出社の斎藤重右衛門が「神官に紛らわしき所業」で官憲の糾弾に遭うて取次を差し止められ、金光大神の許へ参れなくなつた旨を、8月8日になつて鞆屋喜三郎が伝えて来た。                

3 天地書附と天地金乃神の神観

 1872年(明治5)旧暦11月26日付けで小田県下の新撰の神官が発令され告示された。したがつて、名実ともに神職を解かれた金光大神は、かねて予知されていたことではあるが、今までのように、広前を構えての取次の業を、公認のもとでの行為として行なうことが出来ないことになった。あたかもこの日から6日後に改暦が行なわれ、今までの太陰太陽暦(旧暦)12月3日を太陽暦(新暦)明治6年1月1日とされた。

 1873年(明治6)旧暦正月20日〈新暦2月17日〉、今後の信心生活を心配する家族や信者氏子に対して、神は

 天地乃神とは、日天四・月天四・丑寅未申鬼門金乃神のこと。神のこ

 と家内中忘れるな。人を頼むことすな。良し悪しし、神任せにいたせ

 い。心配すな。(大和終り)世は変りもの、五年の辛抱いたし。

と申しつけられた。ここで改めて「天地乃神とは、日天四・月天四・丑寅未申鬼門金乃神のこと」と神名を挙げられた理由は、明治政府の神祗官再興に伴い、天神地祗を天皇が祭祀する奉齋神とし、神社神道の祭神とすることとした。天神とは天皇の祖先神であり、地祗とは各部族の祖先神である。つまり古典に記された古代国家の民族神であつた。これに対して、天地乃神とは、天地万象の生命を司る根源の神(親神)として自覚された神であるから、この神こそ真実の天地乃神である、と述べられた。従って何に人も、この親神のおかげを受けているのであるから、その存在と働きを忘れてはならぬ、と伝えられた。『お知らせ事覚帳』には、(大和終り)と書いた上に「世は変りもの」と書かれた貼り紙がある。そこで今まで述べた点から、この(大和終り)の一語の意味を推測すると、民衆の日常生活に密着して畏敬されてきた庶民の神々が、神社から退けられて政治性をもつた神に場を譲り、次第に消えてゆくことを哀惜をもつて記し、しかし天地乃神への信仰は、時代・社会の移り変わりにも係わらず、五年の辛抱をすれば世に現われる、と説かれたものと思われる。このような神の言葉のあつた翌日、旧暦正月21日〈新暦2月18日〉の午後に、戸長川手堰が金光萩雄を呼んで、広前を取り片付けるよう指示した。金光大神は、直ちに広前を片付けて、全く終り次第、金光宅吉に戸長へ届けさせ、翌22日からお広前を退いた。その後は、居間にあつて専ら祈念をこらし、神の仰せ通りの越し方行く末を念じ、世と氏子の立ち行くことを願いつづけた。妻の一子大明神は、表の間の縁側で絲車を紡ぎながら、時折り訪ねてくる信者氏子に応対していた。旧暦2月15日〈新暦3月13日〉に神は「金光大神よ、生まれ変つたのである。10年ぶりに風呂へ入れよ。今日に生まれ日を改めよ」と申し付けられた。ついで17日〈新暦3月15日〉には、「天地金乃神、生神金光大神、一心に願え、おかげは和賀心にあり」と書付けするよう仰せ付けられた。ここに金光大神の再生とともに生神金光大神の復活が起こり、天地金乃神と神名が改まるとともにおかげ≠フ新天地が開かれた。旧暦2月22日〈新暦3月20日〉になつて、川手戸長から世話人・森田八右衛門へ指示があつて「金神様のお厨子を祀り、内々ではあるが、神様へのお届けをするように」と申し付けられた。金光大神は、八右衛門を介して「内々ということで、お上様やお役場へ心配\\驍アとになつては相済まぬので、内々ではいたしませぬ」と申し伝えたところ、戸長から「金光は、あまりにも丁寧すぎるので、困ったものだ。お上の取締りも始めは厳しく申し付けられたが、どういうわけか少しは緩やかになつた。拝むのを止めたのも戸長の私なら、拝めと言うのも戸長の私である。参つて来ても拝んで貰えねば、みな力を落として帰ると聞いた。人の助かることであつて、悪いことをするのではないから…また万一お支配筋から指示があつたら何でも知らせるから心配するではない」と説得され、「これまで拝んできた実績があるが、あらためて新規に願い出ると亦困難であるから」とも付言され、金光大神は得心して、翌日から神前を調えて氏子の願い事を取次ぐことになつた。この時の金光大神の態度を、後に「お上に出ても、実意を立てぬき候」と述べられているが、お上も天地金乃神の氏子であるから、その役目のうえに差し障ることにならぬよう心を尽くし、天地金乃神の神徳についても内々の計らいに妥協して事を進めるわけにはいかぬ。お上にも神様にも、実意を尽くすことが出来たとの意味である。旧暦3月15日〈新暦4月11日〉、神から金光大神に

         生神金光大神

      天地金乃神  一心に願

          おかげは和賀心にあり

          今月今日でたのめい

との書付けをして、書き貯めて置くように指示された。この書付けは、「天地書附」或いは「天地金乃神書付」と呼ばれている。

ここに書き記された内容は、金光大神の信心生活の要諦であると共に、その形式から観て、金光大神の宗教的世界の象徴でもある。後に信者に下げ渡すにあたり「よく見える所に貼って、信心をせよ」と話したと伝えられている。

 次いで旧暦3月24日〈新暦4月20日〉に「今までは広前へ向き、今日より、金光大神は表口へ向き」と仰せられた。つまり、この日から取次を行なう座の形態を結界取次≠ニ称する現在の形に定められた。そしてこの形態は、「氏子あつての神・神あつての氏子、あいよかけよで立ち行く」という生神金光大神取次の具象を意味している。

 こえて旧暦8月19日〈新暦10月10日〉、天地金乃神は、従来から出社として神号を許された者や一乃弟子を授けられた者を、これからは、皆、金光大神の一乃弟子とすることに改められた。その理由として次のようにお知らせになつた。

(この)天地金乃神と申す神のことは(今まで)天地の間に氏子(人 間)は居りながら、(この神の)おかげを知らず。(凡そ)神仏の宮 寺社も氏子の家宅も、みな金神の地所(の上に建てて占有し、その恩 恵を受けているにも拘らず)そのわけ(を)知らず。方角日柄(の吉 凶)ばかり見て(金神への)無礼いたし。(その結果)前々(から) の巡り合わせで難を受け(て来た)。(されば)氏子よ、信心いたし て(この神の)おかげを受けよ。(この為に)般、天地乃神より生神 金光大神(を)差し向け(て)、願う氏子におかげを授け、理解申し て聞かせ(る)。末々まで繁盛(するように)いたすこと(が、この 神の願いである)。(何となれば)氏子ありての神・神ありての氏子 (であるから。神と氏子との)上下が立つようにいたす。(天地金乃 神とは、こういう神である)  

と申され、天地乃神から差し向けられた生神金光大神として、天地金乃神のおかげの世界を実現する金光大神の存在と使命を、出社・信者氏子に示された。つまり金光大神の宗教的世界の実現を目指す立教宣言とも言える。さらに旧暦12月10日の金光大神縁日に、「(金光大神は)天地金乃神(のおかげの世界を実現するために、人として)お差し向け(になったが、今年生まれ変わり)酉の年生まれ、1歳(である)」と申され、続いて「(今年酉正月20日に、月30日と決まり、閏月、大小なし、と知らせたが)甲戌年(来年)より、月30日に決まり、新旧日をくり、右(甲戌)の正月朔日にて改めよ、小なし、三通りに付け分けてみよ」とお知らせになつた。旧暦は勿論、新暦になつても、月の大小があるので、神は1ヵ月を30日と一定にした1年12ヵ月の末暦(金光暦)を作り、来る旧暦正月朔日を金光暦1月1日として、新暦・旧暦・金光暦の三通りの暦を日々つけることを申し付けられた。これは生神金光大神・天地金乃神の世界誕生の紀元1年である。それは金光教にとつても歴史的な1ペ−ジである。

4 金光大神とその家族

 金光大神の家庭は、妻“とせ”と三男金吉(淺吉を改め)・四男萩雄(石之丕を改め)・五男宅吉(寅吉を改め)・次女“くら”・三女“この”の子供五人であるが、明治維新の様々な影響を蒙らざるを得なかつた。それは、前述した金神社の繁栄から廃止への移り変わりのなかで、一家が生活不安に襲われたことは言うまでもない。本来なれば跡取り息子である金吉は、1865年(慶応1)21歳で浅尾藩庁に仕え、1868年(明治1)には士分(徒士役)となり、金光正神の神号を許されたが、1871年(明治4)旧暦7月の廃藩により俸禄を失うことになった。それ以来、妻子を抱えて生活に困窮して、何度も金光大神に借金の返済のための無心をした。金光大神は、その都度、神の仰せどおりに御理解をして「今迄の通りでは親も立たず夫婦も続かず。行き詰まりがくる。こころ改めて男一人女一人夫婦仲よう、親大切、内輪むつまじゅういたし。辛抱いたすれば神は見捨てはせぬ」と諭し、或いは「辛抱いたし、天地金乃神の書付けを書き貯めおき、好みの氏子にやり、お神酒を頂かせ、人を助けよ。…これから実意を立てぬき」とも戒めていた。金光大神は、明治の変革の波を真正面に受けて困窮する一人の氏子として、金吉の生活が立ち行くことを、終生、祈りつづけていた。 

 1868年(明治1)旧暦11月朔日には、金吉と同様に、四男萩雄は金光山神と、五男宅吉は金光四神と、次女くらは金光正才神と、三女このは金光末為神と、それぞれに神号を許された。これらの子女が、金光大神の手元にあつて広前の諸用に奉仕し、將来かけて神の働きを現わして行くことを、願つてのことであつた。明くる1869年(明治2)旧暦3月23日から、朝晩の総氏子の祈念を子女に仰せ付けられ、“くら”には御神飯を炊くことを申し付けられた。また、1870年(明治3)旧暦7月に妻・一子大神に対して、今年かぎりで衣類の繕い仕事をやめて、広前の裏方の仕事をするよう申し渡された。1871年(明治4)旧暦8月には、「手習い、本読み、そろばん等は、修得した者が年下の者へ順次に教えてやれよ」といわれた。、1873年(明治5)旧暦12月17日〈新暦明治6年1月15日〉に神は「金光大神・一子大神の親夫婦、子供は金光正神・同山神・同四神・正才神・末為神とまで五人、それぞれ皆、神に用いてやつた」と仰せられ、金光大神は「このうえは、何がまた変らんともなし。氏子の心で善き事になり」と書付けして、家内中へ申し渡した。その約1ヵ月後に、戸長からの通告で広前を取り片付け荒れの亡所≠ノなり、家族は「神職(の暮らしでは)立つて行けぬことになつた」と心配した。ところが、再び金光大神の広前として、生神金光大神取次の業が行なえることになり、家族は愁眉をひらいた。明治6年旧暦11月22日〈新暦1874年1月10日〉に天地金乃神は「子供五人に五ヵ所の宮を建てて、それぞれの役をさせる。金光大神夫婦と子供夫婦で、12の干支を組み合わせて、神の守役となり、氏子を願うこと」と神の想いを伝えられ、子女の縁談についての態度を示された。その後、紆余曲折はあつたが、1875年(明治7)旧暦の7月に“くら”と藤井恒治郎の縁談が調い結婚し、金光大神の願いを受けて、参詣人の為の宿を開いた。同年11月に萩雄と古川ゆきとの間に、同時に“この”と古川才吉との間に縁談がまとまり、旧暦11月25日〈新暦明治8年(1876)1月2日〉に結婚し、後に夫と伴に広島県福山町で布教に従つた。金光金吉は、金光教会の設立後帰郷して1889年(明治22)1月12日に教師に補任され、金光教独立とともに金光教副管長となつた。金光萩雄は、1885年(明治18)6月23日付けで神道金光教会教長になり、1888年(明治21)3圭\獅P日付けで神道金光教会長に就任し、1900年(明治33)6月18日付けで金光教管長並びに大教会長に就任した。金光宅吉は、1878年(明治11)旧暦9月9日〈新暦10月4日〉に安部三平の長女・喜代と結婚した。金光大神の卒後、その取次の業を継承し、1888年(明治21)3月1日付けで神道金光教会教監に就任した。 


      

【参照事項】⇒ 国家神道創建に関する布告類

  御道案内(初代白神新一郎著)  大教宣布ノ詔

   新暦・旧暦・金光暦対照表

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