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金光教の教祖・金光大神は、1814年(文化11)旧暦8月16日に備中国浅口郡占見村字香取(現岡山県浅口郡金光町大字占見)の農業・香取十平の二男として生まれ、幼名を源七という。1825年(文政8)旧暦11月26日に備中国浅口郡大谷村(現岡山県浅口郡金光町大字大谷)の農業・川手粂治郎の養嗣子に迎えられ、文治郎と改名した。その翌年から2年間、庄屋・小野光右衛門について読み書きの手習いを修め、以後、光右衛門の恩徳を敬慕して止まなかつた。1830年(文政13・天保1)旧暦7月15日より約1ヵ月間、光右衛門の子・小野四右衛門とともに伊勢参りをした。文治郎17才の時であつた。明くる1831年(天保2)に、浅尾藩主に蒔田荘次郎広運が就任したので、「次郎名」が禁止され、文治郎も川手国太郎と改めた。
1836年(天保7)旧暦7月13日に養父の実子・川手鶴太郎が6才で死去し、続いて養父多郎左衛門(粂治郎を改め)も8月6日に死去した。享年66才であつた。その臨終に際しての養父の遺言により、川手の姓を赤沢に改めることになつた。赤沢国太郎が家督を嗣いだのは23才であつたが、養母いわの奨めで同年12月13日に同村農業・古川八百蔵の長女古川とせ(18才)と結婚した。
1839年(天保10)6月15日に赤沢国太郎と“とせ”との間に長男亀太郎が生まれたが、1842年(天保13)旧暦8月16日に数えの4才で病死した。この時国太郎も痢病に罹り、父子ともに病床についたが国太郎は全快した。その年10月10日に二男槙右衛門が生まれた。明くる1843年(天保14)旧暦12月18日から門納屋の新築に着工し、翌年の1月26日に完成したが、この時、方位家に日柄を選んで貰つて取り進めた。これは金神の方位を怖れたからである。 この1844年(天保15・弘化1)に赤沢国太郎を赤沢文治と改名した。続いて翌1845年(弘化2)旧暦2月8日に三男延治郎が生まれた。これが後に淺吉と改め、更に明治時代になつて金光金吉(金光正神)と改名した。文治は、1846年(弘化3)は文治の33才の厄年に当るので、厄除け祈願のために、2月22日から3月26日まで四国八十八所の霊場を丁寧に巡拝した。
1847年(弘化4)旧暦9月17日に長女ちせが生まれたが、この子も明くる年の6月13日に1才足らずで死去してしまつた。1849年(嘉永2)旧暦4月25日には四男茂平が生まれた。茂平は、後に石之亟と改め、さらに萩雄と改名し、文治(金光教祖)の卒後、家督を継いで金光大陣(金光山神)を襲名した。この年の暮れも迫った12月30日に、小野四右衛門の方位の鑑定のうえ、須恵村の青木竹治郎所有の家屋を買い取ることにした。
年が明けて1850年(嘉永3)旧暦1月4日、文治は大庄屋・小野光右衛門を年賀のために井手役所(現岡山県総社市)に訪ね、四右衛門の口添えもあつて、家の移転と普請のことについて改めて方位の鑑定を頼んだ。ところが光右衛門は「今年は戌年で、文治も戌年生まれであるから、年廻りが凶い。普請はならぬ」との答えであつた。意外な答えに困惑して、文治は「何とか、お繰合わせが附かぬものか」と押して願うたので、光右衛門も再度日柄を見直し、1月28日から8月28日までの作業手順の日時を選んでくれた。文治は、その指図通りに実直に移転から普請完成まで進めたが、その途中の5月13日になつて二男槙右衛門が疱瘡の内攻で急死した。つづいて三男延治郎と四男茂平もが疱瘡に罹り、更に7月18日に飼い牛が斃死するなど、不幸な出来事がおこつた。文治は、金神の祟り障りを怖れるあまり、8月3日いよいよ旧宅を解体し新宅を建てる着工に先だつて、金神を拝して、
方角は鑑てもらい、日柄は何月何日と選んで仕りますが、小家を大家
にいたし、三方に広げますので、どの方角へどのような御無礼を仕り
ますやら、凡夫で相分かりませぬ。普請成就のうえは、早々御神棚を
仕りお祓・心経五十巻づつ御上げます。
と祈誓した。普請の棟梁は川崎元右衛門であつた。方位で定められた通りの8月28日に完成したので、文治は、祈誓した通り神棚を調え赤飯を供えて金神を祀り、六根清浄祓と般若心経を五十巻づつ挙げて報謝した。ここに、金神への怖れの極限から金神への祈願へ転換する文治の心情がみられる。
相次ぐ三人の子女の幼い不幸に、心を悼めていた文治は、1851年(嘉永4)旧暦5月29日には実母・香取しもが69才で死去したのに続いて、去年と同様7月18日に又も飼い牛が斃れた。そして赤沢(川手)家にまつわる金神の祟り障りに不安を募らせながらも、農業に励み賦役を務める文治の誠実で謙虚な人柄は、庄屋をはじめ村人からも信頼を受け、生計も一段々々と豊かになり、村内でも十指に入る自作農になる程であつた。この年の12月15日に次女くらが生まれた。1853年(嘉永6)旧暦8月18日に実父の香取十平が77才で世を去った。翌1854年(安政1)旧暦12月27日に五男宇之亟が生まれたが、「42才の2っ子は親にあたる」との俗説に依って、出生の七夜に当る1855年(安政2)旧暦1月2日の生まれとして守り札をおさめた。このことが、後に神の咎めをうけることになり、元の年月日に戻し名前も虎吉と改めた。なお虎吉は、明治になつて金光宅吉(金光四神)と改名して、教祖の取次ぎの業を継承した。
1855年(安政2)は、文治の42才の大厄に当るので、その厄晴れ祈願のために、旧暦1月1日には氏神(賀茂神社)に参り、1月4日には鞆の祇園宮へ詣でて祈祷の木札を受け、1月14から15日の二日がかりで吉備津宮と西大寺観音院に参詣した。このように年頭から改まつて、厄年の無事息災を祈つて家業に励んだが、4月25日からのどけ≠フ病気に罹り、26日には医者より「九死一生」と告げられ、湯水も通らぬ状態に陥つた。29日の夜、親類身内等が集まって神仏への祈念をはじめたところ、先達の古川治郎に神憑りがあつて、「先の普請・家移りについて豹尾・金神に無礼があつた」と神のお告げがあつた。そこで驚いて、岳父の古川八百蔵が「この家の亭主には無礼はない。方角を鑑て建てたから…」と反論したので、神と八百蔵との間で言い争いになり、神は「方角を鑑たからと言うても、(それは人間がたてた法の理屈で、神は助けてやりたいが、神の言うことを聴かねば)この家が滅亡になつても、亭主が死んでもよいのか」と宣告した。このような場合に当時の俗信仰では、神との論争に敗けると生命が亡くなるというので、八百蔵も烈しく反論したのであつた。
この様子を病床で聞いていた文治は、神さまの言われる事は、かねてより気がかりであつた通りの事である、と気付き「只今いろいろ申した氏子(古川八百蔵のこと)は、事の経緯を知らずに申したのでお許しください。普請・家移りに付いては、私は戌年の生まれで、年廻りが凶いと申されたのを、押して日柄を選んでもろうて実施致しました。まして小家を広げて大家にしたので、どの方角に無礼をしているやら、凡夫の身でわかりませぬ。もとより方角を鑑たから、それで事が済んでいるとは、少しも思うておりませぬ。ご無礼のところはお詫び申しあげます」と、誠意を尽くして謝罪した。文治の実意な態度に機嫌を穏やかにした神は、「戌の年よ、その方の心根は、神の機感に叶うている…氏神をはじめ神々は其方を助けようとして、皆ここへ来ているぞ。戌年の男よ、今年は四十二才の厄歳で熱病になる番であつたが、熱病では助からぬのでのどけ≠ノ、神が振り替えたのである。…信心の徳に依って、神が助けてやる。信心しなかったら、厄負けの年であつた。5月1日にそのしるし(験)を見せてやるぞ。金神・神々へ御礼として、今夜は心経百巻唱えよ」と申され、さらに妻の“とせ”にも、神前へ供え物・灯明を上げて7日間のお礼をするよう指図された。また「日天四(太陽神)が戌の年(文治)の頭の上を毎日舞いながら通つてやる。一代健康で米の飯を食べさせてやる。」と古川治郎の口を通して申されながら、御幤にくっついた豆と米とを粥にして、文治に食べさせるよう妻に命じた。文治は5月4日には起きてちまき≠作って祝い、次第に全快した。 こののどけ≠ヘ扁桃腺炎の症状ではあるが、文治の場合は、厄歳の不安に金神方位の怖れが重なり、身内親類らも不気味なもののけ≠感じたのであったが、文治の信心に依って、神が感動され、祟り障りの金神という迷妄が打ち払われて、生命を助ける神の本性が現われた。『金光大神御覚書』には、この事を
神ほとけ、天地金乃神、歌人なら歌なりとも詠むに、神ほとけには口
もなし。うれしいやら悲しいやら。どうしてこういうことが出来たじ
ゃろうかと思い、氏子が助かり神が助かることになり、思うて神仏か
なしゅうなりたの。
と記されている。
病後の文治は、身を養生しながら、明くる1856年(安政3)を迎えたが、心改まつて毎月の朔日・15日・28日の三ヵ日を神参り日と決めて、巡拝することとした。1857年(安政4)旧暦10月13日に、淺口郡亀山村(現玉島市)で妻・千代の実家に同居している実弟・香取繁右衛門が、神憑りになり半狂乱で「兄の文治を呼んで来てくれ」と言うている、と知らせてきた。文治が訪ねると、「よう来てくれた。金神が頼みたい事があつて呼びにやった。聞いてくれるか」と申され、「私の力で出来る事なれば、聞きましょう」と応えると、「(金神を祀るために)屋敷を宅替えするについて、銭も無ければ借りる先もない。(困って)金神が普請の費用を頼む」と申された。文治は「委細承知いたしました」と申し上げると、「これで神も安心した。鎮まってやる」と言われて、繁右衛門は寝入つてしまつた。翌朝、文治が昨夜の出来事を聞くと、繁右衛門は一切憶えがないと応え、常人になつていた。18日には、文治が様子を見に訪ねると、普請に執りかかつていたので手助けをし、成就するまで度々手伝い、11月9日に普請が完成して金神を奉齋し、繁右衛門は農業をやめて金神の守り役を勤めることとなつた。文治は、祝い酒や生計の小遣いまでも贈つて、金神への礼をつくした。要するに、この事件は、形のうえでは実弟・香取繁右衛門の身上に関する事であるが、文治にあつては、九死一生の大患を助けられた神への敬心の表明としての宮普請である。
明くる1858年(安政5)正月朔日に文治は、亀山村の金神ノ宮へ年始にいつた。その時、弟・繁右衛門の口を通して「戌の年(文治のこと)は金神を(人を助ける)神として信頼してくれた。その信心に対する礼として、拍手を打って拝むことを、金神が許してやるから、たとえ他領の土地であつても、神の社前を通るときには、大社小社の区別をとわず拍手を打って拝礼して通れ。(何とならば)‘金神下葉の氏子’として日本中の神々へ届けてあるから、いずれの神も受け返答するようにしてやる」と申され、つづいて「戌の年、今までは不幸続きで苦難を受けたが、これからは一心になつて神に頼めよ。そうすれば、医師や祈祷者が要らぬようにしてやる。このことは、(其方だけのことで)他の者には言わぬ」と申され、また「妻の出産は5日か17日かである」と教えられた。このお知らせは、文治の信心にとって一つの転換を示す事柄であつた。「(神に)拍手を打って拝む」ということは、神を呼び出すことで、一定の格式をもつ者以外は妄りに打つてはならない、と信ぜられていた。ここでは、文治が金神の守護を受けている氏子(信者)となつた意である。しかも自分が住む村落社会のみならず、他村の領地の神の社前であつても差し障りがないばかりか、神意を受け答え出来るほどの神との親密な関係になっていつた。『金光大神御覚書』には、この時から「金乃神」と神名が称えられている。正月17日には、日暮れまで野良仕事をしていた妻・とせが、帰宅するなり三女・このを出産したので、早速、亀山村の広前へお礼参りをした。そしてこれを機に、新たに神棚を調え金乃神を奉齋して、日夜に拍手を打って拝礼を行ない、無事息災のおかげを受けた。3月15日より合掌する手が上下に動いて、何事についても、その動きに依って神意を伺うこととなつた。更に7月13日の夜には、はじめて文治の口から神意が語られ、家族の者らに伝えられた。この時に川手家の先祖のこと、墓所のこと、精霊のお礼の言葉などが話された。ここにおいて、文治の言葉を介して、金乃神の神意が他の氏子(第三者)にも伝わる道がつくことになり、神と文治との共に生きる生活が進められた。
9月23日になつて、神より、日本人の総氏神とされる天照皇大神から、文を金神の一乃弟子に貰い受けた旨を告知された。それは天照皇大神の氏子から金神(金乃神)に帰属する信徒になることであつた。そして文治を一乃弟子にする目的について、「一乃弟子に貰うというても、よそへ連れて行くのではない。この方で金神が教えるのである。何にも心配なし」と、文治とその家族に申し渡された。ここで神が「この方で金神が教える」と申されたのは、今までどおり農業を続けながら、金神の指図に従って、金乃神の真実とおかげを現わし、それを伝えていく使者(後の取次者)となる修行をすることであつた。つまり在家の修行者である。
その一乃弟子の修行にあたつて、神は「秋の間、朝起きたら衣装を着替え、前へ出て祈念をし、済み次第に広前に妻が膳を据え、神と共に食事いたし、それが済むとすぐに野良着に着替えて、裸足で農業に出よ」と、修行の形式を示された。ところが妻の“とせ”が「裸足で農業をするのは世間体がわるい。信心ばかりして草鞋一つも作らんのかと、他人が言うから」といつて異議を唱えた。文治は「そんなら草鞋を持って後から付いて来い」といい、こころの中で「妻は世間の体裁ばかりを気にして、神のおかげを受けながら真実のおかげを知らぬ。私は世間体に囚われず、何事によらず神の仰せどうりにして背かぬ」と思うた。つまり世間体という既成の観念や慣習の世界を越えて、神の意図する世界に絶対の信頼を置いた生き方である。そして神が意図する世界とは、どのような世界であるのかは、その後の文治の信心生活によつて解き開かれて行くのである。
11月6日に神前の部屋(上の間)と居間との中境二間分の襖の広前側に菊桐文様の襖紙を張り替え、11月29日に上の間の正面に棚を作り、厨子・三方・徳利を調え、12月6日(新暦1859)には文治専用の据え炬燵を作って、12月24日に文治大明神の神号を許された。神号とは、神の威力・威徳を讃える称号で、神名は、その神の本体を意味する名称で、一般には忌み名として唱えない。文治大明神とは、文治という人に現われた金乃神の威力・威徳を示すと共に、文治その人をも称する名称である。この日、金乃神は神号を許すと同時に、川手家と赤沢家の先祖について「今から四百三十一乃至二年前に、この土地一帯が海べであつたが、そこに柴の小屋を建てて移り住んだ。その後、この赤沢家の屋敷の前にあつた川手家は、だんだんと出世して多郎左右衛門屋敷と言われたが、滅亡してしまつたので、その位牌を赤沢家で引き受けた。ところが赤沢家も繁盛せず、子孫が断絶してしまつた。この二屋敷とも滅亡したのは、昔、津波のとき四つ足(獣類)が埋められたが、それを知らずに屋敷を構えたので、金神の忌避にふれ無礼になつたからである」とお知らせになつた。
その後、大橋家から八兵衛が川手家をつぎ、粂次郎の代に至るのであるが、これも養父親子が月並びに死んで川手家がまたも絶えた。そこで文治が、養父の遺言により、今度は赤沢家の名跡を継いだのであるが、長男亀太郎・長女ちせ・二男槙右衛門がそれぞれ年忌の年に病死、さらに飼い牛が2年続けて斃死した。文治は、その度に医師の治療・服薬、神仏への祈念祈祷を疎かにしなかつたが、「神仏願うても(わが信心が神意に)かなわず。いたしかたなし、残念至極」と、何時もこのように思い暮らしてきた。この文治の思いに対して、金乃神は、「十七年の間に七墓を建てたが、それは金神へ無礼になつていることを、年忌毎に知らせてやったのである。しかし文治は実意丁寧神信心であるから、(赤沢家が立ち行き、子孫が続くように)夫婦の命は取らぬなかつた」と申された。後になって書かれた『金光大神御覚書』に、文治は「この度、天地の神様にお助けにあずかり。……恐れ入ってご信心つかまっり候。家内一同安心、御礼申し上げた」と記述している。
この「お知らせ」の中での金神への無礼は、文治37才の時の宅替え・家移りに関わる金神の方角への無礼とは異なり、川手・赤沢兩家の先祖以来の屋敷地の占有に関する金神への無礼が、問題になつている。つまり、ここにおける金神は、日柄・方角を司る暦神ではなく、土地を支配する神である。所謂‘祟り地’とか‘くせ地’という禁忌の土地信仰に、怨靈信仰が重なり、人生を呪縛する金神信仰がその背後にある。そして今や文治一家にとつては、実意丁寧神信心によつて、その呪縛から解き放たれ、孟蘭盆会の夜に先祖精霊が「お前が来てくれたので、この家も立ち行くようになつた」とお礼を申したように、金乃神のおかげの世界が開かれた。要するに、ここに至り文治の信心は、旧来の土俗的金神信仰を越えて、一家滅亡の運命を救うてくださる天地乃神でもある金乃神の信仰へと展開することとなつた。文治大明神という固有名詞の神号は、正にこのことを現わしている。
1859年(安政6)旧暦1月1日を迎えた文治大明神は、金乃神から「淺吉に所帯を譲り、村役場へ隠居の願い出をする」ようにと命ぜられた。そこで村役場と相談のうえ、三月朔日の宗門改めの日に隠居を許された。文治大明神の信心生活に現われる金乃神のおかげを見聞した人々が、次第に願うて参るようになつたので、村民としての義務や交際などから身を退いて、15才になる淺吉を戸主に立てることとした。それはまた、一乃弟子に貰い受けたときの神の思惑でもあつた。そして神は農耕についても、播種・田植え・肥料・麦刈など、農作業に時間を掛けず効率の能い手順や手法を、一つ一つお指図になった。 5月の下旬になつて、二女・くらが疱瘡に罹つたが、神の仰せどおりに農耕をつづけた。27日には危篤状態に陥ったので、妻や養母は狼狽し愁嘆したが、文治大明神は神のお計らいを信じて、仰せどおりに快癒のおかげを受けることができた。この時の心情について、後年に書かれた『金光大神御覚書』には、「過去には教えてくださる神様もなし。こんどは結構にお知らせくだされ候。ありがたし。これで死んでもおかげ。今までは大入用入れて死なせ。隣家・一家・親類・大谷中のご厄介に相成り。このたびは入用さしなさらんのう」と、1850年(嘉永3)旧暦5月の槙右衛門の病死の時を回想して、この度も同じ状況の中にあつて「信心いたしても……またあそこには子が死んだと、人に言われるが残念と思い…神様のお知らせどおりにいたし、病中入費いれず、ありがたし」と記されている。そこには、親子・夫婦という肉親の情愛を抱きながらも、難渋し惑乱している氏子を助けたいと、神を信じて祈り続ける、文治大明神の毅然とした取次ぎの姿が窺える。この“くら”の疱瘡全快を機に、6月10日に金子大明神を許された。
次いで6月16日から五男宇之亟が病気に罹り、21日には湯水も通らぬ状態となつた。金子大明神が神に願うと、「この子は、生まれ年をまつり替えて居ろうが。守り札を流して、元の生まれ年に戻すか。戻さねば助からぬ」とのお知らせに、かつて42の2才児≠フ俗説に囚われて、生まれ年を替えてきた罪過をさとつた。金子大明神は恐れ入って「守り札を流し、元の年に戻します。お助けください」と改めて願うたので、神は「元の寅の年生まれ男六才、名も虎吉(とらよし)と申せ。午前10時までにおかげ≠やる」と申され。虎吉は昼飯前に水と水団子を食べて快方に向つた。明くる22日に、金子大明神が金乃神に御礼を申し上げると、「これのつづきに疱瘡をさせよう」と申され、虎吉に続いて三女“この”も軽く疱瘡を仕上げた。3人の子供が、それぞれに神のお指図どおりにして、全快のおかげを受けることができたのである。種痘が一般に普及していない当時は、器量定め、運定め≠ニいわれ、一生避けて通れない病気であつたから、世俗の慣習の「不浄・汚れ・毒断ちもすることなく、結構に疱瘡仕上げ、ありがたし」と感謝の念にくれた。このような神のおかげは、金子大明神の広前の評判を高め、願いに来る人々が多くなり、農耕に手間を掛けることが許されない状況となつていつた。それにも拘らず収穫の結果は人並み以上であつた。しかし作業の手順の遅れと人手不足に、神は、15才の淺吉に牛使いを命じ、やがて金子大明神に代わって農業の担い手になることを望まれた。その遅れを心にかけていた裏作の麦播きも、10月21日になつて無事に終つた。
古川家系図 金神信仰