(りつきょうしんでん)
教祖金光大神は、1859年(安政6)10月21日〈新暦11月15日〉に天地金乃神から「農業を廃めて、難儀な人を取次ぎ助けてくれ」とのお頼みを受けられた。そのご神意に承服して、この時から専ら神前に在って取次の業を、終生にわたってすすめられた。その神の頼みを、1941年(昭和16)4月1日施行の金光教教規第三条において「立教神伝」と称することになつた。
この神伝は、すでに金光宅吉(金光四神)に依る『金光大神御覚書』に記録されていたが、公表されたのは1912年(大正1)9月16日刊行の『金光教祖』(碧瑠璃園著)に「立教神宣」としてである。この神伝は『金光大神御覚書』に、次のように記されている。
金子大明神、この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知して
くれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり、
願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来、農業する間もなし、来た
人も待ち、両ほぅのさしつかえに相成り。なんと家業をやめてくれを
か。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神
仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天
地金乃神を助けてくれ。
家内も後家になつたと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談も
なり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。
此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難
儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行
き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり
子にかかり、あいよかけよで立ち行き。【金光教教典p32〜33】