ーファミリー版ーよこはまの歴史4

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P4

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(弥生時代)

…(V)弥生時代…


 横浜に米づくりが伝わってきたのは紀元前後ですが、人々はいろいろな農具を使って水田を耕して、横浜
に住みつくようになりました。

 はるか彼方の地中海世界はローマにより統一され、中国では漢が栄えインドではマウリア朝やクシャーナ
朝の手により仏教が各地に広められました。


世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

 <アレクサンダーの東方遠征> 
 ペロポネソス戦争の結果、アテネやスパルタの
の勢力が衰えていく中でギリシャ北方のマケド
ニアがフィリッポス王の下で勢力を強め、ギリ
シャの諸ポリスを支配下に入れていきました。
 フィリップスは更にペルシァ征服を目指しま
したが暗殺され、BC336年アレクサンダーが
父のあとをつぎました。
 マケドニア王となったアレクサンダーは東方
のペルシァ帝国への遠征をはじめ、BC333年
イッソスの戦いでペルシァ軍を破りシリア、エ
ジプトを占領し、ついでBC331年アルベラ、ガ
オガメラ間の戦いにも勝ちバビロニアからペ
ルセポリスまでを占領してアケメネス朝ペル
シァを滅ぼしました。
 その後もアレクサンダー大王は進軍を続けて
インドに侵入しましたが、疲れた兵士たちもそ
れ以上の進軍を拒んで大王もスサに戻り33歳
の若さで死ぬと、この大帝国もエジプト、シリ
ア、マケドニアの三国に分裂します。(関連地図)  
−ヘレニズム文化−
 アレクサンダーの東方遠征によってギリシァ
の文化が東方に伝わり、それがオリエントの文
化と融合してヘレニズム文化という新しい文
化が生まれました。彫刻の「ミロのヴィーナス
像」や学問の分野ではアルキメデスの原理やユ
ークリドの幾何学などが有名です。
 ヘレニズム文化は西へ広がってローマ文化の
もととなり、一方中央アジアやインド、さらに
中国や日本にも影響を与えました。

 <ローマの発展>
 イタリア半島ではBC2000年頃には東方から
移住してきた人々が青銅器を使って生活して
いました。
 紀元前12世紀頃イタリア人がイタリア半島に
南下して定着、その中の一派のラテン人が半島
中部にローマ王国をつくりました。
 ローマ王国ではBC509年頃貴族達が王を追
放して王政から共和政になり次第に発展しま
す。
−ローマの共和政−
 ローマ初期の共和政では貴族が政権を独占し
て貴族と平民は身分的に厳しく差別されていま
した。
 政治の実権を握っていたのは元老院で貴族か
ら選ばれた二人の執政官(コンスル)を監督指導
していましたが、のちに平民の権利を守る護民
官の制度ができ、護民官を議長とする平民のみ
の会議として平民会が設置されるようになり、
次第に平民の力は強まりました。
 BC367年には護民官のリキニウスとセクステ
ィウスの提案により新しい法が成立して二人の
執政官のうち一人は平民から選ぶことなどが決
められBC287年には平民会の決議は元老院を
経なくても、ただちに国法となることが定めら
れ、貴族と平民の法的な平等が実現しました。
−イタリア半島の統一−
 共和政ローマの指導者たちは常に支配の拡大
を目指して戦争を続け、近隣都市の征服と同盟
を繰り返し領土を広げ、植民市を建設し、分割統
治を行い勢力を拡大しました。
 BC272年には強力な軍隊をもってイタリア半
島南端のギリシァ植民都市を征服してイタリア
半島を統一しました。
−ポエニ戦争−
 勢力を広げるローマは、海上貿易で栄え地中海
を支配していたカルタゴと争うようになりまし
た。
 BC264年カルタゴとの間で第一次ポエニ戦争
が始まりましたが、ローマはシチリア島を占領
して属州(海外の植民地)としました。
 再起を目指すカルタゴはBC218年ローマを攻
め、カルタゴの勇将ハンニバルはアルプスを越
えてイタリア半島に侵入して10年以上もローマ
を苦しめましたが、ローマ軍がカルタゴ本国を
攻めたため帰国し、戦いの末に敗れカルタゴは
再び降伏しました(第二次ポエニ戦争)。
 その後カルタゴは勢力を失い第三次ポエニ戦
争の結果ローマの属州になりローマはマケドニ
アを攻めてこれも属州にしました。
−第一回三頭政治−
 発展するローマ社会では一方で市民の間に貧
富の差が拡がり社会不安が増大し、政治の面で
は豊かな貴族で保守的な閥族派と平民社会を基
盤とする平民派が対立して流血の争いが続きま
した。
 こうした中でBC60年閥族派のポンペイウス、
平民派のカエサル、騎士階級のクラッススの三
人が密約を結んで政治を彼らの手で行ないまし
た。
 クラッススの死後ポンペイウスとの争いに勝
ったカエサルはBC44年終身の独裁官になり最
高権力者となりましたが、独裁を恐れるブルー
トォスらによって暗殺されました。
−第ニ回三頭政治−
 カエサルの死後、カエサルの養子のオクタビア
ヌスがあとをつぎ、カエサルの腹心だったアン
トニウス、レピドォスとともに二回目の三頭政
治をはじめましたが、レピドォスは間もなく失
脚しアクティウムの海戦でクレオパトラ七世(コ
ラム・クレオパトラとローマの将軍)と結んだアントニ
ウスを破ったオクタビアヌスはエジプトを征服
、ローマによる地中海世界の統一が完成しま
した。(ローマ帝国の最大領域図−ローマ帝国−
 オクタビアヌスはアウグスト(尊厳者)の称号
を受け共和政を保ちながらも独裁的な権力を握
ってローマを支配し事実上の帝政が始まりまし
た。
 オクタビアヌスの元首の地位は養子のティベ
リウスに受けつがれ、ネロのような暴君も現れ
ましたが五賢帝の時代末期に至るまでローマの
繁栄は絶頂期に達しました。
 五賢帝の最後のマルクス=アウレリウス帝の
頃のゲルマン人の侵入、パルティア(イラン北
東部の遊牧民)との戦いなどでその死後には政
治は軍事優先になり、やがて軍人出身の皇帝が
現れ235年から約50年間で二十数名の軍人皇帝
が続きましたが、その殆どが軍隊がかってにま
つりあげた皇帝で政治は混乱、ローマ帝国は危
機を迎えました。
−専制ローマ帝国−
 危機に陥ったローマ帝国に安定をもたらした
のはディオクレティアヌス皇帝です。
 皇帝は広大な帝国を効率よく統治するために
2人の正帝、2人の副帝を置く4分統治制を行い、
軍隊を増強し地方自治への介入を強め、皇帝の
権力は強まりました。
 ディオクレティアヌス帝は東の正帝としてエ
ジプト、小アジア、などの東方を支配し西の正帝
マクミミアヌスは西方の属州を支配しその下に
はそれぞれ副帝がおかれ一部の属州の統治が行
なわれました。
 東西両正帝が退位したあと西の正帝についた
コンスタンティヌス帝は324年東の正帝を倒し
てローマ帝国を統一し、黒海とエーゲ海を結ぶ
ビザンティオンを新しい都としてコンスタンテ
ィノポリス(コンスタンチノープル、現在のイス
タンプール)としました。
 
 <ササン朝ペルシァの成立>
 アレクサンダー大王によって滅ぼされたアケ
メネス朝ペルシアの旧領土はその後継者たちに
よって分割統治されていましたが、BC248年イ
ラン系遊牧民の族長アルケサスがパルティア王
国を建て、アケメネス朝の旧領土はその支配下
に入りました。
 その後パルティア王国はローマとの戦いなど
により国力は衰えBC226年南部からイラン人
に攻め込まれ滅び、代ってササン朝ペルシアが
建国されました。
 ササン朝ペルシァは第二代の皇帝シャープー
ル一世の下で勢力を広げ、250年頃東はインドを
攻撃してクシャーナ朝を滅ぼし、西はシリアに
遠征してローマ軍と戦い260年には軍人皇帝ヴ
ァレリアヌスを捕虜とし、以後ササン朝ペルシ
ァとローマは一進一退の死闘を繰り返します。
 
<キリスト教の成立と発展>
−キリスト教の成立−
 BC4年頃ユダヤのベツレヘムで大工ヨゼフと
その婚約者マリアの間に生まれたイエスはユダ
ヤ教の一派のパリサイ派や祭司たちの考え方と
堕落を批判し、神の愛が身分や貧富の差に関係
なくすべての人に及ぶこと、その神を信じて人
はおのれを愛するように隣人を愛し、敵のため
にすら祈るべきことを説き社会的な弱者や病人
、差別された人々をいたわり、いやしました。
 女性や下層の民衆の多くがイエスを信じ、イエ
スを神が使わしたメシア=キリストとみなしま
したが、神の前の平等を説くイエスの考え方に
支配者たちはイエスを捕え、十字架にかけ処刑
しました。
 間もなく弟子たちの間にはかねてイエスが言
っていたように彼が復活したという信仰が生ま
れ、その再臨と神の国の到来を待つ共同体をガ
ラリア(ユダヤ北部の高地)やエルサレムにつく
り原始キリスト教が生まれました。
−キリスト教の発展−
 イエスの死後、その教えは弟子のペテロやパリ
サイ派から改宗したパウロたちによってギリシ
ャやローマをはじめ地中海世界の各国に広がり
ました。
 キリスト教徒たちはユダヤ教やローマ政府か
ら迫害を受けながらもキリストの教えは人々の
間に浸透し教会の組織も整備され、2世紀には新
約聖書も成立、313年には遂にローマのコンスタ
ンティヌス帝はキリスト教を公認、392年にロー
マの国教となりやがて世界的な広がりとなりま
した。

<秦から漢へ>
 ー秦の統一ー
 中国では戦国時代の七国のうち最も西にあっ
た秦がBC4世紀中頃富国強兵に成功し、急速に
勢力を強め東周の王室と6ヶ国を次々と滅ぼし
BC221年中国を統一して秦王だった政は皇帝
となり、自ら始皇帝と称しました。
 始皇帝は中央集権的な統一政策を実施、郡県制
を施行し度量衡や貨幣、文字の統一を行い更に
権力の拡大と徹底化を図るために焚書・坑儒に
より言論、思想の統制を図りました。
 始皇帝はまた北方からの異民族を防ぐために
万里の長城(コラム・万里の長城)築きました。
 ー陳勝・呉広の乱ー
 始皇帝のあまりにも急激な改革や法治主義に
よる統治は旧六国の貴族や民衆の反感を招き、
たび重なる遠征や長城の修復や壮大な宮殿作り
の大土木工事の負担は民衆の生活を大変苦しめ
BC210年始皇帝が病死すると翌年陳勝・呉広の
乱が発生、その各地に反乱がおこり秦は僅か15
年で滅亡しました。
 ー漢の成立ー
 秦末におこった反乱勢力の中で最後まで残っ
たのは項羽と劉邦でした。
 劉邦は農民の出身ですが陳勝らの反乱を知る
と兵を挙げBC206年秦の首都咸陽を占領、秦の
皇帝を降伏させました。項羽は楚の貴族出身で
劉邦とともに秦を滅ぼし一時天下に号令しまし
たが、やがて劉邦と争い、垓下の戦いで敗れ、劉
邦は中国を統一しBC202年長安(現在の陝西省
西安付近)を都として漢(前漢)をたて帝位につ
きました(漢の高祖)。
 高祖は税や労役の負担を軽くし民衆の生活の
安定を図り都の周辺を直轄地とし都から離れた
辺境の地は手柄のあった家臣に分ける郡国制を
とりました。
 ー武帝の即位ー
 BC141年漢の七代目の皇帝として武帝が即位
、武帝の前の景帝の時代の呉楚七国の乱鎮圧に
続き諸侯に対する支配を強め郡県制と変わらな
い中央集権体制を確立して漢帝国の最盛期をつ
くりあげました。
 武帝は北方の匈奴に対しては張騫などを派遣
して数回に亘って攻撃、ゴビ砂漠の北に追いや
りました。やがて漢と西域諸国を結ぶ道が開け
シルクロードへと発展します。
 東北方面では衛氏朝鮮を滅ぼし朝鮮北部に楽
浪など四郡を置き、直轄地とし、南方ではヴェト
ナム中部まで領土を広げました。(武帝時代の漢)
ー新の建国ー
 たび重なる外征によって国家財政は苦しくな
り武帝は国民に重税を課したため人々は重い負
担に苦しみ、災害や病気などによる貧しさから
土地を手放す農民が増える一方でこれを手に入
れる豪族が力をつけていきました。
 漢王朝の衰えを見た王莽はBC8年漢を滅ぼし
新を建て新しい政策を実行しましたが社会の実
情に合わず農民や豪族の反抗を招き、BC23年
 漢の一族劉玄に殺され新は僅か15年で滅亡し
ました。
 ー後漢の再統一ー
 劉玄は長安に入城しましたが人々の信頼を失
い、やがて劉秀(光武帝)がBC25年漢を再興し
て洛陽に都を置きました(後漢)。
 光武帝は前漢の制度にならって政治を行い国
内も安定して後漢は全盛期を迎えました。57年
には倭(日本)の奴国から訪れた使者に印綬を授
けています。(関連サイト・金印)
 二世紀に入ると後漢では幼帝が続いたため外
戚や宦官が政治の実権を握るようになり互に争
い国政は乱れました。地方では豪族が勢力をふ
るって農民を圧迫したので重税と豪族の圧迫に
苦しんだ農民は各地で反乱をおこしましたが、
184年に華北一帯に広がった黄巾の乱をきっか
けに各地で群雄が割拠する時代となり、後漢政
府の支配力は失われ、220年後漢は群雄の中で
最も有力であった曹操の子曹丕によって滅ぼさ
れました。
 ー三国時代と晋ー
 後漢を滅ぼした曹丕は魏を建国したのに続き、
221年には劉備が蜀を、222年には孫権が呉を建
国し三国時代が始まり三国で争いが続きました
が蜀は劉備と孔明の死後魏によって滅ぼされま
した。
 しかし魏の帝室は一族の争いから次第に力を
失い、代わって司馬炎が皇帝(武帝)について晋
(西晋)を建国、280年には呉を滅ぼし再び中国を
統一しました。

<マウリア帝国とクシャーナ朝>
 ーマウリア帝国の成立ー
 インドではBC546年頃ガンジス川流域におこ
ったマガタ国が肥沃な耕地、森林、鉱山に恵まれ
、またガンジス川を利用して商業を発展させ強
大な王国となりましたがBC317年頃チャンド
ラグプタがマガタ国を倒してマウリア朝を建て
ました。マウリア朝は第三代のアショーカ王の
時、南の端を除く全インドを統一し最盛期を迎
えました。
 アショーカ王は仏教への信仰を深め平和を掲
げエジプト、マケドニア、シリア、セイロンなど
にも仏教を広める使節を送り、多数の仏塔を建
設しました。
 ークシャーナ朝ー
 アショーカ王の死後、マウリア朝は衰えBC
180年頃滅び、その領土は分裂し西北インドは
ギリシャ人など外来の民族の侵入があいつぎ
混乱しましたが、やがて一世紀頃イラン系のク
シャーナ朝によって再び統一されました。
 クシャーナ朝はカニシカ王の時代に最盛期を
迎え中国、ローマを結ぶ東西貿易の中継地とし
て栄え、カニシカ王は中央アジアや中国へも仏
教を広める努力を続けガンダーラ美術が生ま
れました。(関連サイト・仏教伝播図)
 その後三世紀頃にはクシャーナ朝も衰退し、
四世紀に入るとグプタ朝により北インドを統
一しました。

 <米づくり>
 日本の米作は今から二千数百年前に大陸か
らに日本列島に伝わった(Topics;米作の伝来)と
考えられていますが、横浜での水田稲作の始
まりは紀元前後の弥生時代中期後半と考えら
れています。この時期の遺跡は鶴見川のほか
大岡川、柏尾川、帷子川などの流域でも低地を
望む台地に集落の遺跡が点在しており低地で
水田稲作が行なわれたと思われます。
 弥生時代の後期(AD100年頃)には奥まった台
地にも見られるようになり、こういった土地
への水田や耕地を開拓できるだけの技術が向
上したことを窺わせます。
(弥生時代の米・港北区大塚遺跡より出土)
<鉄器の出現> 水田稲作とともに弥生文化の特色とされて いるのが鉄器です。 横浜では弥生時代中期までは依然として磨 製石器が使われていましたが、弥生時代後期 にはこうした石器は殆ど見られなくなり、鉄 器が普及したことを示しています。鉄は腐食 が激しく当時のもので残っているのは少な く、数少ない鉄器として港北区権田原遺跡か ら出土した板状の鉄斧二個があります。
板状鉄斧(港北区権田原遺跡より出土、 ともに両刃、大きさは右側が約10センチ)
<階級社会の芽生え> 米づくりには土を掘る道具として鍬(くわ) 、鋤(すき)や田下駄や田舟など木製の道具が 使われました。 木製品はいつも水に接しているような低湿 地にある遺跡から多く出土しますが、横浜で は低湿地遺跡の調査が殆ど行なわれていな いため、発見例がありませんが、隣町の逗子 市の池子遺跡からは木製農具が発見されて います。
木製の農具(逗子市・池子遺跡)
弥生時代の後期には鉄器が普及しこれら木 製農具にも鉄の刃先がつけられ、農業生産が 高まり余剰生産物が出来てその結果、貧富の 差が生じて次第に階級社会が形成されてい きます。 <弥生式土器> 弥生時代とは1884年東京都文京区弥生町で 発見された土器から名づけられた時代区分 ですが、弥生式土器は縄文式土器に比べると 文様は簡単ですが、全体に均整のとれた形を して薄くて丈夫です。 弥生式土器は貯蔵用の「壺」、煮炊き用の 「甕」、もりつけ用の「高杯・鉢」など用途によ って形が異なっていますが、他にも死体や骨 を収めた甕棺とか骨壺やお祭りの時に使う 器台などが使われていました。 米づくりが始まった頃の土器は「宮ノ台式 土器」と呼ばれ横浜の多くの場所から見つか っており、特に鶴見川の中流域や大岡川流域 の遺跡の中から多く出土しており、この地域 での米づくりが弥生時代中期後半頃に始ま ったことを示しています。
宮の台式土器(大塚遺跡)
<環濠集落> 弥生時代中期前半の横浜はその時期の遺跡 や遺物が殆どないので、無人の原野に近い状 態であったようですが、中期後半になると突 然農耕集落がいくつも出現することから横 浜に最初に住みついた人々は、新しい土地を 求めてやってきた開拓者の集団と考えられ ています。 鶴見川支流の早淵川流域もも数多くの集落 遺跡が発見され、早くから水田耕作が行なわ れた地域の一つですが、ここから見つかった 大塚遺跡の環濠(周囲に濠をめぐらせた防御 施設)の内側からは竪穴住居跡や高床式の倉 庫と推定される掘立柱の建物跡などが発見 され、これら住居跡からここの集落の人口は ほぼ数百人と推定されています。 大塚遺跡は台地のふちに沿って新旧二本の 環濠が集落を囲んでいますが、環濠は巾4メ ートル、深さ2メートルで掘った土は濠の外 側に積み上げられ土塁が築かれていました。 また半数近くの住居が火災にあっており農 耕が定着した当時の社会に予想以上の耕地 の奪い合いや集落への攻撃があったことを 物語っています。 こうした耕地や収穫物をめぐる争いの中で 有力な部族が現れ、やがてそれらを統一する 古代国家が誕生します。
空から見た大塚遺跡(図説・横浜の歴史) 弥生時代中後期の大小さまざまな約100軒の竪 穴住居などがひょうたん形をした環濠に取り囲 まれています。上方の畑地は方形周溝墓のある歳 勝土遺跡です。
−歳勝土遺跡− 大塚遺跡の環濠集落にともなう墓地が、南東 に隣り合う歳勝土遺跡です。 この墓地は4本の溝で方形の区画をつくりそ の中央に遺体を埋める穴を設けた方形周溝墓 の集まりです。 方形周溝墓の中央部の穴には一体だけ首長 クラスの人が葬られたと考えられ、ここにも 階級社会への芽生えが見られます。
方形周溝墓(歳勝土遺跡) (図説・横浜の歴史)

大塚・歳勝土遺跡公園
環濠集落の大塚遺跡は隣接する方形周溝墓 とともに1986(昭和61)年国の史跡に指定さ れ 整備・保存される ことになりました。 横浜歴史博物館の屋上から連絡橋で続く公 園には当時の竪穴式住居や方形周溝墓が復 元されており、弥生時代の人々の暮らしを今 に伝えています。

復元された方形周溝墓・木棺




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BC400年頃
       
   前期

BC100年頃
 
   中期

 米づくりが
始まり鉄器
が現れる
 方形周溝墓
をそなえた
環濠集落が
出現(大塚、
    歳勝土)


AD100年頃
 
   後期

 集落数が大
幅に増え、小
地域圏が形
成される
(朝光寺原、
    二ツ池)


 
AD300年頃
 古墳時代
  はじまる