ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典          P 2
              ー入門篇、神道・民俗信仰の部ー 
        
                                            参考文献日本の宗教(村上重良)
                                            
神道の成立(高取正男)
                                              
神道事典(弘文堂)  ほか 
 

・・・日本の原始信仰・・・        
     

   
 日本の宗教のはじまりは先土器時代に始まるといわれますがこの時代の人々の宗教生活や宗教観念については殆どわかっていません。
 縄文時代になると土器が作られるようになり遺跡や出土品も多く、人々の祈りのすがたについてもいろいろと推測できるようになります。
 

縄文時代
(BC10000
頃〜BC400






























 
 縄文時代の生活は木の実などの採集やシカやキジなどの狩猟、川や海での漁労が中心でしたが科学が発達していないこの時代の人々は、木の実は神が作り狩猟がうまくいったり海が荒れて魚がとれなくなるのもすべて神の仕業であると考えていました。
 そして神は不思議な力を持ち、姿を見せず、山や木や石などに宿るものとしていました。
 こんな縄文時代の宗教はアニミズム(精霊崇拝)やマナイズム自然崇拝・死霊崇拝(*1)を中心とした神を招き祈り願う祭りと、呪術(まじない)を中心とした信仰でした。

 [土偶・配石遺構]
 この時代の宗教を想像させるものに土偶と配石遺構があります。
 土偶は土で出来た人形ですが殆どが女性像で、その怪奇な形や姿は出産にたいする信仰や神秘的な力をあらわしたものとみられています。また土偶は殆どこわされていることから、土偶を人間の身代わりにする呪術が行われていたことが推測されます。
 配石遺構はいろいろな石を並べたり、組んだりしたもので集団で祭りをした場所とみられますが、共同墓地だったという意見もあります。代表的な配石遺構である環状列石は秋田県の大湯、長野県の上原など主に東日本で数十所も発見されています。

 縄文時代の人々は土偶や人骨から推測すると、頭にくしをさし、耳、鼻、口のまわりには、飾りをつけたり、いれずみをし、手足に貝輪をはめ、首、胸、腰には動物の歯や玉類をつけていたようです。これらのものには神秘的な力が宿っていると信じられ、悪い霊から身を守るために身につけたと考えられています。


(*1)アニミズム・マナイズム・死霊崇拝

 アニミズム
とは存在するものは無生物にいたるまですべて生きていて霊魂をもっていると信じることです。
 マナイズムとは人間の力を超えた神秘的な力を信じることです
 死霊崇拝は死者の霊が生者に禍と福をもたらすと考え、死者の霊をおそれたり祀ったりすることです。


土偶(学研・日本の歴史)


大湯環状列石(学研・日本の歴史)



弥生時代
(BC400頃
AD300頃)

 イネづくりは縄文時代の後期からはじまり、九州北部から日本列島各地に伝えられ、弥生時代には縄文時代とは異質な弥生文化が生まれました。
 宗教についてもイネづくりの農耕儀礼(儀式)を基本として発達しました。
 原始的な農作業は風、雨、ひでりなどの自然災害や病虫害には無力に近かったので人々は、神や霊が自分たちを助け災いを防いでくれるように集団で祭り(神を迎え祈願する)をしたのです。

 イネの農耕儀礼は農作業に先立って、豊作祈願をする
春の祭りと収穫後の感謝をささげる秋の祭りが中心で、この二つの祭りを軸に一年が成り立っていました。
 人々は自分たちがすんでいる土地には、はるか昔からその土地を支配している神(土地神)がいると信じており、祭りでは土地神を招いて、飲食物をささげ、災いをもたらさぬように、またその力でイネを豊かに稔らせてくれるように願い祈ったのでしょう。

[銅  鐸]
 
イネづくりに続いて紀元100年頃には大陸から青銅器と鉄器が伝えられ、日本でも金属器の使用と制作がはじまりました。
 この時代の出土品は多く土器、土偶や金属性の生活用具のほかに卜占(うらない)に使った鹿骨や亀甲などがみられます。
 これらとともに青銅製の鏡、銅剣、銅鉾、銅鐸のような宗教儀礼の用いた道具も出土されています。
 銅鐸は釣鐘のような形をしていますが、楽器や鳴らすための道具ではなくて祭りの道具として米作りがうまくいくように祈り、収穫を感謝する際に祀ったものとみられます。

 [邪馬台国の女王卑弥呼]
 
中国の歴史書にみられる「魏志倭人伝」は弥生時代後期の3世紀には、日本では邪馬台国の女王卑弥呼が「鬼道」(シャーマニズム)により30余の小国家連合を統治していたことを伝えています。
 卑弥呼は神がかり(神がのりうつる)して天にある神と交流し神に言葉を伝えるシャーマンでそばにつかえる男性(弟)に補佐されて国を治めていたようです。

 弥生時代に成立した原始農耕社会の文化は今日までつづく日本文化の原型となりましたが、宗教についても弥生時代に成立したイネの農耕儀礼を中心とする原始信仰は、日本宗教の基本形となり、たとえばこの時代に始まった豊作祈願をする春の祭りと、収穫に感謝する秋の祭りは現在までつづいています。


「大和のヒミコ女王」(安田靭彦画)


銅鐸(神戸市立博物館蔵)


古墳・飛鳥時代
(300頃〜710)


























































神社神道の成立


神社建築の種類





[古墳と副葬品]
 
3世紀後半から近畿地方をはじめ全国各地で古墳が築かれるようになり7世紀頃までには大小の古墳が造られるようになりました。
 古墳には装身具とともに祭具、祭器、呪具や埴輪が副葬品として埋葬され、この中には中国の神や神秘的な動物を浮き彫りにした三角縁神獣鏡などがあり、これらはたんに身を飾るだけの装身具だけでなく邪悪なものから身を守る力が宿っていたと信じられていたようです。 

[原始神道の成立]
 
古墳時代の宗教は弥生時代の信仰をうけつぎながら大陸のすすんだ宗教の影響をうけて複雑に発達し、大和朝廷の全国統一の進展とともに新しい展開をとげましたが、この時代の宗教を原始神道といいます。

 原始神道は集団による祭りです。祭りの基本はイネの稔りを得るために行われる、春の予祝祭トシゴイ(のち祈年祭として現在は宮中行事となっています)と秋の収穫祭ニイナメ(のち新嘗祭、現在では勤労感謝の日として受け継がれています)でした。
 そのほか祖霊(祖先の霊)、死霊の祭りや、自然、動植物などの神、霊の祭りも行われました。

 
「祭り」のかたち 

 祭りは一定の神聖な場所を祭場として、そこにサカキなどの樹木を立ててヒモロギ(神籬)として夜間に神を招いて行われました。神が降ると土器にもった神饌(酒や米などの飲食物)を供え、幣帛(玉や衣類)を捧げ、祭司が祝詞をささげ人々の願望を神に伝えるとともに、神の力が害悪を及ぼさないようにしました。
 祭りの最後には神饌を全員で飲食するナオライ(直会)がおこなわれました。祭りが終わると使われた祭器や祭具はくだかれたり、土の中に埋められました。
 神は祭りの間だけ祭場に降臨し、終わると本来の住処に帰っていくと信じられていましたから、はじめのうちは祭場を石で囲んだり縄をはったり(シメ)するだけで、神のために特別の建物を作るようなことはありませんでした。

 原始神道ではさまざまな神、霊が信じられていましたが、中心となったのはその土地を支配していると信じられた土地神でした。土地神はイネを稔らせてくれる農業神であり集団を存続させ繁栄させる力をもつことから、やがて集団の祖先神とされるようになりました。

 原始神道ではこの世とは別の世界である他界について二種類の考え方がありました。
 一つは天には神々の世界の高天原(タカマガハラ)があり、地上はこの世の
中つ国(ナカツクニ)で、地下には死者が住む黄泉国(ヨミノクニ)があるといもので、大和朝廷の進出によって支配的になった考えのようです。
 もう一つはこの世のほかにトコヨ(常世)があるとする考えで、トコヨははじめは地下に、のちには海のかなたにあると信じられました。海にかなたに死者や神が住む国があるという観念は南太平洋諸島などの南方の各地にもみられ、日本人南方渡来説の根拠の一つともなっています。

 原始神道は仏教、道教、儒教などの外来の発達した宗教が根をおろしはじめると、その影響を受けてさらに発展をとげます。
 神の観念では自然神、祖先神、観念神などが多彩に分化し、支配者や英雄を神格化した人格神もあらわれて神話が発達しました。
 祭りでは祭場に仮設小屋が立てられ、中に依代(よりしろ、神を招く樹木、岩石、人形など)がおかれ、やがて人々は神が常住することを願って社殿がつくられるようになり,そこには鏡や岩石などが神体として置かれ神がいつもいるものと信じられるようになりました。
 社殿がつくられるようになり神道は神社という施設を中心に発展します(神社神道)が、神社建築の最古の様式とされているのは伊勢神宮本殿の神明造りと出雲大社本殿の大社造りで、神明造りはで稲などを治める穀倉が、大社造りはで豪族の住居に由来するといわれています。(神社建築の詳細はこちら



仁徳天皇陵(大阪府堺市)


三角縁神獣鏡(福知山教育委員会蔵)

 ハライ・ミソギ・イミ

 原始神道では、人間が神につかえたり神意を問う場合は罪けがれを除いて清浄になる必要があるとされました。罪けがれは外から身に付着するものと信じられ、これをはらい落とすことをハライ(祓)といい、とくに水に入って洗い流すことをミソギ(禊)といいました。完全に清浄になるためには一定期間、一定の行為をタブーとしました。これをイミ(忌)といいます。


 祭りは広場の中央に神を招く「よりしろ」がたてられて行われた(講談社・日本の歴史)


新嘗祭(内宮)奉幣の儀(講談社・伊勢神宮)

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