ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 13

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                                  旺文社「図説日本の歴史」
                                           金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
                                                      〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                                              和田大雅「武州金沢のむかし話」
                                                               杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

 

・・・K安土桃山時代・・・


 
ヨーロッパの勢力と文化の波がだんだん日本に迫っていた頃、国内でもようやく戦乱が終りに近づき統一へと動きます。
 この動きによってまづ織田信長・豊臣秀吉が天下統一の事業をなしとげ、次の徳川家康による封建制度の完成につながります。

 天守閣を持った壮大な城、その書院に華麗なふすま絵が描かれ町衆が歌舞伎踊りを楽しむというように雄大で華やかな文化が一気に花開いたのもこの時代です。(安土・桃山文化は
こちら
 

 
日 本  で は
か ね さ は  で は 略 年 表

 
 天下統一の動き

<長篠の戦い>
 
1575(天正3)年,武田信玄のあとをついだ武田勝頼は三河(愛知県東部)の攻略を狙って徳川方の長篠城を攻め,設楽原に家康・信長の連合軍と戦いましたが信長軍の鉄砲隊の攻撃に敗れました。
 この戦いにより兜・鎧に身を固めた騎馬武者の戦法から軽装の鉄砲や槍で戦う集団戦法に変わります。

<安土城と城下町>
 
東方の脅威が薄らいだ信長は翌年琵琶湖のほとりの安土山に壮大な城を築きます。
 信長は尾張・美濃の領地から家臣を集め,山すそ一帯に武家屋敷を作る一方,武士たちの生活を支えるのに必要な商工業者を呼び集めるために
楽市・楽座の制度を設けました。

<堺の屈服>
 和泉国(大阪府)の堺は室町時代から勘合貿易の港として栄え,戦国時代には南蛮貿易も盛んに行われ豊かな富と外に向かって開かれた自由な空気の中で自治都市として発達していました。
 その堺も日一日と強まる信長の力を認め1569(永禄12)年武装をとき信長に軍資金を差し出しました。
 
 信長は堺・大津・草津の三
所の拠点を支配,撰銭令をだして通貨の流通を促すなど経済面からも畿内の統一を進めます。

<本能寺の変>
 
1579(天正7)年安土城の天守閣が完成,翌年には石山本願寺も信長に下って信長の畿内統一はほぼ完成に近づきました。
 信長は更に武田勝頼を甲斐(山梨県)の天目山に破った
(関連サイト・武田氏の滅亡あと安土に帰り,中国の毛利輝元を攻撃するために京都の本能寺に入りましたが,明智光秀の裏切りにより急襲され,寺に火をつけて自殺しました。

<山崎の戦い>
 
当時毛利方の高松城を攻めていた豊臣秀吉は本能寺の変を知ると,急遽毛利方と和睦を結んで京都に引き返し,山崎に布陣して光秀を破りました。

 水軍の戦いと金沢船

 信長と秀吉が京都を中心に天下統一を進めている時、関東では東京湾をはさみ後北条氏と安房里見氏が激しく対立していました。

 両氏は互いに相手側に攻撃を加え航行中の舟を拿捕したり、沿岸の村を襲撃し人や物を略奪していました。
 州崎,町屋,野島を根拠地とする金沢船は北条・里見双方に半手(年貢を半分づづ払うこと)をして航海の安全を図っていたようです。
 1574(天正2)年北条氏の山本水軍が里見水軍を破り江戸湾の制海権を握り1577年ついに里見氏が講和に応じると三浦・房総半島間の交易も以前よりは容易になり,州崎の山口氏は1579年里見氏の領内での商売を認められ、里見義頼の朱印状を受けています。


 また野島の伊藤氏が1578年、後北条氏の命令で里見氏への使者を富津と中島の間に送り迎えしていたことが記されており、江戸湾を挟む両軍の間で生きていく人々の様子がかいま見えます。

 
 秀吉の北条攻めと「かねさは」


 関東征圧を目指す秀吉の動きにたいして「かねさは」を支配していた玉縄北条氏も攻撃に備えますが,金沢文庫に残る文書には北条氏が称名寺に対して兵糧の手配を命じたものがあり,人々も戦乱に巻き込まれた様子がわかります。


後北条氏が称名寺に兵糧の手配を命じた文書(金沢文庫蔵)

 1590(天正18)年豊臣秀吉による北条氏攻撃が開始され、金沢・六浦などの久良岐郡を支配していた玉縄城主北条氏勝は伊豆の山中城(静岡県三島市)に援軍として派遣されましたが、豊臣秀次率いる大軍の猛攻撃にあって間もなく陥落し、城主松田康長や間宮泰俊などは討死しました。
 氏勝は城を脱出して居城玉縄城に入りましたが徳川家康軍の包囲を受け、降伏しました。
 江戸軍団に属する釜利谷の伊丹氏や六浦の武田氏は氏直の命令で小田原城に篭城しますが、三ヶ月余りで落城し伊丹氏は解放され徳川氏に仕官することになりました。


 豊臣秀次と金沢文庫本

 称名寺に伝わっていた金沢文庫の蔵書はすでに上杉謙信や北条氏政らによって持ち出されていましたが、豊臣秀次も小田原落城直後に家臣を派遣して多くの蔵書を取り出させ京都に送らせています。
 「言経卿記」(権中納言山科言経の日記で1576〜1608に亘っている)には秀次が入手した金沢文庫本の計215巻にのぼる目録が記載されていますが、秀次は聚楽第で金沢文庫本の修復を行わせたり、複製本を作らせ保存を図っていたようです。


安土桃山時代
  (1573〜1600)


1573 室町幕府滅亡

1575 長篠の戦い

1582 本能寺の変
 〃 秀吉,検地を実施

1583賤
岳の戦い
1585 秀吉,関白となる
 〃 秀吉,刀狩りを行う

1590 秀吉,全国統一(後北条氏滅亡)
1592 文禄の役

1597 慶長の役

1600 リーフデ号漂着

1600 関ヶ原の戦い


 全国平定の完成






 
織田・豊臣氏系図





(*1
)岳の戦いは秀吉方の大勝に終わりましたが,この時活躍した福島正則,加藤清正,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,片桐旦元,加須屋真雄 を岳七本槍といいます。

<豊臣政権の樹立>
 
山崎の戦いのあと秀吉は近江・美濃を平定し,信長の後継者としての立場を強めます。
 1582(天正10)年6月各地に遠征していた武将たちが尾張の清洲に集まりましたが,席上秀吉は信長の孫でまだ幼い三法師を立てて跡継ぎに決めました(清洲会談)。
 信長の次男の信雄,三男の信孝や秀吉より上位の柴田勝家はこれに不満で,勝家と信孝は賤
岳で秀吉と戦いますが,秀吉側近の七人の若武者(*1)の奮戦などに敗れました。
 秀吉は更に1584(天正12)年尾張の小牧長久手の戦いで徳川家康・信雄同盟軍と和睦し,豊臣政権を安定させます。

<大坂城の建設>
 1583(天正11)年秀吉は石山本願寺跡に諸大名に命じて数万人の人夫を集め,6年を費やして周囲13kmに及ぶ壮大な城を作り,城下町には京都,堺,平野などの町人を移住させ町は天王寺,住吉あたりに迄広がり城も城下町も信長の安土城をはるかにしのぐものになりました。

<四国・九州・関東の制圧>
 1585(天正13)年関白に就任した秀吉は京都に聚楽第を作り後陽成天皇を迎え織田信雄,徳川家康らの有力大名を招き,天皇に忠誠を誓わせることによって関白への絶対服従をさせる一方,四国の長宗我部元親や九州の島津義久を下し,1590(天正18)年には関東の小田原北条氏を滅ぼし,奥州の伊達政宗を服従させ全国平定は完成しました。


秀吉の政治

















(*2)五奉行
 前田玄以が公家・訴訟・寺社関係を,長束正家が知行など財政を,浅野長政・増田長盛・石田三成が政務全般を扱い重要事項は五人の合議で決めました。

<農民の支配>(検地と刀狩)
 
関東・奥羽を平定し終わると秀吉は厳しい検地(太閤検地)を行い,徹底的に収穫高を調査し,年貢を完全に取りたてるようにしました。
 一方従来の一向一揆や検地に反対する土豪の一揆を防ぐために方広寺建立の釘やかすがいに使うという理由で農民たちから一切の武器を取り上げました。
 これによって兵農分離ができ上がり,江戸時代の士農工商の身分制度のもとが作られました。

<大名統制>
 秀吉は諸大名を武力で屈服させましたが政治の支配は五奉行
(*2)という簡単な仕組みが中心で,秀吉の家来から出世した小大名たちがあたっていましたが地方には徳川家康や毛利輝元,伊達正宗などの有力大名も多く豊臣政権は完全に中央集権体制を確立したわけではなく,財政面でも直轄領は少なく200万石ほどで(のちの江戸幕府は700万石)大名支配体制の基盤は弱く,秀吉の死後間もなく豊臣政権は崩壊します。

<キリシタン追放>
 
キリスト教に対しては秀吉は当初,貿易の利益と仏教を抑えるために好意的でしたが,寺院の統制を成し遂げると日本の植民地化を怖れ1587(天正15)年バテレン追放令を出して宣教師を追放,キリスト教を原則的に禁止する方針としました。
 1596(慶長1)には
サン・フェリーペ号事件が起こりキリシタンへの弾圧は一層強まりました。

<朝鮮への出兵>
 
国内統一を果たした秀吉は中国やインドまでもの東アジア進出の夢を広げます。
 大名の膨大な軍事力は外に向けて使う他なく,又秀吉を取り巻く豪商たちも外国との戦争によって利益を得ようとして秀吉の野心が一部の大名・武士・豪商と結びついて朝鮮出兵となりました。
 出兵は1592(文禄1)年=文禄の役,1597(慶長2)年=慶長の役と二度にわたって行われ苦戦の末,1598年秀吉の病死により連合軍は引き上げました
秀吉の朝鮮出兵


秀吉の最後

(*3
)五大老
 有力な大名を,従来の五奉行の上において政務を処理する最高合議機関としまし,徳川家康,前田利家,毛利輝元,小早川隆景(死後上杉景勝)、宇喜田秀家らが任ぜられました。
 
 朝鮮出兵は民衆に大きな犠牲を強いただけでなく,朝鮮との友好関係は損なわれ国内では武断派と文治派の対立により豊臣政権内部でも対立します。
 病床に臥した秀吉は五大老(*3)の制度を設けて幼い秀頼と豊臣政権を託そうとして,アジアへの進出の夢をはたせぬまま63才の生涯を閉じました。 

 秀吉辞世の句


 露と落ち露と消えにしわが身かな
      なにはの事も夢のまた夢

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