秀吉の朝鮮出兵

 
 出兵の準備は1591年の夏から始められ肥前(佐賀県)の東松浦半島の突端に名護屋城を築き、翌年早々に諸大名に出陣が命ぜられました。
 1592年主に西日本の諸大名の軍勢15万8千人が海を渡り徳川家康ら東国大名10万の予備軍も名護屋城に待機します。
 
 交戦当初は朝鮮側の準備不足と日本軍の鉄砲の威力により快進撃を続けましたが次第に戦線が北に延びるにしたがって兵員、軍需品、食糧などの補給が困難になる一方、李舜臣の率いる朝鮮水軍に敗れ制海権を失い和議が進められ一旦戦争は休止します(文禄の役)。
 1596年「汝を封じて日本国王となす」と書かれた明の国書に怒った秀吉は翌年再度出兵しましたが朝鮮の厳しい冬の寒さと飢えに苦しめられ大苦戦となり1598年秀吉の死亡により、遠征軍は引き上げました(慶長の役)。

名護屋城跡(佐賀県鎮西町)
石碑には「太閤が睨みし海の霞かな」と刻まれています。

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