ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 12

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                                  旺文社「図説日本の歴史」
                                           金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
                                                      〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                                              和田大雅「武州金沢のむかし話」
                                                               杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

 

・・J室町時代V(戦国時代)・・・


 応仁の乱によって幕をあけた戦国時代は,下克上の中で力の強い者がこれまでの将軍や公家にとって代わる動乱の時代です。武士の中でも戦国大名が現われ各地を支配していきます。
 東洋の胡椒や香料を求めて,日本にもポルトガル人やスペイン人が姿を見せ,鉄砲やキリスト教を伝えました。

 大名たちは争いののち強い大名のもとに統合されていき、やがて天下統一を目指す織田信長が出現し,室町幕府は滅亡します。

 
日 本  で は
か ね さ は  で は 略 年 表


応仁の乱






利氏・上杉氏の系図















(*1)「後三浦氏」・・・宝治合戦で三浦泰村以下三浦宗家は滅びましたが一族の佐原義連の流れをくむ盛時が三浦介となりその子孫が三崎・南下浦を中心として三浦半島南部を支配しました。これを「後三浦氏」といいます。


〈乱のはじまり〉
 
1441年の嘉吉の乱のあと将軍になった義勝が2年後に死ぬと義勝の弟義政が14才で将軍になりました。
 当時管領家の畠山家と斯波家では相続争いによる内輪もめが起こっており,幕府内で実力を競っていた管領の細川勝元と山名宗全がそれぞれに加担し二大派閥を形成していました。
 一方将軍家では義政には男の子がいなかったので将軍の後継者として弟の義視を決め細川勝元を後見役としましたが,その後,妻日野富子
(関連サイト・日野富子の実像との間に義尚が生まれて,富子は実子の義尚を後継者とし山名氏を頼ったため細川一族と山名一族の争いは将軍家をまきこんでの戦いになりました。



〈荒廃する京都〉
 1467(応仁1)年5月細川方は幕府の館を本陣(東軍),山名方は宗全の館を本陣(西軍)として戦いは始まり,京都の町は武士であふれ戦いは10年あまりも続きました。
 この結果都やその周辺は建物とともに書物や美術品なども焼かれ荒廃してしまいました。
 戦いは一進一退ののち6年後には山名宗全と細川勝元が相次いで死亡,両軍の間には厭戦気分も広がり,1477(文明9)年には諸大名も領国に引き上げ都での争乱はようやく終わりました。

 
 後北条氏の武蔵国支配

 
北条早雲が伊豆に進出したころの南関東は安房国(南房総)に里見氏、上総国(中房総)に真理谷武田氏、下総国(北房総)には古河公方、武蔵国(東京・埼玉)は扇谷上杉氏、相模(神奈川県)には山内上杉氏がそれぞれ勢力を競い合っていました。

早雲の伊豆進出時の南関東周辺図

 1516(永正13)年荒井城の「後三浦氏」(*1)を攻め滅亡させたあと早雲の子氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城、河越城、松山城を奪い、武蔵国支配へ大きく前進、更に下総国府台で小弓御所の足利義明・里見義堯の連合軍を破り下総へ進出しました。
 氏綱の子氏康の時代には山内上杉氏も破り相模国や武蔵国は天文時代末期(1550年頃)にはほぼ後北条氏の領土となります。


 小弓御所(おゆみごしょ)

 
足利政氏の次男だった足利義明は父や兄と不仲となり奥州を放浪、のち上総守護代の武田氏に迎えられ1517(永正14)年頃下総小弓城(千葉市南生実町)に入ったので小弓御所と呼ばれました。
 上総真里谷(木更津)の武田信隆を攻め武蔵に敗走させますが、その後北条氏綱の攻撃を受け下総国府台(千葉県市川市)で戦死、小弓御所は滅びました。


 戦国時代の「かねさは」

 
当時の「かねさは」も後北条氏の支配下にあり町屋にある曹洞宗の伝心寺は北条氏繁の開基と云われ、この周辺には代官所があったようです。


伝心寺(横浜市金沢区)
(寺の各所には後北条氏の家紋である「三つ鱗」が見られ、境内には北条氏繁の墓と伝えられる五輪塔があります)

 小田原衆所領役台帳(軍役を課する台帳)によるとかねさはの郷は次のような後北条氏の家臣によって治められていたようです。


地 名


現在の地名


家臣名


属する軍団


富 岡


富 岡 町
富 岡 東

関 新次郎

玉 縄

金 沢

金沢町


北条幻庵
称名寺


その他
その他

六 浦 六 浦
武 田 殿
瀬戸明神

江 戸
そ の 他
釜 利 谷 釜利谷町
伊丹右衛門太夫
江 戸
六浦大道 大 道 竜 源 軒
その他

 六浦の武田殿

 六浦を治めていた武田氏は上総国の真里谷(木更津市)にいた武田氏の一族で1534(天文3)年に後北条氏と結んだ信隆と小弓御所・足利義明と結んだ信応の間で家督争いが発生し、その結果敗れた信隆は北条氏綱の保護を受け、六浦の土地の支配を認められるようになったものと考えられています。


 

 釜利谷の伊丹氏

 伊丹氏は摂津国(大阪府)の伊丹を本拠とする豪族の流れで後北条氏進出以前から金沢に所領を持っていました。
 戦国時代に伊丹市は後北条氏の家臣となりましたが、釜利谷の領主だった伊丹左京介経貞は1473(文明4)年に瀬戸明神を勧請(分霊)して手子神社
(関連サイト・小泉の夜雨を開きました。
 経貞の子永親は禅林寺の中興をしたといわれ今も一族の墓が禅林寺境内に残されています。


向かって右が伊丹永親、左が伊丹直賢の墓
(金沢区釜利谷、禅林寺境内)

 かねさはの人々

 かねさはの郷は室町時代後期から戦国時代は町屋・六浦の町場を中心として発展しました。
 後北条氏は房総の里見氏に備えるため舟の建造や修理を必要として1567(永禄10)年町屋の鍛冶作兵衛や六浦の船大工小三郎を浦賀(東京湾の北条水軍の根拠地)に呼んでいますが、当時の町屋・六浦の発展が腕の良い職人たちを生み出したことがうかがわれます。

 寺前の金沢八幡神社には1570(永禄13)年の棟札(棟木にうちつけた木札)があり、造営に関与した町屋、寺前の代官や栗飯原、戸部などの百姓の名前も見えます。
 これらの名前の一部は現在も寺前付近にありますが彼らは村落上層の百姓で神社の造営資金を提供するなど、八幡神社を結集の基盤として町場の運営をしていたものと考えられます。


 
金沢八幡神社(金沢区・寺前)
「三
村氏子敬白」と書かれた棟札が見つかっており,寺前・町屋・州崎村一帯の総鎮守だったことがわかります。







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 戦国時代 
 (1467〜1573)

1467 応仁の乱(〜1477)

 


1485 山城国一揆おこる


1488 加賀の一向一揆

1489 足利義政,銀閣寺造営


1491 北条早雲が伊豆を支配
 (戦国大名の出現)
 
  
1495 京都周辺に土一揆おこ
    る

1497 蓮如,石山に本願寺を築く

1500 幕府,撰銭令を発布




1523 寧波の乱




1536 天文法華の乱




1543 ポルトガル人が種子島に漂着,鉄砲を伝える



1549 ザビエル,キリスト教を伝える
 

1553〜64 川中島の戦い



1560 桶狭間の戦い



1568 織田信長,将軍足利義昭を奉じ入京



1570 姉川の戦い

1571信長,延暦寺を焼討ち


1573 室町幕府滅亡



下克上の世
 
 応仁の乱が終わってみると,公家や社寺や将軍も全く力が衰え,どちらにも従わない大名の国が各地に出来,大名の国の支配者は下克上のもとで次々に強いものに代わられていました。

〈山城の国一揆〉
 
応仁の乱の後,諸大名が領国に帰ったあとも畠山義就と政長は山城南部(京都南部)や河内大和で戦いを繰り返していましたが,山城の国人(その土地の豪族)は農民を従えて両軍の兵を追い出し,その後8年間も南山城地方では国人たちが大名を置かずに自治を続けました。

〈加賀の一向一揆〉-関連サイト一向宗
 
鎌倉時代から室町時代にかけての浄土真宗の一派は一向宗と呼ばれて北陸をはじめ地方の農民たちに広く信仰されていました。
 東本願寺の第八代法主となった蓮如は惣の寄合などで熱心に布教し惣は
一向宗の教団になります。
 加賀国(石川県)では一向宗の門徒(信者)たちは,日頃から圧政に苦しんでいた守護を打ち負かし織田信長に鎮圧されるまで100年近くも領土の支配を続けました。
 


町衆の発展

 農村では惣が出来て自治的な活動を強め荘園領主の支配から離れていきましたが,京都の町でも商工業者が寺社などの支配からまとまって自治的な行動をとるようになり彼らは町衆と呼ばれました。

〈堺の自治〉
 
堺は瀬戸内海や九州への連絡口にあたる主要な地点でしたが応永の乱で大内氏が敗れたあとは細川氏が支配していました。
 応仁の乱で兵庫(神戸)の港が焼けると堺は一層重要な港となり,堺の商人は大きな富を貯えると共に財政への発言力を増すようになり,戦国時代には周囲に濠を掘り塀をめぐらして武装化の上自衛して,会合衆と呼ばれる36人からなる代表が自分たちで町の政治を行いました。

〈町衆と文化〉
 町衆たちは富を貯えて地位を高め,茶の湯や生け花,能,水墨画など東山文化の中で公家や僧がつくったものを取り入れ狂言,御伽草子,俳諧連歌などを発展させます。
 


戦国大名の出現










(*1)関八州とは相模,武蔵,安房,上総,下総,常陸,上野,下野,の八カ国です。


戦国大名勢力図


〈将軍家の無力化〉
 
応仁の乱の中で義政の子義尚が将軍になりましたが25才で急死,義視の子義材(のち義稙と改名)が跡を継ぎましたが,この頃から細川氏と大内氏が明との勘合貿易を巡り対立,自分に都合の良い将軍を立てようとして争い,将軍就任も有力大名の争いに左右されるようになります。 
 
 こうした将軍家の無力化とともに下克上の風潮は益々強まり国人と呼ばれる在地の武士が勢力を伸ばし,諸国の守護大名でも実権は守護代などに移り,それも又部下に滅ぼされたりして,実力のあるものだけが生き残り他を従えて,,戦国大名となります。

〈北条早雲(後北条氏)〉
 北条早雲ははじめ伊勢新九郎と称して駿河の守護大名今川氏の下にいましたが今川家の内紛を処理して1491(延徳3)年に沼津の城を与えられ堀越公方家を滅ぼし伊豆の堀越に移りました。
 
4年後には大森藤頼を攻め小田原城を奪い,1516(永正13)年には三浦義同,義意父子を滅ぼし,早雲の死後は氏綱,氏康とすぐれた後継者が二代続き関八州(*1)を制圧しました。

 古河公方と掘越公方
 
永享の乱で足利持氏が死に持氏の子成氏が鎌倉公方を継ぎますが管領の上杉氏と対立,幕府の命令に反してこれを暗殺したので幕府に攻められ下総(茨城県)古河に逃げ込みました=古河公方。
 幕府は将軍義政の弟政知を鎌倉公方に送りましたが,成氏はこれに対抗したので政知は鎌倉に入れず伊豆堀越に留まりました=堀越公方。

<武田信玄>
 
武田信玄甲斐(山梨県)の守護の家柄ですが信玄の父の信虎は武田一族の争いをおさめ,甲斐全体を支配,さらに政略結婚などで隣接する駿河(静岡県)相模(神奈川県)の背後を固め信玄の代には信濃(長野県)を制して越後の長尾景虎(上杉謙信)と戦いを繰り返すようになります(川中島の戦い)

<富国強兵策>
 戦国大名は強く統制ある軍隊を作ると共に領国の支配を固めるために,分国法を制定し家臣の武士が守るべきことや農民を治める方法などを定め,違反するものは厳しく罰しました。
 一方領内の産業の発展に力を尽くし水防のための堤を改修したり金銀などの鉱山を開発し,それをもとに豊富な軍資金を得ていました。



南蛮人の来日

<ヨーロッパ人の東進> 

 日本で下克上の波が高まった戦国時代にヨーロッパのポルトガルやスペインは東洋との貿易で国力を強めようとして東南アジアへの道を進んでマレー半島のマラッカや中国のマカオにあらわれました。

<鉄砲伝来>
 1543(天文12)年ポルトガル人を乗せた船が九州南の種子島に漂着し鉄砲を見せ射撃の実演をしました。
 領主の種子島時堯はこれを買い取ると共に島の鍛冶職人に命じて鉄砲を作らせ薩摩(鹿児島)の藩主島津氏にも送りました。
 鉄砲はたちまち武力を競う戦国大名の間に広がり,のちの
長篠の戦いではその威力が発揮され勇猛な武田騎馬軍団が敗れました。

<キリスト教>
 種子島にポルトガル人が漂着したあと九州各地には貿易目当てのポルトガル商船があいついで入港するようになりましたが,1549(天文18)年にはキリスト教布教のためにフランシスコ=ザビエルが来日しました
(関連サイト・宗教改革とザビエル)
 ザビエルは平戸など主に北九州の各地を伝道し,京都にも出かけ山口の大内義隆や大分の大友宗麟の保護を受け布教を助けられます。
 九州の大名は貿易によって領国を富まし火薬の原料を得ることによって兵力を強めようとして積極的にキリスト教を受け入れ,洗礼を受けたり学校や会堂をつくるなどしました。


室町幕府の滅亡






(*1)鎌倉・室町時代は守護は任国に行くことは少なく代わりに守護代をおいて国を治めていました。


 各地で勢力を競い合っていた大名たちもやがて強い大名の下に統合され九州の島津氏,中国の毛利氏,四国の長宗我部,関東の後北条氏,奥州の伊達氏などはそれぞれの地方を代表する勢力となっていきますが,中部地方はなお東海の織田氏,徳川氏,北陸の上杉氏,甲州の武田氏に分かれ,近畿とその周辺はさらに細かく分かれていました。
 これら大名たちが天下を支配するためには,経済力の豊かな京都に上がって天皇や将軍の権威をかりて畿内を押さえる必要がありました。

〈織田信長の登場〉
 
織田氏は管領家の斯波氏の家臣で,尾張(愛知県)守護代(*1)の家柄ですが尾張は京都に近く経済が発達して天下統一には有利な土地でした。
 1560(永禄3)年信長27才の時,今川義元の軍を桶狭間で破り(桶狭間の戦い)今川氏の下にあった松平元康(のちの徳川家康)を独立させて三河(愛知県)を固めさせ東方への備えとして,次に北隣の美濃(岐阜県)の斉藤氏を倒し1568(永禄11)年には十三代将軍義輝の弟義昭をつれて入京し,将軍職につけました。

〈将軍義昭の追放〉
 
将軍となった義昭は間もなく政治的に動き出し武田氏・朝倉氏や延暦寺などの反信長勢力と結び信長打倒を図ったので信長は浅井・朝倉と戦い(姉川の戦い)両氏を破ったのち比叡山を焼き討ちして1573(天正1)年義昭を京都から追放してここに室町幕府は237年の歴史を閉じました。