武田氏の滅亡

 
 
 信玄の病死、長篠の大敗などにより急速に力を失った武田勝頼は家臣小山田信茂のすすめで韮崎の新府城から居城の岩殿城(大月市)に退こうとしましたが、小山田の裏切りで岩殿城に入ることが出来ず、険しい山道を天目山に向かいますが1582(天正2)年織田の軍勢に攻められ勝頼は夫人、長男と共に自殺、ここに甲斐武田氏は滅亡しました。
 まもなく甲斐に入った信長は武田方をかくまった恵林寺を攻め寺に火を放ちましたが、住職の快川和尚は火中で泰然として「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と唱えたと伝えられています。

 
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武田勝頼画像(持別院蔵)