ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 11

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                                  旺文社「図説日本の歴史」
                                           金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
                                                      〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                                              和田大雅「武州金沢のむかし話」
                                                               杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・I室町時代U(南北朝合一〜応仁の乱前夜)・・・

 
南北朝合一をなしとげた足利義満は幕府の統治機構を整え将軍の権威を高め政権は一応安定にむかいますが,関東では公方と管領の対立や将軍と関東公方の争いによる戦乱が続きます。
 各地の守護大名が力を伸ばす一方,農業の発達により力をつけた農民達は土一揆や徳政一揆をおこし,下克上社会が芽生えます



日 本  で は か ね さ は  で は 略 年 表



室町幕府の完成
























利氏・上杉氏の系図




































































旧国名地図

 室町幕府が開かれたのは1336(延元1,建武)3年ですが幕府としての仕組みが完成するのは三代将軍足利義満の時です。

 1394年南北両朝の元号が一つにまとまり「応永」と改められ一本化されました。
 義満はこの年太政大臣になり将軍を義持に譲り出家して法王となりました。
 義持はまだ9才でしたので義満は政治の実権を握り太政大臣・法王を兼ねる日本の第一人者となりました。

<室町幕府の組織>
 
 
 鎌倉幕府にならって作られていますが,将軍の下に管領がおかれました。
 管領ははじめ執事といわれ義満の時から管領と称されるようになりました。
 管領になるのは一族の斯波,細川,畠山氏で三氏が交替で就き「三管領」と言われました。
 侍所の長官(所司)には山名,京極,赤松,一色の四氏がこれも交替で就き「四職」と言われました。
 室町幕府はこれら有力な七氏の勢力の均衡の上に成立していました。
 関東には鎌倉府を置き長官を関東公方(鎌倉公方)といい足利氏が世襲,公方の下に関東管領がおかれ上杉氏が代々就きました。

<財政の逼迫>
 室町幕府は関東にあった足利氏の領地や北条氏の旧領などは南北朝の争乱の間に味方の武士に与えたり奪われたりしてしまい残った領地も守護大名たちに荒らされて年貢収入はあてになりませんでした。
 幕府は繁盛している土倉と呼ばれる質屋と酒屋を兼ねる金融業者を保護して税金(土倉役,酒屋役)を課しましたが,領地からの年貢収入に比べると不安定で室町幕府が弱体だった原因の一つとなりました。

<金閣寺の造営>
 1397(応永4)年義満は北山に金閣と呼ばれる寺院を建てました。
 金閣寺の第一層の法水院は平安時代の貴族の寝殿造り,第二層の潮音洞は鎌倉時代の武家の書院造り,第三層の究竟頂は禅風(唐様)の仏間となっており公・武・寺の統合を目指した義満の気持ちを示したものとされています。
 金閣は1950(昭和25)年放火により焼失しましたが1955年に再建され当時のままに金箔も復元されました
(関連サイト金閣寺炎上)。
 金閣寺造営に関する莫大な費用を割り当てられた守護大名たちの間には将軍に反発する気運も育ちます。

<応永の乱>
 周防(山口県)の守護大名の大内義弘は明徳の乱での働きによって和泉(大阪府),紀伊(和歌山県)の守護を兼ねる大勢力になっていきますが,河内(大阪府)に領地を持つ管領の畠山基国は海への出口をおさえられ,大内氏に反目,大内氏の勢力拡大を警戒する義満とともに圧迫を加えたので大内氏は1399年義満打倒を図り挙兵します。
 義満は畠山基国や前管領の斯波義将をおくってこれを平定,以後幕府は一応安定期に入ります


 鎌倉府と六浦

 足利尊氏は東国の安定を図るために,鎌倉府を置き、鎌倉府の長官(鎌倉公方)は代々足利基氏の子孫(氏満,満兼,持氏)がその地位を承継しましたが,次第に室町幕府と対立します。
 鎌倉公方の御所は鎌倉の中心部を離れ六浦よりの金沢街道に近いところに建てらたのは,京都方面からの幕府勢力が侵攻して来た時に六浦を経由して関東内陸への退路を確保する狙いがあったものと考えられています。


鎌倉府旧跡(鎌倉市浄明寺4-2)

 足利持氏と「かねさは」

 
金沢氏滅亡の約100年後,第四代の関東公方足利持氏は1433(
永享5)年3月から3年の間大道に関所を設け,称名寺の子院常福寺に管理させました。
 常福寺は今はありませんが大道の宝樹院の表参道の登り口近くの谷戸にあったと言われます。
 この関所は荒廃した称名寺の造営費をかせぐためのもので人馬の通行するたびに,人二文・馬三文とかを徴収しました。
 永享の乱で持氏は幕府軍に追われ「かねさは」に逃れ称名寺にはいり出家しますが捕らえられ鎌倉の永安寺に送られ自殺しました。
 この時金沢一帯で行われた持氏方の上杉憲直・一色直兼と幕府・憲実方の長尾忠政(芳伝)の戦いが金沢合戦と呼ばれています。


宝樹院阿弥陀堂
 ここに祀られている阿弥陀三尊像は崖下にあった常福寺の本尊でした
 

 太田道灌と六浦庄

 江戸城を築いた太田道灌は鎌倉に生まれ扇谷上杉氏の重臣として活躍,当時主君を助けてもともと山内上杉氏の所領だった六浦庄にも進出していました。
 道灌は歌人としても知られた武将ですが,山吹の里伝説の地は六浦の上行寺の西側か六浦小学校の間の山際の小道のあたりかと考えられています。


 山吹の里伝説

 
太田道灌が少年時代に金沢山(六浦周辺の山と言われています)に鷹狩に出てにわか雨に遭い,ある民家に立ちより雨具を借りようとしたところ,少女が出て来て無言で山吹の花を差し出しました。
 少年道灌はその意味が分からず少々腹を立てて家に帰り,事の一部始終を家臣につげると
 それは
 
 「七重八重花は咲けども山吹の 実の(蓑)一つ
  だになきぞ悲しき」

 という古歌にことよせて暗に蓑も笠も無くお貸し出来ないのが残念ですと告げたのでしょう と教えられて自身の無学を恥じて,大いに発奮して武芸一辺倒から学問に励み,和歌の道にも精進しすぐれた文武両道兼備の名将になりました。

 禅宗と六浦

 室町幕府の保護を受けて栄えた禅宗は六浦でも広がり当時の六浦には能仁寺、泥牛庵、金龍院、嶺松寺などの禅寺がありました。
 能仁寺については現在は廃寺となりましたが、
新編鎌倉志に詳しく記されており、上行寺の東にあり関東管領の上杉憲方が建立したとされています。
 泥牛庵はかって能仁寺の塔頭で米倉陣屋跡にあったのが現在の国道16号線沿いに移されました。
 金龍院も能仁寺と同じく方崖元圭を開山とし能仁寺と同じ頃建長寺の末寺として建立されたようです。
 嶺松寺は上行寺の西側にあり南北朝の終わり頃開かれたようですが、現在は廃寺となりました。

 
 
金龍院
 永徳年間(1381〜84)の開創と伝えられる臨済宗建長寺派の古刹ですが境内の飛石や九覧亭などでも知られています。



泥牛庵山門
 境内には永享の乱で足利持氏に従って戦い、切腹自害したという海老名尾張入道と弟上野介の五輪塔があります。


 人々の暮らしと海

 関東一帯では戦乱が続いていましたが,東京湾に面している「かねさは」の地では人々は海と深くかかわって生活をしていたようです。
 道興の
「廻国雑記」には”瀬戸の沖に漁舟あまた見えける”とあり平潟湾やその沖には多くの漁船が操業していたことがわかります。
 室町時代には称名寺の寺領である町屋、州崎では海側に広がる砂浜を利用して製塩が行われていました。
 六浦にも塩田があり、鎌倉の明月院が塩田の管理をしていました。


野島海岸(横浜で唯一、自然の海岸線が残っているところ)


 照天姫の松

 上杉禅秀の乱で上杉氏憲に味方して足利持氏と戦って敗れた常陸国(茨城県)小栗城主満重の子小栗判官と
照天姫の伝説の地=姫小島跡=が金沢地区センター近くにあります。

 
 照天姫物語
 
 戦いに敗れて落ち延びる判官を慕って藤沢から朝比奈峠を越えて六浦港に出ようとするところで、照天姫は追手に捕らえられ身ぐるみ剥がれて侍従川に投げ込まれてしまいました。(侍従川の名のおこりは、この時照天姫の乳母で「侍従」という人が千光寺の前の油堤まで訪ねてきましたが、姫の行方が分からず悲しんで身を投げたことによると云われ、千光寺の本尊の千手観音は照天姫の身代わり仏とされてます)

 侍従川に投げ込まれた照天姫は、観世音の功徳によって奇跡的に命が助かり、野島の漁師の家につれて行かれましたが野島の漁師の女房は嫉妬深い女だったので、姫を松の木にしばりつけて、いぶり殺そうとしました。この時姫をしばりつけたのが、照天姫の松と呼ばれ姫小島にありました。
 姫はまたも観世音の助けで美濃国に逃れ、その後小栗判官と照天姫は再会し幸せにくらします。


姫小島跡(横浜市金沢区)


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 南北朝合一から応仁の乱前夜まで
 
(1392〜1467)

1392南北朝合一

1394 足利義満,太政大臣に

1397 足利義満 金閣寺造営
1399 応永の乱
 
1404 明との勘合貿易始める

1416 上杉禅秀の乱


1419 応永の外寇


1428 正長の土一揆おこる

1438 永享の乱
〃金沢合戦

1441 嘉吉の乱


 
1457 太田道灌,江戸城を築く

            


1463 京都に徳政一揆おこる

1467 応仁の乱(〜1477)



勘合船貿易


<中国との貿易>
 中国は元が滅び明の時代となっていましたが,日本とは平安時代に遣唐使が廃止されて以来国交は絶えていました。
 当時日本の北九州や瀬戸内海の豪族たちは倭寇と呼ばれる海賊を中心として朝鮮や中国沿岸を荒らしまわり,それに悩んだ明は日本に取り締まりを要求してきました。
 1401(応永8)年足利義満は明の要求に応じて国書を送りましたが,返事には日本には属国として朝貢貿易を促すことがもられていました。
 当時の禅僧などは屈辱的として非難しましたが,義満は中国との結びつきで日本における自らの立場を強めることと,貿易による利益が莫大なものになることを考えこれを受け入れました。

<勘合船>
 貿易船は倭寇の船と区別するために勘合符(双方の国で半分づづもって照合確認する)を持ったので勘合船と呼ばれ,その貿易は勘合船貿易と呼ばれました。
 日本からの輸出品のうち銅や刀は高価に売れ明からの輸入された生糸や絹織物などは数十倍の高値で売れたので貿易の利益は巨額で幕府の財政へ大きく寄与しました。

 朝鮮とも1419(応永)の
応永の外寇のあと李成桂の朝鮮王朝との間に勘合符に似たものを使って貿易が行われました。
 


五山の禅僧

 禅宗の中でも臨済宗は鎌倉幕府や室町幕府の保護を受けて次第に栄え中国の制度を真似て五山制度が作られるようになります。
 五山が臨済宗に限られたのは鎌倉時代の栄西や南北朝時代の夢窓疎石をはじめ臨済宗の僧たちが将軍や幕府の有力武士たちと深い関係を持ちその信頼を得たからです。
 将軍義持も夢窓疎石の高弟である絶海中津の弟子となって禅の修業に励んだと言われます。
 五山文学は五山の僧たちのあいだに発達した漢詩文ですが義持の頃に全盛時代を迎えました。


関東の争乱

<上杉禅秀の乱>
 京都では義満のあとを受けて義持が将軍になりましたが義持の弟義嗣は義満の死後冷遇され兄義持と対立していました。
 その頃関東では関東公方の足利持氏と関東管領の上杉氏憲(禅秀)が対立していましたが,これを知った義嗣は氏憲に密書を送り東西呼応して挙兵,兄の義持を倒そうとしました。
 上杉氏憲は持氏を攻めましたが,義持の命を受けた駿河(静岡県)の今川氏や信濃(長野県)の小笠原氏に攻められ,鎌倉で自殺しました。(上杉禅秀の乱)
 義嗣は京都で挙兵しようとしましたが守護大名や延暦寺・興福寺などの僧兵が味方につかず失敗,義持に殺されました。

<永享の乱>
 義持は息子の義量に将軍職を譲りましたが義量は19才で死亡,後継は義持の兄弟4人の間のくじ引きにより義教となりました。
 これによって関東公方の持氏が将軍就任の期待を裏切られたことから義教に反発を強め,義教は関東管領の上杉憲実に持氏を諌めさせますが持氏は聞かなかったため義教は1438(永享10)年持氏を攻め持氏・義久の親子は自害しました。
 これによって四代にわたり100年続いた鎌倉の関東公方は実質的にはなくなり,主を失った関東地方はその後長く争乱が続くことになります。



将軍義教の暗殺


<万人恐怖の世>
 義教は永享の乱ののち将軍の権威を高め統制を強めますが,性格が激しかったこともあり命令に従わない者は容赦なく処分します。日親上人(関連サイト鍋冠上人を牢にいれ拷問を加えたり延暦寺を討伐したりしたので人々は義教を恐れ「万人恐怖」の世と言いました。

<嘉吉の乱>
 1441(嘉吉1)年6月京都の赤松邸で
結城合戦勝利の祝宴の席で将軍義教は播磨(兵庫県)の守護赤松満祐に殺されました。
 赤松氏は四職家の一つでしたが義教の専制支配が次第に弾圧を強め,弟の所領が没収されるなど赤松氏にも弾圧が及び始めましたので義教を殺害したのです。
 事件ののち管領細川持之は義教の子義勝を将軍に立て山名持豊などの守護大名の力を集め満祐の討伐に向かわせ,満祐は自害しました。


土一揆
(土一揆とは農民の一揆のことですが江戸時代のものを百姓一揆と云い区別しています。
 徳政を要求するものを徳政一揆、国衆や国人などその土地の土豪を指導者とするものを国一揆、一向宗徒によるものを一向一揆といいます。)



<正長の土一揆>
 1428(正長1)年将軍義持が死に京都には疫病が流行したり飢饉もたびたび起こり多くの死者が出ました。
 朝廷では両統間が争い,幕府でも関東管領の持氏が将軍を狙って不穏な空気が漂っていました。
 この年9月借金に苦しむ農民たちが徳政(借金の帳消し)を要求し土倉(高利貸し)金貸しを兼業する酒屋などを襲い借金証文を奪って焼き捨てたり質草などを勝手に持ち出したりしました。

<嘉吉の土一揆>
 
幕府は徳政一揆の禁止令を出しますが,それにも拘わらず一揆はますます激しさをまします。
 1441
嘉吉1)年義教が殺されたあと直後に起こった嘉吉の土一揆の主力は農民でしたが,指導したのは国人(その土地の豪族)や地侍で下克上社会の芽生えが見られるようになります。


郷村制の発達

<農業の発達>
 農業技術は室町時代に入り更に発展,稲の品種改良や肥料,かんがい設備の発達により二毛作が普及し,竜骨車と呼ばれる揚水機なども使われるようになり収穫も増え農民の生活も向上し力をつけてきます。

<農村の変化>
 南北朝の争乱以後荘園が崩れ出し領主の農民に対する支配が衰え,かんがいの利用や入会地(農民が共同で利用する土地)の管理などで地域の農民たちが協力するようになり「惣」と呼ばれる組織が自然に出来上がり農民たちは「惣」の「寄合」と呼ばれる集会で相談します。
 惣の寄合では村掟が作られ掟に従わない者は自主的に取り締まり乙名とか沙汰人とか呼ばれる代表者を選んで自分たちで村の政治を行います。
 こうして郷村と呼ばれる農民たちが協力して自分たちの力で村を治める自治的な村落が発達します。


室町時代の文化

 室町時代の文化は京都に続いた公家文化を引き継いだ上に禅宗の影響が加わって生まれた新しい武家文化です。
 室町文化を前後に分けて金閣を建てた義満の時代を北山文化,銀閣を建てた義政の時代を東山文化と云いますが,東山文化の方が禅宗の影響が強く室町文化の特色がでており室町文化=東山文化とする場合もあります。
 能や水墨画,華道,茶道,書院造の建物や枯山水庭園はこの時代に生まれ,あるいは完成されたものです。