押送船の模型(船の科学館蔵) 三浦半島で獲れた魚は帆を使わずに櫓を押
して進む押送船で江戸に運ばれました。
日本国語大辞典『釣客伝』によると「魚釣
りたる時、押送船其所に来り、船中にて直に
魚相場を極めて買うなり」とあります
内川新田開発記念碑(横須賀市・久里浜) 久里浜夫婦橋のふもとにある笠塔婆は砂
村新佐衛門が内川新田の完成を記念して建
てたもので、碑文によれば内川入海の新田
工事は苦労の積み重ねで、ことに水門工事
は難事業であったことが記され、完成に際
しては神仏の加護に感謝する思いがしたた
められています
干鰯倉(東浦賀・宮原屋利兵衛商店
使用のもの-図説・三浦半島の歴史より) 干鰯問屋は干鰯を大量に買い集め倉へ、一
時収納して2〜5日のうちにそれを市に出し
て取引していました。東浦賀の干鰯倉は近
年(平成初め)までその姿をとどめていまし
た。
海難者の慰霊塔(西浦賀町・灯明堂跡) 1840(天保11)年建立されたましたが、台座
には中村屋太左衛門、尾張屋…、山本屋…な
どの浦賀商人の名が連ねられておりその経
済力の大きさがうかがえます
浦賀の遊郭
江戸時代の初期より港町として発展し
てきた浦賀は年を追うごとに出入りの
船が増え、その船乗りたちの上陸も多く
なってくると慰安遊興の施設が必要に
なりました。
「浦賀中興雑記」によると承応年間(165
3〜1654)に遊女屋を洗濯屋と称して願
い出て商売を始めたとあり、浦賀奉行所
設置以前より浦賀に遊郭があったもの
と考えられています。
浦賀奉行・初鹿野伝右衛門が浦賀巡視
のおり、江戸屋半五郎のところが二階建
てで全体に派手やかなのを見て供の者
に何の商売かであるのか尋ねたところ、
(水夫などの)洗濯屋であると聞き、洗濯
屋にしては物干しもなくあまりに目立
つので平屋に改築するように命じたと
されています。
現在西叶神社の境内にある一対の銅製
の灯篭には新地町、福本太平治・江戸屋
久三郎・亀屋新吉等遊女屋の名前が天保
4年(1833)年の年号とともに刻まれてお
り、この時代が最も繁盛したものと考え
られています。
西叶神社境内の灯篭(横須賀市西浦
賀町) 台座には当時の遊女屋の名前が刻まれて
います |
江戸時代の三浦半島交通路
三浦富士に祀られている富士浅間
宮次(石二)の自画賛(淡彩)
[和歌山県・垣内貞氏蔵]
"葩(花びら)に蝶のかくるる牡丹哉" 宮次は俳句、俳画を好み沈流亭・石二と号し
慈善家としても知られました。
寺子屋師匠の机(目で見る三浦市史より)
略 年 表
江戸時代(続き)
1781
久里浜村砂村新左
衛門、田地を久比里
の臼井五兵衛に売
却
1788
長井村の荒井の鈴
木呉雪の句が「俳諧
百子規」に入選
1807
イギリス船浦賀に
来航する
猿島、千駄ヶ崎、箒
山の台場を建設
1809
観音崎砲台を築く
1810
幕府、会津藩主松
平容衆に浦賀辺と
安房上総の海上警
備を命ずる
会津藩、陣屋詰の
家臣の教育のため
鴨居村に養正館を
設ける
1811
会津藩、三崎城址、
観音崎、平根山に陣
屋を設け台場を建
設
イギリス船浦賀近
海に来航、会津藩は
城ヶ島の安房崎に
遠見番所を築造
1812
会津藩、三崎町に
集義館を建て、陣屋
詰の家臣の教育に
あたる
浦賀の加藤山寿、
「三浦古尋録」を著
す
1814
久里浜村、西浦賀
分郷と地先海鹿島
の漁場を争い、領主
会津藩の吟味を受
ける
1815
イギリス船、漂流
の日本人を助けて
浦賀に来航
1816
会津藩、藩主松平
容保の上京御用金
2千両を相模領内
村々に課す
(次ページへ続く)
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