三浦半島の歴史 P8  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P8

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 文芸社「三浦半島通史」 三浦市「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 浦賀古文書研究会「浦賀中興雑記」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(江戸時代T)〜 ;横浜の歴史(江戸時代@)〜

(Z)江戸時代A [人々の暮らしと文化] 江戸に幕府が置かれた頃、江戸に近い三浦半島の村々には網漁法が伝わり江戸へ送る生鮮魚介類の漁業基 地として発展しました。 奉行所が置かれた浦賀には干鰯問屋や廻船問屋が発達し、商人達も活躍、商業の中心地としても繁栄しまし ました。

 <漁業のはじまりと発達>
 中世末までの三浦半島は半農半漁の地元の人々に
よる一本釣りが主でしたが、後北条氏が網漁業に力
をいれ、上方特に紀州漁民を誘致したこともあり、近
世に入り紀州下津浦(現在の和歌山県・下浦)から移
住した漁民の集団が立網や葛網、まかせ網(大型の巻
き網)などの網漁法を伝え、大消費地江戸と結びつい
て新漁法による沿岸漁業が急速に発達しました。
 江戸に近い三浦半島の村々は生鮮魚介類を押送船
(鮮魚運搬の専用船)を使い、迅速に江戸へ送り他の
地域よりも早く漁村化が進んでいきました。
 地先の磯は村の支配、沖合は入会と定められました
が、先発の漁村と後発の漁村との間に漁場をめぐる
争いが頻発、また新漁法をめぐる争いもおこりまし
た。
 三浦半島の海産物としては鯛、鰹、ボラ、イワシ、エ
ビ、タコのほか江戸内湾から三崎にかけてはわかめ、
ひじきなどの海藻類や貝類が多く獲れ、相模湾沿岸
では鰹、ブリ、マグロなど回遊魚が多く摂れたようで
す。(参考・三浦漁業の歩み) 

 <新田の開発>
 江戸時代に入り戦火が止むと、以前戦いで荒れ果て
てしまった耕地も再び耕されるようになり、次第に
人口が増え食料も不足がちとなり、幕府も新しい土
地を開くようになりました。
 その頃の三浦半島は幕府の天領でしたが、横浜の野
毛新田開発に活躍した砂村新左衛門が内川新田を開
発しました。
 1660(万治3)年砂村新左衛門は内川新田の開発に着
手、田畑の冠水、不作、土手の決壊などに悩まされ続
けながら8年後の1667(寛文7)年に完成しました。
 その後延宝年間(1673〜80)になると新田は新左衛
門の子である新三郎と新四郎の二人に土地が分け与
えられて経営されるようにましたが、文化年間(1804
〜17)になると両方の家が没落、1821(文政4)年浦賀
奉行の御預地(幕府より一時的に預けられ支配を任
された土地)となりました。
 この他にも船越新田(宝永年間=1704〜1710)、鴨居
新田(1708)、汐留新田(文化年間=1804〜1817)など次
々に新田が開発されました。

 <浦賀の繁栄と商人たち>
 浦賀は江戸に近いだけでなく自然の良港でもあり、
江戸時代は出船、入船で賑わい大変繁栄し商人たち
も大変活躍しました。三浦半島の老舗百貨店「さいか
屋」は当時の浦賀商人の末裔といわれます。
 -干鰯問屋-
 関東の干鰯(ほしか、いわしを干した肥料)の主生産
地は九十九里浜を中心とする房総三カ国(安房、上総
、下総)海浜地帯で、最大の需要地は関西の綿作地帯
でした。この仲買を一手に引き受けたのが浦賀の干
鰯問屋で1640〜1697年頃まで全盛を極めました。
 -廻船問屋-
 一般の廻船問屋は廻船による物資の輸送請負業で
あるのに対して、浦賀の廻船問屋は入港する船に対
する船改め(積荷の検査)を幕府から請負い、問料(と
いりょう=手数料)を受け取ることを認められていま
した。浦賀湊の廻船問屋は各地から来る廻船の荷物
を売買するための世話や船員の泊る宿を兼ねたりす
ることもあり、1872(明治5)年に船改めが廃止される
まで続きました。
 -水揚げ商人-
 浦賀へ陸揚げされる多種多量の商品は東西浦賀の
水揚げ商人が一手に取り扱いました。西浦賀には酒、
米、塩など専門卸問屋の倉庫が並び、三浦半島流通セ
ンターの役目を果たし、浦賀相場が出来ました。
 東浦賀の水揚げ商人は殆どが干鰯問屋の兼業で規
模は小さく、二〜三の豪商を除くと西浦賀商人の及
ばないものが多かったといわれます。
 -質 屋-
 物資や人の流通が激しい港町には全国どこでも質
屋は多かったのですが、1810(文化7)年9月現在、浦賀
には24軒の質屋があり、これは住宅42戸に一軒の割
合となり人口の割に非常に多く、滞在中の廻船の乗
組員の利用が盛んだったと考えられています。
 浦賀には「洗濯屋」と称する遊女屋があり、また船中
では博打も行なわれていたようです。 
 
 
 <三浦半島の交通路>
 江戸時代の三浦半島には江戸湾沿いの「東回り浦賀
道(金沢道・浦賀道)と相模湾沿いを通る「西回り浦賀
道(鎌倉道・浦賀道)の二本がありました。
-金沢道・浦賀道-
 「東回り浦賀道」は東海道の保土ヶ谷宿から分かれ、
岩井、南太田を経て蒔田、大岡を通り笹下、栗木、上中
里から金沢の町屋に到る道で金沢道と呼ばれていま
した。町屋から州崎、瀬戸、六浦(ここまで武蔵国)を
過ぎて相模国に入り、浦郷、十三峠を越え中里、田戸、
堀之内、大津から浦賀へ入る道を「浦賀道」といいま
した。六浦から横須賀に到る道は難所の連続であり、
この山越えを避けるため野島、榎戸、大津、走水など
に寄港し、浦賀または三崎に到る海路も利用されま
した。
-鎌倉道・浦賀道-
 「西回り浦賀道」は東海道の戸塚宿から鎌倉に入り
鎌倉から逗子を経て葉山に到り、ここから三浦半島
のほぼ中心部を西から東に横断し木古庭、平作、衣笠
大津に入り、ここで江戸湾沿いの浦賀道の合流し、三
浦中道とも云われました。三浦半島を通るこの道は
古代ヤマトタケルノミコトが足柄を越えて関東に入
り走水から房総へ渡海した古代の東海道と考えられ
ています。(参考・三浦半島の古代官道)
-三崎道-
 三浦半島の南部には東部、西部の海岸に沿って二つ
の「三崎道」がありました。
 東部は浦賀から北下浦、南下浦を経て三崎へと通じ
ます。西部は葉山から浦賀道と分かれ西海岸を南下
して久留和、秋谷、林、長井、和田、宮田を経て三浦市
の長作で東海岸からの道と合流して三崎に到る道で
す。
 東回り浦賀道を経て内川新田、長沢を通り、三崎に
到る道は「三浦往還」と呼ばれ、西部三崎道、三浦中道
とともに三浦半島の三大幹線でした。

<庶民の信仰>
 三浦半島の農民も講とよばれる信仰に基づく集団
をつくって、民衆の間に成立した既成宗教とは異な
った宗教(民間信仰)を崇拝していました。
 横須賀市大田和の名主浅葉家には江戸時代に用い
られた念仏講の大きな数珠が残されています。この
数珠は江戸時代後期に念仏講をこの地域に広めた
といわれる念仏行者願海が自ら制作したものと伝え
られています。
 各地に散在する多数の庚申塔は三浦半島でも多く
の庚申講が作られていたことを示しています。
                           (関連サイト・庚申信仰)
 「浜浅葉日記」には浅葉家では2月の最初の午の日に
は農事を休み、早朝には餅つきをして赤飯、餅、魚、五
色の幟(のぼり)を持って屋敷内に祀られていた稲荷
さまへ参拝する稲荷講について記されています。
 甲子講は大黒天を祀るものですが、横須賀市阿部
倉では近年まで行なわれ、百合、八つ頭、初茸、なす、
羊羹などが大黒天の像に供えられました。
 富士講は江戸時代後期に盛んになりましたが、三
浦半島では三浦富士に富士浅間が祀られ、近郊の人
々や漁民が参詣していたことが1788(天明8)年の「津
久井明細鑑帳」に記され、三浦富士はトゲ山とも呼ば
れ漁民にとって漁場や船位を決めるための重要な山
でした。(関連サイト・富士講)  
 
 <寺子屋>
 浦賀での寺子屋の誕生は元禄年間(1688〜1704)の
ことと考えられており、この時期は富裕な商人層の
子弟のみが読み書きを学んでいたようですが、幕末
期になると殆どが寺子屋で学ぶようになり、嘉永・
安政年間(1848〜1859)以降は三浦半島の殆どの村に
は寺子屋が開業しています。
 三浦半島の寺子屋の師匠は「日本教育史資料」に掲
載されている32校でみると僧が最も多く19人、神官
6人、農民6人、浪人1人となっており農民の6人の中に
は名主や村役人が3人います。寺子(生徒)も32校のう
ち27校が70人以下と小規模だったようです。

 <浦賀の文化>
 浦賀の町は1720(享保5)年下田奉行が浦賀に移って
から江戸との交渉も繁くなり、これまでの漁港的な
性格から政治的経済的な都市として各地から訪れる
要人、商人、文人墨客との接触も盛んになり、特に庶
民的な俳諧が盛んになりました。
 浦賀俳壇は大変賑わい200余人といわれる俳人が浦
賀を中心に活躍し、その勢いは広く江戸の俳壇にも
及びました。
 代表的な俳人としては文政年間(1818〜1829)まで
は宮井素柏や宮原屋次兵衛(宮次)、天保年間(1830〜
1834)以後明治中期までは中島木鶏、長島雪操、福井
貞斎らが出ました。
 木鶏は浦賀奉行与力の中島三郎助永胤の雅号で、ペ
リー来航の際応接に当たり1869(明治2)年榎本武揚
とともに函館に渡りました。
 雪操は八幡久里浜の人で書画にも才能を発揮しま
した。
 歌壇では西野前知が有名で文久年間(1861〜1863)
から次第に活躍、最盛期には門下生も60〜70人にも
及んだといわれます。


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押送船の模型(船の科学館蔵)
三浦半島で獲れた魚は帆を使わずに櫓を押 して進む押送船で江戸に運ばれました。 日本国語大辞典『釣客伝』によると「魚釣 りたる時、押送船其所に来り、船中にて直に 魚相場を極めて買うなり」とあります
内川新田開発記念碑(横須賀市・久里浜)
久里浜夫婦橋のふもとにある笠塔婆は砂 村新佐衛門が内川新田の完成を記念して建 てたもので、碑文によれば内川入海の新田 工事は苦労の積み重ねで、ことに水門工事 は難事業であったことが記され、完成に際 しては神仏の加護に感謝する思いがしたた められています
干鰯倉(東浦賀・宮原屋利兵衛商店 使用のもの-図説・三浦半島の歴史より)
干鰯問屋は干鰯を大量に買い集め倉へ、一 時収納して2〜5日のうちにそれを市に出し て取引していました。東浦賀の干鰯倉は近 年(平成初め)までその姿をとどめていまし た。
海難者の慰霊塔(西浦賀町・灯明堂跡)
1840(天保11)年建立されたましたが、台座 には中村屋太左衛門、尾張屋…、山本屋…な どの浦賀商人の名が連ねられておりその経 済力の大きさがうかがえます

浦賀の遊郭
江戸時代の初期より港町として発展し てきた浦賀は年を追うごとに出入りの 船が増え、その船乗りたちの上陸も多く なってくると慰安遊興の施設が必要に なりました。 「浦賀中興雑記」によると承応年間(165 3〜1654)に遊女屋を洗濯屋と称して願 い出て商売を始めたとあり、浦賀奉行所 設置以前より浦賀に遊郭があったもの と考えられています。 浦賀奉行・初鹿野伝右衛門が浦賀巡視 のおり、江戸屋半五郎のところが二階建 てで全体に派手やかなのを見て供の者 に何の商売かであるのか尋ねたところ、 (水夫などの)洗濯屋であると聞き、洗濯 屋にしては物干しもなくあまりに目立 つので平屋に改築するように命じたと されています。 現在西叶神社の境内にある一対の銅製 の灯篭には新地町、福本太平治・江戸屋 久三郎・亀屋新吉等遊女屋の名前が天保 4年(1833)年の年号とともに刻まれてお り、この時代が最も繁盛したものと考え られています。
西叶神社境内の灯篭(横須賀市西浦 賀町)
台座には当時の遊女屋の名前が刻まれて います
江戸時代の三浦半島交通路
三浦富士に祀られている富士浅間
宮次(石二)の自画賛(淡彩) [和歌山県・垣内貞氏蔵] "葩(花びら)に蝶のかくるる牡丹哉"
宮次は俳句、俳画を好み沈流亭・石二と号し 慈善家としても知られました。
寺子屋師匠の机(目で見る三浦市史より)
略 年 表
江戸時代(続き) 1781 久里浜村砂村新左 衛門、田地を久比里 の臼井五兵衛に売 却 1788 長井村の荒井の鈴 木呉雪の句が「俳諧 百子規」に入選 1807 イギリス船浦賀に 来航する 猿島、千駄ヶ崎、箒 山の台場を建設 1809 観音崎砲台を築く 1810 幕府、会津藩主松 平容衆に浦賀辺と 安房上総の海上警 備を命ずる 会津藩、陣屋詰の 家臣の教育のため 鴨居村に養正館を 設ける 1811 会津藩、三崎城址、 観音崎、平根山に陣 屋を設け台場を建 設 イギリス船浦賀近 海に来航、会津藩は 城ヶ島の安房崎に 遠見番所を築造 1812 会津藩、三崎町に 集義館を建て、陣屋 詰の家臣の教育に あたる 浦賀の加藤山寿、 「三浦古尋録」を著 す 1814 久里浜村、西浦賀 分郷と地先海鹿島 の漁場を争い、領主 会津藩の吟味を受 ける 1815 イギリス船、漂流 の日本人を助けて 浦賀に来航 1816 会津藩、藩主松平 容保の上京御用金 2千両を相模領内 村々に課す (次ページへ続く)